検索ビュー ルネサンス

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ルネサンス
I. プロローグ

14~16世紀にイタリアで展開された、思想・芸術・学問など文化的諸領域の活動の総称。農村社会を基盤とし、知的・文化的活動が教会の統制下にあった中世の封建社会が崩壊し、都市国家が商業活動や文化的な活動を推進する時代に生まれた。また、15世紀末ごろから、イタリア・ルネサンスの成果は西ヨーロッパ諸国に波及して、絶対王政の確立する時期に知的革新をもたらした。したがって、ルネサンスという言葉は、せまい意味ではイタリア半島における文化的活動をさすが、ひろい意味では、15~17世紀にかけてのヨーロッパ諸国の類似の現象や様式を意味する。

II. 概念とその再検討

ルネサンスという言葉は、フランス語で「再生」を意味し、最初に使用したのは、19世紀のフランスの歴史家ミシュレであった。ついでスイスの歴史家ブルクハルトが、イタリアにおけるジョットからミケランジェロまでの時代をえがいた「イタリア・ルネサンスの文化」(1860)の中でルネサンスの概念を確立した。神にのみ目がむけられ、文化の発展が低調であった暗黒の中世から人間性が尊重される合理的なギリシャ・ローマ時代の古典文化をよみがえらせ、近代にむけて大きくヨーロッパ文化の潮流を転換させたものとされたのである。

今日では、ミシュレやブルクハルトの見解がそのまま承認されているわけではない。第1に、ギリシャ・ローマの文化は、中世の時代にほろび、断絶したわけではなかった。西ヨーロッパにおいては、5世紀の西ローマ帝国の崩壊ののち、古典文化は直接的には継承されなかったが、15世紀まで存続したビザンティン帝国や、またイスラム圏においては、ギリシャやローマの文化はうけつがれていた。その意味では、19世紀のルネサンスのとらえ方は、西ヨーロッパの人々の、自分たちだけを文化の担い手と考える偏狭なものの見方の反映であった。

第2に、ヨーロッパ中世は、かならずしも暗黒の時代ではなく、また文化的にレベルの低い時代でもなかった。現在では、カール大帝の時代にカロリング・ルネサンスとよばれる文化の発展があったことや、12世紀ルネサンスとよばれる活発な知的活動の時代があったことが確認されている。なによりもルネサンスそれ自体が、中世の文化的発展の積み重ねのうえに展開されたものだった。ルネサンスの思想家の知的活動の基礎は、トマス・アクィナスの壮大な神学の大系やスコラ哲学などの中世の精神活動であったし、またアリストテレス学派とプラトン学派の流れは中世をとおしてつたえられていた。

第3に、20世紀になってから、ルネサンスの中には、19世紀に考えられていた以上に、はるかに強くキリスト教文化の影響がみられ、また魔術などの非近代的な要素が濃厚であることも確認されている。ルネサンス期の学術上の発見の担い手の中には多くのキリスト教の聖職者がおり、彼らは神の意志をよみとるために、人体や天体の仕組みを観察したのだった。そして、ルネサンスの第1級の学者たちが魔術や錬金術などにとりくんでいた。

それにもかかわらず、14世紀以降のイタリアや西ヨーロッパ諸国に出現した文化には、中世の文化にみられるものとはまったく異なる要素をみることができる。その意味では、ルネサンスの時代の文化を、それ以前と異なるものとして考えることは可能である。

III. 歴史的背景

イタリア・ルネサンスの背景には、フィレンツェ、フェッラーラ、ミラノ、ベネツィアなどの都市の発展があった。これらの都市は12~13世紀の経済の発展と、それにともなう人口の増加によって15、16世紀まで大いに繁栄した。生活水準の全般的な向上は、現世の快楽や生活の快適さ、豪華さの追求など、死におびえ神にすがろうとした中世の人々とは異なる意識や態度をもたらした。また、14世紀の王権の拡大にともなっておきた教会の分裂は、調停者としてのキリスト教会の権威を失墜させ、キリスト教的な世界観そのものの重要性を低下させた。しかも、活発な経済活動は社会の仕組みを複雑なものにし、キリスト教的な世界観だけでは、もはや社会現象のすべてを解釈することが不可能になっていた。

