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マルタ
I. プロローグ

地中海中央部、イタリアのシチリア島の南に位置する共和国。正式国名はマルタ共和国で、イギリス連邦に属している。マルタ、ゴッツォ、コミノの3島と、いくつかの小さな無人島からなる。最大のマルタ島の面積は246km²、ゴッツォ島は67km²、コミノ島は3km²。総面積は316km²。人口は40万1880人(2007年推計)。首都はマルタ島の港湾都市バレッタ(人口7137人(2004年推計))。

II. 国土

マルタの島々は、周りを粘土層がとりまくサンゴ質の石灰岩でできた低い台地からなっている。高さはもっとも高い所でも標高239mにすぎない。南地中海の乾燥した穏やかな気候で、年平均気温は19°C、年降水量は560mm。常に水のある川や湖はなく、また降水量が少ないため、水の供給は生活の面でも産業の面でも深刻な問題となっている。現在、供給される水の70%は、海水の淡水化プラントによってつくられた水である。

III. 住民

人口密度は1272人/km²(2007年推計)と高く、人口の90%以上がマルタ島にすんでいる。国民の大半は熱心なカトリック教徒である。多くの人が話すマルタ語は、語彙(ごい)面ではアラビア語に似ているが、アルファベットと文法構造はラテン語系である。公用語はマルタ語と英語。しかし、イタリア語をつかう人も多い。義務教育は5歳から15歳まで。公立の幼稚園から大学まで学費は無料である。1592年創立のマルタ大学の学生数は約1万人で、海外からの留学生も多い。

IV. 経済

観光、船舶修理、造船と、輸出向けの製品をつくる製造業がマルタの主要産業である。製造業は、食品加工、衣料品、家具や木製品、印刷、タバコ、船舶、ゴム、プラスチック製品、薬品など。近年は、半導体など電子部品産業の伸びがいちじるしい。マルタには、ガンティヤの巨石神殿をはじめとする先史時代の遺跡が多く、観光が最大の産業になっている。2005年にマルタをおとずれた観光客は、国の人口の3倍近い117万人。

農産物は、ジャガイモ、トマト、コムギ、ブドウ、柑橘類(かんきつるい)など。ほとんどが島の斜面の小さな段々畑で栽培されている。家禽(かきん)、豚、牛、ヒツジ、ヤギなどの飼育もおこなわれている。人口密度が高く、しかも土地がやせているため、マルタは食糧の多くを輸入にたよっている。2003年には、労働力人口の2%が農林水産業に従事している。

2005年のマルタの国内総生産(GDP)は55億6965万米ドル。2002年の輸出額は21億米ドル、輸入額は28億米ドルだった。貿易収支の赤字は、観光収入でおぎなっている。貿易の中心は機械・輸送機器(電子部品をふくむ)で、おもな貿易相手国はイタリア、フランス、イギリス、アメリカ、ドイツ、シンガポール。通貨はマルタ・リラだったが、08年1月にユーロを導入した。

V. 政治

1964年に制定され74年に修正された憲法によってマルタの政治はおこなわれている。国家元首は大統領で、議会の決議によって指名され、任期は5年。立法府の議会は比例代表制の普通選挙で選出される65名の議員からなり、議員の任期は5年。議会で多数の支持をえて大統領に指名された首相が、内閣を組織し、議会に責任をもつ。おもな政党は、国民党(PN)と労働党(MLP)。

VI. 歴史

マルタ島やゴッツォ島には、前4500~前2000年ごろの建造といわれる巨石神殿遺跡が数多くあり、かつてこの地に発達した文明が存在したことをしめしている。前1000年ごろ、マルタはフェニキアの植民地となるが、前736年にはギリシャに占領されメリタとよばれた。その後、カルタゴ、さらに前218年にはローマの植民地となる。395年にローマ帝国が分裂すると、マルタはビザンティン帝国の支配下に入るが、870年にアラブ人に占領される。

