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ソビエト連邦
I. プロローグ

正式にはソビエト社会主義共和国連邦(Soyuz Sovetskikh Sotsialisticheskikh Respublik)。ユーラシア大陸の北部に位置していた多民族国家で、1917年11月(ロシア暦10月)のロシア革命の結果創設され、ロシア帝国の領域をほぼひきついだ連邦制の国家。91年末に崩壊するまで74年間存続した。ソビエト連邦はふつうソ連とよばれるが、ときにソビエト・ロシアあるいは、たんにロシアとよばれることもある。

II. 戦争と革命

ソ連の歴史は、レーニンがひきいるボリシェビキ党(ボリシェビズム)に指導された全ロシア・ソビエト大会が国家権力をにぎった1917年11月7日(ロシア暦10月25日)にさかのぼる。ソビエト権力の樹立を宣言した大会は、第1次世界大戦からのロシアの離脱と土地の国有化についての布告を採択し、新しい政府として人民委員会議を構成した。新政権は銀行の国有化、男女同権などの一連の政策をうちだし、これら諸政策の基本方針は、18年7月に採択された最初の憲法に具体化された。

1. ブレスト講和

新政権にとっての最大の課題は、戦争からの離脱だった。これに応じたドイツとの和平交渉はブレスト・リトフスク(現ブレスト)で1917年12月にはじめられたが、ドイツ側がしめした条件がうけいれがたいものだったため、18年2月に交渉は決裂した。しかしドイツ軍がすぐさまソビエト・ロシアに対し攻勢にでたため交渉は再開され、3月初めに講和条約がむすばれた(ブレスト・リトフスク条約)。この講和条約でウクライナ、ポーランドおよびバルト諸国のソビエト・ロシアからの分離がとりきめられた。きびしい条件の講和だったが、レーニンは、ソビエト権力の防衛のためにはこの講和が不可欠であると考えた。

ボリシェビキ党と連立政権をくんでいた左派エス・エル党は、ブレスト講和を革命の裏切りとして、政権からの脱退を宣言し、伝統的なテロルの方法にうったえて、モスクワ駐在ドイツ大使を暗殺し、またボリシェビキ党指導者たちの暗殺をくわだてた。レーニン自身もテロリストにおそわれて重傷をおった。これに対してボリシェビキ党は、いわゆる赤色テロルを開始して左派エス・エル党を弾圧、ソ連は一党制の国家へとあゆみだした。

2. 国内戦と干渉戦争

ボリシェビキ政権の政策は、これに反対する国内諸勢力の軍事的抵抗と外国からの軍事干渉をもたらした。国内戦・干渉戦争の発端となったのは、戦争捕虜となってロシアにいたチェコスロバキア人で編成された軍団の反乱であった。このチェコ軍団を救出する名目で、1918年にイギリス・フランス軍がアルハンゲリスクに上陸、ついで日本とアメリカの軍隊がウラジオストクに上陸して、干渉戦争がはじまった(シベリア出兵)。

いっぽう同年に、シベリアでコルチャーク提督が反ボリシェビキ政権を樹立し、「最高執政官」を名のった。1919年には南ロシアからデニキンひきいる反革命軍がモスクワにせまり、ユデニチにひきいられた別の反革命軍はペトログラード(現、サンクトペテルブルク)近郊までせめのぼった。ボリシェビキ政権は、徴兵制を採用して赤軍を創設し、反革命軍と外国の軍隊の攻勢をくいとめた。20年末までには反革命軍の敗北は決定的となり、外国の干渉軍も日本をのぞいて撤退した。

すでに1918年に共産党と名称をかえていたボリシェビキ党は、国内戦の過程で一党独裁を強化していった。国家を支配する共産党は、全工業を国有化し、農民から強制的に穀物を徴発する、きびしい経済政策をうちだした。この政策は「戦時共産主義」とよばれたが、農民の強い抵抗をひきおこしたため、政府は農民への譲歩をせまられた。レーニンは、農民の穀物生産意欲を高めるために強制徴発をあらためて現物税制を導入し、また商工業への直接の統制をゆるめて、かぎられた範囲で私企業をみとめる方向へと政策を転換した。新経済政策(ネップ)とよばれるこの政策は、21年3月の共産党大会で採択された。