いっぽう、都市の発展によって、大きな富や支配者の地位を獲得した人々は、大きな権力と、より快適な生活をもとめ、また、より多くの知識をもとめて、多数の工芸家や学者たちの活動を保護した。フィレンツェのメディチ家、フェッラーラのエステ家、ミラノのビスコンティ家やスフォルツァ家などである。また、東方との交流の増大は、衣料品や食品など、アジア起源の多くの物品をもたらして都市生活を豊かにしていたが、工芸の技術や科学、思想なども並行してイタリア半島につたえられ、ルネサンスの時代のイタリアに新しい刺激をもたらした。

IV. 中世との訣別

中世知識人との違いをもっともよくあらわすものは、人文主義とよばれる知的活動であった。これは、ギリシャ・ローマ古典の研究という形式をとりながら、人間に主体をおいて研究するものだった。このような観点は、人間を神の意志によって創造された宇宙の一要素として位置づける、中世の人間観から大きくへだたったものである。人間そのものの生理的活動や精神活動を、神の天地創造の意図や神の創造した全宇宙の体系などからいったん切りはなして研究の対象とするために、ギリシャの古典の探索と収集がおこなわれ、その解釈や校訂の作業がなされたのである。

その対象となったのは、プラトンの対話編、ヘロドトスやトゥキュディデスの歴史書、ギリシャの演劇、詩、さらには古代末期にギリシャ語で執筆をおこなったキリスト教神学者の作品などであった。1453年にコンスタンティノープル(現イスタンブール)がオスマン帝国によって陥落し、ビザンティン帝国が滅亡すると、多数のギリシャ系知識人がイタリアに亡命したことも、このような動向を活発にする要因となった。

V. 芸術活動

美術の分野においても、ローマ・ギリシャへの関心は新しいヒントをあたえ、新しい様式の確立をもたらした。ルネサンス時代の思考のひとつの特徴は、法則性の探究にあった。作品に美的効果をあたえる調和と比例の表現上の法則が探究され、古代からつたわる黄金分割にもとづく構成や、1420年ごろフィレンツェで確立した遠近法の手法がとられ、一般に写実性が重視されることによって、ルネサンスの様式が完成する。建築家ブルネレスキの作品や、画家マサッチョの作品は遠近法の見本となった。また彫刻家ドナテロは古代以来はじめて等身大のブロンズ像「ダビデ」を制作した。

さらに、ルネサンスは芸術作品の主題の世俗化をもたらした。中世における視覚的な芸術作品は、なによりもキリスト教の神髄を人々につたえ、おしえることを目的とするものであったから、おのずから主題は限定されていた。だが、ルネサンスにおいては、絵画や彫刻は装飾としての側面を強くもつようになり、古代の神話、世俗の人物などが従来のキリスト教的題材とならんであつかわれた。

ルネサンスの保護者コジモ・デ・メディチなどを古典様式でメダルにえがいたピサネロの作品、ピエロ・デラ・フランチェスカ、マンテーニャ、ボッティチェリらの、対象となる人物の個性を強調する作品などは、題材においても手法においても、ルネサンス期の典型となるものだった。法則性をもつ構成によって調和をもとめるルネサンスの理想は、16世紀にラファエロ、レオナルド・ダ・ビンチ、ミケランジェロらによって完成された。

VI. 科学と技術

15~16世紀に翻訳されたヒッポクラテスやガレノスの著作は、人体そのものを観察の対象とすることをおしえ、人体の構成や人体内部のさまざまな動きの法則性の探究を促進した。こうして近代ヨーロッパの医学と解剖学の基礎が確立された。ユークリッドの幾何学などは、すでに中世にヨーロッパで知られていたが、ルネサンスにおいて広範な知的活動とむすびつけられるようになり、天文学の発達などにつながった。

イタリアの天文学ではガリレオが有名であるが、コペルニクス、プラーエ、ケプラーなどの功績も重要である。また、事物の運動の中にひそむ法則性の探究は物理学の発展をもたらした。いっぽう、物質の変化に関する学問は、この時代においては錬金術から完全に分離されてはいなかったが、やがて化学や薬学として体系化される。

