| 検索ビュー | モーツァルト,W.A. | 項目ビュー |
| I. | プロローグ |
1756~91 ハイドンとならんで古典派を代表する、オーストリアの作曲家。幅ひろいジャンルに、すぐれた作品を数多くのこした。その比類ない才能は、ことに室内楽曲、協奏曲、交響曲に発揮され、オペラでは、個性豊かな劇的世界をきずきあげた。没後200年をへてなお、その作品群は世界じゅうの人々に愛されつづけている。
モーツァルトは、他の分野でもこれまでさまざまなかたちで作品のテーマにとりあげられてきた。なかでもよく知られているのは、1984年に封切られた映画「アマデウス」である。これはウィーン時代のモーツァルトと、ライバル音楽家サリエリの毒殺説をテーマにした映画で、全世界で大ヒットし、アカデミー賞も受賞している。冒頭の強く心にうったえかける音楽は、交響曲第25番で、モーツァルトが17歳のときに書いた最初の短調交響曲である。
没後200年にあたる1991年には、生地ザルツブルクはじめ各地で多彩なイベントが盛大にもよおされた。1955年(生誕200年の前年)に刊行がはじめられた「新モーツァルト全集」の本体も、91年に完結している。
生誕240年にあたる1996年1月27日、ザルツブルクにある「モーツァルトの住家」復元事業が7年をへて完成をみた。モーツァルトは17~24歳の足かけ8年間を父、母、姉とここにすみ、全作品のおよそ3分の1にあたる約200曲を書いたといわれている。
| II. | 生涯 |
1756年1月27日、カトリックの大司教領の首都ザルツブルクに生まれる。3歳のころ、ピアノで3度の音程をならしてあそぶなど、才能の片鱗をみせはじめた。バイオリニスト・作曲家で、大司教につかえる宮廷音楽家だった父レオポルトは、息子が4歳になったころから音楽のレッスンをはじめた。おさなかったため、あそびながらのレッスンだったが、メヌエットなら30分、小曲なら1時間で修得し、ひきこなしたという。モーツァルトには、5歳年上の姉マリア・アンナ(ナンネルル)がいた。ナンネルルもまたゆたかな楽才にめぐまれ、父からピアノのレッスンをうけている。
| 1. | 神童の出現 |
1761年1月末ごろ、5歳になったばかりのモーツァルトは、はやくも作曲をはじめている。「アンダンテ・ハ長調」などピアノ小曲4曲がそのころの作品で、ピアノをならっている最中に即興的にひいたものを、父がレッスン用の楽譜帳に書きとめたといわれる。翌62年初めに、父レオポルトは娘と息子をつれてミュンヘン旅行を、ついで同年秋に一家で第1回ウィーン旅行をおこない、息子の神童ぶりを披露した。6歳の誕生日を目前にしたこのときから19歳にいたるまで、父は毎年のようにヨーロッパ各地の宮廷をたずねる旅に息子をつれあるき、さまざまな音楽様式にふれさせた。こうした体験は少年モーツァルトに音楽家としての成長をうながしたが、反面、身体の健全な発育をさまたげたともいわれている。
1763~66年、一家全員でヨーロッパ西方へ長期の旅行にでかけ、ロンドンで大バッハの末子クリスティアンの影響をうけるいっぽう、オランダで大病をわずらう。67~69年1月の一家の第2回ウィーン旅行では「孤児院ミサ」、ジングシュピール(せりふ入りのドイツ語オペラ)「バスティアンとバスティエンヌ」など佳作を生みだしたものの、姉とともに天然痘にかかる災難にあった。
1769年、13歳で宮廷楽団の無給のコンサートマスターに就任。同年暮れに父と第1回イタリア旅行に出発し、同地で音楽家としてはオルランド・ディ・ラッソ以来約200年ぶりに黄金の軍騎士勲章をローマ法王から授与されるなどの歓迎をうける。70年4月中旬におとずれたローマでは、バチカン宮殿のシスティナ礼拝堂の中だけで演奏される門外不出の二重合唱曲「ミゼレーレ」をきき、記憶だけで正確に譜面に再現して人々をおどろかせた。「ミゼレーレ」は、グレゴリオ・アレグリの作品で、5声の第1合唱と4声の第2合唱が交互にうたいつがれ、最後の1節は9声の合唱でしめくくられる、という複雑な大曲である。
1770年7月、ボローニャでオペラ「ポントの王ミトリダーテ」の作曲に着手し、10月、自身の指揮によりミラノで初演。大成功をおさめて名声を不動のものにする。このときモーツァルトは14歳だった。1771年、オペラ「アルバのアスカーニョ」を上演するため、父と第2回イタリア旅行に、72年にはオペラ「ルーチョ・シッラ」上演のため父と第3回イタリア旅行にでかけた。
| 2. | 失恋と屈辱と |
第2回、第3回のイタリア旅行の間に新司教コロレードが着任し、モーツァルトは有給の宮廷楽団コンサートマスターに就任する。1773年に父と第3回ウィーン旅行をし、74~75年には父とミュンヘンにおもむいた。この間の73~74年に、ザルツブルクでモーツァルト10代の交響曲の傑作、交響曲第24番、第25番、第29番を作曲する。同地での音楽事情と司教に対して多くの不満をもっていたモーツァルトは職を辞し、77年9月、よりめぐまれた音楽的環境と報酬をもとめて母マリア・アンナとともに、マンハイム・パリ旅行に出発した。
