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カトリック教会
I. プロローグ

キリスト教における最大の教派。正式には「ローマ・カトリック教会」といい、たんに「ローマ教会」と略称することもある。信仰にかかわることがらに関して、ローマ司教である教皇の最高の権威をみとめるキリスト教徒によって構成される。

「カトリック」(ギリシャ語の「カトリコス」)という語は「普遍的」という意味である。この語がキリスト教の教会に関して最初にもちいられたのは、アンティオキアのイグナティオスがスミュルナの信徒にあてた手紙(110頃)においてである。のちにアレクサンドリアのクレメンスもまた、自著「ストロマタ」(雑録)の中でこの語をもちいた。

専門用語としての「カトリック」は、3世紀初頭には確立していたようにみえる。以来、今日にいたるまで、この用語は教会の教えと権威の普遍性を表現するものとしてもちいられてきた。カトリック教会の公理を、5世紀のガリア南部の神学者、レランスのビンケンティウス(バンサン)は次のようにいいあらわしている。「いかなる場所でも、いつの時代にも、万人によって信じられてきたもの。これこそ真に、またただしくカトリック的といえるものである」。

カトリック教会は自らを、イエス・キリストから十二使徒にさずけられた使命と権威の唯一の正統的な継承者とみなしており、それがペトロ以来、とぎれることのない使徒継承によって代々うけつがれてきたと主張する。カトリック教会は、ヨーロッパ文化の発展と、ほかの諸文明へのさまざまなヨーロッパ的価値観の導入に、多大な影響をあたえてきた。世界の全信徒数は、1990年代前半の統計で約9億5840万人におよび、これは世界の総人口のほぼ17%、全キリスト教信徒の56%を占める。もっとも有力なのはヨーロッパ南部とラテンアメリカ諸国だが、他地域でも膨大な信徒数をもっている。

II. 組織と構造

初期キリスト教の伝統にしたがい、カトリック教会の組織上の基本単位をなすのは、各地の司教が管轄する教区(司教区)である。全教会は、世界のおよそ1880の司教区と、およそ520の大司教区から構成されている。大司教は、かつては周辺地域の諸司教のうえに法治上の権力をふるったが、今日ではたんに比較的有力な教区の司教であるにすぎない。

各教区内のもっとも重要な教会は大聖堂(カテドラル)であり、そこでは礼拝やその他の儀式を司教自らが司式する。大聖堂には司教の聖座(ラテン語で「カテドラ」)があり、初期教会ではその椅子(いす)から司教が会衆に説教をおこなった。

1. 司教

司教は各教区における最高の典礼司式者であり、主として叙階の秘跡を執行する権限をもつ点と、通常は堅信の秘跡をおこなう点で、ほかの司祭たちとは区別される。司教はまた、教区内における最高の法治上の権力をもつ。すなわち、自分の教区に司祭をうけいれたり、教区内の司祭に聖務停止を命じる権限をもつ。また、自分の教区に属する司祭を各小教区の担当者に配置したり、その他の職務に任命する。司教が、教区管理にかかわるこまごまとした実務を司教総代理や秘書局長やその他の職員に代行委任する場合もある。とくに大きな教区では、補佐司教や協働司教が司教の補佐をおこなう場合もある。

2. 聖職者(司祭、助祭)

司教の下に位置する聖職者(司祭、助祭)には、教区つき聖職者(いわゆる在俗聖職者)と修道会の聖職者の区別がある。教区つき聖職者は修道会の会員ではなく、終生、各地の司教の権威のもとで教区に所属する。彼らは通常、教区内の各小教区に配属され、そこで司牧者としてはたらく。

他方、修道会の聖職者は、第一義的にはそれぞれ修道会に所属し、修道会そのものは教区の境界を超越している。特定の教区内ではたらく場合、公的礼拝にかかわることがらについては当該教区の司教の裁可に服さねばならないが、その他の点については相当程度の自主判断がゆるされる。同じことは、修道会の会員ではあるが聖職者ではない修道女(シスター)や修道士(ブラザー)たちについてもいえる。このような聖俗ふくめた修道会会員は、しばしば教区内の学校や病院やその他の慈善団体や社会奉仕施設につかえている。