III. スターリン時代

1924年のレーニンの死ははげしい権力闘争をもたらした。主要な闘いは、トロツキーと当時共産党書記長だったスターリンとの間でくりひろげられた。党組織に対する統制を通じて、スターリンは党内での支持を獲得し、支配をかためていった。トロツキーは27年に共産党から除名されてアルマ・アタに流刑となり、その2年後に国外追放され、40年に亡命先のメキシコでスターリンの手先により暗殺された。スターリンは29年までには、ジノビエフ、カーメネフ、ブハーリンなど反対派を一掃して、党と国家の最高指導者としての地位を確立した。

1. ソ連憲法と外国の承認

1920年代には国家行政の全面的改革がおこなわれ、国内経済および外交関係では改善がみられた。22年末、ロシア共和国とウクライナ、ベロルシア(現ベラルーシ)、ザカフカス(現アゼルバイジャン、アルメニア、グルジア)の3ソビエト共和国がソビエト連邦を結成し、24年1月にはソ連邦の憲法が発効した。それぞれの共和国には一定の自治権がみとめられていたが、外交、国防、経済計画などは中央政府の強力な統制下におかれた。

1924年までには、おもな列強諸国がソビエト政府を承認し、ソ連との外交関係を樹立していった。日本も25年に承認した。こうしてソ連は国際会議の舞台に参加するようになったが、アメリカは、33年になってようやくソ連を承認した。

2. 経済の変容

資本主義的な方法を部分的に許容した新経済政策は、1927年までにソ連経済に復興をもたらし、農業・工業ともに戦前の水準まで回復した。28年からは、第1次5カ年計画の開始とともに、計画経済という新たな時代がはじまった。5カ年計画の基本的な目的は、ソ連を農業国からすすんだ工業国にかえ、農業を全面的に集団化するなど、社会のあり方そのものを大きくかえることだった。

3. 大粛清

1930年代のソ連の政治的な特徴は、スターリンの政策に反対するとみなされたすべての人々を共産党と政府から排除した、徹底的な粛清にみることができる。大規模な粛清は、スターリン支持者だった党指導者キーロフが34年12月に暗殺されたことにはじまった。35~39年にスターリンは、反対派の疑いをかけられた人々すべてを権力の座から排除した。その結果、多くの人々が投獄され、シベリアに流刑となり、あるいは処刑された。

1936~38年に一連の公開裁判がひらかれ、共産党のかつての指導者たちが、ソ連国家の転覆をはかったとして処刑された。赤軍の高官たちも、ドイツと日本の手先として秘密裁判にかけられて処刑され、共産党員や軍人のほかにも、諸団体の指導者や知識人、企業の幹部らが粛清の対象となって収容所におくられたり処刑されたりした。大量抑圧による犠牲者数は数百万人にのぼるといわれ、ソビエト体制にとって大きな損失となった。

4. 外交

1931年に日本が中国東北部を占領し、ソ連との国境で日ソ両軍の緊張が高まっていった。日ソ両軍は38年に張鼓峰で、39年にはノモンハンで衝突(ノモンハン事件)し、ソ連軍は日本軍に大きな損害をあたえた。同じころドイツではヒトラーが政権の座について対外膨張政策をとり、ソ連の安全をおびやかしていた。これらの脅威に対抗するため、ソ連はそれまで主要な敵とみなしていたイギリス、フランスとの協調へと方針をかえ、34年には国際連盟に加入した。また、ポーランド、フィンランド、チェコスロバキアなどの諸国と条約をむすんで自国の安全を確保しようとした。

1938年にオーストリアを併合したドイツは、つづいてチェコスロバキアのズデーテン地方の割譲を要求し、イギリスとフランスはミュンヘン会談でこれを承認した。このミュンヘン協定の締結は、ソ連の集団安全保障政策が失敗におわったことをしめすものとなった。

