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ルネサンス美術
I. プロローグ

15~16世紀のルネサンス期にイタリアを中心にヨーロッパで展開された美術をいう。「ルネサンス」は、「再生」を意味するイタリア語「リナッシタ」に由来するフランス語である。ルネサンス様式には2つの特徴がある。ひとつは、古代ギリシャ・ローマ人がつくりあげた古典様式の復興。もうひとつは、現世の生活や人間に対して強い関心をもち、個人の価値を強調したことである。ルネサンスの時代は、自然や世界に対する関心が増大しはじめたヨーロッパの大航海時代でもあった。アジアへの新航路を切り開き、アメリカ大陸に到達して植民活動をした。画家、彫刻家、建築家も同じような探求心、知識欲にかられていた。レオナルド・ダ・ビンチはコロンブス同様、まったく新しい世界に到達したのである。

ルネサンス期になると、芸術家は中世とちがって、たんなる職人ではなく、詩人や著述家とならび称されるようになる。そして新しい表現をこころみたり、科学的な実験に没頭したりした。絵画や浮彫では、事物を相対的、合理的に表現する線遠近法(遠近法)を生みだした。絵画は現実世界への窓とみなされ、現実世界を作品に表現することが画家の仕事となった。画家はそれまで以上に風景表現に力をそそぎ、樹木や花、遠くの山、雲のうかぶ空などを丹念にえがきはじめた。戸外の光の効果や、さまざまな事物を目がいかに知覚するかを研究した。徐々に輪郭と色彩をぼかして、遠くはなれた事物を表現する空気遠近法をももちいた。とくにフランドルやオランダなどの北方の画家たちは、風景表現を盛んにおこない、イタリアの画家に油絵という新しい技法をつたえた。

肖像画も15世紀半ばにひとつのジャンルとして発展した。ルネサンスの画家たちは、古代神話や聖書から題材をとった歴史画、物語絵に腕をふるい、さまざまなポーズをとる老若男女を表現した。

芸術上のルネサンスは、人文主義の発展とも一致していた。学者たちは古代の哲学書を研究、翻訳し、ラテン語をこのんでもちいた。

II. イタリア・ルネサンス

ルネサンスは、古代ギリシャ・ローマの伝統の強いイタリアからはじまった。イタリアのたいていの町には古代ローマの建築があり、浮彫をほどこした大理石の石棺など、古代ローマの彫刻が、何世紀にもわたってしたしまれてきたからである。

1. 初期ルネサンス彫刻

15世紀の初めに新しいルネサンス様式を創始したのは、金銀細工師から出発した3人のフィレンツェ人の彫刻家だった。

線遠近法を考案したブルネレスキは彫刻も手がけたが、最終的には建築家になった。フィレンツェ大聖堂(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)の巨大な八角形のドーム(1436年完成)を建設した。このドームは、古代ローマ以来もっともすぐれた技術と高い芸術性をそなえた建築のひとつである。ローマで研究した古代の柱の形式をもちい、ルネサンス建築に特有の新しい内部空間をつくりあげた。

ギベルティはフィレンツェ洗礼堂の第2門と第3門の扉にほどこした浮彫でよく知られている。これは金めっきをしたブロンズ製で、第3門の扉には旧約聖書の物語があらわされ、ミケランジェロによって「天国の門」にふさわしいと賞賛された。

フィレンツェ人のドナテロは広く各地をめぐり、ベネツィア、パドバ、ナポリ、ローマでも制作し、フィレンツェの革新的な作風をイタリア各地にもたらした。代表作のひとつに、ゴリアテの首を足でふみつけている旧約聖書の英雄「ダビデ」像(1430?~35)がある。これはどの角度からでも見られるように構想されたほぼ等身大のブロンズ像で、古代以来初めての裸体像である。またフィレンツェ大聖堂のためにつくられた大理石の「カントリア」(1443?~48)では、プットとよばれる裸体の童子たちが大勢でおどる姿をあらわしている。ドナテロは素材にテラコッタや木ももちい、ブルネレスキの遠近法を浮彫に応用した。聖人像を数多く手がけ、豊かで威厳のある表現によって、その後100年にわたって彫刻評価の基準となった。

