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スロバキア
I. プロローグ

ヨーロッパ中央部の共和国。正式国名はスロバキア共和国。スロバキア語では「スロベンスコ」という。北でポーランド、東でウクライナ、南でハンガリー、西でオーストリアとチェコに接する。かつてはチェコスロバキアの一部だったが、1993年1月1日チェコと分離して独立した。面積は4万9035km²。人口は545万5407人(2008年推計)。首都はブラチスラバ。

II. 国土と資源

西部から北部にかけてカルパティア山脈がはしる。なかでも北部のタトラ山地には、スロバキアの最高峰ゲルラホフスキーシュティート(ゲルラホフカ山。2655m)がある。東部の低地はハンガリー平原につづく。南西部に平地があり、バー川、フロン川などの河川がながれてドナウ川に流入する。ドナウ川は南のハンガリーとの国境の一部をなしている。ドナウ川に合流するモラバ川は、西のチェコやオーストリアとの国境を形成する。多くの温泉があり、観光客をひきつけている。

1. 気候

気候は大陸性で、夏は暖かく、冬は寒くなる。カルパティア山脈一帯では、冬の寒さはきびしく雨量も多い。東部の低地は、夏が暑いことと雨が少ないことが特徴である。

国土の39.4%(2005年)が森林におおわれている。もっとも多い森林樹木はトウヒとモミで、とくに高地に多い。標高があまり高くない土地では、カシ、トネリコ、カエデなどの混合樹林が顕著となる。低地では、クローバー、ヨシ、エニシダが繁茂している。

2. 動植物と天然資源

野生動物は、環境汚染や森林伐採で希少になりつつある。オオカミ、ヒグマ、イノシシ、ヤマネコ、ワシ類、シャモア、キツネがカルパティア山中に生息している。ハイイロガンやミサゴ、ウ、サギなどの水鳥は低地の沼地や河川一帯にみられる。

南西部には肥沃(ひよく)な土地があるが、カルパティア山脈は土地がやせているうえに多くの石がまじっている。山間地の土壌はうすく、耕作にはむかない。地下資源では石炭、とりわけ褐炭や亜炭が豊富で、収益性の高い資源である。しかし石炭の消費がふえて大気汚染や水質汚濁がすすみ、住民の健康に悪影響をおよぼすようになったため、1993年、政府は環境法を制定した。石炭を使用する工場や火力発電所から大気中にはきだされる大量の二酸化硫黄や二酸化窒素は、中央ヨーロッパに酸性雨がふる原因となっている。

III. 住民
1. 言語と宗教

スロバキア人はスラブ系(スラブ人)の民族で、人口の約86%を占め、その大半がローマ・カトリックを主とするキリスト教徒である。公用語のスロバキア語はインド・ヨーロッパ語族の西スラブ語派に属し、チェコ語との違いはわずかしかない。国内には57万人のハンガリー人(人口の約11%)のほか、少数民族としてロム(ジプシー)、チェコ人、ポーランド人、ドイツ人、ロシア人、ウクライナ人が居住する。

2. 行政区分と主要都市

スロバキアは行政的には、バンスカビストリツァ、ブラチスラバ、コシツェ、ニトラ、プレショフ、トレンチーン、トルナバ、ジリナの8つの州にわかれる。

主要都市は首都ブラチスラバ(人口42万5000人(2003年推計))のほかに、コシツェ、プレショフ、ニトラ、バンスカビストリツァなどがある。

IV. 経済

チェコスロバキアから2つの共和国への移行を円滑にすすめるために、チェコとスロバキア両政府は共通通貨、関税同盟、国境の開放に同意した。関税同盟と国境の開放は実施されたが、分離独立後まもない1993年2月8日、両国は別々の通貨を使用しはじめた。独立当初はチェコに依存した経済構造で、また、チェコにくらべて市場経済化に熱心でなく、多くの部分が国家の統制下にあるという状況から、経済の悪化が予想されたが、対先進国貿易の拡大が景気を好転させ、94年から98年まで高い経済成長がつづいた。

しかし、財政赤字の拡大が顕在化し、銀行の不良債権も明るみに出た1998年後半に経済成長はおちこんだ。99年から財政赤字削減、銀行の民営化など市場経済化が積極的にすすめられ、2000年以降、経済は徐々にたちなおりつつある。

スロバキアはチェコとの分離後、自動的にIMF(国際通貨基金)とEBRD(ヨーロッパ復興開発銀行)への加入がみとめられたが、2000年12月にOECD(経済協力開発機構)にも加盟、EU(ヨーロッパ連合)へは04年5月に加盟した。