5. 第2次世界大戦

東方で日本との局地戦をたたかったソ連は、西からのドイツの攻撃をおそれ、1939年8月にドイツと不可侵条約を締結した。これには秘密議定書がふくまれており、ポーランドの分割と東ヨーロッパでの独・ソ両国の勢力範囲がさだめられていた。その後9月1日にドイツはポーランドに侵入し、9月3日イギリスとフランスがドイツに宣戦を布告して第2次世界大戦がはじまった。9月17日にはソ連軍がポーランド国境をこえて侵入し、ポーランド東部を占領、その後独・ソ間で友好境界条約がむすばれ、ポーランドでの勢力圏が確定した。

いぜんとしてドイツの脅威を感じていたソ連は、日本とも関係改善をはかり、1941年4月に日ソ中立条約が締結され、相互の領土不可侵を約束するとともに、一方が紛争中には他方は中立をたもつことをとりきめた。

5.A. 周辺諸国への膨張

1939年秋、ソ連政府はドイツ軍がフィンランド領をとおって攻撃してくるのをおそれ、フィンランドに対して国境地帯の領土の割譲と海軍基地の建設を要求した。これが拒否されると、11月30日、ソ連軍はフィンランドに侵攻を開始した。勇敢な抵抗ののち40年3月にフィンランドが制圧され、ソ連はフィンランドからカレリヤ地方を獲得して講和条約をむすんだ。

1940年6月には、ラトビア、リトアニア、エストニアのバルト3国に対して、ソ連軍の通過と親ソ政権の樹立を要求し、その回答をまたずに3国に進駐した。さらに親ソ政権を組織して反ソ分子を抑圧し、8月に、バルト3国はソビエト共和国としてソ連に併合された。

同時にソ連はバルカン諸国にも手をのばしていた。その標的となったのがルーマニアで、1918年にルーマニアに併合されたベッサラビアを割譲するよう同国に圧力をかけ、40年6月にはソ連軍がベッサラビアと北ブコビナに進駐した。結局ルーマニアはソ連の要求に応じて領土を割譲した。

5.B. 独ソ戦

1941年6月22日、ドイツ軍は突如ソ連への進撃を開始した。同日、イタリアとルーマニアもソ連に対し宣戦を布告した。フィンランド、ハンガリー、アルバニアなどの諸国もこれにつづいたが、イギリスとアメリカはソ連に対する物資援助をおこなった。日米開戦によりアメリカが戦争にくわわると、英・米・ソの3国は軍事連合を形成、42年1月には、大西洋憲章にもとづいて連合国共同宣言が発表され、戦争中の連合国の協力が誓約された。

1941年秋までにドイツ軍はソ連領深くまで侵攻し、ヨーロッパ・ロシアの大半は年末までに占領され、レニングラード(現、サンクトペテルブルク)とモスクワもドイツ軍の攻撃におびやかされた。ドイツ軍は10月にもモスクワを落とす勢いだったが、進撃はかろうじてくいとめられた。これに対してレニングラードはドイツ軍に包囲され、籠城(ろうじょう)戦は2年半もつづき、犠牲者は最終的に125万人をこえた。

5.C. スターリングラードの戦

ドイツ軍はウクライナを占領し、1942年夏、ボルガ川下流域の要衝スターリングラード(現ボルゴグラード)の攻撃を開始したが、翌年2月にはソ連軍が勝利をおさめた。この戦いは独ソ戦の転換点となり、ドイツ軍はしだいに退却を強いられるようになった。その後ソ連軍は東ヨーロッパを解放して進撃し、45年4月22日にベルリン郊外に達して5月2日には同市を占領、8日にドイツが無条件降伏してヨーロッパでの戦争は終結した。

こののちソ連は、ヤルタ会談での秘密協定にしたがい、ドイツ降伏の3カ月後に日本に宣戦布告し、中国東北部、朝鮮半島北部、千島列島およびサハリン(樺太)南部を占領した。こうしてソ連は、対日戦の勝利者としても登場することになった。

5.D. 戦後処理問題

戦争がおわるまでには、ソ連は世界の大国のひとつとみとめられるようになった。スターリンは、アメリカ、イギリスの首脳とともに1943年のテヘラン会談と45年のヤルタ、ポツダム両会談に参加して、戦争遂行の戦略と戦後のヨーロッパ政策とをはなしあった。