2. 初期ルネサンス絵画

新しい様式をもちいた最初の画家はマサッチョである。おしくも27歳で夭折(ようせつ)したが、芸術の歴史に決定的な影響をあたえた。フィレンツェのサンタ・マリア・デル・カルミネ教会ブランカッチ礼拝堂にえがいたフレスコ画連作「聖ペテロの生涯」(1427?)では、線遠近法と空気遠近法をともにもちいている。その中でもっとも有名な「貢(みつぎ)の銭」では、堂々とした威厳のあるキリスト像と使徒像を新しい感覚でえがいた。ブランカッチ礼拝堂は画家たちにとっての修業の場となり、ミケランジェロもマサッチョのえがいた人物像を模写している。フィレンツェのサンタ・マリア・ノベラ教会の壁画「三位一体」(1425?)では、ブルネレスキの線遠近法を利用して、礼拝堂の内部空間をはじめて立体的にえがいた。

ウッチェロは、線遠近法の可能性に強い関心をいだき、1440年代にフィレンツェのメディチ宮のために制作した3枚の戦闘場面は、極端に奥行きをちぢめてえがかれている。フィレンツェ大聖堂にえがいた巨大な「ジョン・ホークウッド騎馬像」(1436)は、古代ローマ風のブロンズ製の騎馬像を模したものだった。

初期ルネサンスを代表するもうひとりの画家は、修道士のフラ・アンジェリコである。彼は活力にみちたルネサンス様式を繊細な色彩と描法によって洗練されたものにし、独自のスタイルをつくりあげた。1430~40年代には、フィレンツェのサン・マルコ修道院のドミニコ修道士の僧房に壁画をえがいている。

イタリアのルネサンス美術をつねにリードしていたのはフィレンツェだったが、それ以外の地方でも重要な画家が輩出している。ベローナ出身のピサネロは、マントバのゴンザーガ家やフェッラーラのエステ家などが支配する公国のために制作した。マサッチョとくらべて抒情(じょじょう)的で華麗で、ひじょうに洗練された様式をつくりあげた。数多くのブロンズ製の肖像メダルを制作し、注文主の貴族から高い評価をうけた。

ベネツィア派絵画の創始者とされるヤコポ・ベリーニは、のちにフィレンツェ派の強力なライバルとなる。作品はほとんどのこっていないが、この時期のものとしては質、量ともに貴重な素描が多数ある。画家ジェンティーレ・ベリーニとジョバンニ・ベリーニの父親であり、マンテーニャの義父だった。

ルネサンス第1世代の画家には、ウンブリアが生んだ天才ピエロ・デラ・フランチェスカがいる。彼は遠近法と数学についての著書もある。アレッツォにあるサン・フランチェスコ聖堂内陣の壁画連作「聖十字架伝説」(1453?~54)の構図は、幾何学的で綿密に計算されており、マサッチョの様式をさらに抽象的で超然としたものにしている。ふつう板絵にもちいられるテンペラを、フランドルの画家たちからまなんだ油絵具と併用した。

アルベルティは、あらゆる点で初期ルネサンス美術を代表する人物だった。人文主義者、ラテン語学者、著作家であり、絵画と彫刻の経験があり、創意豊かな建築家であった。家族がフィレンツェを追放されていたので、北イタリアで学問をおさめた。彼が設計したフィレンツェのサンタ・マリア・ノベラ聖堂ファサード(1458年完成)は、神殿のデザインを応用したもので、のちの建築に広く影響をあたえた。マントバでもサンタンドレア聖堂(1494)をはじめ、いくつかの教会を設計した。絵画論、彫刻論、建築論をあらわし、当時の芸術上の革新と古代芸術について論じ、新しい思想をイタリアだけでなく他の国々にも広めた。「絵画論」はブルネレスキ、ギベルティ、ドナテロ、ルカ・デラ・ロッビア、マサッチョにささげられている。

