| 検索ビュー | 皇帝 | 項目ビュー |
| I. | プロローグ |
皇帝とは、ヨーロッパにおいては王国や民族をこえた最高支配者の称号であり、その支配領域は帝国とよばれる。しかし中国においては帝国という言葉の用法はないなど、それらの言葉の内容は時代や地域によりさまざまである。
| II. | ヨーロッパの皇帝 |
| 1. | ローマ皇帝 |
ヨーロッパにおいて皇帝という称号の起源となったのは、前27年に、元首政(帝政前期)を開始し、事実上の初代ローマ皇帝となったアウグストゥスが、みずからの肩書きの一部とした「インペラトルimperator、カエサルcaesar」である。
インペラトルとは、命令する者、すなわちローマ軍最高司令官の意味であり、カエサルとは、アウグストゥスがその養子相続人となったガイウス・ユリウス・カエサル(英語ではシーザー)の家名である。前者からは、英語のエンペラーemperorやフランス語のアンペルールempereurが、後者からは、ドイツ語のカイザーKaiserやロシア語のツァーリtsar'が生まれた。
元首政の時代には、共和政の制度や建て前が残存し、事実上は独裁的な権力者 = 皇帝だったアウグストゥスも、市民の第一人者という意味の「元首」と称した。しかし、284年に即位したディオクレティアヌス帝にはじまる帝政後期には、専制君主政が確立し、皇帝は名実ともに地中海世界を統治する世界帝国ローマの最高支配者となり、その神聖化すらはかられた。そして、313年のミラノ勅令によってキリスト教を公認したコンスタンティヌス1世のもとで、キリスト教が皇帝の支配理念のひとつとしてつけくわわった。
| 2. | 東ローマ皇帝 |
その後、395年にローマ帝国が東西に分裂し、476年に西ローマ帝国が滅亡した後には、バシレウスbasileusというギリシャ語でいいあらわされる東ローマ( = ビザンティン)皇帝が、1453年の滅亡時まで政教の全権を支配し、ただ1人の正統なローマ皇帝としてその権威を主張した。
| 3. | カール大帝 |
これに対して、西ヨーロッパでは長らく皇帝があらわれなかったが、教義問題でビザンティン帝国と対立し、有力な世俗権力の後ろ盾を必要としていたローマ教皇レオ3世が、800年のクリスマスの日にカロリング朝フランク国王であるカール大帝を「皇帝」として戴冠させてしまった。このカールの「皇帝」を、カール自身や教皇、ビザンティン皇帝がそれぞれどのように理解していたかについてはさまざまな議論があるが、少なくともそこでは、キリスト教的な要素が大きな位置を占めていたことは確実である。
以後、中世西ヨーロッパにおける皇帝は、ローマ教皇や都市ローマの保護者であるのみならず、キリスト教徒の共同体全体の守護者としての立場をとるようになった。以後、皇帝がローマにおいて教皇の手によって戴冠される習いとなったことは、両者の協力関係をしめしているが、その一方で、皇帝と教皇のどちらが上位にたつかという微妙な問題を生みだすことにもなった。
カール大帝の息子であるルイ敬虔(けいけん)帝(ルートウィヒ1世)の時代には、彼の死後に、カロリング「帝国」がゲルマン古来の分割相続の原則によって複数の息子たちの間で分割されることがはやくから予想されていた。このため、そのような分割を懸念するランス大司教ヒンクマールらの教会理論家たちによって、皇帝や帝国の普遍性や皇帝のキリスト教的使命についての理論が発展した。
しかし、843年のベルダン条約によってフランク王国が予想どおり3分割されると、皇帝位はカロリング家の諸国王の間を転々とし、名目的な称号にすぎなくなった。
| 4. | 神聖ローマ皇帝 |
カロリング朝の家系断絶後、962年に、ザクセン(オットー)朝(→ ザクセン)ドイツ国王であるオットー1世が教皇ヨハネス12世の手により戴冠されて皇帝位についた。以後、多くのドイツ国王が皇帝として即位し、その支配領域が「神聖ローマ帝国」とよばれるが、そのような名称が実際にあらわれるのは13世紀半ばのことである。
オットー1世の孫で、ビザンティン皇女を母にもつオットー3世の時代には、「ローマ帝国の復興」という理念がもっともはっきりと追求された。かつてアウグストゥスの宮殿があったローマのパラティヌスの丘に皇帝宮殿がたてられ、そこを古代風の帝国支配の中心たらしめんとしたのである。