ルネサンス期の学問のひとつの特徴は、諸科学がたんなる知識としてとどまらず、社会的な活動とむすびついていたことである。化学や物理学の知識はしばしば兵器の改善や、築城術に応用された。

VII. 社会の観察

社会的な事象もまた観察の対象となった。すでに13世紀にイタリアの商業都市では、日常の商業活動の必要から簿記の技術が開発されていたが、15世紀末から16世紀になると、パチョーリなどによって複式簿記の理論的な基礎づけがおこなわれた。いっぽう、政治の中に固有の動きをみいだしたのはマキアベリだった。彼は社会現象としての政治を宗教や倫理と切りはなして分析することによって、近代政治学の祖となった。また、中世以来の東方貿易はイタリア半島の人々に、アジアへの関心をもたせ、ギリシャ・ローマ時代のストラボンやプトレマイオスの地理書の翻訳によって、世界の地理的ひろがりや仕組みへの関心をよびおこした。こうした知的好奇心が、15~16世紀の大航海時代の活動の原動力となり、東西文化の交流、都市の繁栄をとおして、ひるがえってルネサンスのいっそうの隆盛をもたらした。

VIII. 宗教

人文主義的な発想や研究方法はキリスト教にも適用された。すでに中世末期のドイツなどで、信仰を政治や教会組織の運営などと切りはなし、個人の純粋な心の問題としてとらえようとする動きがみられたが、ルネサンス期においては、古典研究の手法をもちいて聖書の再検討や古代の教父の著作の検討・解釈をおこない、キリスト教そのものを再検討しようとする動きがあらわれた。このような潮流は、当初はローマ・カトリック教会の内部にとどまっていたが、やがて、権力闘争にあけくれ、ぜいたくな生活をおくる教皇などの高位聖職者に支配される教会そのものの批判にむかわざるをえなかった。

こうした動きはやがて宗教改革にむすびつくが、一方ではローマ・カトリック教会内部の改革をも生みだすことになった。また、信仰を個人の心にかかわる問題として考える発想は、国家の統治の仕事としての政治と宗教とをわけて考える態度を生みだした。カトリックとプロテスタントの対立の時代に、フランスの一部の人文主義者が提唱した、宗教的寛容はこのような立場にもとづくものだった。

IX. ルネサンスの意義

ルネサンスは、自然現象や社会現象、さらには人間の精神的活動などに対する新しい視角や知識を生みだし、近代の知的活動の基礎を確立した。だが、同時にルネサンス期の知的活動が、中世のキリスト教知識人とは異なるタイプの世俗的知識人によって担われたことをわすれてはならない。新しい知識人は、基本的には都市の豊かさが生みだしたものであり、その意味ではルネサンスは農村に対する都市の勝利を意味していた。

都市的な現象としてルネサンスを考える場合、新しい文化のうちには、日常の生活様式全般をひろくふくめる必要がある。ルネサンスの文化は、教会音楽を中心としながらも近世世俗音楽の基礎となるルネサンス音楽、東方からの刺激によって豊富になる料理や衣服の文化、権力者間の交渉の中から成立する礼儀作法、権力の誇示の手段であると同時に娯楽でもあった舞踊、演劇などのジャンル、富裕な人々の自己表現の手段であると同時に娯楽でもあった詩や論評などの文章芸術にまでおよんでいた。その意味では、ルネサンスは都市を舞台とする、生活様式の変革でもあった。

やがて、15世紀末から16世紀にかけて、ヨーロッパ各国に強力な中央集権的な王権が成立すると、統治のための新しい技術や、新しい理論を必要とするようになった。また、かつてライバルであった国内の封建諸侯や国外のライバルに対して、自らの力量を誇示することも絶対王政のもとでは必要であった。そのために、フランスのフランソワ1世や、イギリスのチューダー朝の王たち、スペインの歴代の王たちは、まずイタリアの建築や絵画・彫刻などの装飾をとりいれた。

だが、各国の経済的発展の中で富と力を獲得した市民層は、さらにすすんでルネサンスのものの考え方や生活態度をとりいれた。そして、全ヨーロッパの共有財産となったルネサンスの成果はヨーロッパ近代を生む重要な要素のひとつとなった。