3. ルネサンス第2世代の芸術家たち

ルネサンス第2世代になると、空気遠近法、線遠近法の革新、風景表現、力強い人物像、緻密な構図がさらに発展し、洗練されていった。フィレンツェでは、ポライウオロやベロッキオなどの芸術家たちが、実際に人体の解剖学的研究をおこなった。ポライウオロは、傑作「聖セバスティアヌスの殉教」(1475)で筋肉表現の新しさをしめした。またローマ、サン・ピエトロ大聖堂にある教皇シクストゥス4世の墓(1484~93)とインノケンティウス8世の墓(1493~97)の墓碑彫刻をブロンズで制作している。

ポライウオロとベロッキオの探求は、ベロッキオの弟子レオナルド・ダ・ビンチにうけつがれる。レオナルドはあらゆる分野の仕事に手をそめ、その科学研究、芸術研究はルネサンスの中でもっとも重要なもののひとつとなった。

北イタリアの第2世代を代表する画家は、パドバのマンテーニャとベネツィアのジョバンニ・ベリーニである。マンテーニャは、ベローナとローマで短期間制作したほかは、ほとんどマントバを支配していたゴンザーガ家につかえた。代表作はパラッツォ・ドゥカーレ「夫妻の間」の壁画装飾(1465~74)で、壁や天井に戸外の景色をえがいて内部の空間に広がりをあたえ、部屋全体をひとつの絵にまとめあげた。この「トロンプ・ルイユ(だまし絵)」の方法は、このあと2世紀にわたり多くの壁画家にうけつがれ、とくにバロック期の教会や宮殿の天井装飾で盛んにもちいられた。

マンテーニャは、確かなデッサン力、巧みな立体表現、大胆な遠近法を駆使した厳格な様式をつくりあげ、義理の兄弟のジョバンニ・ベリーニに影響をあたえた。ベリーニはもっぱらベネツィアで制作し、セバスティアーノ・デル・ピオンボ、ジョルジョーネ、ティツィアーノなど次世代の重要な画家たちの師としても大きな影響をおよぼした。ベリーニは、明るく豊かで鮮やかな色彩をもちいて、のちのベネツィア派絵画の特徴をつくった。ベネツィア派の豊かな色彩感覚は、フィレンツェ派のデッサン重視と対比されることが多い。「サン・ジョッベ祭壇画」(1488)はベリーニの傑作のひとつである。鮮やかな色彩、柔和な輪郭、金地を背景にした物静かな人物像は、晩年の様式の典型となった。また風景描写の名手で、風景画はほどなくベネツィアの画家たちの得意とするところになった。ベリーニは木板にテンペラではなく、16世紀初めに広くつかわれるようになったキャンバスに油絵具をこのんでもちいた。

第2世代の画家でもうひとり重要なのは、フィレンツェを統治していたメディチ家に重用されたボッティチェリである。抒情的で装飾的な表現を特徴とし、ウフィツィ美術館にある「ビーナスの誕生」(1482年以後)と「春」(1478?)がよく知られている。前者では、古代の彫像をモデルにしたビーナス像が、青い海にうかんだ貝から誕生したところがえがかれている。ボッティチェリは、はっきりとした輪郭線をもちい、明暗法を最小限にとどめて優美な姿を表現した。

4. 盛期ルネサンスの芸術家たち

盛期ルネサンスはレオナルド・ダ・ビンチの登場によってはじまり、美術は崇高な表現にまで高められた。彼は1500年にミラノからフィレンツェにもどると、新たな絵画表現をこころみた。ちょうどそのとき、わかきミケランジェロが「ダビデ」像(1501~04)にとりかかっていた。ふつうダビデははげしい動きであらわされるが、ミケランジェロはゴリアテとたたかう直前の自制心を表現した。この大胆な表現は、フィレンツェだけでなく盛期ルネサンス美術のシンボルとなり、他の作品を評価するときの基準ともなった。それは、レオナルドが「最後の晩餐(ばんさん)」(1495~97)でキリストが裏切り者を予言した直後の使徒たちをえがいたのに似ている。盛期ルネサンスの芸術家たちは、瑣末(さまつ)なエピソードではなく、物語の本筋を表現しようとしたのである。

