検索ビュー ブルガリア

この項目内で、特定の言葉で検索するには、[編集] メニューの [このページの検索] をクリックします。

入力した言葉とまったく同じ言葉で検索されます。見つからない場合は、別の言葉で検索してみてください。

ブルガリア
I. プロローグ

ヨーロッパ南東部、バルカン半島東部にある共和国。正式国名はブルガリア共和国。ルーマニア、トルコ、ギリシャ、マケドニア、セルビアと国境を接し、東で黒海に面する。かつては王国だったが、1946年以降、共産党の一党体制がしかれ、ブルガリア人民共和国と称した。90年、複数政党制に移行、現在の国名に改称した。面積は11万994km²。人口は732万2858人(2007年推計)。首都は最大の都市ソフィア。

II. 国土と資源

国土の半分以上を丘陵か山地が占める。北西から東の黒海にかけてバルカン山脈(スタラ山脈)がはしり、北のルーマニアとの国境をながれるドナウ川とエーゲ海との分水界をなしている。バルカン山脈の北斜面はブルガリア台地となってドナウ川にいたる。山脈の南側には並行するように、トラキア平原として知られる幾筋かの細長い平野が広がる。その南には起伏にとむ雄大なロドピ山脈がつらなり、ギリシャとの国境となっている。ロドピ山脈の西にあるリラ山脈には、バルカン半島の最高峰ムサラ山(2925m)がある。

主要河川はドナウ川と、その支流のイスクル川(全長370km)およびヤントラ川(290km)、エーゲ海にそそぐストルマ川、マリツァ川、メスタ川など。

1. 気候

冬寒く夏は暑い大陸性気候の地域が多い。同緯度のヨーロッパの他地域にくらべ、気候はきびしく、気温の年較差が大きい。干ばつや霜、風、雹(ひょう)などのため、作物にしばしば被害が出る。バルカン山脈の南側は、かわいた夏としめった穏やかな冬を特徴とする地中海性気候で、とくにロドピ山脈南西部の渓谷に顕著である。

2. 動植物と天然資源

国土の33%が森林におおわれており、その半分は木材向きの高木である。バルカン山脈は樹木の種類が豊富で、ロドピ山脈以西はブナ、ナラなどがみられる。哺乳類は81種(2000年)、鳥類は240種生息している。南西部の山岳地帯には、クマ、オオカミ、ヘラジカ、キツネなどの野生動物が生息している。

土地は穀物栽培に適し、肥沃(ひよく)なトラキア平原では多角経営も盛んである。鉱物資源は、鉄鉱石、石炭(褐炭)が代表的。少量ながらマンガン、石油なども産する。

III. 住民

ブルガリア人が全人口の84%におよぶ。トルコ人が約9%を占めるほか、少数のロム(ジプシー)、スラブ系マケドニア人、アルメニア人、ギリシャ人などがいる。1945年以後、急速に都市化がすすみ、2005年で、人口の71%が都市に居住する。

人口は732万2858人(2007年推計)で、人口密度は66人/km²。1990年の889万4028人から、人口は減少傾向にある。これは、民族的差別をうけてきたトルコ人が80年代後半、ブルガリア政府の抑圧からのがれようと、国外移住した影響が尾をひいているとみられる。

ブルガリアは行政上、28の州にわかれている。ソフィアが最大の都市(人口119万4164人(2002年推計))で、主要都市はほかに、軽工業の中心地プロブディフ、最大の港湾都市バルナである。

1. 言語と宗教

公用語はブルガリア語で、国民の90%がもちいている。ブルガリア文学

40年以上にわたり、政府は無神論の立場をとってきた。国民の65%がこれにしたがっていたとみられるが、1980年代後半の改革により宗教の禁止が解かれ、現在では70%以上がブルガリア正教(東方正教会)を信仰している。ほかに少数のイスラム教徒、ローマ・カトリック教徒、プロテスタント、ユダヤ教徒がいる。

IV. 教育と文化

中世、とくに10~11世紀のブルガリアはスラブ文化の中心地だった。ブルガリア文化は歴史的にみると、ビザンティン、ギリシャ、ロシア、西欧文化からさまざまな影響をうけてきている。

1. 教育

ブルガリアの教育システムは旧ソ連をモデルにつくられ、基本的にすべて無償である。工業化の進展にともない、熟練した技能労働者の養成が最大の目標とされてきた。義務教育は7~14歳である。識字率は98.8%。

