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道路
I. プロローグ

人や自動車が通行するための交通施設。国や地方自治体によって建設、維持管理される。1952年(昭和27)に公布された道路法によれば、高速自動車国道、一般国道、都道府県道、市町村道に分類されている。

II. 道路建設の歴史

道路の建設は、古代から、文明の尺度とされてきた。文明が都市の規模を拡大し、都市人口が増加するにしたがって、食料品の供給などの交易をおこなうための手段として、ほかの地域との交通が必要となる。1世紀のギリシャの地理学者であるストラボンの著述によると、古代バビロニアから放射状にのびる道路網があったという。また、紀元前5世紀のギリシャの歴史家であるヘロドトスの記録によれば、古代エジプトでは、歴代の王の治世下で、ピラミッドなどを建設する資材をはこぶ専用道路がつくられていたという。

1. ローマの道

今でものこっているもっとも古い道路は、ローマ人がつくった道路である。アッピア街道の建設は紀元前312年ごろ、フラミニアン街道の建設は紀元前220年ごろにはじまった。ローマ帝国の最盛期には、総延長距離で約8万kmもの道路網があり、都市部からは29本の幹線道路が放射状にのび、その範囲は主要な領地の全土におよんでいた。

この時代の道路は、小さい石を3層につみあげて、石の間をモルタルでかため、表面は石畳をしきつめたもので、厚さは90~120cmである。ローマ法によれば、道路の通行権は一般住民に開放されていたが、道路の維持管理は、その道路を利用する地域住民の責任とされていた。この法律は、強力な中央権力が存在しているうちは効果があったが、5~15世紀ごろにかけて、中央の権力がしだいに無力になると、このような道路の維持管理はできなくなっていった。

2. 近代ヨーロッパの道路

17世紀ごろ、フランス政府は、道路建設に地域の労働力を強制的につかう政策を実施し、約2万4000kmの主要道路をつくった。1663年にイギリス議会は、民間企業が公共用道路の維持管理をおこない、道路の使用料を徴収できる特権をみとめる法案を採択した。この当時の有料道路の入り口には、槍(パイク)が横にわたしてあり、料金をはらったときに回転して通行させた。ここから有料道路のことをターンパイクというようになった。この結果として1830年代のイギリスでは、1000をこえる有料道路の管理会社が、3万2000kmにわたって営業していたが、鉄道との競合により有料道路の企業収益は低下しはじめていた。

19世紀の初めの30年間に、幹線道路の建設方法は、イギリス人土木技師トーマス・テルフォードとジョン・マカダムの研究により改良された。テルフォードの方式は、深くて細長い溝をほって、がんじょうな岩で道路の基礎をつくることであった。基礎の中央部は少し高くして、道路表面の中央から両側に傾斜をとって排水をよくしている。道路表面の仕上げ層は、15cmの厚さの砕石をつきかためた層でできていた。

マカダムの理論は、排水さえよくすれば、土はどんな荷重にもたえられるというもので、仕上げの砕石層は直接土の基礎の上に施工された。基礎はきちんと排水するように、周囲の地面よりいちだんと高くなっていた。マカダムの方式は、マカダム工法とよばれ、とくにヨーロッパではひろく採用されたが、第1次世界大戦中に、重量のあるトラックなどの通行がふえると、マカダム工法の道路はその荷重にたえきれなかった。その結果、テルフォード方式が、重い荷重がかかる道路の工事に採用された。それは、テルフォード方式のほうが、道路の下の地盤に対し、より均一に道路上の荷重をつたえたからである。

3. 初期アメリカの道路

植民地時代のアメリカでは、初期の定住地は水路が利用できるところにかぎられ、旅行は船ときまっていた。やがて内陸部にも道路ができはじめ、独立戦争(1775~1783)のころまでには、大西洋の沿岸に初期の道路網がめばえていた。西部に通じる道路は、アパラチア山脈の西にあるアレゲニー山脈をこえて、いくつかはできていたが、きわめて原始的なものであった。そのひとつのウィルダーネス・ロードは、1775年にアメリカ人開拓者のダニエル・ブーンが発見したもので、テネシー州のカンバーランド峡谷をぬけてケンタッキー州まで通じていたが、これはまもなく山岳地帯をこえる幹線道路となった。このように植民地時代の道路は、まさに難所をきりひらいて建設された。荒野の小道は多くの人がふみならすうちに、だんだんと道筋ができていった。たとえばオレゴン街道や、サンタフェ街道や、オーバーランド街道など、西部にある大きな街道はこのようにしてできたものである。