第2バチカン公会議(1962~65)以降、修道会に属さない平信徒が、司祭や司教を補佐するうえで大きな役割を演じるようになっている。そのような傾向は、とくに実践的なことがらに関して顕著だが、「カテケーシス」(成人洗礼をうける準備のための教理教育)のような直接牧会にかかわることがらにまでおよんでいる。

3. 教皇

カトリック教会の頂点をなすのは、教皇(「ローマ法王」は俗称)である。教皇は、教会にかかわるすべてのことがらについての究極的な権威をもつ。教皇は各教区に司教を任命したり、担当教区を移動させたりする。各司教は、職務上、それぞれの教区における法治上の権力をもつが、教皇の認可なしにはその権力を正当なものとして行使できない。

1965年9月15日、教皇パウルス6世は世界代表司教会議を制度化した。これは、重要な問題に関して助言をもとめるために教皇が召集する、司教およびその他の代表者たちの協議会である。最初の会議は67年にバチカン市国でおこなわれ、以来、何度かの会議がもよおされている。

この代表司教会議は、世界じゅうの全司教が召集される厳粛な公会議と混同されてはならない。カトリック教会がその長い歴史の中で、公会議をひらいたのはわずか21回にすぎない。もっとも新しいものは、1962~65年の第2バチカン公会議である。公会議は教皇と一体をなすものだが、それがカトリック教会における最高の権威をなすことは疑問の余地がない。

4. 枢機卿

枢機卿は、教皇についで高い権威をもつ聖職者である。彼らは教皇によって任命され、教会の最高会議機関である枢機卿会を構成する。教皇が死去した場合には、枢機卿たちが互選で後継者を選定する。枢機卿のほとんどは、世界じゅうにもうけられている教区の司教である。その他は、教皇庁の諸聖省や諸官庁の長としてバチカンに常勤する司教である。

かつては、枢機卿会の定員は70名に制限されていた(構成は、司教枢機卿6、司祭枢機卿50、助祭枢機卿14)。2005年4月1日現在枢機卿の数は183。そのほとんどは、教皇ヨハネ・パウロ2世によって任命された人々である。

5. 教皇庁(ローマ聖庁)

教会統治のうえで教皇を補佐する組織が、教皇庁とよばれる複雑な官僚機構である。古来、教皇庁はバチカン市国におかれている。現在では、国務聖省が中心となって運営されており、他の各省庁は国務聖省に業務について報告することになっている。各省庁は、国務聖省をふくむ10の聖省、3つの裁判所、3つの官庁、教皇庁外交をあつかう教会外務評議会その他からなっている。

6. 東方典礼派

カトリック教会のほとんどの信徒は、初期の時代にローマの司教区で発展した教会規律、典礼様式、教会法にしたがっているが、一部にはこれらのことがらに関して、何世紀もの間つちかわれてきた独自の伝統をまもっている人々がある。

彼らの教会は、東方典礼カトリック教会ないし東方帰一教会(ユニアト教会)とよばれ、マロン派教会、カルデア式典礼教会、ルテニア式典礼教会、ウクライナ式典礼教会などがこれにあたる。これらの教会の一部では、信徒にもパンとブドウ酒の両形色の聖体をあたえる聖体拝領や、体全体を水にしずめる浸礼による洗礼などが正統的なものとしておこなわれており、また、聖職者の結婚もゆるされている。

III. 独特の教義

カトリック教会は、ほかのキリスト教教会とは区別される独自の教義をもつが、最大の特色は、その教義的伝統がひじょうに広範囲かつ包括的なことである。カトリック教会は、自己の起源を最初期のキリスト教共同体にまでたどり、その歴史にいかなる断絶もみとめることを拒否しており、自教会こそ、使徒時代、教父時代、中世および近代におけるあらゆる神学的思想の継承者であると自任している。この教義上の包括性は、ときには内的整合性を欠いているようにみえることもあるが、教義の面においてさえ、この教会が「カトリック的」すなわち「普遍的」性格をもっているという主張の支えとなっている。

