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仏教
I. プロローグ

前6~5世紀ごろ、北部インドで35歳の青年釈迦によって創唱された宗教で、キリスト教、イスラム教とならぶ世界宗教である。宗教としてだけでなく、さまざまな芸術や学術の面でもすぐれた成果をもっており、東南アジアや東アジアの民族にとっては、その生活の細部までこの宗教の影響をうけているという点で、際だって大きな文化体である。

II. 教義

仏教のもっとも特徴的な点は、絶対者である人格をもった「神」をたてず、「仏の教え」であると同時に「仏になる教え」でもあることである。仏教はまた、きわめてひろい範囲にひろがっており、5億人以上の信徒がいると考えられているので、地域、宗派、民族によって歴史と伝統がことなり、教義や教団のあり方もちがう。しかし、釈迦を仏陀(仏)として崇拝し、その教え(法)をきき、禅や念仏などの実践修行によって悟りをえ、解脱することを目的としている点では一致している。

教義の中心は「諸行無常、一切行苦(いっさいぎょうく)、諸法無我(しょほうむが)、涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」の4句にまとめられ、これを「四法印」とよぶ。「諸行無常」は現象世界の一切は生滅変化し、常住不変のものはない(無常)、「一切行苦」は人間の存在そのものは苦である、「諸法無我」はあらゆる事物は永遠不滅の実体や本性をもたず、すべてが空である(無我)、「涅槃寂静」は煩悩を断じつくした静けさの境地を涅槃(ニルバーナ)とよび、それを理想とするという意味である。

すなわち仏教は、この世の中には確実なものはひとつもなく、すべてはあらわれては消える泡のようなはかない存在であり、永遠の輪廻をくりかえす苦にみちた存在であることをおしえる。そして、苦を滅しさり、輪廻からのがれる、すなわち解脱することで幸福を得ることをめざせと説いているのである。

真理にたってこの苦悩の因果関係を認識し、これから解脱する方法を4つの項目をあげて説いたのが「四諦」で、苦を滅却するための修行法として「八正道」が説かれている。また、「四諦」でも説かれているように、一切のものは因果関係によって生じるとする考えが十二因縁説に代表される「縁起」の思想で、仏教の中心的思想となっている。こうした釈迦による世界に関する真理の教えが「法(ダルマ)」にほかならない。

仏教はインドから東伝して、チベット、モンゴル、中国、朝鮮、日本へつたわり、また、南伝してスリランカ、ビルマ、タイ、インドシナ3国およびインドネシアへもつたわった。そのおよそ2500年の歴史の間に、時代と地域に応じて数多くの師父たちが仏教への理解をしめした著作をのこした。釈迦の教説が中心であることはいうまでもないが、仏教は師父たちの著作もふくめて、総体としての精神的営為とみなされなければならない。

III. 歴史的展開

仏教は釈迦没後100年で、戒律に対する見解の相違から、伝統的な上座部と進歩的な大衆部とに分裂したとされる。つづいて前1世紀ごろに大乗仏教が興起し、大乗仏教といわゆる小乗仏教の区別が生じた。小乗仏教はおもに東南アジア地域にひろがり、大乗仏教はおもに東アジアにひろまった。

仏教の展開は、つねに二者択一の展開であったといってもよい。上座部と大衆部、小乗仏教と大乗仏教、聖道門と浄土門、難行道と易行道、さらに教義のうえでも、此岸(しがん)と彼岸、煩悩と菩提、生死と涅槃、輪廻と解脱のように、対立する二者が結果的には止揚されていく経過が仏教の歴史的展開であると理解することができる。

1. インド仏教

仏教の起源は、釈迦が悟りをひらいたことにある。したがって、そのときは仏陀(仏)は釈迦1人であり、肉体をもった存在だった。釈迦没後100年のころ、戒律をめぐって教団内に対立が生じ、伝統を守ろうとする上座部と進歩的な大衆部に分裂した。これは「根本分裂」といわれ、これまでの仏教を「原始仏教」とよぶのに対し、これ以後の仏教を「部派仏教」とよぶ。部派仏教はマウリヤ朝以後数百年の間に分裂をくりかえし、20部派をかぞえるにいたった。これを「小乗二十派」とよぶ。

部派仏教は、アショーカ王の仏教帰依によりインド全土やスリランカにひろがり発展した。部派仏教の各部派では釈迦の教えの教理研究が盛んにおこなわれ、各部派ごとに特色あるアビダルマとよばれる教義体系をつくりあげた。しかし、部派仏教は少数の出家者、すなわち宗教的エリートのための仏教であり、出家者ひとりひとりの個人的救済だけがめざされていた。