高等教育機関は42校で、ソフィア大学などの総合大学のほか、工業、農業、経済、芸術、医学などの専門大学があり、私立大学もできている。

2. 図書館と博物館

おもな図書館として、ソフィアのブルガリア科学アカデミー中央図書館、ソフィア大学図書館、キリル・メトディイ国立図書館、プロブディフのイバン・バゾフ国立図書館があげられる。

博物館は200以上あるが、なかでもソフィアの植物・動物博物館、国立考古学博物館、国立民族学博物館が知られている。ほかにも歴史、とくに革命運動に関する博物館が多い。

3. 美術と建築

ソフィア近郊のボヤナ教会にある13世紀のフレスコ画は、この時期の傑出した作品のひとつ。刺繍や装飾品などの民芸品が豊富で、彫刻や銅版画、絵画にも、土着の伝統芸術をモチーフにしたものがみられる。芸術家では、銅版画のモロゾフ、絵画のディミトロフ、現代美術のクリストが有名。

建築遺産としては中世の教会や修道院があり、ソフィアの聖ゲオルギ教会、9世紀のリラ修道院、11世紀のバチコボ修道院が代表的である。近代ではソフィアのアレクサンダル・ネフスキー大聖堂がある。

4. 音楽

ブルガリアの伝統音楽としては、民謡や教会の聖歌があげられる。古来からつたわる民俗楽器はバグパイプに似たガイダ、木製の笛カバルなどで、民族舞踊に、手をつなぎ輪になっておどるホロと2組になっておどる軽快なラチェニツァがある。現代音楽の作曲家では、スタイノフ、ブラディゲロフがよく知られている。

V. 経済

1947年までは農業が中心で、重工業は皆無にひとしかった。第2次世界大戦後の社会主義体制下で全産業が国有化され、ソ連をモデルとした重工業中心の5カ年計画が、ソ連の資金援助により実施された。50年代半ば以降、外国人観光客を誘致するため、黒海沿岸のリゾート開発がすすめられた。90年の非社会主義政権の発足以降、市場経済化と土地の私有化、国営企業の民営化がすすめられている。96~97年に深刻な経済危機におちいり、GDP(国内総生産:GNPとGDP)成長率はマイナス10%をこえたが、IMF(国際通貨基金)の主導で改善されて98年にはプラスに転換し、2000年以降、4~5%を維持している。高インフレも金融安定化策により収束して、マクロ経済は安定。07年1月にEUへの加盟を実現した。

1. 農林業、漁業

1950年代初頭から農業の集団化がはじまり、80年代後半までに耕地の大部分が国または協同組合の管理下に入った。個人経営はごくかぎられたものだったが、生産高では全体の4分の1を占めていた。おもな作物は、コムギ、ライムギ、トウモロコシ、オオムギ、オートムギや綿花、タバコ、ブドウ、トマト、テンサイ、ジャガイモ、キャベツである。牧畜業も国有化され、家禽(かきん)、ヒツジ、豚、牛などが飼育されていた。92年の農地法により小農育成がはじまり、土地の私有化や旧所有者への返還がはかられた。林業では、リラ山脈、ロドピ山脈、バルカン山脈一帯を中心に木材生産がおこなわれている。

漁業は1960年代、70年代から発展し、黒海沿岸のバルナ、ブルガスに水産物加工工場がある。

2. 鉱業

鉱業では低品位の褐炭が中心で、産出量の半分は工業用につかわれている。1951年に油田が発見され、原油も産出する。ほかに、鉱物としては鉄鉱石、銅、亜鉛、鉛などがある。

3. 工業

第2次世界大戦後の社会主義政権の成立で工業が国有化されてから、多くの部門で生産が大幅に増大した。工業および建設業部門の生産高は1939年には総生産の4分の1だったが、80年代後半には65%以上に達した。ただし社会主義国では、公共事業やサービス業など物的生産に直接かかわらない活動は総生産にふくまれていない。90年代初めの社会主義政権の崩壊以後、市場経済への転換がはかられ、92年には国営企業の民営化法が制定された。