カトリック教会は原則として、いかなる神学的方法も排斥することはなく、教皇ピウス12世の回勅「ディビノ・アフランテ・スピリトゥ(聖書釈義に関して)」(1943)以来、聖書釈義のための現代の批判的・科学的諸原理を公認している。第2バチカン公会議以降は、信仰一致運動(エキュメニズム)にも積極的に参加し、カトリック神学者の中には、16世紀にたもとをわかったプロテスタント宗教改革者たちの教義的観点をとりいれる者まででてきている。

1. 聖書

ほかのキリスト教教会と同様、カトリック教会は、聖書がその教えの基盤であることをみとめている。これは、宗教改革にいたるまで、疑問の余地のない大前提だった。13世紀のイタリア人トマス・アクィナスのような偉大な神学者たちは、「聖書のみ」が神学の源泉であるとおしえた。

ただし、そのような「聖書のみ」の立場を保持しながらも、神学者たちは、一定の真理や慣習(たとえば幼児洗礼など)は、聖書には直接書かれていないが、教会の伝統によって正当なものとみとめられると考えた。彼らはさらに、教会がおこなう厳粛な決定、とくに公会議の議決は、キリスト教の教義の真正な解釈であって、教会にとって、とりけすことのできない絶対的な拘束力をもつという点で見解が一致していた。

2. 伝統(聖伝)

宗教改革中、プロテスタントが「聖書のみ」の原理に徹底的に固執したことへの反動として、トリエント公会議(1546年の第4会議)は、キリスト教の啓示は「書かれた書物」と「書かれざる伝統」の中にふくまれていることを確認した。この布告は、もっぱら聖書について詳細に論じていたにもかかわらず、「書かれざる伝統」についての挿入文があったために、最近まで「二源泉」理論を説いたものと解釈されてきた。

今日でも、この布告をどう解釈すべきかという点については議論がある。しかし現在では、カトリックとプロテスタントの双方の学者たちの間で、新約聖書の諸文書自体、原始教会のさまざまな伝承や諸学派の所産であることが一般的にみとめられてきたので、この論争もしだいに意味をうしないつつある(聖書学)。

3. 使徒継承

伝統という神学的観念に部分的に関係するものに、使徒継承の教理がある。これは、イエスの時代以来、今日にいたるまで、使徒の使命が切れ目なくうけつがれてきたという考え方である。この教理が最初にみられるのは、教皇クレメンス1世がコリントスの教会へあてて書いたとされている「第1の手紙」(96頃)においてである。プロテスタント教会の中にも聖公会など、条件つきでこの教理をみとめるものもあるが、もっともはっきりとしたかたちで使徒継承の意義を強調するのは、やはりカトリック教会である。

カトリック教会では使徒継承が司教の叙階と同一視されており、それが司教の権威と指導的役割の源泉であると解釈されている。この主張のもっとも特殊な点は、教皇が、イエスにより教会のかしらに指名されたペトロ(「マタイによる福音書」16章16~18節)の後継者とされることである。したがってカトリック主義には、今日の教会の中に、使徒時代の教会におけるのとまったく同一の権威と、霊の賜物(たまもの)がはたらいているとみなす傾向がある。

使徒継承の信仰の中にほとんど暗黙のうちにふくまれているのは、教会が、キリスト教の教義と道徳をおしえる正当な権利と義務をもつという信念であり、その教えの本質的な正しさは、教会に聖霊がたえまなく臨在していることによって保障されるという信念である。さまざまな実践上の理由により、カトリック神学は、この権威を司教、教皇、公会議においている。場合によっては、その教えは誤りのないものとさえされる。教えに関する教会の権威は、「教導権(マギステリウム)」と総称されるが、これは19世紀に一般的にもちいられるようになった用語である。

4. 教会

カトリック教会は、聖霊が教会の中にたえず臨在することを強調するため、その神学はほかのキリスト教教会の神学以上に、教会論に注意を集中してきた。しかし、教会についての法律的観念の偏重を是正するために、第2バチカン公会議は一貫して教会を神秘体としてかたり、それを「神の民」といったイメージであらわそうとした。いつの時代でもカトリック信仰に根本的なのは、神の愛と恩恵が教会の働きを通じて唯一無二の有効な仕方で世界に媒介されるという前提である。