前1世紀ごろになると、大乗仏教が成立する。大乗仏教は仏陀に対して、肉体をもっていることよりも、そのさとった内容(法)がより大切であるとして、肉体をもたない抽象的な仏陀を考えるようになった。肉体をもった仏を生身仏(しょうじんぶつ)というのに対して、抽象的な仏を法身仏(ほっしんぶつ)という。大乗仏教の成立についてはまだ不明な点が多く、アレクサンドロス大王の東征以後、インドを支配したギリシャ人の論理をインド人が受容した結果とも考えられるし、最近の研究によると、釈迦の遺骨をおさめた塔の周辺に生起した仏塔信仰者とよばれる在家信者の要求によって生まれたとも考えられている。

大乗仏教の中心的思想は「空」である。大乗仏教が在家者のための仏教であり、空の思想を中心としていたことは、きわめてはやい時期の大乗経典とされる「維摩経」の次の挿話によってよく知られる。

維摩の居室にあつまった多数の出家や在家の人々に、天女が天の花をふりかけたときのことである。在家の人々についた花はそのまま地におちたが、出家者の体についた花は地におちない。出家者がそれをふりおとそうとすればするほど花はべったりと付着してしまった。それは、彼らが、出家には花はふさわしくないと考え、そのような思いにこだわり、固執しているためである、と経典は説いている。

つまり仏道の修行は厳格であり、出家でなければそれをなしえないとする閉鎖的、独善的な出家主義がここでは批判されているのである。しかも、こだわりに対する否定的見解は空の哲学の原点であるといってもよい。

こののち、数多くの大乗経典が作成された。大乗経典は、空を説く「般若経」をはじめとする般若系の経典がはやくつくられ、禅、浄土教関係の経典へとすすみ、「法華経」「華厳経」にいたり、さらに密教関係の経典がつくられた。仏陀に対する考え方も変化し、法身仏の思想が成立してからは、仏陀は四方八方に天地の二方をくわえた十方に遍在すると考えられ、宇宙に遍在する存在となった。原始仏教から大乗仏教の成立までを仏陀観の変遷でみれば、一仏思想から多仏思想への変遷であり、釈迦一仏であったのが阿弥陀仏・薬師如来などの多くの仏陀と観音・地蔵などの多くの菩薩がたてられた。

200年ごろになると竜樹がでて、空の哲学を理論的に完成させるとともに浄土思想展開の端緒もひらいた。また、数多くの大乗経典もこの時期に成立した。4世紀には無著、世親(バスバンドゥ)兄弟による瑜伽行派がおこって、独特の存在論がとなえられた。

ヨーロッパの宗教的風土にくらべて、アジアの宗教的風土は異教に対して寛容である。これはインドにおいても、中国や日本においてもいえることであるが、仏教はさまざまな民俗宗教と習合して新しい展開をした。

そのもっとも顕著な例が、7世紀のインドにおける密教の成立である。密教は従来のヒンドゥー教の教理や神々を仏教の中に大胆にとりいれることによって成立したものである。密教経典も「大日経」「金剛頂経」「理趣経」など数多く成立したが、あまりにも現世肯定的な思想はかえって仏教の低俗化をまねき、仏教の独自性をうしなわせて、ヒンドゥー教の中にとりこまれる結果となった。そして、13世紀以降のイスラム教徒の侵攻によって、インド仏教は急速に衰退した。

2. 中国仏教

中国へ仏教がつたわったのは、紀元前後のこととされている。伝来当初の仏教は呪術や神仙道と混同されていたが、3~4世紀にはいってインド僧が中国にくるにおよび、老荘思想(老子:荘子)の「無」をもって仏教の「空」を解する「格義仏教」がおこった。5世紀初頭に鳩摩羅什が長安にはいって数多くの経典を翻訳すると、中国語だけで仏教を理解できるようになり、隋、唐時代には中国仏教が独立するとともに、その黄金時代をきずいた。しかし、いっぽうでは、儒教の伝統的倫理である「孝」と出家の思想が即応しないということや、仏教修行者は現世の王をうやまうことはないとする説により仏教は反発をうけた。

中国仏教の黄金期には、三論宗、天台宗、華厳宗、法相宗、律宗、密教、禅宗、浄土宗などの各宗派が成立した。なかでも特徴的なのは、華厳宗と禅宗の展開である。華厳宗の中心的仏である毘盧舎那仏は密教の大日如来と同じサンスクリット名をもっているが、これは仏教の展開過程における華厳から密教への移り変わりを象徴的にしめしているといえよう。