盛期ルネサンスの中心は、フィレンツェからローマへとうつっていった。教皇ユリウス2世は、一流の芸術家たちをよびよせ、その遠大な計画に従事させたのである。ウンブリア出身の建築家ブラマンテは、はじめは画家としてピエロ・デラ・フランチェスカの様式で制作していた。レオナルドのいたミラノに長く滞在したあとローマへうつり、サン・ピエトロ・イン・モントリオ修道院の中庭に円形の古代神殿を模してたてられたテンピェット(1502)などの建築を設計した。ラファエロの家(17世紀に破壊)をはじめとする邸宅の設計も手がけたが、代表作はローマ・カトリックの総本山サン・ピエトロ大聖堂の改築(1506?)である。ブラマンテは、ドームをのせた長さがひとしい十字の集中式プラン(平面図)で構想したが、最終的にはミケランジェロの手にゆだねられて設計は変更されている。

ブラマンテはシエナのペルッツィなど、のちのルネサンスの建築家にも強い影響をおよぼした。ペルッツィはローマのキジ家のために、ビラ・ファルネジーナ(1509~11)を設計している。

ウンブリア生まれの画家ラファエロも、ローマに魅せられたひとりである。ペルジーノの弟子をへて、フィレンツェでレオナルドとミケランジェロにまなび、盛期ルネサンス様式を身につけた。1508年にローマへいき、20年に没するまでそこにすんだ。ローマを代表する画家となって、多くの助手をかかえた工房を経営し、活発に活動した。

教皇ユリウス2世や貴族のすぐれた肖像画、祭壇画のほか、バチカン宮の4つの広間にフレスコ画(1508~17)をえがいた。代表作は「署名の間」の壁面にキリスト教の神学をえがいた「聖体の論議」である。この絵の下半分では聖職者たちが教義について議論し、上半分の大きな半円の中にはキリストと弟子たちがえがかれている。

向かい側の壁面には、古代哲学を表現した「アテネの学堂」がえがかれている。構図は水平方向に展開され、天界ではなく地上の世界がえがかれている。遠近法の消失点は画面中央のプラトンとアリストテレスの背後にあり、彼らの周りに古代の思想家たちが配されている。その多くは当時の芸術家たちの肖像としてあらわされている。同じ時期に、ミケランジェロはシスティナ礼拝堂の大壁画を制作し、わかきラファエロに影響をあたえた。

ベネツィア派の絵画はジョバンニ・ベリーニによって開花する。ジョルジョーネは柔らかな輪郭線と鮮やかな色彩によって、擬人化された謎(なぞ)のような主題をえがいて、詩的な作風をつくりあげた。もっとも有名な「嵐(テンペスタ)」(1505?)では、牧歌的な風景の中で赤ん坊に乳をあたえる女性と、それをみまもるわかくうつくしい男性、その上をおおう不穏な空がえがかれている。

ベリーニの弟子で、初期のジョルジョーネに影響をうけたティツィアーノは、ラファエロやミケランジェロに匹敵する、ベネツィアの盛期ルネサンスの中でもっとも才能のある画家である。寓意画の「聖愛と俗愛」(1515?)はもっとも評価の高い初期作品である。穏やかにすわる裸体(聖愛)と着衣(俗愛)の2人の女性によって、ジョルジョーネの神秘的な世界を想起させる。

「聖母被昇天」(1516~18)は、ベネツィアのサンタ・マリア・デイ・フラーリ聖堂の主祭壇のためにえがかれた巨大な油絵である。聖母マリアが使徒たちの頭上にまいあがり、半円形の上部にいる父なる神のほうへむかっているところがえがかれ、鮮やかな赤、金のようにかがやく黄色などの暖色が基調となっている。フェッラーラ公のためにえがいた「バッコスとアリアドネ」(1520~23)や「ビーナスへの捧(ささ)げ物」(1518~19)のような古代の神話画の表現にもひいでていた。

ティツィアーノは、神聖ローマ皇帝カール5世のために数多くの力作を制作し、貴族の位をえている。「カール5世騎馬像」(1548)をはじめ、ハプスブルク家の君主像をえがいている。この騎馬像は、その後2世紀にわたって肖像画の手本となった。老齢になっても、自由闊達な筆遣いと鮮やかな色彩で、堂々とした人物像やうつくしい風景をえがきつづけた。「茨(いばら)の冠」(1570?)では、光と色彩と絵具がないまぜとなって輪郭線をとかしこんでいるようにみえる。

