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クレタ島
I. プロローグ

ギリシャ本土から南東方向に位置する同国領の島。地中海で5番目に大きく、ギリシャの一行政区である。長方形をして、東西は約260km、南北はもっとも狭いところで10km、広いところで56km。面積は8261km²。人口は54万54人(1991年)。

II. 地形

クレタ島はほとんどが山地で、西部はかなりの急勾配(こうばい)となっている。西からレフカ山、イディ山、ディクティ山と、いずれも2000mをこえる山がそびえる。地形的には、高台に平坦(へいたん)な盆地がつづき、洞窟(どうくつ)の多いことが特徴である。北岸にはスーダ湾を筆頭に天然の良港がある。南岸はほとんどが断崖絶壁(だんがいぜっぺき)のため船での接近はできない。多くの湧き水(わきみず)といくつかの川があり、水源には比較的めぐまれている。

III. 経済と人口

農業がおもな産業だが、近代的な技術があまり採用されていないため、効率的な生産はされていない。それでも主作物のオリーブ栽培には、近代的な農法が導入されている。それ以外では、オレンジ、レモン、ブドウ、穀物が栽培され、ヒツジとヤギが飼育されている。工業は食品加工と石鹸(せっけん)、織物の生産くらいである。北西部のカニアが行政の中心で代表的な港湾都市である。最大の都市はイラクリオン。

IV. 歴史

考古学の成果によれば、前3000~前1200年のクレタ島は、前6000年ころにはじまった新石器時代につづく青銅器時代のエーゲ文明の中心地だった。ミノス文明ともよばれるこのエーゲ文明期のクレタ文化のすばらしさは、同時代のエジプトやメソポタミアの文化と肩をならべる。

クレタ島についてふれた最古のもののひとつであるホメロスの「オデュッセイア」は、この島には、アカイア人やドリス人、ペラスゴイ人、キュドン人、それに先住民のクレタ人など、きわめて多様な住民がおり、町は90あり、その最大のクノッソスが伝説上のクレタ王ミノスが支配する国の首都であるとつたえている。しかし、いわゆるギリシャ史がはじまるころまでには、エーゲ文明の痕跡(こんせき)はほとんど消失していた。この時代のクレタ人はドリス人が大半を占め、古代ギリシャの重要な出来事にわずかに顔を出すにとどまる。前67年、この島はローマ領となり、後395年からはビザンティン帝国に属した。826年にはイスラム教徒がこの島をおとし、以後彼らの支配がつづくが、961年にのちにビザンティン帝国皇帝となるニケフォロス2世が奪回した。第4回十字軍以後、1204年、クレタ島はベネツィア人に売却された。オスマン帝国は1645年にベネツィア人に対して、この島で軍事作戦をはじめ、69年までには島の大部分を獲得し、1715年に全島を征服した。そののち、トルコ人の支配に対してたびたび蜂起(ほうき)がおこり、とりわけギリシャ独立戦争(1821~29年)時には抵抗がはげしかった。

しかし1830年まではトルコ人の支配がつづいた。この年、ヨーロッパ列強が同意してクレタ島はエジプトに割譲され、40年にふたたびトルコ領に編入された。こののち、キリスト教徒とイスラム教徒の住民間の争いはキリスト教徒の反乱へと発展し、96年に反乱は頂点に達した。翌年、ギリシャ軍が反乱勢力を支援して介入したため、ギリシャとトルコの間の戦争となり、98年、ギリシャ王を長とする国際委員会がこの島を統治するというヨーロッパ列強の調停で終結した。それでも治安は回復せず、1906年にギリシャ王は退位を余儀なくされ、クレタ人は一貫してギリシャに帰属することをもとめていたにもかかわらず、12年まで国際委員会の管理下におかれた。同年3月に暴動が発生し、その結果、クレタ人は暫定独立政府を樹立した。10月に代表が正式にギリシャ議会にむかえられたためギリシャ・オスマン帝国間で戦争がはじまったが、13年5月のロンドン条約でクレタ島は正式にギリシャの一部となった。

第2次世界大戦中の1941年にギリシャ本土を占領したドイツは、空からクレタ島へ進撃し短期間のうちに全島を手中におさめたが、45年、イギリス軍により解放された。