禅宗はインドの仏教僧の達磨によってつたえられたとされるが、まったく中国的発展をとげた。ことに五祖弘忍(こうにん)のもとにでた六祖慧能は独特の南宗禅を創始し、日本の禅宗にも深い影響をあたえた。ことに、禅宗で大切にされる農耕作業や掃除などの肉体労働「作務(さむ)」は、僧侶といえども働くことにおいては民衆とかわらないとの思想を生んだ。これにより禅宗は僧俗の区別を超越した教義に達し、唐代から宋代にかけて深く民衆に浸透した。

しかし、宋代以後は朱子学の興起による儒教の復興や、仏教自体が新しい思想を展開できなかったことなどから、徐々にその力をうしなっていった。

3. 日本仏教

日本にもかなり古い時期から朝鮮半島をとおして仏教がつたえられていたと考えられる。しかし、公式の伝来は538年(宣化3)もしくは552年(欽明13)に、百済の聖明王が仏像と経巻を朝廷に献上したのがはじめとつたえられる。仏教の受容をめぐっては、受容派の蘇我氏と拒否派の物部氏の間で深刻な抗争がくりかえされたが、聖徳太子によって受容が決定し、四天王寺、法隆寺などの大寺院が建立された。聖徳太子は自らも仏教に帰依(きえ)し、経典の注釈書「三経義疏(ぎしょ)」をあらわすなど、日本における仏教興隆にはたした役割は大きかった。

奈良時代にはいると、仏教は鎮護国家のための性格が強まった。聖武天皇は東大寺を総国分寺、法華寺を総国分尼寺として、全国に国分寺、国分尼寺を建立させ、東大寺には大仏を安置して仏法による国家の安泰と繁栄をねがった。教理面では、中国で成立した6つの宗派が日本につたえられ、学問宗として南都六宗が成立した。また行基や道昭など、国家による仏教とは別に一般民衆の中にはいって仏教をひろめる者もあった。

平安初期には最澄と空海が入唐して、それぞれ天台宗と真言宗をつたえ、延暦寺を比叡山(ひえいざん)に、金剛峰寺を高野山に建立し、以後長く日本仏教に影響をあたえつづけた。この時代に仏教はほぼ日本全国にひろまり、素質や能力に関係なくすべての人間が成仏できるとする一乗の立場による仏教が説かれて、奈良仏教よりも民衆にうけいれられやすいものとなった。

平安末期になると、相つぐ自然災害から社会不安が増大し、民衆の間に末法思想が流行した。そして、源平争乱期から鎌倉初期にかけて急速に浄土信仰が高まり、空也、源信、良忍らの活躍によって拡大していった。

鎌倉時代には、浄土や禅の門からすぐれた人物が次々とでて、いわゆる鎌倉仏教の諸宗派をひらいて民衆と密接にむすびついた仏教を確立した。その先駆となったのが法然で、源信の「往生要集」に触発されて浄土宗をひらいた。ついで、法然の門からでた親鸞が、法然の専修(せんじゅ)念仏をさらに徹底させた称名(しょうみょう)念仏を説き、浄土真宗の開祖となった。禅宗は、栄西によって臨済宗が、弟子の明全とともに入宋した道元によって曹洞宗がつたえられた。また平安時代の空也の系統をつぐ一遍は老若貴賤の別なく念仏をすすめ、時宗の開祖となった。これらに対し、諸宗派の誤りを強調して「法華経」のみに帰すべきことを説き、現世における救済をめざしたのが日蓮宗の開祖日蓮であった。

鎌倉仏教の師たちは、いずれも短い言葉の中に教理の要点を凝縮し、平易な仮名まじり文で教説を発表したために、庶民の間に急速に浸透し、仏教はまったく日本的展開をしめすことになった。現在でも、親鸞、道元などの著書は、日本におけるもっとも深い哲学的思索の書としてよみつがれている。

室町時代にはいると、鎌倉時代に成立した各宗派が日本各地にひろまり、全国的規模に拡大した。とくに禅宗は中国からの禅僧の渡来が相つぎ、京都と鎌倉に寺格をさだめた五山・十刹(じっせつ)の制度がもうけられるなど、武家政権との癒着によって盛んになった。しかし、五山文学をはじめとして茶道、水墨画などといった文化面ではみるべきものがあったが教理面での新しい展開はなかった。織豊期には、織田信長による比叡山焼き討ちのように、権力の側からの宗教支配の傾向が強かった。

