| 検索ビュー | ベトナム戦争 | 項目ビュー |
| I. | プロローグ |
1954~75年の約20年間にわたった、アメリカに対するベトナムの民族解放の戦い。これに先だつフランスからの独立のための戦争を第1次インドシナ戦争、このベトナム戦争がカンボジアにも波及しインドシナ全体が戦場となった70~75年を第2次インドシナ戦争ともよぶ。ベトナム戦争の起点をどこにおくかはいろいろな説があるが、ベトナムでは、1954年から75年までを抗米救国闘争の時代としている。
| II. | 南北に分裂したベトナム |
ベトナム戦争は、第2次世界大戦前にインドシナの統治者だったフランスと、ホー・チ・ミンが創設したベトミン(ベトナム独立同盟会)との戦い(1946~54)をひきつぎ拡大した。
1945年に日本が連合国に降伏すると、ベトミンは首都ハノイを掌握し、バオダイ皇帝を退位させた。そして、9月2日に、ホー・チ・ミンを国家主席(大統領)とするベトナム民主共和国、一般に北ベトナムとよばれる国家の成立を宣言した。フランスは連合内での独立はみとめたが、全ベトナムの統一については拒否し、46年12月に軍事衝突がはじまった。フランスは49年6月にバオダイをベトナム国、一般に南ベトナムとよばれる国家の元首とし、新しく首都サイゴン市(現ホーチミン市)をつくった。翌年、アメリカはサイゴン政府を承認し、トルーマン大統領は南ベトナム軍をアメリカ軍兵器で訓練するための軍事顧問団を派遣した。
フランスと北ベトナムは、その後数年間たたかったが、1954年の春、ベトナム北部のフランス要塞(ようさい)ディエンビエンフーでの55日間にわたる戦闘の結果、5月7日にフランスは致命的な敗北を喫した。この年の1~2月にひらかれたアメリカ、イギリス、フランス、ソ連4国外相会談は、インドシナに関する国際会議の開催をきめていたが、ディエンビエンフーの戦が終結した翌5月8日、その4カ国に南と北のそれぞれの代表、および中国、ラオス、カンボジアの代表が参加してジュネーブで会談が開始された。そして7月21日に成立した協定によって、北ベトナムとフランスは停戦に合意したが、その内容は、北緯17度線を境としてそれぞれの軍を南と北に集結させ、いっさいの軍事行動を停止すること、また国の統一のための選挙を56年7月におこなう、というものだった。南のバオダイは、この休戦条約に反対した。
ジュネーブ協定によってフランスがベトナムから撤退すると、最終的な協定への参加を拒否したアメリカがサイゴン政府を軍事的に支援しはじめた。1954年10月、アイゼンハワー大統領は南ベトナムに直接的な経済援助を約束、翌年2月には軍事顧問団が南ベトナム軍の訓練に派遣された。アメリカの援助は、バオダイが55年10月の国民投票にやぶれて退位し、ゴ・ディン・ジェムを大統領とする共和国が誕生してからもつづけられた。ゴ・ディン・ジェムは、この支援をバックにジュネーブ協定でさだめられていた南北の統一選挙の実施を拒否し、同時に独裁を強めて、反対派を弾圧した。
| III. | 新しい戦争の始まり |
ゴ・ディン・ジェム政府の独裁はしだいにエスカレートし、農民や都市知識人、仏教徒の反発もはげしくなり、1960年には南ベトナム各地で農民の武装蜂起がおきた。政府は、北が南を侵略していると非難したが、共産主義勢力は、ゲリラ活動が南独自のものであることをしめすために、60年12月に反政府勢力をひろく結集して南ベトナム解放民族戦線をつくり、政府軍との戦いがはじまった。
| IV. | 南ベトナムでの政治・社会的混乱 |
状況の悪化に直面したアメリカは、ゴ・ディン・ジェム政府への援助を強化した。1961年11月に400人の部隊がヘリコプター中隊を指揮するためにサイゴンに到着。1年後には1万1200人にふくれあがっていた。いっぽう、反政府勢力の抵抗も強まり、63年には仏教徒による抗議の焼身自殺が頻繁におきた。