戦後のドイツは、戦勝国が4つの地域を分割して占領することとなり、ソ連にはドイツ東部がわりあてられた。ソ連占領地域内にあったベルリンもまた4つの地区に分割され、ソ連は東ベルリンを管理することとなった。ソ連は支配地域にソ連型の政府をつくったため、1947年までにはいわゆる「鉄のカーテン」が東ヨーロッパと中部ヨーロッパの一部を西ヨーロッパからへだてることになった。

6. 冷戦の開始

強大な軍事力を背景に、ソ連は東欧占領地域の政治的・経済的・社会的構造に改変をくわえた。こうした戦後のソ連の外交政策は、アメリカおよびその同盟国とソ連との間に、冷戦という全地球規模での政治的・外交的・経済的紛争をひきおこした。

ソ連の影響力が圧倒的に強かったポーランド、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、アルバニア、ユーゴスラビア、東ドイツの諸国では、政治的・経済的構造がしだいに再編されていった。政治的に反対するグループは抑圧され、大土地所有者は土地をとりあげられた。また事実上すべての産業が国有化された。東欧諸国に対してソ連は、まずそれぞれの国の共産党にほかの諸政党と連立政権をつくらせた。そのうえで共産党が軍と警察といった重要なポストを独占し、しだいに反対派を排除して国家を権威主義的に統制する、人民民主主義とよばれる体制を確立した。さらにソ連は、影響下にある人民民主主義諸国の経済活動を調整するため、1949年に経済相互援助会議(コメコン)を組織した。

ソ連の東欧支配の例外は、チトーにひきいられて自力で国を解放したユーゴスラビアのみだった。ソ連の影響力を拒絶したユーゴスラビアは、1948年に共産党の国際連帯組織であるコミンフォルム(インターナショナル)から追放され、独自の非同盟外交路線をすすむことになった。

IV. 指導権をめぐる闘争

絶対的権力をにぎっていたスターリンが1953年3月に死去したのち、マレンコフが首相兼党書記となり、モロトフが第1副首相兼外相、ベリヤが内相に就任した。数日ののちマレンコフが党書記を辞任して、フルシチョフが先任書記の座についた(のちに第1書記となる)。これ以後の指導部は集団指導体制とよばれるようになった。このうち秘密警察(KGB)の長官としておそれられた内相ベリヤは7月に逮捕され、のちに処刑された。ついでマレンコフが55年に辞任においこまれ、ブルガーニンが首相に就任、この段階で党第1書記フルシチョフが権力のトップにたった。

1. 非スターリン化

1956年2月にひらかれたソ連共産党第20回大会でフルシチョフは、スターリンを批判した秘密報告をおこなった。その中でフルシチョフは、レーニンがスターリンを批判した遺言を紹介し、スターリンへの「個人崇拝」が党と国家に大きな損失をあたえたとのべた。さらに、無実の同志に対する大量弾圧や、独ソ戦開戦時のドイツに対する無警戒やその後の戦争指導上の誤り、外交政策の誤りに大きな責任があるとして、スターリンを批判した。

フルシチョフの秘密報告はアメリカ国務省によって暴露され公表されたため、スターリン批判はソ連の共産党員や国民だけでなく、各国の共産党や世界の世論にも大きな衝撃をあたえた。こののちさまざまな分野で「非スターリン化」がすすめられていった。

2. フルシチョフの時代

1957年にそれまでの複雑な工業管理省庁を統廃合する改革にのりだしたフルシチョフは、これに反対する党幹部とそれにむすびついたモロトフ、マレンコフ、カガノビチらのスターリン時代からの指導者を解任した。その後58年にブルガーニン首相を辞職においこんで、フルシチョフは党第1書記と首相を兼任して権力を確立し、集団指導は終わりをつげた。

フルシチョフは資本主義諸国との平和共存をとなえ、1959年にはアメリカを訪問したが、この外交政策は中国との間に緊張をもたらした。62年には、キューバの革命政権援助でアメリカとの間に核戦争の危機をひきおこすにいたり、平和共存路線は挫折した。

フルシチョフが力をそそいだ農業政策は結局失敗におわり、彼の権威は低下した。また、反対をおし切って党の役職の任期制を導入し、さらには党機関を農業担当と工業担当に2分割する改革をすすめて、党幹部の強い反発をまねいた。そのため1964年10月、共産党幹部会によって、抜き打ち的に辞任においこまれた。

