| 歴史と歴史書 | 項目ビュー | ||||
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| II. | ヨーロッパでの歴史叙述 |
| 1. | 古代ギリシャ |
ヨーロッパの歴史叙述は古代ギリシャに起源をもち、ギリシャ時代の歴史家の関心と基準が何世紀もの間歴史の研究や著作を支配してきた。前5世紀、歴史の父とよばれるヘロドトスは、ペルシャ戦争に関するくわしい記述をのこし、それからまもなく、トゥキュディデスはアテネとスパルタがたたかったペロポネソス戦争について、古典的な歴史書をあらわした。彼らは、目撃者や信頼できる証言に可能なかぎりあたって、同時代あるいはそれにきわめて近い時代の出来事をみごとな散文体でえがいたのである。また、対象を戦争や国制史、政治指導者の性格にしぼりこんで、危機や変革の時代の人間社会を描写している。この2人のぬきんでた業績は、同時代人に高く評価され、あとにつづく歴史家に大きな影響をあたえた。
ヘロドトスとトゥキュディデスは身近な時代の出来事をこのみ、当時は副次的な扱いだった文字による証拠よりも、口承や視覚による証拠を重視していた。さらに、人間は国家や政治の活動でもっともよく本領を発揮するという前提にたっていた。もちろんギリシャ時代やローマ時代には、文書資料にもとづいて過去の宗教や習慣、名前、美術を研究する文化も存在していたが、それはもっぱら哲学や伝記といった特殊な研究領域とむすびついており、政治史の本流からは除外されていた。
歴史叙述には特別な訓練は必要なく、教養ある人間がかならずうける教育そのものが歴史家の教育とみなされていた。つまり、ありったけの文献をていねいに読みこみ、さらに古代の高等教育の柱であり、言葉を巧みにあやつって説得する技術である修辞学をまなぶことだったのである。偏見にとらわれることなく真実を厳密に追究する姿勢と、豊かな表現力をかねそなえていることが、歴史家のあるべき理想の姿だった。
前4世紀にはいると、クセノフォン、キオスのテオポンポス、エフォロスといったギリシャ歴史学の流れをくむヘレニズム時代の歴史家が出現し、さらに視野を拡大した。前2世紀の歴史家ポリュビオスは、ローマの歴史と政治、軍事的な成功を同世代のギリシャ人につたえた。次の世紀には、地理学者でもあるストラボンや、ディオニュシオス・ハリカルナッセウスが同じテーマをとりあげた。
ヘレニズム時代とローマ時代を背景としてユダヤ人の歴史を記録したのは、ギリシャ的教養を身につけたユダヤ人貴族のヨセフスであり、彼はまたユダヤの宗教や習慣を擁護し説明した。同じ時代に、プルタルコスは有名なギリシャ人やローマ人の伝記を書き、劇的な逸話を重視して、彼らの模範的な性格と社会にあたえた影響をえがきだした。
| 2. | ローマ時代 |
芸術や学問の言語としてギリシャ語は確固たる地位にあったため、ローマ時代初期の歴史学は、ローマ人でさえもギリシャ語で書いていたが、ローマ史をはじめてラテン語で書いたカトー(大)は、のちの歴史家を大いに刺激した。トゥキュディデスの著作に感銘をうけたサルスティウスは、倫理的かつ心理的な考察もくみあわせ、すぐれたラテン語による歴史書のスタイルを発達させたが、人の動機を基礎においた彼の政治分析は、そののちも長く歴史著作に影響をおよぼした。
それと同じころに活躍したキケロは、歴史家ではなかったが、優雅な文体をつくりだしたことと、社会の出来事に伝統的な道徳規準をあてはめたことで、歴史記述の理想型をつくりあげた。ラテン語によるこうした歴史書の形式は、リウィウス、タキトゥス、スエトニウスにひきつがれた。
| 3. | 初期キリスト教徒 |
これまでに登場した歴史家は、ヨセフスをのぞいてすべて非キリスト教徒であり、彼らのえらぶテーマも視点も完全に世俗的なものだった。教養ある彼らは、政治に直接応用できるテーマを重視し、人間の運命や道徳のような問題について思索するのは歴史家ではなく哲学者の仕事だと考えていた。しかし、4世紀にはいってローマ帝国のコンスタンティヌス大帝がキリスト教に改宗し、キリスト教が法的にみとめられ影響力が高まるにつれて、歴史に新しいテーマと研究手法が導入されるようになった。