1. 工業と農業

独立以前、スロバキアは連邦予算の10分の1、GDP(国内総生産)の4分の1を占めたにすぎなかった。その理由のひとつは、スロバキアの工業化のはじまりが1948年以降とおくれたことである。工業化をソビエト連邦と東ヨーロッパ諸国に依存していたため、80年代末から90年代初頭のこれらの国の崩壊や体制転換から大きな打撃をうけた。しかし、90年代末からの資本市場の改革によって外国からの投資が拡大、とりわけ、大手自動車の進出が顕著となった。

主要な工業は、機械、化学、繊維、衣料、ガラス、建設、自動車である。農業では、穀物、テンサイ、ジャガイモ、野菜類の生産と畜産などがおこなわれている。貿易、サービス業、鉱業も重要である。鉱産物は、亜炭、褐炭、鉛、亜鉛、銅、鉄鉱石、マグネシウムが採掘される。

2. エネルギー

主要なエネルギー源は水力発電である。しかし、この電源開発が環境問題と国際問題をひきおこしている。ガブチーコボ・ダムの建設は、チェコスロバキア時代の1978年にハンガリーとの共同事業として着手され、ドナウ川に2つのダムと迂回路(うかいろ)を建設するというプロジェクトだった。89年にハンガリーが環境への配慮からプロジェクトからおりたが、チェコスロバキアは開発をすすめた。その結果、ドナウ川の水はスロバキア領内にひかれて川の水位が低下し、船舶の航行に困難が生じるようになった。

この問題はハンガリーとの対立を生み、1993年4月、国際司法裁判所にゆだねられることになった。95年1月、スロバキアはガブチーコボ・ダムのおよぼす下流域への影響をやわらげるため、放水量をふやすことに同意した。

V. 政治

1992年9月に採択され、93年1月の独立とともに発効した新憲法は、スロバキアを議会制民主主義国家と規定している。国家元首は大統領で、任期は5年、当初は議会によって選出される間接選挙制だったが、99年に直接選挙制となった。首相は大統領によって任命される。

立法権は一院制の国民議会が有する。国民議会は定員150名で、比例代表の直接選挙でえらばれる。議席をえるには、得票率5%以上が必要である。任期は4年。司法制度は最高裁判所の下に郡裁判所、地方裁判所をもつほか、憲法裁判所がある。

スロバキアは2万195人の兵力をもつ(2004年)。18歳以上の男性に兵役義務があったが、2006年から募集制に移行した。

VI. 歴史

スロバキア人は、1918年まで独立国家をもたなかった。10世紀初頭にマジャール人の支配下に入って以来1000年間、政治的・文化的発展はさまたげられ、小作農としてくらしてきた。

1. チェコスロバキア時代

第1次世界大戦中、チェコ民族主義の指導者だったマサリクとベネシュは、ミラン・シュテファーニクなどスロバキアの指導者や連合国の支持をえて、チェコスロバキア共和国臨時政府を樹立した。そして、大戦直後の1918年10月28日、プラハでチェコスロバキア共和国の建国が宣言された。この新興の共和国は、ボヘミア、モラビアとシロンスクの一部からなるチェコと、スロバキアから構成された。

両世界大戦間期には民主主義が定着し、チェコスロバキアはヨーロッパでも有数の工業国となった。しかし、ナチス・ドイツの領土拡張主義が繁栄をうばっていった。1938年のミュンヘン協定により、イギリス、フランス、イタリア3カ国の外相は、チェコにズデーテン地方のドイツへの割譲をみとめさせた。翌39年、ナチスはチェコの残りの領土も占領した。かねてから自治要求の気運が高まっていたスロバキアは、同年チェコからの分離独立を宣言、形だけの独立をたもちながらドイツの保護国となり、親ナチスの国家がつくられた。

1945年のヒトラーの死と第2次世界大戦の終結によって、チェコスロバキアのほとんどの領土は返還された。ただし、東部のルテニア地域はソ連に割譲された。スロバキアはふたたびチェコとの統一国家を再建した。46年の選挙では共産党が得票総数の38%を獲得、48年には共産党政権が成立し、以後89年までソ連の指導をうけながらこの国を支配した。68年、スロバキア出身のドゥプチェクらがおしすすめた自由化への改革「プラハの春」がソ連によって武力でおしつぶされたのち、スロバキアはチェコから経済的援助をうけるようになった。

