| 検索ビュー | ウズベキスタン | 項目ビュー |
| I. | プロローグ |
中央アジア中南部にある共和国。正式国名はウズベキスタン共和国。カザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン、アフガニスタンと国境を接する。かつてはウズベク・ソビエト社会主義共和国として、ソビエト連邦(ソ連)に属していたが、1991年8月に独立を宣言した。北西部にカラカルパクスタン自治共和国があり、国土の37%を占める。総面積は44万7400km²。人口は2826万8440人(2008年推計)。首都は最大都市のタシケント。
| II. | 国土と資源 |
国土の5分の4をトゥラン低地が占め、中北部には世界有数のキジルクム砂漠が広がる。ティエンシャン山脈(天山山脈)の支脈とパミール高原が東と北東につらなり、国内の最高地点は4643mに達する。地震が多く、1966年の地震ではタシケントが壊滅的な被害をうけた。
気候は大陸性の砂漠気候で、平均気温は1月が-6~2°C、7月が26~32°Cと変化がはげしい。降水量はわずかで、山沿い地方をのぞいて作物の栽培には灌漑が必要になる。アムブハラ運河、大フェルガナ運河などの広範囲に整備された運河から、アイダル湖をはじめ大規模な人造湖や貯水池へ用水をながす灌漑システムをつくりあげている。
ほとんどの河川は小さく、流れが蒸発して途中できえてしまう川もある。アラル海にそそぐアムダリヤ川の中流部、下流部とシルダリヤ川の上流部が国内をながれる。この二大河川からは灌漑用に大量の水がつかわれるため、近年アラル海の水位がいちじるしく低下し、一帯の生態系に深刻な影響が出ている(後出の「環境問題」の項参照)。
ウズベキスタンには多種多様な野生動物がすむ。ステップ気候の地域と砂漠にはサイガや、体長が1.6mにもなるサバクオオトカゲが生息する。高地ではユキヒョウと数種類の野生のヤギがみられる。
| III. | 住民 |
ウズベキスタンの人口は、中央アジアの旧ソビエト連邦(ソ連)諸国では最大、旧ソ連全体でもロシア連邦、ウクライナについで3番目である。全人口の80%を占めるウズベク人は、チュルク語派のウズベク語(→ アルタイ諸語)を話し、イスラム教(おもにスンナ派)を信仰する。少数民族ではロシア人がもっとも多く5.5%を占めるが、近年はロシア連邦などへの移住により減少している。ロシア人についで多いのがタジク人(5%)、カザフ人(3%)で、さらにタタール人、カラカルパク人、朝鮮人、キルギス人、ウクライナ人、トルクメン人、トルコ人とつづく。
住民の多くは農村にすみ、36%(2005年推計)が都市部に居住する。ほとんどのロシア人はタシケントをはじめとする工業都市にすむ。タジク人はブハラやサマルカンドなどの古都に多い。カラカルパク人はおもにカラカルパクスタン自治共和国にすんでいる。首都のタシケントは人口215万5000人(2003年推計)で、中央アジア最大の都市であり、旧ソ連全体でもモスクワ、サンクトペテルブルク、キエフについで4番目に多い。そのほかの主要な都市はサマルカンド、ナマンガン、アンディジャン、ブハラで、東部に集中している。
人口増加率は1.8%(2008年推計)だが、乳児死亡率が1000人当たり68人と高いうえ伝染病による死亡率も高く、国民の健康水準は低い。アラル海の水量の減少にともない飲料水の質と量が低下したため、西部にすむ住民の健康状態が悪化している。
| IV. | 経済 |
経済の中心をなす農業および林漁業は、GDP(国内総生産)の26.1%(2006年)、労働人口の34%(2000年)を占める。綿花に依存するモノカルチャー構造で、その生産量は、旧ソビエト連邦(ソ連)時代にはソ連全体の約60%を占め、ソ連の綿工業の重要な原綿供給地だった。今日でも綿花生産量は世界屈指の規模をほこり、2006年は117万t。絹とカラクール(ヒツジの一品種)毛皮の生産も盛んである。そのほか、コムギ、米、オオムギ、果実類、野菜などを産する。しかし、同国の農業は綿花栽培が大半を占めるため、自給用穀物の3分の2、食肉の3分の1、牛乳の4分の1、ジャガイモの半分を輸入に依存している。