3. ブレジネフ政権

フルシチョフ辞任ののち集団指導体制が復活し、党第1書記にはブレジネフ(のち書記長)、首相にはコスイギンが就任した。しかし1970年代までには、共産党を指導したブレジネフがしだいに権力を集中し、77年に国家元首を兼任するようになった。ブレジネフのもとで、77年に新しいソ連憲法が採択された。

V. 経済の発展

ソ連にとって農業問題はつねに大きな課題であり、急速な工業化は消費財生産の犠牲のうえになりたっていた。

1. 農業

集団化農業、とくにコルホーズ農業に農民の多くが従事しつづけた。フルシチョフは穀物増産のために、処女地とくにカザフスタンでの開墾とトウモロコシ生産に力をそそいだが、いずれも失敗におわった。天候不順による穀物の不作が1963、65、69、72年および75年に発生した。穀物の減収のためソ連政府は、アメリカとカナダから大量の小麦を輸入せざるをえず、そのため経済成長が低下し、対外債務が急速に膨張した。

ソ連政府は穀物増産のためにさまざまな改善策をおこない、良好な天候もさいわいして、1973、74、76年には記録的な豊作となった。にもかかわらず、農業はその後も政府にとって深刻な政治問題でありつづけた。

2. 工業

5カ年計画のもとでソ連は急速に工業化し、世界第2の工業国・軍事大国となったが、消費財の生産はたちおくれた。1957年の工業総生産は13年水準の33倍になったと報じられたが、重工業生産の拡大が74倍だったのに対して、消費財生産の拡大は13倍にとどまっていた。フルシチョフは消費財生産の拡大を約束したが、あまり実現されなかった。

その後、工業成長が停滞傾向をしめすようになると、改革派の経済学者が中心となって、1965年から経済改革の試みがはじめられた。これは、極度に中央集権的な計画経済システムに市場メカニズムをとりいれるとともに、「利潤」指標をもちいることで、生産増大のための刺激を強化し、生産の効率化をめざすものだった。しかし行政的な経済システムそのものには手をつけなかったため、結局改革は中途で挫折した。

VI. 文化の発展

ソ連政府は国民の教育に力をそそぎ、学校体系をととのえて、教育を無料で提供し、文字をもたなかった民族に対しては、それぞれの文字と文法が用意された。その結果、革命前の識字率30%がほぼ100%にひきあげられた。学校を通じて国民には共産主義意識が教育され、また工業化のために技術の習得がもとめられた。

文化的発展は科学の分野でいちじるしかった。物理学や化学のいくつかの分野で、ソ連科学は世界をリードする位置にあった。原子力開発と宇宙開発には、とくに大きな力がそそがれ、1957年に世界最初の人工衛星スプートニクの打ち上げに成功し、61年には世界最初の有人宇宙飛行に成功した(宇宙探査)。

1. 文化への国家統制

ソ連国家は、ソビエト文化のあらゆる分野に共産主義社会をはぐくむことをもとめたため、共産党の政治的価値が多くの分野に強い影響をあたえることになった。社会科学はその影響がもっとも強い分野のひとつだったが、文学や芸術、音楽といった分野にも共産党の政治的影響がおよび、「社会主義リアリズム」という創作方法がもとめられた。ソ連政府は憲法のうえでは宗教に対する寛容をうたっていたが、実際には信教の自由は制限され教会には抑圧がくわえられた。

2. 異論派

非スターリン化のすすむ中で、知識人たちは社会の民主化をもとめるようになったが、フルシチョフを追放した政権は自由な空間をしだいにしめつける政策をとった。体制を批判して社会の自由化・民主化をもとめて行動する人々は「異論派」とよばれるようになり、破壊活動をおこなったという理由で投獄されたり、強制収容所におくられたり、精神科病院に隔離されたりした。

もっとも有名な異論派の人物に、作家ソルジェニーツィンと物理学者サハロフがいる。ソルジェニーツィンはソ連国内で作品を出版することを禁じられ、1974年に国外追放となった。サハロフは、79年のソ連のアフガニスタン侵攻を批判して、ゴーリキー市(現、ニジニーノブゴロド)に流刑となったが、ゴルバチョフのもとで86年に流刑をとかれてモスクワにもどった。