2. 共産党政権の崩壊

1980年代、ソ連と東ヨーロッパをおそった民主化の波が強まるにつれて、チェコスロバキア共産党の強硬派も改革の流れをせきとめることができなくなった。89年11月、大規模なデモに屈して共産党指導者が退陣した。チェコスロバキア政府は、バーツラフ・ハベルひきいる反体制派の民主化グループ「市民フォーラム」と交渉を開始した。同年12月、スロバキア人のマリアン・チャルファが首相に就任し、新政権が発足。連邦議会はドゥプチェクを連邦議会議長に、ハベルを大統領に選出した。

1990年4月、連邦議会は国名に両共和国の平等性が反映されることをもとめるスロバキアの主張をうけいれ、国名を「チェコとスロバキア連邦共和国」に決定した。90年6月の選挙は46年以降はじめての自由選挙で、市民フォーラムとその提携団体、スロバキアの「暴力に反対する大衆」が多数を占めた。ハベルは2年間の任期で大統領に再選され、チャルファに連立政権の樹立を要請した。

3. 連邦の解体

その後の2年間の経済改革は、スロバキアよりもチェコに有利にはたらいた。こうした経済状況とスロバキア人の自立への要求が連邦政府内で大きな政治問題となっていった。両共和国政府に対する連邦政府の権限について議論が重ねられたが、連邦議会が提示した妥協案は実をむすばず、1992年6月の選挙結果はチェコとスロバキアのいっそうの乖離(かいり)をしめすものとなった。スロバキア人ウラジミール・メチアルひきいる民族主義的で独立支持派の民主スロバキア運動と、チェコ人バーツラフ・クラウスひきいる市民民主党が議会の二大政党として台頭し、両指導者はそれぞれの共和国で首相に就任した。

チェコが自由市場への急速な改革をのぞんだのに対して、スロバキアはさほど改革をいそがず、社会主義経済の特質ものこした。スロバキアの独立志向が強まる中、1992年7月の大統領選挙でスロバキア人議員は不信任によってハベル大統領の3選をはばんだ。同月、スロバキア議会は113対24の大差でスロバキア共和国の主権宣言を採択したが、ハンガリー系少数派はこれに反対した。

1992年秋、チェコとスロバキアは連邦解消の詳細に関する交渉を開始し、同年11月、連邦議会は12月31日をもってチェコスロバキアを解体することを決定した。ただし、当時の世論調査によると、市民の過半数が連邦解体に反対であった。

4. 新国家スロバキア

1993年1月1日、チェコとスロバキアは別々の共和国として独立した。スロバキア国民は首都ブラチスラバで建国をいわったが、1月末、メチアル政権はメディアの統制を強化しはじめた。2月15日、スロバキア議会はミハル・コバーチを新共和国の初代大統領に選出した。与党の民主スロバキア運動党員であるコバーチは、強権的なメチアルと意見を異にし、両者の対立はしだいに激化していった。

スロバキアは、国内に民族問題をかかえていた。それは、少数民族であるハンガリー系住民の扱いである。彼らの多くが差別に抗議し、教育と文化における自立性を要求した。1994年初め、スロバキアは西ヨーロッパ諸国との「平和のためのパートナーシップ」協定に調印したが、これはNATO(北大西洋条約機構)加盟への布石であった。

1994年3月、国営企業の民営化基金を民主スロバキア運動の政治資金に流用したという疑惑のため、メチアルは首相の地位をおわれ、かわってヨセフ・モラフチクが首相に指名された。9月におこなわれた総選挙では、ふたたびメチアルひきいる民主スロバキア運動が投票総数の3分の1をえて勝利したが、これは政権の獲得をめざすスロバキア国民党の支持のためであった。しかし、この2つの政党は過半数を占めるまでにはいたらず、11月にスロバキア労働者連盟がくわわったのち、12月にメチアル新政権が発足した。

しかし、メチアル首相とコバーチ大統領の対立が深刻化し、1995年5月にはメチアル首相が議会に大統領不信任案を提出するという事態に発展した。不信任案は否決されたものの、内政は依然として不安定な状態がつづき、98年2月と3月にコバーチ大統領の任期満了にともなう大統領選挙がおこなわれたが、メチアル首相ひきいる最大与党が候補を出さなかったため2度とも必要得票に達した候補がなく、後任の大統領がきまらないという異常事態となった。

1995年8月には大統領の2男誘拐という、情報機関の関与がうたがわれる不可解な事件がおき、民主化の度合いがふじゅうぶんとの欧米諸国の批判をひきおこした。このため、経済は94年にプラス成長に転じて以来、ポーランド、チェコ、ハンガリーをしのぐほどの高成長を維持しているにもかかわらず、NATO加盟問題では不利な立場におちいった。97年5月には東欧諸国でははじめてNATO加盟の是非を問う国民投票がおこなわれたが、大統領直接選挙制の導入の是非を同時に問うべきかどうかをめぐって対立が生じ、国民投票そのものが不成立におわった。こうした国政の混乱と民主化の遅れが災いして、NATO、EUとも加盟第1陣からはずれ、チェコに大きく後れをとることになった。