工業はGDPの27.4%(2006年)、労働人口の20%(2000年)が従事する。おもな工業生産物は綿繊維・織物、生糸、絹織物、ゴム履物、タバコ、セメント、ガソリンなどである。鉱物資源は天然ガス、石炭、銅、銀、金など。近年、フェルガナ盆地(→ フェルガナ)で石油が発見され産出量も増加している。
ソ連が解体し旧来の協力関係が破綻(はたん)したため、多くの旧ソ連諸国と同様、ウズベキスタンの経済も大きな打撃をこうむった。たとえば機械部品や燃料をはじめ輸入品が不足している。市場経済への移行はおくれている。国家が市場経済化を管理しており、多くの消費財に価格統制が実施され、業績のふるわない企業や農場には補助金が支給されている。土地の私有化はまだすすんでいない。
1993年11月、政府はロシア・ルーブルの代わりに暫定的な通貨スム・クーポンを発行し、94年7月にはスムが正式な通貨になった。また同年、ロシアとの間に経済協力同盟条約を締結し、両国が協力して改革を推進することをとりきめた。
| V. | 環境問題 |
アラル海の環境問題がウズベキスタンの大きな悩みの種となっている。アラル海は縮小がすすみ、その水量が大幅に減少している。原因は、ウズベキスタン側から流入するアムダリヤ川、カザフスタン側から流入するシルダリヤ川から灌漑用水を大量にとっていたためである。1960年代初頭、旧ソビエト連邦(ソ連)は綿花畑をつくる目的で、ウズベキスタンをはじめとする中央アジア地域で大規模な灌漑をおこなった。中央アジアの土壌は乾燥して塩分をふくんでいるため、水を大量に必要とする綿花栽培には灌漑が不可欠なのである。
今や、アラル海は湖盆の半分以上が干あがり、表面に塩分のうきでた不毛の地となっている。2つの河川のデルタでは急速に蒸発がすすみ、水量がとぼしく、流入がとぎれる場合もあるため、周辺地域の生態系はきわめて深刻な被害をうけている。野生生物の生息地はおそるべき速度で破壊がすすみ、この地域の動物や植物は多くの種が絶滅している。事実上、アラル海の魚はすべて死にたえた。周辺地域には、露出した湖底から大量の塩や砂が強風によってはこばれている。アラル海沿岸を中心に、ときには400kmも遠くにとぶことがある。これが、ウズベキスタンとカザフスタンで砂漠化が進行する原因のひとつとなっており、また砂や塩とともにふきよせられる農薬によって、両国住民の健康に悪影響が出ている。化学物質をふくんだ有毒な砂塵(さじん)が、呼吸器障害や癌(がん)などの病気をひきおこすのである。1994年、ウズベキスタンをはじめタジキスタン、トルクメニスタン、キルギス、カザフスタンの中央アジア諸国は、そこなわれた環境を修復するための基金を設立した。アラル海の蒸発は、世界的にみてもきわめて深刻な環境問題なのである。
工場廃水にくわえ、化学肥料や農薬の過剰使用のために、河川や湖はひどく汚染されている。飲料水の汚染によって住民の健康にさまざまな害があらわれ、乳児の死亡率も高い。DDTなど、農業で使用される化学薬品により、農地の土壌も汚染されている。工業化のすすんだ東部のフェルガナ盆地では、発癌物質、窒素酸化物、砂塵などが空気中に多くふくまれ、問題となっている。
1992年、ウズベキスタン政府は環境保護委員会をもうけるとともに、綿花畑をへらす努力をしている。また、森林化計画が効果をみせ、森林は年に0.6%(1990-2005年)の割合でふえている。森林は国土の7.4%(2005年)を占め、保護地域に指定されているのは4.6%(2007年)。