4. 19世紀アメリカの道路

東部の諸州では、ひろい地域にわたって道路事情を改善するための施策として、改修費の財源確保のための有料道路の建設が独立戦争の直後にはじまった。一例として、バージニア州のアレクサンドリアと、その56km西北にあるリトルリバーとの間に建設され、ほぼ100年間運営された有料道路がある。はじめ有料道路は、すべて国や地方自治体により建設、運営されていたが、のちに国の許可のもとに私企業が建設し運営した。しかし多くの私企業は、長期にわたり収益をえることができなかったので、1850年までに、ほとんどの有料道路の運営はふたたび郡当局に移管された。

アメリカ議会は、1803年、道路網の拡大をして立法化した。この法律は、オハイオ州の土地の売却による歳入の一部を、ポトマック川の上流から西のオハイオ川までの国道の建設費にあてることを規定している。法律はのちに改正されて適用範囲をひろげ、ミズーリ州のセントルイスにあるミシシッピ川までをふくむとされた。21年ごろに国道は、ウェストバージニア州のウィーリングまで完成した。この国道は、アパラチア山脈から西の地域への移住を促進した。しかしながら、1830~40年代にかけて鉄道の重要性が高くなると、国道の建設費にわりあてる予算は減少し、48年には国道の建設はセントルイスまであと120kmをのこす、イリノイ州のバンダリアでうちきられた。

19世紀の後半の鉄道の発展期には、この影響をうけて幹線道路の開発は停滞した。そのいっぽう、1850年ごろには、木製の厚板をしいた道路が関心をよび、ニューヨーク州など東北諸州では3200kmもの厚板の道路がつくられた。厚板の道路は板がくさりはじめると建設されなくなった。これと時を同じくして、煉瓦やアスファルトが都市の街路舗装に導入された。93年にはオハイオ州のベルフォンテンにある街路が、すべて舗装されている。

5. 近代の道路建設

1880年代に自転車が普及しはじめ、90年代に自動車がアメリカに導入されると、質のよい幹線道路をもとめる声が各方面から高まった。この中で画期的なものとしては、91年にニュージャージー州が幹線道路局を創設し、地域の道路建設に対する行政指導にあたらせたことである。翌年にマサチューセッツ州もこの例にならった。1917年までには、アメリカの全部の州でこれと同じ方式を採用するにいたった。

公道に関するアメリカ初の国勢調査は、1904年に連邦公道局によっておこなわれた。これによれば、合衆国では約320万kmもの未舗装道路があり、舗装道路は約24万8000kmであった。同じ年に自動車の交通量が急激に増加しはじめ、次の20年間に、昔の道路舗装が不完全であることが露呈した。これをおぎなうため、初めはマカダム工法の表面に、のちには浸透性の硬化材として、タールや油類がつかわれた(コールタール)。

アスファルト系の舗装は、おもに都市でつかわれている。この工法は下に細かい砕石をしきこんで、アスファルト系の舗装材をぬりながら、上から重いローラーでおしかためるもので、浸透性の硬化材をつかったマカダム舗装よりも耐久性がある。浸透性の硬化材をつかったマカダム工法の地方の幹線道路は、第1次世界大戦中、トラックの交通が急激に増加して損傷した。このトラック交通の増大が、幹線道路の工法改良を促進した。地下地盤に排水処理がほどこされ、基礎工法はしっかりしたものとなり、道床の下にコンクリートをうち、表面もさらにコンクリートで仕上げとするか、アスファルト系の舗装仕上げとなった。

6. 現代の道路

現代の土木工学では、道路建設の検討事項として重要な問題点がいくつかある。土地の傾斜、舗装が負担すべき荷重、予測される交通量、地下地盤の性質、舗装の構造などの問題である。

