48年革命
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48年革命
II. 革命の経過
1. フランス

1846~47年、ヨーロッパでは農産物の不作から民衆の生活苦がひろがり、47年になると各地で政府に対する不満が表面化していった。フランスでも収入減になやむ農民、失業においこまれた労働者の間に不穏な空気がただよい、経営困難に直面した中小企業経営者などの中間層からも社会改革、選挙制度の改革をもとめる声が強まった。48年2月、パリの労働者は武装してバリケードをきずいた。内閣は崩壊し、国王ルイ・フィリップは退位、議会は共和制を宣言して臨時政府を組織した。

社会主義者や労働者も参加した臨時政府は、労働者や貧困な都市民衆の要求にそう政策をうちだしたが、1848年4月に実施された普通選挙では、労働者や都市の貧困階層を代表する候補は大敗し、絶望したパリの労働者は6月に蜂起したが、政府軍によって鎮圧された。このあと、12月におこなわれた大統領選挙でナポレオン1世の甥(おい)、ルイ・ナポレオン(のちナポレオン3世)が選出され、やがて帝政にむかうことになる。

2. ドイツ

パリの革命の情報がつたわると、ドイツ人地域でも政府に対する不満がいっせいに噴出した。この当時のドイツには40近い小国家(領邦)が存在し、統一国家は生まれていなかった。経済活動の拡大をのぞむ商工業者や、ドイツ人の一体化をめざす知識人らは統一国家の誕生をもとめていたが、各地を支配する貴族層はこうした動きに抵抗していた。1848年3月、ベルリンで発生した学生・市民と軍隊の衝突ではプロイセン政府は譲歩し、憲法の制定などが約束された。ドイツ各地に類似の動きがおきる中で、5月にはフランクフルトで諸領邦の代表者が憲法制定のための国民議会をひらいたが、ようやく草案が成立したのは翌年3月で、この案はプロイセン国王の拒否によってほうむりさられた。

3. オーストリア帝国

ウィーンでも1848年3月、学生や労働者が軍隊と衝突。ナポレオン戦争以後、オーストリア帝国で抑圧的な政治を指導していた宰相のメッテルニヒは辞職した。オーストリア帝国の支配下にあった東ヨーロッパの諸地域では、彼の辞職をきっかけに民族自立のための蜂起がおこった。

ハンガリーではコッシュートが完全な自治を要求し、皇帝にみとめさせた。しかし、オーストリア人の支配下にあったハンガリー人は、トランシルバニアではルーマニア人、スロバキアではスロバキア人、またバルカン半島ではクロアチア人やセルビア人の上に封建的な地主として君臨していた。したがって、これらの地域では、三月革命によって生じた運動は、ハンガリー人からの自立をもとめるとともに封建制の打破をめざすものとなった。

オーストリア帝国の政治情勢は、このように複雑で、最終的には、オーストリア帝国に君臨していたハプスブルク家はハンガリー人の支配下にあるスラブ系勢力と手をくんで、ハンガリーの独立運動を鎮圧することになる。同様に、18世紀末にロシア、オーストリア、プロイセン3国によって分割されたポーランドでも自立と統一のための運動がおきたが、目標をはたすことなく挫折した。

4. イタリア

イタリア半島も当時統一的な国家は存在していなかった。半島全体が多数の国家にわかれていただけでなく、北部の諸国はオーストリアの影響下に、南部はスペインの影響下にあった。ここでは、革命は各地の国家内部での改革をもとめるものであると同時に、外国勢力を追放し、イタリア人の統一を要求する、三重の性格をもっていた。