ザクセン朝につづくザリエル朝時代には、叙任権闘争がおこり、聖職叙任権をめぐって皇帝とローマ教皇が対立する過程で、キリスト教世界のリーダーシップも同時にあらそわれた。その結果、少なくとも教権に関する教会聖職者の叙任権がローマ教会にあることが確認された。また同じころ、ドイツ王国内において諸侯に対する皇帝の優位がうしなわれたこともあって、13世紀初頭には教皇権の皇帝権に対する優位が明らかとなった。教皇インノケンティウス3世などは、皇帝選挙にまで介入し、皇帝承認の権限を主張した。
| 5. | 皇帝権の相対化 |
しかし、14世紀以降、ドイツ国王は教皇支配からの独立をめざし、1356年の金印勅書によって7名の選定侯によるドイツ国王 = 皇帝の選挙の原則が確立されて、皇帝即位に関する教皇の関与は事実上消滅して、教皇による戴冠式すら必要ではなくなった。
他方、オットー1世以後のドイツ王国では、皇帝といえども実質的にはドイツ国王にすぎないという現実と、普遍的支配者としての皇帝理念とが対立せざるをえなくなってゆく。とりわけ皇帝理念はローマとイタリアの保護をもとめたため、歴代の皇帝はイタリア遠征と支配をくりかえした。
それは、シチリア王とエルサレム王でもあったシュタウフェン朝のフリードリヒ2世時代(皇帝在位1220~50)に頂点に達したが、彼の死後は皇帝のイタリア半島における支配圏は事実上消滅した。金印勅書によってさだめられた選定侯がいずれもドイツの聖俗大諸侯であるという事実は、そこでえらばれる皇帝が、もはやドイツの国内統治にしかかかわらないことをはっきりとしめしていた。
また中世後期のヨーロッパ各国で、それぞれに中央集権化が進行し、国民国家が形成されてゆく中で、キリスト教徒の共同体に対する責務もふくめて、皇帝と各国の国王は対等の政治的支配者であるという理論が形成され、それまでの普遍的皇帝権が相対化してゆく傾向がみられた。
たとえば14世紀のフランス王国では、「フランス国王は、その王国内においては皇帝である」というような法諺(ほうげん)が成立していた。また1378年のパリにおけるフランス国王シャルル5世と皇帝カール4世の会見などの機会には、フランス側は、両者が対等であることを明らかにするようにつとめたのである。
また先が閉じた王冠や十字架がついた宝珠など、元来は皇帝だけがもちいるものとされた標識も、各国の国王が模倣してもちいるようになった。そのような皇帝権相対化の事情は、西ヨーロッパだけでなく、のちにビザンティン帝国を継承したとするロシア皇帝などにもみることができる。
| 6. | 普遍的支配理念の消滅 |
13世紀後半には、シュタウフェン朝断絶後の皇帝位をめぐってドイツ諸侯が対立し、皇帝が選出されないという大空位時代(1256~73)があり、ドイツにおいても皇帝や帝国の称号と権威は内実を欠くものとなったことがはっきりしてゆく。こうして14世紀以降、西ヨーロッパでは、皇帝位は依然としてドイツ国王によって継承されてゆくものの、普遍的政治権威ないしキリスト教共同体の守護者としての内容はうしなわれていった。
1806年に神聖ローマ帝国が崩壊したのちには、ハプスブルク家やホーエンツォレルン家が皇帝位を主張し、フランスにおいてもナポレオンとその甥(おい)ナポレオン3世が皇帝を名のった。またイギリスでも、ビクトリア女王は、植民地帝国については皇帝の称号をもちいた。しかし、この段階にあっては、もはや古代や中世半ばまでの皇帝のもっていた普遍的支配者理念は消滅しており、たんなる複数の王国や民族の支配者であることを主張する称号にすぎなくなっていた。
| III. | 中国の皇帝 |
| 1. | 王と天子 |
中国では、前3世紀にあらわれた秦の始皇帝以来、20世紀初めの清王朝の滅亡にいたるまで、歴代の各王朝の君主を「皇帝」と称してきた。それ以前の、歴史的に確認されるもっとも古い殷王朝の君主たちは「王」と称し、殷の王は「帝」とよばれる天上の至上神を祭り、亀甲(きっこう)や獣骨をやいてできるひび割れをもちいた占いによって政治をおこなった(→ 甲骨文字)。王は政治的な指導者であるとともに、祭祀(さいし)の主宰者であった。
殷にかわった周の王は、天上を支配する「帝」の命、すなわち天命をうけて地上を支配すると考えられ、「天子」という称号が生まれた。「天子」という言葉は、西周時代の金文にすでにあらわれる。
西周がおとろえて春秋時代(→ 春秋戦国時代)になると、南方の有力勢力である楚、呉、越などの支配者も王と称するようになり、戦国時代にはいると強国はいずれも王の称号をもちいた。また、春秋時代に孔子が儒教をおこすと、儒学の流れの中で天命をうけた王者をめぐる「王道」の理論がかたちづくられ、とくに孟子は、王が天命にそむく行いをすると、天帝はあらためて他の徳のある者に天命をあたえて王とするが、その天命は大規模な反乱のような事態をふくめて人民の声にあらわれるという「易姓革命」の考えを主張した。