舗装それ自体は、曲げに対する許容度の低い硬質の舗装としてもよいし、柔軟な舗装としてもよい。柔軟な舗装では、粗骨材や、砕石、小石、砂などの細骨材と、アスファルトや、廃油、タール製品からとったアスファルト系の舗装材の混合物をつかう。この混合物は、丈夫であるだけでなく、大きな衝撃をも吸収して、はげしい交通量にたえるだけの可塑性もある。硬い舗装は、セメントと粗骨材と細骨材の混合物でつくる。舗装の厚さは、道路の交通量により15~45cmまで変化し、ひび割れを防止するために鉄筋で補強し、さらに砂や砕石を舗装の下にしいて耐力を補強する。

現代の高速道路は、平原や砂漠では在来の道路からはなれて、各都市を最短距離でむすぶようにつくられる。市街地はさけるか、高架式の高速道路やトンネルなどでとおりぬける。車の流れを分離し、進入路を規制することで、高速道路の安全性を高くし、対向車線をはしってくる車のためには、中央分離帯をもうけている。また、自動車が高速道路に出入りする部分を、高速道路が主要道路と交差するインターチェンジだけにしている。1本の道路が別の道路の上を橋でこえ、斜路で2本の道路をつないで、高速道路の流れを邪魔しないで、自動車が接続道路にはいれるようになっている。

現代の高速道路の特徴としては、ほかにもいろいろある。夜間運転のための照明が完備していること、緊急停車のためのひろい専用パーキング・スペースがとられていること、速度変更用の車線があること、追い越し用の車線があること、バス専用車線があること、また反射式の標識、道路面の交通指示、信号機があることなどがあげられる。

III. 日本の道路
1. 道路の起源

日本は、北から南へ弓なりにのびた島国であるため、道の利用は昔から活発であった。自然の道としては尾根伝いの山道、けもの道、川の流れにそう川べりの道、海にそう海岸道などが主であり、その変化は縄文・弥生・古墳時代をへて、律令(りつりょう)時代にいたって、国家的に発展した。

1.A. 律令と道

本格的な律令(律令制)がつくられたのは7世紀の末から8世紀の初めである。それにともなって中央の大和政権は、諸国を支配するため、道路網の整備にも積極的であった。続日本紀(しょくにほんぎ)によれば、702年(大宝2)着工の木曽の山道開発が国家的な土木工事の最初のものといわれ、開通したのが、奈良に都をうつして間もない713年(和銅6)であった。その後、四国や東北地方へと整備がすすみ、8世紀半ばには畿内七道(きないしちどう)の諸国の駅路(えきじ)の両側に果樹をうえて、旅人の便宜をはかったとつたえられる。

1.B. 畿内七道

畿内七道とは、ふつう五畿七道といわれ、律令制下の地方行政区画をさし、都に近い周辺の大和・山城・河内・摂津・和泉の5カ国を畿内に、他の諸国(60数カ国)は東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海の七道にふくまれた。この七道は都から地方へ通じる主要道路だったのである。ほかに、大中小にわける路(みち)の制度があり、次章のような分類が定説になっている。

2. 古代の道

大路は、山陽道(さんようどう)京都より太宰府(だざいふ)へいたる道である。駅の数は、摂津の国3駅、豊前の国2駅、筑前の国9駅前後となっている。令制により駅ごとに馬20頭をおいた。

中路は、東山道京都より陸奥国鎮守府(むつのくにちんじゅふ)にいたる道であるが、別路として武蔵の国からは、下総(しもうさ)国、常陸(ひたち)国、磐城(いわき)国の海路にそった道があった。令制により駅馬10頭をおいた。

また中路には、東海道京都より常陸(ひたち)の国府にいたる道があり、別路として武蔵国、下総国、常陸国、磐城国の海路にそった道があった。

小路は、北陸道、山陰道、南海道、西海道の4道と、出羽路、伊勢路、美作(みまさか)、飛騨路、甲斐(かい)路、上総(かずさ)路、大和路、伊賀路の8路があった。令制による駅馬は5頭である。