5. 聖人

カトリック教会は、ほかの西方教会とは比較にならないほど熱狂的な仕方で聖人たち、とくに聖母マリアの崇敬をつちかってきた。1854年、教皇ピウス9世は、聖母マリアの「無原罪の宿り」の教義、すなわちマリアが誕生の瞬間から人間としての原罪をまぬかれていたとする教義を布告した。また1950年には、教皇ピウス12世がマリアの「被昇天」の教義、すなわちマリアが霊魂と肉体をもって天国にはいったとする教義を布告した。

聖人の崇敬は神への崇拝の心を曖昧(あいまい)なものにしてしまうという批判をしばしばうけたため、教会当局は、典礼暦から聖人の祝日を削減するなどして、この習慣に歯止めをかけようしてきた。カトリック教徒はまた、聖人たちが祈りと善行の功徳によって、罪から完全にきよめられることなく死んだ人々の救いをとりなしてくれると信じている。この信仰は、煉獄および免償の教義と密接にむすびあっている。

IV. 礼拝と宗教生活

カトリック教会の礼拝は、明確にミサ(ないしミサ聖祭)を中心にいとなまれる。信徒は毎週日曜日と、1年のいくつかの重要な大祝日にミサに出席するものとされている。ほとんどの教会では、そのほかにも毎日ミサがとりおこなわれており、ミサは結婚式、葬儀やその他のカトリック儀礼でも重要な要素となっている。

1. ミサ

ミサ(ミサ聖祭)はいくつかの部分からなるが、その中でももっとも長いのは、「ことばの典礼」と聖体拝領であり、後者では聖体のパンが信徒にくばられる。ミサの全体の構成の中では、音楽の使用や儀式の挙行などに関して、かなりの程度のバリエーションが可能であり、特定の機会に応じて儀式をそれにふさわしいものにするために、さまざまな手だてが講じられたりもする。

このようなバリエーションの可変性は、ミサの歴史と、今日ローマ典礼と東方諸教会の諸典礼の間に存在する相違のうちに、ありありとしめされている。ローマ典礼におけるもっとも大きな変化は、第2バチカン公会議とその憲章「サクロサンクトゥム・コンチリウム(典礼憲章)」(1963年12月4日)によってもたらされた。この改革の一般的傾向は、典礼の目的と輪郭をわかりにくいものにしていた添加物をとりのぞくという方向にむけられた。公会議によって制定され、もしくは提唱された規定の中で、とりわけ劇的だったのは、典礼や教会のその他の儀式を伝統的なラテン語から各地の現代口語に訳しておこなうようになったということである。

2. 秘跡

聖体拝領は、教会が信徒にほどこすもっとも重要な儀礼である7つの秘跡のひとつである。カトリック教徒は、パンとブドウ酒が実際にキリストの肉と血にかわり(全実体変化、いわゆる「化体説」)、聖体の中にキリストが実在的に臨在すると信じている。信徒には、参加するすべてのミサで聖体をうけるようにすすめられている。

ほかの秘跡には、洗礼、堅信、悔悛(ゆるしの秘跡)、叙階(聖職者としての任命と権威の伝達)、結婚、病者の塗油がある。カトリック神学は、キリスト自身によって制定されたこれらの「しるし」は執行者の信仰や徳性のあり方とは無関係に、受け手の上に霊的な恩恵をもたらす効果があるとおしえている(事効的効力、ラテン語で「エクス・オペレ・オペラート」)。

第2バチカン公会議後の典礼改革によって、悔悛の秘跡については、おかした罪をこと細かに告白することよりも、秘跡によって媒介される、神の慈しみのもつ癒しの性格のほうに関心がうつされるようになった。この点を強調するために、「ゆるしの秘跡」という言いかえも提唱された。同公会議にもとづくもうひとつの秘跡儀礼の修正として、病者の塗油はひじょうに病が重い場合や、高齢者に対して執行されるべきであり、死の直前までのばすべきではない、とされたことなどがある。したがって、この秘跡はもはやかつてのように「終油」とはよばれなくなった。