| 2. | 皇帝の登場 |
戦国時代の戦乱をへて、秦王の政(せい:のちに始皇帝)は、前221年にはじめて中国全土を統一し、中央集権的な統一王朝をうちたてた。政は丞相(じょうしょう)の王綰(おうわん)らに、新しい広大な国に君臨するみずからの称号を論議させた。すでにもちいられてきた王や天子以上の権威をしめす言葉がもとめられた。王綰らは古代に「天皇」「地皇」「泰皇」の「三皇」があったから「泰皇」がよいと奏上したが、政はみずから「皇帝」という言葉を採用して最高支配者の称号とした。
「帝」は、もともと天上にあって自然、農耕および人間世界のすべてを支配する最高神をさし、上帝ともよばれた。この言葉を王の尊称として転用する例としては、殷の時期にすでに王の死後に「帝乙」などとよんだり、周代になると、伝説上の古代の帝王を「帝堯」、「帝舜」などと称したり、伝説的な「五帝」の説話がかたちづくられたりしていた。また、戦国の諸侯はそれぞれ王を称して覇をあらそったが、他の王にまさる権威を誇示するために「帝」をたたえる場合もあった。
「皇」という言葉は、神格化された祖先をよんだり、または上帝に対する尊称としてもちいられ、「尚書」の「呂刑編」のように、伝説の聖天子である黄帝や帝堯を意味する言葉として「皇帝」の語をつかう事例もあった。
このように、「王」に代わる「皇帝」の用例はすでにないわけではなかったが、地上の最高権力者を正式に「皇帝」とよぶとさだめたのは、やはり秦の始皇帝が初めてであった。彼は太古の伝説的な「三皇五帝」にもまさるみずからの空前の功業と権威を誇示する称号として、「皇帝」の名号を採用したのである。
さらに始皇帝は、帝位を2世皇帝、3世皇帝、そして万世へとつたえることとし、皇帝専用の言葉(自称を「朕」、命を「制」、令を「詔」とするなど)や、皇帝のおこなう儀礼や儀式にもっぱらもちいられる制度や文物などをさだめた。また始皇帝は王侯を廃止して郡県制を全土に広げ、配下の官僚を各地に派遣して支配した。
| 3. | 称号の定着 |
しかし、始皇帝が死ぬと秦は反乱の中で滅亡した。「楚王」を称した項羽や「漢王」劉邦などの有力勢力があらそった末、項羽をくだした劉邦によって再度全土が統一された。劉邦は「王の中の王」として「皇帝」に推戴され、漢の高祖となった。皇帝となった劉邦は一族や功臣たちを「王」に封ずる郡国制を採用した。これは、周の封建の制度を部分的に復活したものであった。
漢の高祖以後、皇帝の称号が定着した。天命をうけた者の称号として天子という言葉ものこり、皇帝は天の権威を代行、表象する祭祀者としては天子であり、天命をうけて世俗世界に君臨する統治者としては皇帝であった。同じ君主が、宗教的な場面に応じた天子としての顔と、政治的場面に応じた皇帝としての顔を同時にもったのである。
また上述したように、始皇帝は、皇帝が各地に官僚を派遣する郡県制をしいたが、漢の高祖が郡国制にもどしたように、とくに新しい王朝の草創期には有力者を王に封ずる例が歴史上くりかえしあらわれた。皇帝権がこうした有力者におびやかされることもあって、三国時代をふくむ魏晋南北朝時代には、有力な豪族や門閥貴族の勢力が強く、皇帝はしばしば有徳の者に帝位をゆずることを意味する「禅譲(ぜんじょう)」などの理由で帝位をうばわれた。また仏教勢力が皇帝崇拝を否定する場合もあり、皇帝権は絶対的に強いものではなかった。
唐代末から五代十国の戦乱をしずめて再度中国を統一した宋の太祖趙匡胤は、科挙官僚による支配体制を確立して、皇帝権を強化した。門閥貴族勢力は退場し、「読書人」や「士大夫」と通称された科挙をめざす地主層が、社会の支配階層を形成した。これがその後の元、明、清の王朝にうけつがれた。
| 4. | 冊封体制 |
また、天を中心としてくみたてられた王朝の秩序は、天—皇帝(天子)—人民という階層的な上下関係を形成したが、この秩序は同心円的に徳がおよび広がっていくかたちで直轄地域の外部の周辺諸国や民族にも波及するものと観念された。それゆえ、皇帝を頂点とする中華の秩序には、近代的な国境のような境界の観念はなく、「帝国」という言葉の用法もなかった。
天下万国をおさめる皇帝の徳をしたって遠方から朝貢(→ 朝貢貿易)する者は「王」として冊封(→ 冊封体制)され、皇帝に臣従して朝貢の使節を皇帝のもとにおくると考えられた。こうして中華皇帝を中心とする広域的で重層的な地域秩序が形成された。このような冊封、朝貢のシステムは、清朝の末期まで存続したが、日清戦争によって最終的に崩壊した。