| ノルマンディ | 項目ビュー | ||||
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| III. | 歴史 |
この地方は紀元前1世紀、ローマ帝国のもとでルグドゥネンシス属州に、また帝国後期の再編後は第2ルグドゥネンシス属州にくみこまれている。5世紀にフランク族の侵入がはじまり、やがてその領土となった。クロービスの死後フランク王国が分割されると、ネウストリア分王国に入った。6、7世紀には修道院建設の動きが盛んになり、聖バンドリーユのもとで、ジュミエージュ、フェカン、フォントネルなどの修道院が次々に建設された。
8世紀になると、バイキングすなわちノルマン人(北方の人)の侵略をうけた。彼らの勢いは9世紀に激しさをまし、セーヌ川をさかのぼっては周辺の町々を略奪した。885年にはパリも攻撃されたが、パリ伯ウードによって撃退された。9世紀末には、ノルマン人はセーヌ川の河口に定住した。911年国王シャルル3世(単純王)はノルマン人の首長ロロとの間にサン・クレール・シュル・エプト条約をむすび、オートノルマンディ地方をあたえ、ここに事実上ノルマンディ公国が誕生した。ノルマン人はさらに領土を拡大し、バスノルマンディにまで進出した。945年国王ルイ4世は公式にノルマンディ公国をみとめざるをえなくなった。
公国はすぐれた統治のもとで繁栄し、強大な国となった。1066年ノルマンディ公ギヨーム1世は、いとこにあたるイングランド王エドワード(懺悔王)が没すると王位継承権を主張してイギリスにわたり、エドワードをついでいたハロルド2世をやぶり、ウィリアム1世(征服王)となって、ノルマン朝を開いた。ノルマンディは12世紀にはプランタジネット朝の手にうつる。この時さらに西部のアンジュー地方や南西部のアキテーヌ地方などの広大な地域もイングランド国王の手にわたり、これ以降英仏国王の対立が激化した。13世紀、国王フィリップ2世は、セーヌ河口に位置するノルマンディをパリへの入り口として戦略的に重視し、その奪回につとめた。1259年、イングランド国王ヘンリー3世はパリ条約によってノルマンディを放棄し、公国はフランス国王のもとにもどった。しかしその後の百年戦争の間にふたたびイングランドの領土になり、1450年に最終的にフランス領となった。
16世紀の宗教戦争の時代には、プロテスタントの拠点のひとつとなった。17世紀には織物、製鉄、海上貿易などが発展。フランス革命の時にはジロンド派の勢力範囲に入った。マラを暗殺したシャルロット・コルデーもオルヌ県の出身である。
19世紀のフランスにおける工業化の流れは、ノルマンディ地方のごく一部に影響をあたえただけで、大部分は牧畜を中心とする農村としてとどまった。
第2次世界大戦末期、コタンタン半島は1944年6月6日の連合国軍によるノルマンディ上陸作戦の舞台となり、350万の兵士が、フランスをナチス・ドイツから解放するためにたたかった。8月半ばまでつづいた戦闘は、第2次世界大戦の激戦のひとつであった。