1963年11月、ゴ・ディン・ジェム政府は軍事クーデタで崩壊、彼と政治顧問だった弟ゴ・ディン・ニューは殺害され、ズオン・バン・ミン准将が臨時政府を樹立した。のちになって、このクーデタはアメリカの支持のもとでなされたことが明らかとなった。しかしその後も政情は安定せず、2年弱の間に13回のクーデタがおき、内閣は9回交替した。65年のグエン・バン・ティエウおよびグエン・カオ・キ両将軍のもとで政治はやや安定し、67年9月の選挙によってグエン・バン・ティエウが大統領となった。
| V. | アメリカの介入の深化 |
1960年代初め、ソ連と中国からハノイにおくられた支援物資が、いわゆるホー・チ・ミン・ルートをとおって南へとおくられていた。このためアメリカは、南での難局を北を攻撃することで打開しようと考えた。64年8月、北ベトナムの哨戒艇がトンキン湾でアメリカ駆逐艦を攻撃したという報告があったとして、ジョンソン大統領は北ベトナムの軍事施設への報復爆撃を命じたが、70年になって、この報告は虚偽だったことが明らかとなった。
1965年2月からアメリカ軍機による北ベトナムへの定期的な爆撃、いわゆる全面北爆がはじまった。さらに3月、アメリカ海兵隊の大部隊が、国土分断の際にもうけられた非武装地帯のすぐ南にあるダナンに上陸した。そして、部隊は次々に増援され、この年の暮れまでに派遣アメリカ軍は20万人近くになった。こうしてベトナムへの兵力補強をおこなういっぽう、アメリカは戦争終結の試みもした。同年12月、ジョンソン大統領は和平調停のために北爆を一時停止したが、調停は失敗、北爆は再開された。翌66年6月には、それまで爆撃の対象にしていなかったハノイ近郊の軍事施設やハイフォンの港への爆撃を開始した。
死傷者の数はふえつづけた。1967年11月、ペンタゴンは61年初頭からのベトナムでのアメリカ軍の死傷者は、死者1万5058人、負傷者10万9527人と発表。戦費も年間250億ドルになると推定され、和平がアメリカ社会で声高にさけばれるようになった。
| VI. | テト攻勢 |
米軍司令官ウェストモーランドは、前線のない戦いがつづく南ベトナムで、敵に人員補強能力をうわまわる損害をあたえるという消耗戦を基本的な戦略とした。しかし、解放側は、大量の北ベトナム軍を南の戦場におくり、多大な犠牲者をだしながらも兵力を維持し、戦局は見通しがたたなくなった。1968年初頭、北ベトナム軍と南の解放戦線軍は、多くの都市を標的とした同時攻撃、テト(旧正月)攻勢にうってでた。この攻勢はアメリカ国民に衝撃をあたえ、ベトナム戦争の行き詰まりを自覚させることになった。
アメリカ人の多くはこの戦争には勝てないと考えるようになった。1965年ごろからはじまったベトナム反戦運動は大きな高まりをみせ、68年3月31日、ジョンソンは北爆の部分的停止を表明。5月には北ベトナムとアメリカの和平会談がパリで開催され、北爆は10月に全面停止された。和平会談は69年に南ベトナム政府と解放戦線をふくむ形に拡大され、6月には解放戦線が南ベトナム共和国臨時革命政府を樹立した。
| VII. | 戦争のベトナム化 |
1969年、ジョンソンのあとをついだニクソン大統領は、「戦争のベトナム化」をとなえ、2万5000人のアメリカ軍を同年8月までにベトナムから撤退させることを表明。さらに6万5000人の削減をこの年の終わりまでにおこなうよう命じた。ニクソンのねらいは、サイゴン軍を訓練し兵器をあたえて強化することによって撤退した米軍の穴うめをするというもので、「ベトナム化」とは、サイゴン軍の「米軍化」ということだった。
ニクソン大統領はその一方で、後方安定のために戦争拡大もはかった。1970年4月、南ベトナム軍とアメリカの戦闘部隊がカンボジアに侵攻、戦場がカンボジアやラオスまでひろがったが、この攻撃は成功せず、解放区がかえって増加した。71年の死傷者数は、アメリカ軍の死者は70年の4221人から1380人へと減少したが、南ベトナム軍は2万1500人にのぼった。
| VIII. | アメリカでの論争 |