1998年9月、国民議会選挙がおこなわれ、民主スロバキア運動は第1党であったが友党とあわせても過半数に達せず、野党のスロバキア民主連合、民主左派党、ハンガリー人連立党、市民協調党の4党連合が過半数を獲得した。10月、4党による連立政権が発足し、首相にはスロバキア民主連合議長ミクラシュ・ズリンダが就任した。ハンガリー系閣僚もくわわった。99年1月、議会は大統領を直接選挙制とする憲法改正案を可決し、5月、初の直接選挙による大統領選挙がおこなわれた。与党4党連合の統一候補で市民理解党議長ルドルフ・シュステル前コシツェ市長が、決選投票で前首相メチアルをやぶって当選した。

ズリンダ政権は、NATO加盟にむけて積極外交をすすめ、前政権がロシアとむすんだミサイル購入契約を破棄するとともに、1999年9月、クリントン米大統領と会談しNATO加盟の希望をつたえた。11月、チェコとの間で懸案となっていたチェコ国有銀行株とスロバキア国有銀行株との交換を実現し、民営化に道を開いた。また、失業率が上昇するなど経済が退潮する中で、外資の導入を促進することで経済の活性化をはかった。こうした努力の結果、12月のEU首脳会議で加盟対象国にえらばれた。

ズリンダ政権は、前政権がとっていたハンガリー系住民に対する差別政策をあらためて融和政策を鮮明にし、隣国ハンガリーとの友好関係の樹立をめざした。1999年9月には、ハンガリーのオルバン首相との間で、第2次世界大戦中ドイツ軍に破壊されたドナウ川の橋梁(きょうりょう)の再建築を合意した。しかし、オルバン政権は周辺国に居住するハンガリー系住民を優遇する「民族地位法」を制定、2001年1月に同法が発効するなりスロバキア在住のハンガリー系住民に適用したことから、両国の関係はふたたび緊張した。

5. NATO、EUへの加盟

2002年9月の総選挙でも、民主スロバキア運動が第1党となったが、新党のスロバキア民主キリスト教連合(スロバキア民主連合が母体)、ハンガリー人連立党、キリスト教民主運動、新市民連合が過半数を制し、4党連立による第2次ズリンダ政権が発足した。

この年の11月に、NATOがバルト三国など中・東欧7カ国の新規加盟を、12月にはEUが10カ国の加盟を決定、スロバキアもその中にふくまれた。EU加盟の是非を問う国民投票は2003年5月におこなわれ、90%以上の賛成で承認された。ただし、投票率は成立に必要な50%をわずかにうわまわる52%であった。その結果、04年3月にNATO、5月にEUへの正式加盟が実現した。

2004年4月におこなわれた大統領選挙は、シュステル大統領、メチアル前首相、民族派野党の「民主運動」党首イバン・ガシュパロビッチら11人が立候補したが、決選投票の末、ガシュパロビッチが当選した。EU加盟に懐疑的なメチアルが決選投票でやぶれたことにより、ズリンダ首相との対立はさけられることになった。

2006年6月におこなわれた総選挙は、ズリンダ政権が8年間すすめてきた市場経済政策や、アメリカに協力してイラクへ派兵したことなどが問われるものとなった。結果は、高い経済成長率を実現したが貧富の差が拡大したとして、税率一本化の廃止や社会保障の拡大、イラク駐留部隊の撤退などを主張した野党の中道左派、スメル(道標)が第1党となった。ズリンダ首相のスロバキア民主キリスト教連合は、与党内の政治腐敗やスキャンダルも影響し第2党にとどまった。

過半数には達しなかったスメルは、2006年7月に、メチアル元首相ひきいる民主スロバキア運動と極右の国民党との連立政権を樹立、首相にはスメル党首のロベルト・フィツォが就任した。

6. 日本との関係

日本との関係は、旧チェコスロバキア時代から良好であり、官民両レベルで交流が活発化している。日本は、1993年1月1日のスロバキア独立と同時に同国を承認し、同年2月には両国間に外交関係が樹立された。2002年1月には在スロバキア日本大使館が開館した。同年3月から短期旅行者の査証相互免除も実施され、日本からの観光客もふえている。1997年3月にメチアル首相、98年2月にコバーチ大統領が来日しており、日本側からは2000年10月に紀宮清子内親王が公式訪問した。