VII. 外交関係

第2次世界大戦後の冷戦の中で、ソ連は東欧諸国への支配を強力におしすすめたが、1970年代には緊張緩和がすすむことになった。

1. 「衛星国」との関係

第2次世界大戦後、ソ連は国境を接した東欧諸国と密接な関係をつくりあげた。これらの東欧諸国はしばしば「衛星国」とよばれ、経済的には経済相互援助会議(コメコン)を通じてソ連の強い影響をうけた。また1955年には、米・欧の軍事同盟であるNATO(北大西洋条約機構)に対抗してワルシャワ条約機構が設立され、軍事的にもソ連の統制下におかれた。

チトーのひきいるユーゴスラビアはモスクワの指導を拒絶したが、そのほかの衛星国ではソ連の支配が強まった。スターリンの死後、ユーゴスラビアとの関係は改善にむかったが、1968年以降ふたたび悪化した。また61年以降、ソ連はアルバニアに対する統制力をうしなった。

1.A. ポーランドとハンガリーの危機

1956年のスターリン批判は、東欧諸国に政治的混乱をひきおこした。ポーランドでは6月、ポズナニで暴動がおき、政権指導部が交替した。ハンガリーでは事態はより深刻で、10月に各地で大規模な反政府暴動がおきた。これに対して首相ナジがワルシャワ条約機構からの脱退とハンガリーの中立を宣言するや、ソ連軍は戦車を出動させてナジ政権を打倒した。

1.B. プラハの春

1968年のチェコスロバキアは、共産党第1書記ドゥプチェクのもとで経済改革と民主化をすすめ、「人間の顔をした社会主義」の実験をおこなっていた。ソ連はこの「プラハの春」に警告を発していたが、改革は経済分野にとどまらず、検閲の廃止と複数政党制の承認にまでいたった。これに対してソ連は干渉することをきめ、68年8月、ワルシャワ条約軍がチェコスロバキアに侵攻し、ドゥプチェク政権をたおした。

このチェコ事件は東欧諸国に対するソ連の統制を強めるきっかけとなり、それぞれの社会主義国は、他国もふくめた社会主義体制そのものに対して責任をおうという「ブレジネフ・ドクトリン」が定式化された。1980年初めのポーランドの民主化運動の抑圧の際にも、こうしたソ連の圧力が背景にあった。

2. 中ソ関係

1949年に中華人民共和国が成立したときに、ソ連はこれを承認して友好同盟関係をむすんだ。その後50年の朝鮮戦争の際には、両国はともに朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を支援した。しかし50年代後半から両国は、しだいにイデオロギー面での緊張を強めるようになった。60年代には両国関係は決定的な対立をむかえ、69年には中ソ国境地帯で武力衝突事件がおきた(中ロ国境問題)。さらに72年にアメリカ大統領ニクソンが中国を訪問したことは、ソ連を強く警戒させた。76年の毛沢東の死去後も中ソ関係はかわらず、両国の対立関係がつづいたが、80年代初めには少しずつ対立が緩和にむかった。

3. アジア・アフリカ諸国との関係

ソ連は1950年にホー・チ・ミンのベトナムを承認し、ベトナムが南北に分断されたのちもベトナム民主共和国(北ベトナム)を支持した。ベトナム戦争時には北ベトナムを支援してアメリカと対立し、ベトナム統一後の中国とベトナムとの対立では、ベトナムを支持して中国と対立した。79年12月には、アフガニスタンの社会主義政権を援助する名目で、ソ連軍はアフガニスタンに侵攻して占領し、国際的な非難をあびた。アフリカでのソ連の影響力は、60年代にはコンゴ(現コンゴ民主共和国)とガーナで親ソ政権が崩壊したことによって弱まった。しかし70年代には、アンゴラとエチオピアで親ソ政権をもりたてることに成功した。

1951年のサンフランシスコ対日講和条約にソ連代表は署名せず、日ソ両国間には正常な関係がなかった。しかしスターリンの死後日ソ間の関係改善がすすみ、56年に日ソ共同宣言が調印されて国交が回復した。しかしこれは領土問題を棚上げしたもので、いわゆる北方領土問題は、両国関係の大きな障害のままのこされた。