金属、化学、食品加工、タバコ、機械工業は比較的新しい分野である。繊維工業はブルガリアの伝統産業で、綿工業をのぞけば原料もほぼ自給できている。セメント、煉瓦(れんが)、ガラスなどの建設資材の生産、皮革製品や靴の製造も盛んだが、後者は国内の需要をみたしていない。金属精錬、製鉄は、鉄鉱石をのぞいて原料の多くを輸入に依存している。ローズオイルはブルガリアの特産品で、香水の原料としてつかわれる。

4. エネルギー

1980年代後半、エネルギー生産の約65%は石炭、褐炭、石油によっていた。74年にコズロドゥイ原子力発電所が開設されてから10年間で、原子力発電が電力生産のほぼ3分の1を占めるまでになり、2003年では総発電量380億6500万kWhのうち、42%が原子力発電による。バルカン半島最大の電力輸出国で、ギリシャ、マケドニアなどはブルガリアからの輸入電力に依存している。

コズロドゥイ原子力発電所では6基の原子炉が稼働していたが、そのうち旧ソ連型の4基についてはEUから安全性に問題があると指摘され、2002年に2基が、のこる2基も、EU加盟にむけて06年末に閉鎖された。ブルガリア政府は、1991年に建設を中止したベレネ原子力発電所の建設再開を2004年に正式決定し、06年にロシア企業が工事を落札した。

5. 通貨と外国貿易

通貨単位はレフ。銀行はすべて1947年に国有化されたが、90年代に国営銀行は統合されて減少する一方、民間銀行が増加した。資産面では外資系銀行が大きな割合を占めている。96~97年に多くの銀行が破産においこまれた銀行危機がおこった。発券銀行はブルガリア国立銀行。

外国貿易のほとんどが、旧ソ連や東ヨーロッパ諸国との取り引きで占められていたが、近年はそれ以外のイタリアやドイツなどとの貿易が増加している。2003年の輸入総額は109億103万米ドル、輸出は75億4021万米ドルである。おもな輸出品は、鉄・鉄鋼、衣類、靴、機械、輸送機器で、おもな輸入品は原油、天然ガス、機械、輸送機械、繊維、プラスチックなどである。

6. 交通とコミュニケーション

主要な交通手段は鉄道で、総延長は4163kmである。1954年、ドナウ川沿岸のルーセと対岸にあるルーマニアの町ジュルジュとをむすぶ橋が完成したことが契機となり、交通が発達した。これはドナウ川ではブルガリアとルーマニア間の最大の橋となっている。

ドナウ川は重要な通商路で、ルーセ、スビシュトフ、ロム、ビディンなど多くの河港都市がある。旧ソ連圏の国々との旅客や貨物輸送の大部分は、ドナウ川と黒海を通じておこなわれてきた。旧国営のバルカン航空は、国内ばかりでなく、世界の主要都市とをむすぶ路線をもつ。道路の総延長は3万7077kmで、舗装率は92%である。

テレビは1954年に実験局が開設され、59年から正式に放送を開始した。90年代初めまで定期刊行物はすべて、政府か政府の認可をうけた機関によって発行されてきた。おもな日刊紙は旧共産党機関紙「労働問題」、民主勢力同盟の機関紙「民主主義」など。

7. 労働

ブルガリアの労働運動は1990年に根本的な転換をむかえる。2月に労働組合中央評議会が共産党から独立し、独立労働組合執行委員会に改称した。3月には国会がストライキを合法化し、かつての地下労組「ポドクレパ」が正式に設立総会を開いた。

VI. 環境問題

主要な河川の中流から下流にかけてのほぼ全域が、産業施設から排出される溶剤、重金属、硝酸、油、未処理の廃水などで汚染されている。産業廃水や生活排水の処理施設はふじゅうぶんで、地域によっては施設がないこともある。黒海沿岸にはバルナ、ブルガスという2つの工業地帯があるが、この地域から発生している水質汚濁が観光地をおびやかしている。規制のない採鉱作業や、環境に配慮のない作業も土壌汚染の原因となっている。車の排気ガスや工場の排煙による大気汚染も深刻で、それによって酸性雨がふり、森林が広範囲にわたって枯れるなどの被害をまねいている。