南ベトナムのアメリカ軍は1969年に54万1000人というピークをむかえた。アメリカ国内では軍事介入が深まるにつれ、戦争についての論議が活発になっていった。反戦平和運動はひろがりをみせ、ベトナムでのアメリカ軍のおかした残虐行為、とくに68年のソンミ村での住民の虐殺事件などがつたえられると、運動は激化した。
| IX. | 72年の春季大攻勢 |
1972年3月30日、北ベトナム軍は非武装地帯をこえてクワンチにせめこむ大規模な攻勢にでた。アメリカ軍はその報復に4月、67年以来の、北に深くはいりこむ北爆をおこなった。さらに5月、ニクソンは敵側の補給路を遮断するために、ハイフォンなどの北ベトナムの主要な港湾の機雷封鎖を命じた。空爆は鉄道へもむけられたために、北ベトナムに深刻な経済問題をひきおこすことになった。北ベトナム側はクワンチの街を4カ月半もちこたえたが、9月15日に南ベトナム軍に再奪取された。
| X. | 再度のエスカレーション |
1972年後半、極秘の和平会談が、大統領補佐官キッシンジャーと北ベトナム代表のレ・ドク・トとの間で断続的にひらかれた。会談が前進したのは、北ベトナム側が戦争の政治面と軍事面とをわけ、それまでかかげていた南のグエン・バン・ティエウ大統領の退陣要求をとりさげ、ラオスやカンボジアの状況についても同時にはなしあうという和平案の受け入れを表明したことにあった。そして10月26日に9項目の和平案が公表された。
しかし、キッシンジャーとレ・ドク・トとの会談が1972年12月4日に再開され、最終的な合意がなされようとしていた16日、突如会談は中止され、翌日ニクソンは最後の軍事的圧力としてハノイとハイフォンへの大規模爆撃を命じた。爆撃は12月18日から30日までおこなわれ、国際的な非難が高まった。
| XI. | 一時的な平和 |
国際世論の強い非難をうけて、1972年12月30日、アメリカは北緯18度以北への爆撃を停止することを表明、翌日から実行にうつされた。翌年初め、パリでの和平交渉が再開され、その進展をみてニクソンは北ベトナムに対する爆撃の全面的中止を命じた。1月27日、パリにおいてアメリカ、ベトナム共和国、ベトナム民主共和国、南ベトナム臨時革命政府の代表が、戦争終結と平和回復のための合意文書に署名した。しかし、パリ協定では北ベトナムとアメリカの直接交戦が停止されただけであり、サイゴン政府と臨時革命政府の武力対決の図式はのこされていた。
| XII. | 全土解放へ |
1973年3月末までに、すべてのアメリカの戦闘兵力は撤退した。しかし、その後も2万4000人の軍事顧問が残留し、周辺諸国には3万5000人の米兵がおり、近海には第七艦隊がのこっていた。
アメリカの撤退後もサイゴン政府軍の増強がつづき、北ベトナム側は革命戦争継続をうちだした。1974年になるとふたたび戦闘が激化し、12月に北ベトナムと南の解放勢力は大規模な攻勢を開始したが、作戦は予期しないほどの成功をおさめた。サイゴン政府は多くの重要な都市を掌握できなくなり、75年3月25日にフエが占領されるまでには壊滅状態となっていた。4月30日、南ベトナムの首都サイゴンが占領され、ズオン・バン・ミン新大統領は臨時革命政府に無条件降伏し、フランスとの戦いをふくめれば、30年におよんだベトナムの独立と解放の戦いはおわった。
| XIII. | 戦争がもたらしたもの |
ベトナム戦争は現代の通常戦争の転換点となった。ベトナム戦争は人民の戦争であり、ゲリラ戦闘員は非戦闘員と簡単には区別できず、多くの一般住民がゲリラに加担した。その結果、ベトナム民衆のこうむった被害はあまりにも甚大だった。アメリカ軍の広範囲にわたるナパーム弾の使用によって多数の人々が重傷をおったり焼死した。枯葉剤(→ 生物化学兵器)によってのちにいたるまで人体に後遺症がのこり、森林は枯れ、基本的には農業国だったベトナムの環境を荒廃させた。
長年にわたる戦争によって、推定では200万人以上のベトナム人が殺され、300万人が負傷し、また数知れぬ子供が孤児になった。アメリカ軍は約6万人が死亡し、15万人が負傷した。