| 検索ビュー | 印象主義 | 項目ビュー |
| I. | プロローグ |
19世紀後半のフランスで展開された絵画・音楽における芸術運動。アカデミックな伝統的絵画や、18世紀~19世紀初頭における音楽の形式主義と主情主義に対する反発から生まれた。印象主義運動は、近代美術、近代音楽の始まりをしめすものとみなされている。
| II. | 絵画 |
絵画における印象主義は、古典的で感傷的な主題や味気ない規則どおりの技法に対する不満からおこった。これらの主題や技法は、それまでアカデミー・デ・ボザール(美術アカデミー)で規範として承認され、各アトリエで追従されてきたものであった。アカデミーはフランス美術の基準をさだめ、範をしめし、官制のサロン展をささえてきた。そのためサロン展の作品をとおしてこの基準がひろまった。
印象主義の画家たちは、これらの因習的規範を拒否し、日常生活における人物、身近な風景や街の情景を主題にえらび、戸外で直接えがくことをこのんだ。彼らの第一の目的は対象の上にあたった外光の効果を注意深く観察し、正確に画面にうつしとることであった。また目の前の世界を画家がうけた印象のままに、細部にとらわれず、全体的雰囲気を描写することであった。おもな印象派の画家には、ドガ、モネ、モリゾ、ピサロ、ルノワール、シスレーなどがいる。
| 1. | 理論 |
印象派の画家は、形態の明確な描写よりも、事物をつつむ光の描写に関心があった。彼らは、光は形態の輪郭を大気の中にとけこませ、影の部分にもそのまわりの事物の色を反映させる働きがあると信じた。いっぽう、アカデミズムを信奉する官学派の画家は、明暗法、陰影法、モデリングなどの伝統的描法を駆使し、色調を段階的に推移させ、影の部分に黒や褐色をつかうことで、事物の形態を明確に表現し、立体感豊かにしあげようとした。
印象派の画家は細部を省略し、明確に形態をえがきだすよりは、むしろ雰囲気を喚起し、暗示させることを追究した。三原色の赤、黄、青と、これらの補色の緑、紫、橙をこのんでもちい、短く小さなすばやい筆触で、これらの色を並置することによって、自然な明るい輝きと一瞬の光の効果を生みだした。
つまり、三原色の中の2色、たとえば赤と青をまぜないで並置し、はなれてながめると2つの色は目の網膜の中でまじりあう視覚混合をおこし紫となる。しかも原色の明るさはうしなわれない。さらに1つの原色とその補色、たとえば、赤と緑を並置すると、対比効果によって、個々の色の鮮やかさがいっそう強く発揮される。このような筆触分割と補色の効果によって、印象派の画家は従来おこなわれていた絵具の混合よりも、はるかに鮮やかな色の輝きと色調の明るさに到達した。
| 2. | 歴史 |
フランス印象主義の特質は、革新的技法にあるといえるが、外光の効果を描出する試みは新しいことではなかった。17世紀のオランダの画家フェルメールは、光と影の強いコントラストによって自然光を表現した。18世紀にはスペインの画家ベラスケスが、19世紀初期には同じ国のゴヤが、形態の細部描写にこだわらず、あいまいな陰影の部分を排除し、光の部分を強調することで自然光の印象を表現した。彼らの筆致はフランス印象派の場合と似かよっている。
印象主義と直接むすびつく先駆者は、英国風景画家のコンスタブルとターナーである。モネとピサロは1871年にはじめて2人の作品に接し、とくにターナーの雰囲気の描写、光と大気がもうろうと拡散する効果に感銘をうけた。バルビゾン派の作品もまた、印象主義派運動の先駆けとなった。バルビゾン派と親交があり、ときには印象派の父ともよばれるコローは、第1回印象派展に先だつ30年も前に、1日のうちのことなった時間にえがいた作品のシリーズで、刻々とうつろう光のつかの間の様相をとらえた。
モネの最初の師であるブーダンは、海浜風景を現場ですばやくえがいた手法から、ほとんど印象主義の画家ともいえるが、自分の後継者モネに、自然からうけたみずみずしい印象を、直接その場で的確にえがきだすようにおしえた。いっぽう、クールベは印象派の画家たちに、日常生活の情景にインスピレーションをもとめるようすすめた。
マネは、ときとして最初の印象主義者とよばれるが、彼自身はそうよばれるのをきらっていた。彼は、従来おこなわれていた明暗法や陰影法をもちいずに、コントラストをなす明るい色の並置によって光の微妙な描写をおこなった。アカデミズムが支配するサロン展に対抗して開催された落選者展に出品されたマネの「草上の昼食」(1863)は、絵画における新時代の幕開けをつげるものであった。