盛期ルネサンスの画家では、ほかにエミリア地方出身のコレッジョがいる。1518年にパルマへうつり、生涯のほとんどをすごした。パルマ大聖堂とサン・ジョバンニ・エバンジェリスタ聖堂のために大壁画連作を制作している。ミケランジェロ、ラファエロ、ティツィアーノの影響がみとめられるので、ローマとベネツィアの様式を知っていたことがわかる。レオナルドの影響もみられるが、コレッジョは独自の作風をつくりあげている。巧みな短縮法、後期ルネサンス美術を先取りした反古典主義的なマニエリスム、銀色にかがやくうつくしい色彩、精神的、肉体的な恍惚(こうこつ)感の表現を特徴としている。神話画、肖像画、宗教画をこなし、パルマのサン・パオロ修道院では、女神ディアナとさまざまな寓意場面を壁画にえがいた。

5. マニエリスム―後期ルネサンス美術

ミケランジェロ、ティツィアーノ、ラファエロが力強い様式で制作する一方で、抒情的、装飾的な傾向をしめす画家たちも輩出した。彼らは古典主義からはなれてまったく思いもよらない方向へとすすみ、マニエリスムとよばれる新しい様式をつくりだした。

ポントルモは、フィレンツェでミケランジェロの影響をうけながら成長した。入念なデッサンにもとづく優美な様式、あわい人工的な色彩、細長い人物像の表現を特徴とし、ボッティチェリの作品を思いおこさせる。ポントルモとボッティチェリは平面的、装飾的な表現をこのんだ。代表作はフィレンツェのサンタ・フェリチタ教会の「十字架降下」(1526)で、画面にひしめく人物たちのポーズは解剖学的に不自然で、意表をつく色彩がもちいられている。彼はミケランジェロから影響をうけたものの、洗練された繊細な様式という点ではまったくことなっている。過敏な感受性は異常と紙一重であり、実生活でも非社交的だった。

フィレンツェ出身の画家ロッソ・フィオレンティーノは各地を旅行し、最後はフランソワ1世にまねかれてフランスで制作し、初期のフィレンツェ派マニエリスムをフォンテンブローの宮廷にもたらした。ボルテラにある「十字架降下」(1521)は、もっともすばらしい作品のひとつである。ポントルモの作品ほど画面は人物でこみあっていないが、構図は複雑で一目で把握するのがむずかしい。

1520年代になると、盛期ルネサンスの明快で威厳ある様式への反動で、画家たちは意識して反古典主義の傾向をしめすようになった。そのため入手しやすいアルプス以北の版画に目をつける画家もいた。ロッソの線的要素の強い様式は、当時イタリアで高く評価されていたドイツの版画からも影響をうけたものである。

わかい芸術家たちはミケランジェロ、ラファエロ、ティツィアーノののりこえられそうもない様式を否定し、それとはことなる芸術表現の方法をさがしはじめた。ロッソとポントルモのひじょうに独創的な個性は広く知られるようになった。1527年のローマ劫掠(ごうりゃく)をへて、30年ごろから16世紀末まで、イタリア美術はさまざまな方向に展開した。マニエリスム、あるいは後期ルネサンスの間、数多くのすぐれた芸術家があらゆる分野に輩出した。

建築家の中でもっとも影響力の大きかったのはパラディオである。出身地のビチェンツァで石工として仕事をはじめ、30歳をすぎてから建築家になった。代表作は、ベネツィア周辺のベネト地方にたてたいくつかの田園邸宅である。とくに重要なのは、ビチェンツァ近郊のビラ・アルメリコ(通称ロトンダ)、別名ビラ・カプラ(1550~51)である。ドームをいただき、四方に同じ形式の玄関があり、小高い丘の上にたてられている。玄関は神殿風の6本の柱と印象的な階段からなる。ロトンダは、18世紀のイギリスとアメリカの建築デザインに大きな影響をあたえた。これをパラディオ主義とよんでいる。ベネツィアのレデントーレ教会(1577年着工)のファサードにもちいた円柱と片蓋柱(かたふたばしら)は、17世紀に重用されるようになった。