結婚の秘跡の執行者は、通常考えられているように司式司祭ではなく、新郎と新婦自身である。カトリック神学によれば、洗礼をうけた夫婦の間にこの秘跡が創出するきずなは、たちきることのできないものである(したがって、カトリック教会では離婚が禁止されている)。ただし、このきずなが有効なものになるためには、さまざまな前提条件がある。それゆえ場合によっては、教会が審査のうえ、結婚がはじめから無効だったと宣言することもありうる。しばしばカトリック流の離婚と混同されるが、この結婚無効宣言は、まったく別の原理にもとづいている。教会は、結婚の目的は相互の愛を増幅させることと、子供をもうけることであると教えている。

3. その他の習慣

カトリック教徒は、ミサと秘跡以外にも、さまざまな仕方で自分たちの信心を表現する。たとえば、聖母マリアをたたえるロザリオの祈りは、今なおひろくおこなわれている信心業である。特定の日に断食することや肉食をひかえる厳格な義務は、最近では任意のものになっているが、今でもこれをまもる信徒は多い。

かつて、とくにアメリカ合衆国でそうだったように、司教が信徒の子弟をカトリック教会が運営する学校にかよわせるように力説することはなくなったが、多くのカトリック教徒がなおこの習慣をまもっており、教会は初等教育や中等教育の強力な組織を保持している。カトリック教会は、世界じゅうで多くの大学や、さらに数多くの神学部や神学校を経営したり後援している。教会はさらに、直接的もしくは間接的に、大衆むけのジャーナリズムから高度に洗練された学術書にいたるまで、膨大な出版物に責任をおっている。

4. 現代の諸問題

現代のカトリック教会は、論争の的となっているいくつかの問題に対して、強い立場を表明している点で特色をもつ。教皇レオ13世の回勅「レールム・ノバールム(労働者の境遇)」(1891)をはじめとして、歴代教皇はたえず、現代産業社会が生みだす経済的・社会的状況における不正を非難し、それらの悪弊の是正を提唱しつづけてきた。教皇たちは、核兵器の実験や使用に反対し、軍拡競争をおわらせるようにくりかえしうったえ、富強な国々によるまずしく弱小な国々の搾取をやめさせるように心をくだいてきた。

これらの宣言の中心をなすものは、社会的、経済的、政治的な諸秩序における基本的人権の擁護と促進ということだった。近年、一部のラテンアメリカのカトリック知識人たちが唱導したいわゆる「解放の神学」は、このような関心を、伝統的な路線からはずれた考え方の枠組みにあてはめようとしたものである。運動の担い手たちは、そのためにマルクス主義者の著作にみられる諸観念を応用することさえ辞さなかった。

第2バチカン公会議で、カトリック教会は信徒に対し、人類の共通の目的のために他の諸宗教の人々と協力しあうことと、さまざまなキリスト教諸教派の再統合にむけて努力することを奨励した。カトリック教会は、世界教会協議会(WCC)の正会員になったことはないが、同協議会と密接な連携をたもっている。また、ほかの宗教にも真正な霊的諸価値をみとめたことから、同公会議以降、カトリックの宣教師たちの活動は、改宗者獲得から、それらの諸価値へのより敬意をこめた対話へと路線転換してきている(信仰一致運動)。

ほかの諸問題については、カトリック教会は保守的で、しかも断固たる立場をとっている。「人工的な」産児制限の禁止は、教皇パウルス6世の回勅「フマーネ・ビーテ」(1968)でも再確認された。この文書は、神学者やさらには司教の間にさえ反対論をひきおこした。反対の意見がでることは、現代の教皇制度のもとでは希有な現象である。回勅の意義については今なお論争がつづいているが、いずれにせよこの文書が、産児制限問題についてのもっとも権威ある宣言であることはまちがいない。