教会史の父とよばれるカエサレアのエウセビオスは、キリスト教会の起源からはじまって、何世代にもわたる迫害と殉教をへて彼の時代に教会が勝利を獲得した歴史をえがいている(324頃)。彼の教会史は、テーマや様式を限定した従来の手法を無視する、まったく新しいスタイルのものだった。また、エウセビオスは信仰生活、書物、思想のほか、政治的にはまったく無名の人々もとりあげてえがいた。また、文書資料を数多く採用して、人間存在にまつわる大問題について思索をめぐらした。
このように世俗史と宗教史をおりまぜ、壮大な道徳的な解釈をくわえた書物は、旧約聖書以来はじめてだった。旧約聖書には、神と人間の関係がユダヤ民族の長い歴史の中で成立したエホバとイスラエルの契約として、歴史というかたちで述べられている。こうしたユダヤ教の背景があったからこそ、キリスト教も人類の歴史解釈に重要な意味をもつ宗教となったのである。
5世紀には、オロシウスがキリスト教的な立場からローマ史を再解釈して論争をひきおこし、またアウグスティヌスは「神の国」(413~426)を書き、キリスト教の歴史と世俗の歴史のより複雑で微妙な関係をえがきだした。
| 4. | 中世 |
5世紀に西ローマ帝国が崩壊すると、古典的な教育や学問文化は混乱し、歴史叙述の伝統も衰退していった。読み書きの技術は聖職者だけのものとなり、彼らは学術的・宗教的な文化の保持と拡大を職務とするようになった。多くの修道院は年代記を作成していたが、それは何世代もの修道僧により書きつがれたもので、美的や知的な手をくわえることなく、出来事をただ年代順にしるしたものだった。
それでも古代の歴史家の書物は修道院の図書館に保管されていたので、トゥールのグレゴリウスをはじめとする中世初期の著作家は、より高い水準を追求しようとした。尊者ベーダとよばれたイングランドの修道士があらわした「イングランド教会史」(731)は、世俗史と教会史、自然現象と超自然現象とを、力強く理性的な叙述に融合させた著作である。
中世の盛期に学問や文学が復活し、イングランドの修道士マームズベリのウィリアム、ドイツのフライジング司教オットー、ノルマン人のオーデリック・ビタリスなどが歴史書をあらわした。中世の歴史家はほとんどが聖職者で、ラテン語で記録をのこしたが、俗語で文章を書いた年代記作者もいて、世俗的な歴史書の伝統も復活している。たとえばジョアンビルは、フランス王ルイ9世の十字軍遠征を記録にのこし、フロワサールは百年戦争中の英仏の騎士の勲功を書きしるした。
| 5. | ルネサンス期 |
15世紀イタリアの知的活動の特徴として、ギリシャおよびローマ時代の文献の熱心な研究と、修辞学教育の復活があげられる。これらは歴史学にも影響をおよぼし、古代や当時の政治史をえがくために世俗的で現実的な手法をもちいることがひろまった。ブルーニはタキトゥスの著作を研究し、共和政期および帝政期ローマの歴史に新解釈をもたらしたのみならず、古代ローマをモデルにしてフィレンツェの歴史を再考した。
16世紀にはいると、マキアベリやグイッチャルディーニが、政治史を人間の法と野心の支配する世界としてえがきだした。こうして教会史と世俗の歴史は分離され、この点は、ルネサンス期の学問の影響をうけたヨーロッパのあらゆる地方で、みてとることができた。
| 6. | 古物研究と啓蒙時代 |
古典的な歴史書においては、調査を犠牲にしても文学的な技巧を駆使し、歴史を再解釈することが伝統となっていた。しかし、16世紀を境にして、ヨーロッパの多くの歴史家は国家や宗教の歴史を裏づける情報を体系的にあつめようと努力するようになった。
マビヨンやベルナール・ド・モンフォコーンをはじめとするフランスのベネディクト会修道士たちは、教会史の原典を詳細に検討し出版するようになり、イタリアのムラトーリはイタリア史の史料を収集した。ライプニッツは中世ドイツの年代記を編纂し、オーストリア人のヨーゼフ・エックヘルは古銭学という分野を確立した。ウィリアム・ダグデール卿、トマス・タンナー司教、トマス・ハーンの3人は、イングランドの文書資料や碑文を収集し、中世の年代記を編纂した。彼らを代表とする古物研究家の地道な作業によって歴史的知識の情報源が保存され、古文書学、古銭学、考古学といった研究分野が確立されていった。