サンソビーノは、パラディオより少し前に活躍したベネツィアの建築家である。フランスで彫刻をまなび、有名な大理石の「バッコス像」(1514?)をつくった。彼の設計したベネツィアのサン・マルコ図書館(1536~88)は、もっとも評価の高いルネサンス建築である。

これと似た構造をもっているのは、バザーリがメディチ家の政務のために設計したフィレンツェのウフィツィ(1560~80)で、現在は美術館になっている。バザーリは画家でもあり、ミケランジェロとラファエロの様式を折衷し、フィレンツェ大聖堂の巨大なドームの壁画装飾と市庁舎の改装も手がけた。イタリアの芸術家たちの伝記「芸術家列伝」(1550)をあらわしている。

チェリーニは後期ルネサンスを代表する彫刻家・工芸家のひとりで、波乱にみちた生涯は、「自叙伝」(1538~62)によってよく知られている。ロッソと同じくフォンテンブロー宮殿で制作した。代表作は、フィレンツェのロッジア・デイ・ランツィにおかれているブロンズの「ペルセウス像」(1545~54)である。裸体の英雄ペルセウスは、切りおとされた血だらけのメドゥーサの首を高々とあげて、フィレンツェ中心のシニョーリア広場をみわたしている。

ジョバンニ・ダ・ボローニャは、イタリアで活躍したフランドル出身の彫刻家・建築家である。ロッジア・デイ・ランツィにおかれている「サビニ女の略奪」(1583)は、渦巻状にからまりあった3人の裸体像によって構成されている。この彫刻は、ひとかたまりの大理石からほりだされ、はげしい動きがどの方向からもみることができる。

ポントルモの弟子のブロンツィーノは、マニエリスムのもっともすぐれた肖像画家で、メディチ家に重用された。人工的で硬質な造形と綿密な描写が特徴である。メランコリックな雰囲気をただよわす「エレオノーラ・ディ・トレドと息子の肖像」(1545?)では、肖像よりコジモ・デ・メディチの妻エレオノーラの豪華な衣装のほうが際だっている。

ベネツィアのマニエリスムの画家ティントレットは、ティツィアーノの豊かな色彩とミケランジェロの力強いデッサンをむすびつけようとした。視覚的効果、印象的な短縮法、独特の構図、巧みな光の表現など、油絵技法を縦横に駆使して数多くの大作をすばやくしあげた。これらの特徴は、ベネツィアのサン・ロッコ同信会館のためにえがいた56枚の巨大な作品にみごとにしめされている。

III. 北方ルネサンス

ドイツ、オランダ、イギリスなどアルプス以北のヨーロッパでは、後期ゴシック美術の典型的な特徴がのこっていたが、同時にイタリアに端を発するさまざまな発見や人間と世界に対する態度の変化もおこった。

15世紀の初期作品は、イタリアで制作されたものよりサイズがかなり小さい。ランブール兄弟による細密画「ベリー公のいとも豪華なる時祷(じとう)書」のように、ある程度の写実性と、当時のイタリアにはみられない細部描写が特徴である。また月暦図では、いちはやく細かな風景描写がなされている。

1. フランドル、オランダのルネサンス美術

北方ルネサンス絵画は、フランドルの画家ヤン・ファン・エイクによって創始された。ヤンはランブール兄弟の写実性とカンピンの光の表現を発展させ、高度な技巧をつかいこなして、同時代のイタリアの画家マサッチョに匹敵する存在だった。

「ヘントの祭壇画」(1432年完成)は観音開きの多翼祭壇画で、両扉の裏表に絵がえがかれ、扉をあけると中央に2段にわかれた板絵がはめこまれている。ヤンの兄フーベルトも制作にかかわっていた。祭壇画中央の下段には、天国をあらわす風景の中に大勢の人物をえがいた「子羊の礼拝」がある。上段にはローマ教皇の三重冠をつけた玉座の父なる神と、その両わきに聖母マリア、洗礼者ヨハネがえがかれている。ヤンは、この作品で目にみえる世界をするどく観察し、直観的に線遠近法を考案し、風景表現の一部に最小限の空気遠近法をもちいた。