1. カトリック世界の前線基地

ノルマン人がマルタのアラブ勢力を征服したのは1090年のことだった。その後、マルタはシチリア王国の封土となる。1530年、神聖ローマ帝国皇帝カール5世はマルタをロードス島をおわれた「エルサレムの聖ヨハネ騎士団」にあたえ、同騎士団がマルタ騎士団として19世紀までマルタを支配した。マルタはカトリック世界のオスマン帝国に対する最前線基地として重要度を高め、65年、オスマン帝国がマルタ奪取に失敗すると、騎士団はバレッタに地中海一といわれる強大な要塞をきずいた。

2. イギリスによる支配

1798年、ナポレオン1世はエジプト遠征の途上でマルタを占領したが、地中海におけるマルタの戦略的重要性に注目したイギリスは、99年、ネルソン提督にバレッタを攻撃させ、フランス軍をしりぞけた。1814年のパリ条約で、マルタはイギリス帝国の一部とされた。しかし19世紀を通じてマルタではしだいに自治をもとめる声が高まり、1921年、第1次世界大戦中の支援への見返りとして、イギリスは住民による議会をみとめた。第2次世界大戦中、連合国軍の戦闘機や潜水艦の基地となったマルタはドイツ軍とイタリア軍の海と空からのはげしい攻撃にさらされた。

3. 独立

1961年11月、域内自治憲法が制定され、64年5月の国民投票で独立憲法が可決された。最初の選挙では、イギリス連邦内での独立をうったえた国民党(PN)が、連邦からの独立を主張する労働党(MLP)に勝利し、国民党の党首オリビエが首相に就任した。マルタは64年9月21日に正式に独立し、同年12月には国際連合に加盟した。

4. ミントフの労働党政権

1971年6月の選挙で、オリビエひきいる国民党は労働党に敗北、かわってミントフを首相とする労働党政権が成立した。ミントフは74年、総督を廃して大統領制を導入し、マルタの政治体制を共和制にかえた。

これにつづく数年間、マルタの政治は2極に分裂し、ミントフはその強硬な戦術を批判された。外交では独自路線を主張して、NATO(北大西洋条約機構)のイギリス軍に基地を提供するイギリスとの協定の更新を拒否し、1979年にイギリス軍はマルタから撤退した。70年代の後半、マルタはリビアと緊密な関係をむすぶが、80年代には地中海での石油採掘権をめぐって対立した。81年12月、ミントフ第3次内閣が成立するが、84年にミントフは辞任、かわって教育相のボニーチが首相に就任した。

5. アダミの国民党政権

1987年の選挙では、16年間野党だった国民党が勝利し、アダミが首相となった。90年、マルタは95年を期限とするリビアとの相互協力条約をむすび、両国間での査証の廃止や共通のラジオ局「地中海の声」開局で、両国の関係が強化された。また、国民党政権は、公益事業の民営化、規制緩和などで自由主義経済(自由主義)をすすめて90年にEU(当時はEC:ヨーロッパ共同体)へ正式加盟を申請し、95年には、NATO(北大西洋条約機構)の安全保障構想である「平和のためのパートナーシップ」(PfP)の枠組み協定に調印した。

6. EU加盟、ユーロ参加へ

1996年10月の選挙では労働党が勝利し、党首サントが首相に就任した。9年ぶりに政権に復帰した労働党はEU(ヨーロッパ連合)加盟に否定的で、EU加盟申請を凍結、PfP協定からの離脱も通告した。

1998年9月、事実上の内閣不信任の後、総選挙がおこなわれ、国民党が勝利した。首相にかえりざいたアダミは、あらためてEU加盟を申請、2002年12月のEU首脳会議で加盟が承認された。03年3月におこなわれた国民投票では、賛成53%、反対47%の僅差(きんさ)ながらEU加盟を支持する国民がうわまわり、04年5月、マルタは正式にEUに加盟した。加盟国中、面積も人口も最小である。

2004年3月、首相は国民党の新党首に選出されたゴンズィに交代し、アダミは4月に大統領に就任した。ゴンズィ政権は社会保障の削減などで財政赤字の改善につとめて、07年2月、ユーロ圏参加を申請。インフレ率、金利、財政赤字などのユーロ導入条件をみたしたと承認されて、08年1月1日、マルタはキプロスとともにユーロを導入した。