1990年代のはじめ、ヨーロッパ共同体(現、EU)は、ブルガリアの環境改善や原子力発電の安全性を高めるため、金銭的支援をはじめた。

VII. 政治

1946年以降、共産党が唯一の合法政党だったが、90年初頭の憲法改正の決定により複数政党制が導入された。91年7月、新憲法が承認されている。

1. 行政、立法、司法

国家元首は直接選挙によってえらばれる大統領で、任期は5年である。

立法府は一院制の国民議会で、定数240。任期は4年。国民議会は行政の最高機関である内閣を選出する。

1991年に制定された新憲法は、司法の独立と憲法裁判所の創設をさだめた。ソフィアにある最高裁判所と各地の下級裁判所のほかに、軍事法廷がある。

2. 政党

1990年から91年にかけて、共産党による独裁に終止符がうたれ、複数政党制が導入された。91年10月の議会選挙では60の政党がしのぎをけずり、かつての反体制派の連合体として発足した民主勢力同盟(UDF)が辛勝した。ブルガリア社会党(BSP。旧共産党)は第2党となり、トルコ系政党「権利と自由のための運動」(MRF)が第3党として議席を獲得した。

しかし、失業者の激増、実質賃金の低下、インフレの高進など改革のマイナス効果が顕著となったため、1994年12月の総選挙では、不満票を吸収した社会党が与党の民主勢力同盟をおさえて議会での単独過半数を確保した。経済は95年からようやく上昇しはじめたが、深刻な財政危機がつづき、97年4月の総選挙では民主勢力同盟が勝利した。

第2次世界大戦後、共産党はその大衆組織「祖国戦線」を通じて政治権力を行使してきた。戦前の最大政党「ブルガリア農民同盟」は祖国戦線への従属を余儀なくされていたが、1990年に復権し、94年の総選挙では民主党と選挙連合「国民同盟」(PU)を結成して、議席の確保につとめた。

2001年の総選挙では、第2次世界大戦後の社会主義政権の誕生でスペインに亡命した元国王のシメオン2世が帰国して、選挙2カ月前に「国民運動」(NMSII)を旗揚げした。総選挙の結果は国民運動が約45%の得票を獲得し、与党だった民主勢力同盟および社会党中心の連合「ブルガリアのために」をやぶって第1党となった。「ブルガリアのために」は、05年の総選挙では第1党になり、「国民運動」「権利と自由のための運動」との大連立政権を形成している。

3. 厚生

保健および厚生は保健省の管轄下におかれている。すべての国民が無料で医療をうけられるが、医師はパートタイムでの個人的な診療行為もみとめられている。

年金、レクリエーション施設、福祉手当などのプログラムは1958年につくられたものである。16歳以下の子供には国家から児童手当が毎月支給される。

4. 防衛

ブルガリア軍は旧ソ連の援助をうけた最新鋭の装備をもつ。徴兵制で兵役は18カ月。2004年の兵力は陸軍2万5000人、海軍4370人、空軍1万3100人。ほかに国境警備隊、治安警察がある。

VIII. 歴史

現在のブルガリアにあたる地域は、1世紀後半にはローマ帝国の属州トラキア、モエシアを構成していた。6世紀に南下してきたスラブ人がこの地に定住し、トラキア人などの先住民を駆逐または吸収した。7世紀後半、黒海東岸にいたトルコ系のブルガール人がドナウ川をわたって侵入し、ビザンティン帝国の一部となっていたモエシアを征服し、681年にプリスカを首都として王国をつくった。ブルガール人に由来する国名をもつブルガリアのはじまりである。しかし、国内ではスラブ人のほうが多数を占め、ブルガール人は8世紀を通じてしだいにスラブ化される。

803年ごろから814年のクルム・ハーンの治下に、ブルガリアは大幅に領土を拡大。ビザンティン帝国をおびやかし、813年にはコンスタンティノープルにせまる勢いだったが、その後しばらくは平和的な関係をたもった。一方でセルビアやマケドニアにも領土を広げたが、860年セルビアとの戦いで大敗した。その後ビザンティン帝国とたたかったが、864年、ボリス1世はビザンティンとの和議に応じてキリスト教の受容に同意し、870年にブルガリアに大主教座をおくことをみとめた東方正教会に改宗する。