平安時代の初期、802年(延暦21)には、富士山が噴火して道の往来ができなくなったので、箱根の山道がひらかれたといわれる。律令時代の初期には、渡来系(中国や朝鮮からきた人たちの子孫)の技術者や僧侶らの活躍によって、道路の開発や橋の建設、道中の並木や渡し船などの整備がすすみ、駅馬の制度も、702年(大宝2)に紀伊国(きいのくに)におかれたのが最初であった。

3. 中世の道

鎌倉街道は、1192年(建久3)、源頼朝が鎌倉に幕府をひらくと、軍道の開発に力をそそぎ、盛んに周辺の山や丘などを切りひらいて道路をつくった。それが有名な大仏坂の切通しであり、ほかにも化粧坂(けわいざか)、巨福呂坂(こぶくろざか)、名越坂(なごえざか)、極楽寺坂(ごくらくじざか)などが知られている。それにならって、諸国の武士たちも道路の整備、土地の開発、河川の修復、灌漑の整備などにつとめた。とくに整備されたのが東海道で、京都と鎌倉の間の480km余りの道中に、63の宿次(しゅくつぎ)が自然にきめられたのである。これが鎌倉街道で、今も関東地方のところどころにその一部が断続的にのこっている。

3.A. 室町時代の道

南北朝初期の建武の新政における駅制の改革は一時的で、足利氏の室町幕府の時代になると、南北両朝の対立抗争がつづき、陸海ともに盗賊が横行し、駅家の長(うまやのおさ)や関守(せきもり)などの姿もみられなくなった。それでも室町中期以降は、諸国の豪族が積極的に自国の境界をかためながら、自然の要害による防御のために、かえって荒廃にまかせるといった弊害もあったが、侵略のおそれのない大名は、道を補修し、橋をかけて交通の整備につとめた。

足利氏の天龍寺船貿易により、明から貨幣(銅銭)が大量にもたらされると、国内にひろく流通し、各地に小規模な市場ができ、そこへはこばれる物資の集散のために、必然的に道路も整備されていった。それとともに畿内方面では、関所が乱立し、関銭(せきせん)と称する通行税がとられるようになった。室町末期には、八幡宮の神職のたてた新しい関所が数百カ所もあったとつたえられている。また、伊勢神宮に参拝する人々は、桑名から日永(ひなが)まで、約22kmごとにもうけられた60の関所で、1文ずつを徴収されたという。これらは、権力者である公家、社寺勢力や幕府による財源として利用されたため、かえって交通や商業の発展をさまたげることになった。

4. 近世の道路

戦国時代から安土・桃山時代にかけて、楽市・楽座がおこなわれ、大名の商業政策は画期的に進展し、交通の発展に大きな影響をおよぼしたが、織田信長や豊臣秀吉の天下は短く、道路網の整備を実行したのは次の徳川家康であった。はじめに、地方の検地がすすめられ、つづいて土地を寄進して社寺領を確立し、橋梁(きょうりょう)の架設、道路の修復、駅伝の整備、河川の修復などがあいつぎ、急速に道路網が整備された。

4.A. 江戸の道

家康は、1594年(文禄3)の武蔵国の千住大橋、1603年(慶長8)の江戸日本橋などをかけ、つづいて諸国の大名に命じてそれぞれ所領内の道路を修復させた。さらに東海道の品川に駅伝をおいて駅馬36頭を常備させ、5000坪の地代を免除し、五十三次の宿駅をさだめた。このように道路はしだいに整備されたが、江戸に幕府がおかれたため、主要な道路はすべて江戸を中心とし、重要な地点には奉行、城代、定番などの役所がおかれた。

江戸初期にととのえられた主要道路は東海道(品川より守口まで)、中山道(板橋より守山まで)、日光街道(千住より鉢石まで)、甲州街道(内藤新宿より下諏訪まで)、奥州街道(白沢より白川まで)の五街道である。なお、これらの終点は、その後少し変更されている。五街道はおもに公用のための道路で、並木や一里塚がととのえられ、要衝には関所がおかれ、旅籠(はたご)もあった。それと、この五街道には脇(わき)街道があり、おもなものは水戸路・美濃路・佐屋路・伊勢路・中国路で、一般の旅人や商人たちの往来が多かった。