また静物表現の重要性にも自覚的で、なんでもないような個々のモティーフを1つの体系的な意味にまとめあげた。ヤンをはじめとする15世紀の北方の画家たちの大部分は、同時代のイタリアの画家とことなり、古典古代とのつながりはなかった。

15世紀半ばのイタリア人は、ヤンをもっとも重要な画家とみなしていた。イタリアの銀行家の結婚式をえがいた「アルノルフィーニ夫妻」(1434)では、夫婦の背後の壁にかかった凸面鏡に画家自身の姿がうつり、鏡の上にはサインと日付が書かれている。この非凡な画家は理想化をしない、きわめて写実的な肖像画もえがいた。

フランドルのトゥルネー出身の画家ファン・デル・ウェイデンは、1450年にイタリアに旅行をし、作品はイタリアで高い評価をうけ、フェッラーラ派に影響をあたえたとつたえられる。ルーバンの同業者組合のために制作された代表作「十字架降下」(1439~43)では、顔の表情とよじった身体によって、当時のイタリア美術にはみられない悲しみの表現がされている。人物たちは絵の前面にすきまなく平面的にえがかれている。ヤン・ファン・エイクと同じく、モデルの感情を表現したすぐれた肖像画をえがいた。

次世代のフランドルの画家たちは、ヤン・ファン・エイクやファン・デル・ウェイデンの影響、あるいはその折衷様式をしめす絵画を大量に制作した。その中で最良の画家は、イタリア以外で最初に遠近法をもちいたバウツである。

ファン・デル・フースは、個人的で感情的な要素を宗教画の中にえがきこみ、ヤン・ファン・エイクとファン・デル・ウェイデンの特徴をむすびつけた。代表作「ポルティナリの祭壇画」(1476?)は、フィレンツェ人によって制作を依頼され、1480年ごろイタリアにはこばれた。この大画面の板絵は到着と同時に、緊張感ある表現によってフィレンツェの画家たちの間で大評判となった。彼らは地面にねかされた幼子キリストや静物の写実的な表現におどろいたにちがいない。

メムリンクはドイツで生まれたが、オランダとフランドルで絵の修業をおこない、生涯のほとんどをフランドルのブルッヘ(ブリュージュ)ですごした。とくに革新的な画家ではなかったが、熟練した腕前をもっていた。

ボスはきわめて独創的な画家で、フランドルの伝統的な絵画からほとんど影響をうけなかった。罪と贖罪を幻想的にあらわした「快楽の園」(1510~15?)では、現実にはありえない架空の世界がくり広げられ、天国、地獄、現世が奇怪なイメージでえがかれている。

こうしたボスの独創性はブリューゲルにうけつがれる。彼の版画連作「7つの罪源」(1557)の幻想的なイメージはボスから強い影響をうけている。ほかの画家たちがイタリア美術を模倣していたときに、ブリューゲルはオランダ、フランドルの様式を忠実にまもりつづけ、主題にことわざをとりあげたり、ユーモアのセンスのある風刺のきいた絵や版画を制作した。

オランダ、フランドルのマニエリストには、ベルナルト・ファン・オルレイ、ルーカス・ファン・レイデン、ヤン・ファン・スコレルなどがいた。彼らはミケランジェロとラファエロの作品を版画や実物をみて知っていた。またドイツの画家デューラーは、イタリアと古いオランダの様式をむすびつけるのに貢献した。

北方ルネサンスの彫刻家は、画家ほど革新的ではなく、それ以前のゴシック美術と強くつながっていた。建築様式もルネサンスの影響は少ないと考えられている。

2. フランス・ルネサンス美術

フランス人は、イタリアでおこった芸術上の革新を徐々にうけいれた。16世紀初めに、多くのイタリアの芸術家たちが国王フランソワ1世の宮廷で仕事をはじめ、ルネサンス様式がとりいれられた。1516年にフランソワ1世によってフランスにまねかれたレオナルド・ダ・ビンチはすでに老齢で、重要な作品を生みだす前に他界してしまった。フォンテンブロー宮殿で制作された作品がフランス・ルネサンス美術の中心となった。