4. 米ソ関係

ソ連はカストロが指導するキューバの社会主義政権を支援して、1962年にキューバにミサイル基地を建設してミサイルをはこびこもうとした。これに対してアメリカ大統領ケネディは、戦争も辞さない強い警告を発し、核戦争の瀬戸際にまでいたったが、結局フルシチョフが譲歩してミサイル撤去を発表した。

キューバ危機ののちソ連はアメリカとの協調路線をすすめ、1963年にアメリカ、イギリスと部分的核実験停止条約をむすんだ。その後も米ソ両国は軍縮にむけて話し合いをすすめ、72年には戦略兵器制限交渉によって、両国のミサイル保有に上限をもうけた。70年代には、軍事力の均衡を背景に、ソ連はアメリカとともにデタント(緊張緩和)外交をすすめた。

しかし1979年末のソ連のアフガニスタン侵攻をきっかけに、米ソ関係はしだいに悪化し、アメリカは、ソ連によるポーランドの民主化運動抑圧を非難した。また83年のソ連軍機による大韓航空機撃墜事件は、両国関係を緊張させた。

VIII. ゴルバチョフ時代

1982年のブレジネフ死去ののち共産党書記長となったアンドロポフは、84年に亡くなった。そのあとをブレジネフの部下だったチェルネンコがついだが、彼も翌85年に死去した。長くつづいた老人政治のあと、同年に、わかいゴルバチョフが書記長となった。

1. ペレストロイカとグラスノスチ

ゴルバチョフは自らの権力基盤をかためたのち、ソ連社会の根本的改革にのりだした。1986年4月におきたチェルノブイリ原発事故の悲劇のあと、ペレストロイカとよばれる改革路線が本格的にはじまった。政治・文化の面では、新たな情報公開政策であるグラスノスチ(公開制)が導入された。ペレストロイカは政治システムにもおよび、89年には新しい最高権力機関として人民代議員大会が設置され、代議員は、17年以来はじめて複数候補制の自由な選挙でえらばれた。

2. ゴルバチョフ外交

ゴルバチョフは「新思考」外交をすすめ、1988年にはアフガニスタンからソ連軍を撤退させた。また87年に訪米し、レーガン大統領と中距離核戦力全廃条約に調印した。さらに89年にはブッシュ米大統領とマルタ会談をおこない、68年のチェコスロバキア介入が誤りだったことをみとめ、東西冷戦の終結を世界にしめした。同年ローマも訪問し、教皇ヨハネ・パウロ2世と会談して、カトリック教会とソ連政権との関係を正常化した。

3. ソビエト連邦の崩壊

1989年以降、東欧の社会主義諸国では、次々と共産党政権が崩壊していった。ベルリンの壁を開放した東ドイツは、西ドイツとの統一条約に調印した。東欧諸国のこうした動きはソ連の民主化運動を拡大させ、ソ連共産党の権威は低下した。90年、ゴルバチョフは共産党の一党支配の根拠となっていた憲法を改正し、大統領制を導入してみずからソ連邦大統領に就任した。いっぽうその年に、リトアニア共和国が主権宣言をおこなったのを皮切りに、バルト3国は独立を宣言、その後各地で民族紛争が頻発するようになった。

共産党支配の弱体化と連邦制の動揺に対して1991年8月、KGB(国家保安委員会)、内務省、国防省などをにぎっていた保守派グループは、ゴルバチョフを監禁して非常事態を宣言するクーデタを決行した。しかし、ロシア共和国大統領エリツィンにひきいられた改革派はこのクーデタを粉砕し、共産党を打倒した。こののちエリツィンの影響力はゴルバチョフをしのぐようになり、しだいにロシア政府が連邦にかわって政治権力を行使するようになった。

そして1991年12月8日、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ3国が「独立国家共同体」(CIS)協定に調印して、ソ連邦の終焉(しゅうえん)を宣言し、21日にはアルマ・アタで11の共和国が「独立国家共同体」設立に調印した。ゴルバチョフは25日に大統領辞任を発表し、ソ連邦は崩壊、翌26日、ソ連最高会議はソ連邦の消滅を承認した。