1874年、印象派の画家たちは最初のグループ展をひらいた。30人の出展者は美術界を支配している様式に反旗をひるがえすいっぽう、マネの大胆な革新的様式をたたえた。印象主義という言葉は、パリの雑誌記者が、モネの「印象・日の出」という作品タイトルを嘲笑的に批評してもちいたことに由来する。この呼称は、1877年の第3回印象派展から正式に採用された。
印象主義者を擁護した当時の著名なフランス人には、ゾラやボードレールなどの文学者、画家・コレクターのギュスターブ・カイユボット、画商のデュラン・リュエルなどがいた。しかし、伝統的アカデミズムの様式に長い間なれしたしんできたジャーナリズムや一般大衆は、この新しい表現様式を非難した。
印象派の画家は、それぞれ独自の様式を展開したが、グループとしては明るい色彩表現の試みという共通の問題意識にささえられていた。グループの中では、モネが印象主義の理論を首尾一貫して忠実にまもり、「ルーアン大聖堂」「積みわら」「睡蓮の池」「ポプラ」などの多くの連作を手がけ、また、同一のモティーフを時間や季節をかえてえがいた。
ピサロは、やや控えめな色彩をもちいながら光の効果を追究し、構築的形態による画面構成にも没頭した。シスレーはモネの影響を強くうけたが、彼独自の洗練された繊細なスタイルをたもちつづけた。ドガは正統な印象主義者ではなかったが、とくにバレエや競馬のシーンなどで一瞬の動きをとらえようとした。ルノワールは純粋な風景よりも、むしろ裸婦の肉体をえがくことをこのんだ。モリゾは色彩よりも軽妙な筆遣いを特徴とする風景を繊細にえがきあげた。
フランス印象主義は国際的にも大きな影響をおよぼした。アメリカの画家ホイッスラーは、「ノクターン」(1877)とよばれる連作で、夕闇にかがやいてとけこむ花火や、暮色にそまった薄もやをとおして、拡散するにぶい光の効果をえがきだした。ほかに、アメリカのカサット、チャイルド・ハッサム、サージェントや、英国のシッカート、イタリアのセガンティーニ、スペインのソローリャなどが印象派の作風をしめしている。
印象主義者として出発した画家たちは、そこから新たな技法を展開し、新しい芸術運動を生みだした。フランスのスーラとシニャックは画面全体を小さな色点でうめたが、これは印象主義の理論をいっそう科学的に応用した技法であり、点描画法として知られる。後期印象派の画家セザンヌ、ロートレック、ゴーギャン、ゴッホは、印象派の明るくかがやく色彩に強く影響をうけた。セザンヌの作品はキュビスムを予感させ、ゴーギャンとゴッホの作品は表現主義の初期段階をしめしている。
| III. | 音楽 |
音楽における印象主義は、フランスの作曲家ドビュッシーを中心に展開された。印象主義音楽は、フランスの印象主義絵画や、ベルレーヌ、ボードレール、マラルメの詩などの影響をうけ、ソナタや交響曲といった形式ではなく、むしろ音色や雰囲気を強調した。
批評家としても活発に活動したドビュッシーは、印象主義音楽を、モーツァルト、ベートーベンなどによる形式重視の音楽や、シューマン、シューベルトなどによるロマン主義の情感豊かな表現に対する反動とみなした。彼は印象主義音楽を実践するため、新しい技法と古い技法をくみあわせた。つまり、いっぽうでは全音音階(音階上のすべての音程が全音である音階)や、複雑でそれまではあまり使用されなかった9の和音、11の和音などの新技法をもちい、他方では、中世の教会旋法にみられた4度や5度の並進行をとりいれた。
こうした特徴は、マラルメの詩にもとづく初期の管弦楽曲「牧神の午後への前奏曲」(1894)で完全に花ひらいた。数多いドビュッシーのピアノ曲は、微妙なペダル遣いを多用するなど、新しい演奏テクニックを要求した。
フランス印象主義音楽はラベルにうけつがれ、さらなる展開をみせた。このほか、印象派のフランス人作曲家としてデュカースとルーセルがいる。ドビュッシー様式は、イギリスのディリアスとボーン・ウィリアムズ、イタリアのレスピーギ、スペインのファリャなど、他国の多くの作曲家によってさまざまな側面が模倣された。
しかし1914年の第1次世界大戦の開戦までに、感覚の世界や洗練された技法を追究した印象主義音楽はいきづまり、作曲家や批評家から非難をあびせられるようになる。エリック・サティの影響をうけ、反ロマン主義をかかげたフランスの新しい作曲家グループ「六人組」は、印象派の行き過ぎを皮肉り、批判し、反旗をひるがえした。結果的に、ドビュッシーがロマン主義に対する反動とみなした印象主義音楽は、ロマン主義音楽の最終局面と位置づけられるようになった。