5. 明治以降の道路

明治新政府は、これまでの関所を廃し、道路をすべて天下の公道とした。1869年(明治2)、道路の修理は各府県(当時はまだ藩であった)に委任され、72年に新橋と横浜の間に鉄道を開通させ、76年には国・県・里道の制がさだめられ、主要国道の整備がすすみ、急速に近代化にむかった。東京では川砂利の採取と舗装への利用はすすんだが、地方はあいかわらず悪路のままであり、道路に関する法律はやっと1918年(大正7)に制定され、国道・府県道・市道・町村道の等級がきめられた。翌年、政府は道路改良50年計画をたて、予算をくんで道路公債を募集し、調査を開始した。

5.A. 舗装の改良

道路改良50年計画では、とくに道路の改良を重点において、東京を中心に舗装試験を実施したが、1923年(大正12)の関東大震災により中断を余儀なくされた。しかし、それもわずかで、まもなく自動車の普及により、加速度的に舗装がすすみ、全国的にひろがっていったが、次々にだされる計画も、31年(昭和6)以降の戦争により低迷し、軍事用道路は整備されても、地方では放置されたままになった。

5.B. 第2次世界大戦後の整備

終戦後は、連合軍の積極的な援助によって道路の状態は急速に変化し、とくに1948年(昭和23)11月にだされた「日本の道路及び街路網の維持修繕5カ年計画に関する覚書」により、道路の補修は促進された。さらに52年6月には、道路法の全面的な改正があり、道路整備特別維持法の制定とともに新しい段階をむかえ、有料道路制度の採用もあって、56年には日本道路公団が設立された。その後、高度成長にともなう道路の改良は、路幅の拡張や路線の延長が重点となり、自動車道路、産業道路、高速道路などとして大規模化されるが、鉄道の飛躍的な発展も相乗効果をもたらしたことはいうまでもない。

1994年(平成6)4月1日現在の高速自動車国道・一般国道・都道府県道・市町村道の総延長距離は約113万6400kmである。そのうち、65年に全線開通した名神高速道路、69年開通の東名高速道路をふくむ高速自動車国道の総延長は、94年に新たに103kmが開通し、95年3月末現在で約5930km、一般国道および都道府県道は約17万7000km、市町村道は約95万kmとなっている。

6. 日本の道路技術

日本は四囲を海でかこまれ、海岸線まで急峻な地形がせまっているため、トンネルの開削技術や橋をかける工法については発達したが、ドイツやアメリカのように、長距離輸送網としての高速道路の整備はおそく、それに交通標識や信号または安全装置など、路肩や路床の堅牢度もふくめた整備がふじゅうぶんであった。そのことは、年間1万人以上という事故による死亡者数がなかなか減らない原因のひとつであり、多くの問題点があることはいうまでもない。舗装技術、雨天時の対応、透水性、制限速度の表示方法など、道路の施工面で検討しなければならないことも多い。

基本的には、道路が完成したあとの監視体制と防護技術以前に、調査・設計の段階で検討が必要である。その意味で、1995年1月17日の阪神・淡路大震災でおきた高速道路の倒壊や交通の混乱を反省し、今後の参考としなければならない。

7. 将来の道路

道路の種別や大きさ、あるいはその地理的位置によって、安全対策はことなるが、車や人の流れを円滑にするには、総合的で適切な管理や整備が必要である。舗装道路では、破損個所の点検、舗装の透水化、交通標識の完備、両側面の防護柵の設置など、ゆるがせにはできない。

7.A. カー・ナビゲーション

ディスプレー装置に、あらかじめいれられた道路情報とGPS衛星による位置確認システムをくみあわせ、経路を誘導するシステムだが、大都会における過密した自動車の流れをいかにさばくかということで、人口の増加や都市集中による混雑に機能を発揮するものである。今後、拠点的に増設され、本格的な活用がすすみ、都心乗り入れの抑制には必要なものとなるだろう。

7.B. インテリジェントハイウェー

コンピューターで集中管理されたハイウェーは、交通機関におけるひとつの理想でもあるが、その便利さはともあれ、人間社会で、どの程度の情報や制御システムが必要なのか、精神面からの判断も要求される。