| VI. | 政治 |
1992年制定の憲法により、ウズベキスタンは民主共和国になった。行政権は直接選挙でえらばれる大統領が行使する。任期は7年で連続2期までつとめることができる。大統領は、議会の承認をえて内閣を任命する。また、地方自治体のハキム制度をその管理下におく。ハキム制度は、政治権力の中央集権化を目的とした新しい制度である。
立法権は最高会議にあり、かつては一院制だったが、2002年の憲法改正で、100議席の上院と120議席の下院からなる二院制に移行した。議員の任期は5年である。04年に二院制移行後はじめておこなわれた下院議会選挙で最大議席を獲得した、カリモフ大統領ひきいるウズベキスタン自由民主党のほか、独立以来ずっと議会の大勢を占めてきたウズベキスタン人民民主党(PDPU:旧共産党)、それに自由民主党結党以前のカリモフが所属していたフィドコルラル(自己献身党)が議会の主要勢力である。これらはすべて大統領支持派で、宗教政党やビルリク(統一)、エルク(自由)などの野党は、政府によって1991年に非合法化され、議会に議席をもたない。
1991年、独立国家共同体(CIS)の結成に参加し、92年に国際連合(国連)に加盟、94年にはNATO(北大西洋条約機構)の「平和のためのパートナーシップ」協定に参加。99年にCISの集団安保条約から脱退し、2001年には上海協力機構にくわわった。
| VII. | 歴史 |
ウズベキスタンの地には何世紀も前からウズベク人がすんでいたが、国家として統一されたのは1920年代のことである。
古代にはペルシャのソグディアナ州がおかれていたが、前4世紀にマケドニアのアレクサンドロス大王に、8世紀にはアラブ人に征服された。13世紀にチンギス・ハーンひきいるモンゴル帝国に併合され、14世紀にはティムールの支配下に入った。16世紀にはウズベク人のブハラ・ハーン国とヒバ・ハーン国があらわれ、18世紀にホーカンド・ハーン国が成立する。1865~73年にはロシアの支配がこの地域にもおよび、ヒバとブハラはロシアの属国となった。
帝政ロシアが支配する同地域での綿花栽培が拡大されるにつれて、ウズベク人をはじめ地域の諸民族とロシアとの間で数度にわたって大規模な紛争がおこった。ロシアが従来の作物にかえて綿花栽培を推進したため、住民は食糧が減産となったことにはげしく抵抗したのである。いくつかの大規模な灌漑施設の建設計画が、劣悪な労働条件と低賃金に抗議する地元労働者の反乱のために中断された。1916年、各地に広まっていた帝政ロシアの支配に対する反乱にウズベク人や中央アジアの諸民族がくわわり、数千人が死亡した。
ロシア革命後、ソビエト権力は、バスマチとよばれるウズベク地域の民族主義ゲリラの頑強な抵抗にあった。戦いの末、ロシアの属領ヒバとブハラは1920年、それぞれホラズム、ブハラの両人民ソビエト共和国となった。
1924年、トルキスタン自治ソビエト社会主義共和国とホラズム、ブハラの領土をあわせて、ウズベク・ソビエト社会主義共和国がつくられた。
ウズベク共和国内のタジク自治共和国は、1929年タジク・ソビエト社会主義共和国として分離し、カラカルパク自治共和国(現、カラカルパクスタン自治共和国)は36年ウズベク領となった。第2次世界大戦後、カザフ・ソビエト社会主義共和国とウズベクの間で数回にわたって領土の移転がなされている。91年8月、ウズベキスタンは独立を宣言し、同年のソビエト連邦(ソ連)崩壊後、独立国家共同体(CIS)の結成にくわわった。
| 1. | 独立とカリモフ政権 |