江戸時代にはいると、徳川家康は一向一揆にくるしんだ経験などから慎重に宗教対策を考え、政治の思想的基盤としては儒教をもちい、本願寺を東西に分割するなど、仏教勢力を牽制(けんせい)しながら宗教を支配しようとした。しかし島原の乱後、キリシタンに対するきびしい警戒が必要となり、檀家制度によって庶民の戸籍を寺院にあずけさせ、本末制度によって寺院間の管理をきびしくした。このために寺院は経済的には安定したが、仏教そのものの活力は徐々にうしなわれることになった。明治維新では、仏教は廃仏毀釈の対象となり、壊滅的打撃をうけたが、信教の自由が確保されるにおよび、復活して今日におよんでいる。

4. 南方仏教

南方仏教は一般的に「小乗仏教」とよばれることもあるが、「小乗」という言葉は大乗仏教側からの蔑称(べっしょう)で、自称としては、「上座部仏教」「長老仏教」などとよばれている。

根本聖典としては経・律・論の三蔵が完備した、パーリ語の「大蔵経」があり、各国の文字で表記されているためにことなっているようにみえるが、すべての国に共通である。大乗仏教とちがって、在家信者と僧の間には厳密な区別が存在する。さらに、王政の国家では国王を最高の信者とし、国教もしくは国教に準じる地位をえている。南方仏教の僧は、227条にもおよぶ厳格な戒律の中で生活している。

スリランカ(セイロン)には、前3世紀に仏教が伝来したとつたえられている。伝承によれば、アショーカ王の王子マヒンダが上座部の仏教をつたえ、王朝の保護と民衆の帰依をうけて全島にひろまった。5世紀にはインドから仏音(ブッダゴーサ)が来島して、三蔵すべての注釈を完成させ、仏教は非常にさかえた。

ミャンマー(ビルマ)には、スリランカ仏教がさかえていた当時、仏教はベンガル湾を北上してつたえられた。11世紀になるとパガン朝がビルマを統一し、仏教も最盛期をむかえた。そのために当時仏教がおとろえていたスリランカにかえって逆輸出する勢いだった。その後、スリランカとビルマの仏教は衰退と繁栄をくりかえした。ただし、現在の両国の仏教は18世紀にタイから再輸入されたものである。

タイは、12世紀初頭に独立国家を形成した当初から、上座部系の仏教が盛んだった。仏教以外の文化もインドからうけいれ、現在の東南アジア諸国の中でもっとも有力な仏教国となっている。

カンボジアでは、ヒンドゥー教と仏教の混交した宗教がさかえていて、9~12世紀にアンコールのトム(都城)とワット(寺院)が建設された(アンコール朝)。以後、隣国のラオスとともに上座部仏教がさかえた。

インドネシアには、スマトラ、ジャワなどの島で上座部仏教がさかえていた事実が、義浄の旅行記などで明らかにされている。ジャワ島には8~9世紀に建設されたボロブドゥールの遺跡がのこるが、これはきわめて正確な曼荼羅の規則にしたがって建設されている。現在はイスラム教徒が圧倒的に多いが、中国系のインドネシア人の中には、新しい仏教に帰依しようとする動きも盛んであるという。

5. その他の地域の仏教

朝鮮半島には、仏教は4~5世紀にかけてつたえられた。当時朝鮮半島を支配していた高句麗、百済、新羅の3国では、中国に留学僧をおくるなど積極的に仏教を受容し、仏教はさかえた。百済の聖明王は、6世紀半ばに日本に仏教をつたえたことで知られる。7世紀の新羅による半島統一以後、仏教はますますさかえ、華厳宗や法相宗のほか、浄土教や密教もおこなわれた。さらに8世紀になって禅宗が中国からつたえられると、またたく間にひろがった。

10~14世紀にかけての高麗による半島支配の時期にも、仏教は国家的規模で信仰され、繁栄した。高麗の太祖(李成桂)はあつく仏教を信仰し、寺院の建立、制度の整備などを実行して仏教を保護した。しかし、つづいて約500年間にわたって朝鮮半島をおさめた朝鮮王朝は儒教の朱子学を国教とし、廃仏運動をおこなったために、朝鮮半島の仏教は衰退していった。

東南アジアの中でもベトナムは中国との関係が深く、仏教も上座部仏教(南方仏教)ではなく、中国仏教の影響をうけた大乗仏教が信仰されている。

ラマ教ともよばれるチベット仏教は、7世紀半ばにインドからつたわった大乗仏教が土着宗教であるボン教などと混交してできたものである。