釉薬
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釉薬
II. 日本の釉薬の発達
1. 自然釉の時代

日本における自然釉の出現は5世紀代といわれ、大阪府の陶邑(陶邑古窯跡群)や、名古屋市東山地区などから、表面にガラス状物質が付着した須恵器が出土している。須恵器は当時、山の斜面を縦にほった窖窯(あながま)で高温焼成されたもので、燃料となる草木中にふくまれるケイ酸塩化合物や金属などの成分がとけて自然釉の現象をもたらしたと考えられる。

燃料となる草木は、水分のほか、有機質の脂肪酸類や繊維類、無機質成分などからなり、ほかに、成長過程で根から吸収した土中の有機質成分をもふくむ。そのうち、ケイ酸塩、アルカリ金属類のカリウムやアルカリ土類金属のカルシウム、鉄、ニッケルといった金属成分は植物の体内で分解されずに蓄積される。これらが釉の主成分であり、焼成時の熱化学反応によってガラス状物質に変化するのである。なお、自然釉が淡黄色または淡青色を呈するのは、土中に多くふくまれている鉄成分のためである。

2. 施釉陶器の出現
2.A. 灰釉

自然釉の発見により、灰を器面にふりかけて焼成する技術へ発展した。その古い例として、7世紀後半に猿投山(さなげやま)周辺(現、名古屋市の東方)でつくられた灰釉陶器(かいゆうとうき)がある(猿投窯)。これは「原始灰釉」ともよばれており、釉の原料として灰をくわえる「灰釉」の調合、施釉技術が生まれるのはさらに後のことである。

2.B. 緑釉、三彩

灰釉陶器の普及と同じころ、中国、朝鮮地方から色あざやかな緑釉陶器の製造技術が日本に伝播する。金属成分をふくむ岩石を呈色剤として原料にくわえた最初の釉薬である緑釉は、銅を呈色剤とした鉛ガラス系の釉で、1000°Cをこえない低温で焼かれた。飛鳥地方(現、奈良県明日香村を中心とした一帯)の7世紀代の遺跡から出土したものが古い例である。これらの緑釉陶器は中国の唐からの伝来品を模倣したもので、おもに祭祀器(さいしき)としてもちいられた。緑・褐・白の3色でいろどられた唐三彩を模倣した「奈良三彩」といわれる陶器もつくられた。緑色の釉は銅を呈色剤に、褐色の釉は鉄成分を多くふくんだ赤土などを呈色剤にしており、基礎釉となる白とかけあわせて三彩としている。このように、中国から伝来した器を模倣することによって、釉薬の開発、施釉や装飾の技術がめざましく発展することになった。

2.C. 鉄釉

中国・朝鮮との交流が深く、地域的に良質な原料にめぐまれて、須恵器などが古くから焼かれていた日本では、鉄を呈色剤とした施釉技術をうけいれることは容易であった。たとえば、鎌倉時代から室町時代にかけての瀬戸では、宋(中国)や朝鮮半島からつたわった天目を模倣するとともに、築窯技術、高温焼成の技術を発展させて、古瀬戸釉を生みだした。また、鉄分が多い粘土である鬼板(おにいた)や褐色土などの原料が手に入りやすいことから、黄瀬戸や青磁などがつくられるようになり、鉄釉系の施釉技術は幅広くなった。

3. 施釉技術の成熟

室町後期から安土・桃山時代にかけて、瀬戸や美濃で施釉技術はさらに成熟し、茶の湯の発展によって華やかで洗練された施釉陶が数多くあらわれる(瀬戸焼:美濃焼)。鉄釉をほどこしたものを焼成中にひきだす漆黒釉の「引出黒(ひきだしぐろ)」、銹絵(さびえ)の上に長石を原料とした泡状白色釉がかかった志野、志野でも、下地にかけた鬼板の鉄が長石釉とまざって鼠色(ねずみいろ)を呈するものがあり、これは「鼠志野」とよばれる。これら鉄釉の幅広い活用のほか、灰釉をもちいた黄瀬戸、緑釉の染め分けに銹絵をきかせた織部なども知られる。