3. ドイツ・ルネサンス美術

ドイツ美術はゴシック様式とのつながりが強かったが、多くの芸術家はそれを新しいルネサンス様式にうまく融合させていった。コンラート・ウィッツはその代表的な画家のひとりである。「湖の上を歩くキリスト」として知られる「奇跡の漁り」(1444)は、大祭壇画の一部で、アルプス山脈のようなスイスの景色がみごとにえがかれており、彼が最新のフランドル絵画を知っていたことがわかる。しかしドイツはイタリアの様式をすぐにはうけいれなかった。ドイツはこの時代に、書物の出版と版画の分野ですぐれた作品をのこしている。

ドイツをルネサンス美術の主流へとおしあげたのは、画家・版画家のデューラーである。神童とうたわれ、金銀細工師として修業しはじめ、ほどなく出身地のニュルンベルクで画家・版画家として独立する。彼の様式は「大受難連作」「小受難連作」「聖母の生涯」の3種類の大版画連作によってヨーロッパじゅうに広まった。遠近法に多大な関心をよせ、あらゆる知識を身につけ、1494年と1505~07年の2度にわたってイタリアをおとずれている。人文主義者や哲学者たちとしたしくまじわり、キリスト教の主題だけでなく寓意や古代神話から題材をとった版画も制作した。何度も旅行にでかけたが、1520~21年のフランドルとオランダへの旅行でつけた絵入りの日記がのこっている。

当時のイタリア人と同じく、デューラーも人間の気質論を信じ、「人体均衡論」4書(没後の1528年に出版)をあらわしている。直接古代の作品を研究したわけではなく、イタリア人の古代解釈を利用したが、裸体像の表現はあまり洗練されていない。「騎士と死神と悪魔」(1513)、「メレンコリアⅠ」(1514)などの版画にみられるように、当時これほど豊かな想像力をそなえた画家はいなかった。デューラーが肖像版画をのこした人文主義者のエラスムスは、前4世紀の有名なギリシャの画家になぞらえて、デューラーを「黒い線のアペレス」とよんで最高の賛辞をささげた。

デューラーの絵画にはしばしば多くのものがぎっしりとえがかれ、細部描写が豊かで鮮やかな色彩がもちいられている。「ランダウアー祭壇画」(1511)などがそのよい例である。彼の自画像は全作品の中でもとくに際だっている。晩年の作品「4人の使徒」(1526?)は、イタリア美術の威厳性と北方美術のはげしい表現性をあわせもっている。

デューラーはイタリアの新しい様式や思想を熱心にもとめたが、同時代のグリューネワルトは中世美術の流れにしたがい、大傑作「イーゼンハイム祭壇画」(1512?~15)を生みだした。これは3層の巨大な多翼祭壇画で、扉を開くと中央から祭壇彫刻があらわれる。扉の外側の主要場面「キリストの磔刑」は一度みたらわすれられないほど残酷な表現である。荒涼とした風景の中で、キリストははげしく身をよじって息たえており、その横でなげきかなしむ聖母マリアが福音書記者聖ヨハネにだきかかえられ、洗礼者ヨハネが証人としてたち、マグダラのマリアがなきくずれている。このひじょうに印象的で独創的な作品で、グリューネワルトはイタリアの盛期ルネサンスをへずに、ある種のマニエリスムの様式に達したように思われる。

4. スペイン・ルネサンス美術

ルネサンス期のスペインの画家たちは、北ヨーロッパやイタリアの芸術に多くをおっていたが、それらに匹敵する新しい芸術を生みだしたとはいえない。スペイン人は、つねに他国から画家や彫刻家をまねいて重要な仕事をさせた。テイツィアーノはスペインにいなかったにもかかわらず、16世紀になってもスペインの宮廷を代表する画家とされた。

ルネサンス様式の建築は、16世紀の後半になってようやく建造された。フェリペ2世の命でマドリード近郊に修道院、神学校、宮殿、教会をふくむエル・エスコリアルが建設された。イタリアの盛期ルネサンス様式をとりいれてはいるが、荘厳で装飾のない意匠はスペイン建築の新しい様式を特徴づけている。

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