独立後のウズベキスタン第1の権力者は、大統領イスラム・カリモフである。カリモフは、ソビエト連邦(ソ連)の解体直後に実施された選挙で86%の得票をえて大統領に選出された。カリモフの指示により、すべての反対派勢力が弾圧された。1992年に隣国のタジキスタンではじまった内戦の影響で、反対派に対する弾圧がさらに強化された。ウズベキスタン当局は、タジキスタンからの難民の流入を制限し、タジク人がウズベキスタン国内で政治結社などを組織することを禁じ、またサマルカンドのタジク大学を閉鎖した。95年、議会の要求で実施された国民投票によって、カリモフ大統領の任期を2000年まで延長することがきまった。1997年1月、キルギスのビシュケクにウズベキスタン、カザフスタン、キルギスの大統領があつまり、経済と軍事関係を強化する条約に調印。同条約にはタジキスタンも98年1月に参加した。なお、96年にイスラム教国の樹立をめざす反政府勢力、ウズベキスタン・イスラム運動(IMU)が組織化され、99年には連続爆弾テロとキルギスでの日本人技師拉致事件(らちじけん)をおこし、仲間の釈放を要求した。
2000年1月、任期満了にともなう大統領選挙でカリモフ大統領が再選された。02年1月に憲法改正の国民投票がおこなわれ、改正案に9割が賛成し、大統領任期を5年から7年へ変更し、最高会議の二院制への移行が決定された。最高会議は憲法改正をうけて現職のカリモフ大統領の任期も7年とすることをみとめた。
2004年3月末には首都タシケントとブハラで自爆をふくむ連続爆破テロ事件がおきた。01年のアメリカ同時多発テロ後からアメリカ軍の駐留をゆるし、親米路線をあゆむカリモフ政権に対し、イスラム解放党(ヒズブット・タハリール・アル・イスラム:HT)、あるいはウズベキスタン・イスラム運動が行動をおこしたものとみられている。ウズベキスタン東部のフェルガナ盆地は、強権的独裁政治がおこなわれている中央アジア4カ国(キルギス、ウズベキスタン、カザフスタン、トルクメニスタン)の反体制勢力、イスラム過激派の拠点となっており、イスラム解放党もそれらのイスラム過激派のひとつ。またウズベキスタン・イスラム運動は、アフガニスタン東部でタリバーンやアルカーイダと連携して活動しているとの情報がある。
2005年5月13日、フェルガナ盆地東部の都市アンディジャンで、カリモフ大統領の辞任をもとめる大規模な暴動が発生、それと同時に武装勢力が同地の刑務所を襲撃し、囚人多数を脱出させる事件がおきた。治安部隊の出動により暴動は鎮圧されたが、その際に数百人の市民が死亡したとつたえられる。その翌日にはアンディジャンから50kmほど東、キルギスとの国境地帯にあるカラスーなどでも市民の集会が暴動に発展し、これらの暴動で治安部隊におわれた大勢の市民が、カラスーの国境をこえてキルギス側ににげこんだ。
政府はこれら一連の暴動をイスラム解放党の分派、アクラミヤの武装蜂起(ほうき)と断じた。これに対しEU(ヨーロッパ連合)は露骨な人権侵害として政府を非難し、国際連合(国連)のアナン事務総長も国際調査団の派遣を提案したが、カリモフ大統領はこれを拒否した。アメリカは、アフガニスタン攻撃の際に基地を提供してくれたカリモフ政権をこれまで擁護してきたが、中東などの民主化をうながしている立場上、カリモフと距離をおくようになり、またウズベキスタンもアメリカ軍撤退を要求し、2005年11月、撤退が完了した。
2004年12月、初の下院議会選挙が実施され、翌05年1月に約半数の選挙区で再投票が実施された末、自由民主党が第1党となった。選挙には複数政党が参加したものの、反政府政党の参加はみとめられなかった。
2007年12月には、任期満了にともなう大統領選挙がおこなわれた。4人が立候補してあらそわれ、カリモフが約88%の得票で当選した。残りの3人の候補者は、民主的な選挙を演出するための候補者だったとみられている。大統領の3選は憲法上禁止されているが、カリモフ側は1991年の当選は現行憲法制定以前であるため数にいれないとする立場をしめして、当選を正当化している。国内では失業や貧困が深刻化しており、国民の不満をおさえきれるかどうかが今後の課題といえる。