カトリック教会は、妊娠中絶を自由化する法律に対する猛烈な反対者でありつづけてきたし、いくつかの西欧諸国では、その種の立法活動に対する政治的抵抗運動を鼓舞してきた。またカトリック教会は、特定の事情のもとでは女性が聖体拝領をとりおこなったり、教会のその他の職務にたずさわることを許容しているが、これまでのところ、女性を司祭や助祭に叙階することはみとめていない。ローマ典礼にしたがう諸教会の司祭には、結婚は厳禁されている。

V. 歴史

1054年の東方教会との分裂(東方正教会)、および16世紀におけるプロテスタント諸教会の分離(宗教改革)以前の時代については、カトリック教会の歴史をキリスト教全体の歴史から切りはなすことはできない。

ただし、カトリック教会独自の歴史観は、自己が新約聖書の教会との断絶なき連続関係にあることを主張し、それ以降、この教会がとりいれてきた教義と組織における主要な諸発展を一貫して正統なものとしてみとめている。したがって、キリスト教史内部で文化や神学や信徒のありかたに大きな変動がおこっても、それらはかならずしも、使徒教会の絶対的規範からの逸脱とはみなされない。そのような変動はむしろ、はじめから存在していた衝動が別の仕方やより複雑なかたちで顕在化したものとみられることが多い。

1. 古代の教会

キリスト教の歴史における最初の大きな変化は、イエスの死後わずか数十年のうちに、キリスト教がパレスティナから地中海周辺の他の地方へとひろがったということである。キリスト教は短期間のうちに、ギリシャ・ローマ世界の言語や哲学的術語を自己のメッセージをつたえる道具として吸収した。教会はまた、ローマ帝国から、法律と組織にかかわるいくつかの習慣をとりいれた。それにもかかわらず、司教という典型的な役職がはっきりとした姿をあらわすのは、2世紀の中葉になってからのことである。

313年にコンスタンティヌス1世によってキリスト教が公認されたことは、このような発展が確固たるものになることを助長した。キリスト教が公認されたことはまた、4~5世紀にかけておこった大きな神学上の論争を決着するうえで教会の支えとなり、その結果、正統的な立場が形成された。5世紀の教皇レオ1世の時代までには、ローマ司教が首位権を主張し、また事実上他の諸教会に対する一定程度の主導的立場を獲得した(教皇権)。

2. 中世の教会

西方におけるローマ帝国の滅亡と、ゲルマン民族の改宗は、宗教生活のあらゆる領域に甚大な影響をあたえた。それには、7~11世紀における司教の権威の低下ということもふくまれる。

しかし、11世紀後半に、改革の熱意にもえる教皇グレゴリウス7世がヨーロッパのさまざまな王侯たちとの熾烈(しれつ)な叙任権闘争をかちぬいた結果、司教の権威が回復された。その結果、教皇は万人がみとめる西方教会の首長となり、中央集権化され、時代とともにますます有効に機能していく教皇庁をしたがえるものとなった。また、教会法は再活性化され、さらに整備されたが、その際には、教会を統治するうえでの教皇の重要性がとくに強調された。このような展開は、十字軍の遠征ともあいまって、1054年の教会大分裂以降の東方教会との和解をいっそう困難なものにした。

3. 近・現代の教会

部分的には叙任権闘争の結果生じた諸変化への反動として、16世紀にプロテスタントの宗教改革が勃発(ぼっぱつ)した。対抗宗教改革(いわゆる反宗教改革)の時代、カトリック教会は、長い時代をかけてつちかってきた伝統を再確認し、とくにはげしい批判の的になったスコラ学、秘跡の効力、教皇の首位権などをことさらに強調することによって、これに応答した。

啓蒙思想とフランス革命が教会に攻撃をくわえたことは、その後長らくカトリック教会が保守的・防御的姿勢をとることになった主たる原因である。第2バチカン公会議は、この傾向を逆転させようとするものだった。この公会議によって導入された諸変化は、しばらくの間はかなりの混乱をひきおこしもしたが、カトリック教会は今日でも基本的に安定した勢力をたもっており、世界の多くの地方で繁栄をつづけている。