この旅の途中、父の生まれ故郷アウクスブルクにたちより、いとこのマリア・アンナ・テークラと親密になった。モーツァルトは彼女をベーズレ(いとこちゃん)とよび、アウクスブルクを去ったのち、卑猥な冗談をふくむ名高い「ベーズレ書簡」をのこしている。なお、モーツァルトは、このほかに父や友人にあてて数多くの手紙を書きのこしており、暮らしぶりや作曲の過程など、ありのままの彼の姿を知る格好の手掛かりとなっている。
当時ヨーロッパ随一の音楽の都だったマンハイムでは、宮廷音楽家たちの形成するマンハイム楽派から大きな影響をうけた。1778年3月、パリにうつり、「フルートとハープのための協奏曲」、バレエ音楽「レ・プティ・リアン」など軽快で優美なギャラントスタイルの作品を数点書いたのち、79年1月に帰郷。2年余りにおよんだこのマンハイム・パリ旅行は、就職運動の失敗、パリでの母の死(1778年7月)、深い愛情をいだいたソプラノ歌手アロイジア・ウェーバーへの失恋など不運が重なったが、音楽面では多くの収穫をあげた。ザルツブルクでは宮廷オルガニストとして復職し、「戴冠式ミサ」「ポストホルン・セレナード」を作曲している。
1780年11月、ミュンヘン宮廷にまねかれて同地におもむき、イタリア語のオペラ「クレタの王イドメネオ」をしあげる。翌81年1月末に上演して好評を博したが、ザルツブルク大司教コロレードからウィーンによびだされ、職務怠慢をきびしく叱責(しっせき)される。このとき、大司教の従臣に足げにされるという屈辱をなめた。これを機に、モーツァルトはザルツブルクとの決別とウィーン定住を決意した。
| 3. | ウィーン時代―傑作の誕生 |
ウィーンで定職のなかったモーツァルトは借家にすみ、音楽教師と演奏会の収入で家計をささえながら、独立した音楽家として活動をはじめる。1782年、ジングシュピール「後宮からの誘拐」を作曲。同年、父の反対をおしきって、失恋相手アロイジア・ウェーバーの妹コンスタンツェと結婚した。84年には、演奏活動を活発におこなう。同年、フリーメーソンに加盟。
このウィーン時代の活動はめざましく、3大オペラ(「フィガロの結婚」1786、「ドン・ジョバンニ」1787、「魔笛」1791)、3大交響曲(第39番、40番、41番「ジュピター」いずれも1788)、通称「ハイドン・セット」の弦楽四重奏曲6曲(1782~85)、ニ長調「戴冠式」(1788)など17曲のピアノ協奏曲、弦楽セレナード「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」(1787)等々、不朽の傑作が洪水のように生みだされた。
この間の1787年4月、モーツァルトは、ウィーンをおとずれた16歳のベートーベンとであっている。ベートーベンの演奏を自宅できいた彼は、少年のまれにみる才能の未来を予言したとつたえられる。
その後、作品の充実と円熟に反比例するように、ウィーンでのモーツァルトの人気は下火となっていった。1787年ごろからモーツァルト家の経済状態は悪化しはじめ、さらに数々の不幸が彼をおそった。83~91年にかけてコンスタンツェとの間に生まれた子供は、6人のうち4人までが早世し、87年5月には父がザルツブルクで死去した。モーツァルト自身も過労から健康をそこねている。
「魔笛」作曲中の1791年7月、灰色の服をまとった不気味な男から、依頼主の名を知らされないまま「レクイエム」作曲の注文をうけた。現在では依頼主は、音楽愛好家のワルゼック・シュトゥパッハ伯爵と判明している。病とたたかいながら「レクイエム」を半ばまで作曲したところで力尽き、12月5日、35歳で世を去った。遺体はウィーン市門外の聖マルクス墓地に埋葬された。死因には憶測がとびかい、ライバルのイタリア人作曲家アントニオ・サリエリが毒をもったとの噂(うわさ)もながれたが、研究家はこの説を否定している。
| III. | 作風 |
モーツァルトの音楽には、優美で明快なメロディをとうとぶイタリア趣味と、形式の洗練と対位法上の工夫を重んじたドイツ趣味の結合がみられる。簡潔・明快・均整を旨とした18世紀古典派様式を端的に表現しながら、きく者の心をゆりうごかす19世紀的傾向も先取りしていた。時代に先んじたモーツァルトの特質は、独奏楽器とオーケストラが劇的なコントラストをえがく協奏曲や、状況の変化に対して登場人物が対照的な反応をみせるオペラによくうかがえる。彼のオペラは、斬新な書法によって声と楽器との融合が達成されている。とくに際だっているのは、音楽によって登場人物の性格表現が精緻になされている点と、大規模なアンサンブルが効果的に活用されている点である。
| IV. | 没後の再評価 |
没後、モーツァルト再評価の機運が高まり、オーストリアのモーツァルト研究家ルートウィヒ・フォン・ケッヘルが作品目録(1862)を作成して、全作品にケッヘル番号とよばれる通し番号(略号K.またはKV.)をふった。現行の作品表では第6版(1964)の、K6がつかわれている。生地ザルツブルクには1841年、モーツァルト研究の助成と作品演奏の奨励を目的とする国際モーツァルテウム財団が設立された。翌42年にはザルツブルクにモーツァルト像がたてられ、除幕式の祝典には、モーツァルトの2人の息子が参加した。
1920年には、リヒャルト・シュトラウス、詩人ホフマンスタールらの提唱によりザルツブルク音楽祭がはじめられた。毎年夏におこなわれるこの催しは、今日なお、世界じゅうから聴衆をあつめている。日本にも、1955年にモーツァルト協会が設立された。