細部や方法への妥協をゆるさぬ配慮により、古物研究は18世紀の啓蒙思想に鼓舞された哲学的歴史記述とは一線を画することとなった。ボルテールは、歴史記述の文学的な伝統に挑発的な合理主義の息吹きをもりこんだ。彼は政治に焦点をあてる古典的なやり方を無視し、文明がもつあらゆる側面を歴史叙述の対象にふくめたが、学術的な細部に関してはあまり頓着しなかった。
モンテスキュー、ヒューム、ウィリアム・ロバートソン、コンドルセといった啓蒙主義の歴史家たちは、歴史を哲学的な角度からとらえ、証拠の評価にはあいかわらず無頓着だった。ギボンは、啓蒙主義者らしい情熱と文学的な才能に、古物学的な研究態度をくみあわせて「ローマ帝国衰亡史」(1776~88)をあらわし、歴史書のひとつの基準を確立した。
| 7. | 19世紀の歴史学 |
ドイツの歴史家ランケの著作と影響力のもとで、歴史学は独自の批判的方法をもち、厳密な手続きを必要とする独立した学問領域として確立された。ランケは、歴史家は冷静かつ客観的な視点をもつべきだと主張し、対象となる時代の史料を参照することを歴史研究の基本とした。史料作者のおかれた歴史的状況をもとに、史料価値を吟味するという方法をうちだし、古物収集家が到達した地点をこえて史料批判の技術を大きく進歩させたのである。
中立的でかたよりのない視点と、すべての観察者は特定の時空間に属しており、したがって記録者としては偏向をまぬがれないという彼のするどい認識は、歴史を文学にむすびつけてきた古いきずなをたち切り、歴史学をより近代的な科学研究に衣替えさせるものであった。
フランスでは、ギゾーが文明史への関心をいだきつづけ、またフュステル・ド・クーランジュは新しく発達した科学的な手法を中世史に適用した。イギリスでは、マコーレーが随筆的な要素の強い個人史という啓蒙主義的なスタイルを展開していたが、大学ではもっと厳密な技法が採用されていた。オックスフォード大学のスタッブズは、同僚や学生たちとともに、史料の徹底的な検討にもとづいたイギリス史を確立した。その動きをさらに推進したのが、サミュエル・ガードナーであり、メートランドである。
注目すべきアメリカ史をはじめてあらわしたのはバンクロフトだが、彼の時代のアメリカの大学は、徐々にドイツ的な研究手法をとりいれるようになっていた。こうして、20世紀をむかえるころには、欧米の大学で歴史学が専門領域として確固たる地位をきずき、厳密な手法にもとづいて、文書館に蓄積された史料や新しい証拠を積極的に活用しながら研究をすすめるようになっていた。
| 8. | 現代の潮流 |
2つの世界大戦による世界の分裂は、国境をこえて共有できる視点に裏打ちされた共同作業という理想をくつがえすものだった。また、歴史研究でも専門化と多様化がすすみ、同時代のあらゆる知的活動と同様に、目的が分裂し、複雑化した状況をむかえた。過去の真実は簡単に再現できるという楽観主義は影をひそめ、事実の蓄積だけでは明瞭な構造としての歴史を構築できないとの認識がひろまった。歴史家はあからさまな偏見にとらわれていなくても、完全に中立な立場をとることは不可能であり、主観をまじえることなく客観的に現実を記録することができないとわかってきたのである。
さらに、考古学や人類学の進歩によってより古い時代の状況が判明するようになり、また、以前はまったく知られていなかった研究分野(経済史、心性史、思想史、家族史、農民の歴史など)が出現して、手法や目標が明確にさだまってくると、歴史学の範囲は時間的にも領域的にも大幅にひろがった。国民的歴史を時代遅れとみなす歴史学者もふえてきたが、完全に国際的な立場から歴史を叙述する作業はひじょうに困難である。
歴史家は、歴史を説明する新たな技法と形式をもとめて、社会科学(社会学、心理学、人類学、経済学)に注目するようになり、経済や人口統計の研究では数量データの高度な活用がおこなわれている。経済や社会の発展段階に関するマルクス主義の理論は、精神分析の歴史への適用とならんで、いまだに大きな影響をおよぼし、活発な議論をよんでいる。いっぽう、歴史をめぐる知識の基盤に関心をいだき、文学と歴史学との関係をみなおす動きもあって、歴史学とは学問的な装いをした文学でしかないのかもしれないという議論もなされている。