4. 日本のカトリック教会

日本のカトリック教会の歴史は、プロテスタントの宗教改革に対抗するイエズス会の世界宣教運動の一環として、1549年(天文18)に宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸したことにはじまる。それは同時に、日本におけるキリスト教の歴史の最初の一歩でもあった。宣教師は「バテレン(伴天連)」、信徒は「キリシタン(切支丹、吉利支丹)」とよばれた。

その後、各修道会の宣教師の活動や、織田信長の庇護(ひご)をうけたことなどから、キリスト教は西日本を中心に急速に発展、わずか数十年の間に武士や商人階級を中心に約15万人の信徒をえたという。しかし1587年(天正15)には、布教が全国支配の妨げや外国による侵略につながるものと信じた豊臣秀吉によって「伴天連追放令」がだされて弾圧がはじまり、97年(慶長2)には長崎で二十六聖人殉教などの悲劇がおこった。

江戸幕府になってからは、踏絵の強制や、宗門改め、寺請(てらうけ)の制度がもうけられて弾圧が組織化・徹底化され、キリシタンは、棄教するか殉教するかの二者択一をせまられた。島原の乱(1637~38)に参加したキリシタンは後者の道をえらんだ人々である。しかし、鎖国の時代を通じて、いわゆる「隠れキリシタン」としてひそかに信仰をまもりとおした人々も少なくなかった。彼らの間では、土着化した独特のキリシタン文化が成立した。キリシタン禁制

1854年(安政元)の開国とともに、宣教師の来日と滞在外国人対象という名目での活動が再開され、まもなく横浜と長崎に天主堂がたてられた。65年(慶応元)、長崎の大浦天主堂では近郊の浦上の隠れキリシタンが名のりでたが、68年(明治元)、幕府の禁教政策をうけついだ明治政府は浦上キリシタンを流刑に処した。これに対し、国際的な非難がまきおこったので、政府は73年(明治6)、キリシタン禁制の「高札」を撤去し、キリスト教の布教を黙認することを余儀なくされた。

その後1889年に大日本帝国憲法が発布され、条件つきとはいえ信教の自由がみとめられると、カトリック教会は、各修道会を中心に布教をすすめるとともに、各地に孤児院や病院、学校などを建設・運営するなどして社会・福祉・教育活動に尽力し、日本の社会に浸透していった。これと平行して、各地に司教区がもうけられ、82年には再布教後最初の日本人司祭が、1927年(昭和2)には最初の日本人司教が叙階された。また19年(大正8)にはローマ教皇庁(バチカン市国)と日本の正式な友好関係が樹立され、駐日教皇使節が派遣された。

満州事変(1931)から太平洋戦争へとむかう流れの中で軍国主義と国家神道が支配的となり、1939年に「宗教団体法」が公布されると、カトリック教会はバチカンとの関係をたたれて「日本天主公教教団」と改称し、プロテスタントの日本基督教団とともに国家の統制のもとにおかれた。

終戦後の1952年には「カトリック中央協議会」として宗教法人となり、教皇庁との外交関係も再開された。60年には土井辰雄大司教が日本人としては初の枢機卿に任ぜられ、以後96年までに計4人の日本人枢機卿がでている。第2バチカン公会議(1962~65)以降は、カトリック教会全体の近代化と柔軟化への方向転換をうけて、日本のカトリック教会も信仰一致運動(エキュメニズム)や他宗教との対話に積極的にとりくむようになった。「新約聖書共同訳」(1978)、「聖書新共同訳」(1987)の出版や(聖書)、世界宗教者平和会議(1970以降)における中心的な活動はその成果である。

2003年12月31日現在、日本のカトリック教会は国内に16の司教区(そのうち東京、大阪、長崎は大司教区)、約1000の教会(布教所をふくむ)、約1650人の聖職者、44万9925人の信徒をもつ。カトリック系の主要な学校としては、上智大学、南山大学、聖心女子大学、白百合女子大学、ノートルダム女子大学、純心女子大学、藤女子大学、暁星学園、雙葉学園などがある。また、日本の代表的なカトリック文学者には、遠藤周作、小川国夫、加賀乙彦、曽野綾子、高橋たか子などがいる。