1. 第1次ブルガリア帝国

9世紀末から10世紀初めにかけて、ボリス1世の子シメオン1世の治世下、ブルガリア王国はヨーロッパ東部最大の強国となった。シメオンはビザンティン文化の普及をはかる一方で、マジャール人(ハンガリー人)やビザンティン軍とたたかって領土を拡大し、925年にはギリシャ・ブルガリア皇帝(ツァール)の称号をみずから名のった。この時代には、キュリロスとメトディオスの弟子たちの活躍などにより文化がさかえ、スラブ語初の文語である古代スラブ語とキリル文字が採用されている。

こうして成立した第1次ブルガリア帝国は10世紀後半、内紛やマジャール人の侵入により衰退にむかった。969年にはロシア軍が首都を包囲したが、ロシアの南下を警戒するビザンティン皇帝が介入したため撤退した。このとき、東ブルガリアはビザンティン帝国に併合される。西ブルガリアでは997年にサムイル帝が即位したが、1014年にビザンティン皇帝バシレイオス2世の攻撃に屈したため、18年、西ブルガリアもビザンティン帝国に併合され、第1次ブルガリア帝国は滅亡する。

2. 第2次ブルガリア帝国とオスマン帝国の支配

1185年、貴族のアセン兄弟にひきいられたブルガリア人がビザンティン帝国に対する反乱をおこし、86年に第2次ブルガリア帝国を成立させた。当初はバルカン山脈からドナウ川までの地域を版図としたにすぎなかったが、13世紀初めまでに隣接するセルビアやマケドニアにまで勢力をのばした。1204年、アセン兄弟の末弟カロヤンが十字軍によるコンスタンティノープルの占領に乗じ、一時的に東方正教会と断絶してローマ教皇の権威をみとめた。第5代のイバン・アセン2世の時代にはアルバニアまで支配を広げ、第2次ブルガリア帝国は最盛期をむかえた。

しかしイバン・アセン2世の死後、封建勢力の台頭とモンゴル軍の侵入などにより帝国は衰退し、1330年にはセルビアに決定的な敗北を喫する。60年代に入るとオスマン帝国の進出がはじまり、96年までにブルガリアのほぼ全域が支配下にくみこまれた。これ以後、ブルガリアは約500年間にわたってオスマン帝国に支配され、政治的、文化的には無力となる。オスマン支配に対する散発的な反乱はおきたものの、農民の状態はむしろ改善された。

18世紀後半から19世紀初頭にかけて、文化的復興の動きをきっかけにナショナリズムが高まった。1876年にはオスマン帝国に対する四月蜂起(ほうき)がおこったが失敗におわり、オスマン軍による大量虐殺の報復をうける。77年、オスマン帝国と南下をもくろむロシアとの戦争がおこり(ロシア・トルコ戦争)、翌年オスマン帝国が敗北したことから、ブルガリアは自治公国となった。ただし、バルカン山脈から南側の東ルーメリアはオスマン帝国の自治州とされた。

3. 独立とバルカン戦争

1879年、ドイツのバッテンベルク家のアレクサンダルが公国議会により初代の公に選出された。85年、東ルーメリアがオスマン帝国に反旗をひるがえし、ブルガリアへの統合を宣言。しかし、ロシアは時期尚早としてこれをみとめず、セルビアもブルガリアに宣戦を布告した。翌86年には親ロシア派のクーデタでアレクサンダル公が退位させられたが、反ロシア派のスタンボロフがこれをくつがえして首相に就任する。87年に新たに公に選出されたフェルディナントは、1908年、オスマン帝国で革命がおこったのに乗じてブルガリアの独立を宣言し、みずから国王フェルディナント1世を名のった。

1912年の第1次バルカン戦争で、ブルガリアはセルビア、モンテネグロ、ギリシャと同盟してオスマン帝国をやぶった。しかし、オスマン帝国から獲得したマケドニアの領土の再分割をめぐって第2次バルカン戦争が勃発(ぼっぱつ)し、ブルガリアはセルビア、モンテネグロ、ギリシャ、オスマン帝国、ルーマニアに敗北してかなりの領土をうしなう。

4. 第1次・第2次世界大戦

第1次世界大戦がはじまると、ドイツ・オーストリア側にたってたたかった。敗戦国となったブルガリアは1919年11月、連合国との講和条約(ヌイイー条約)によって、ふたたび領土の割譲を余儀なくされた。

1919年に成立したスタンボリスキを首班とする農民同盟政府は、内政では人口の大半を占める農民の状態の改善、外交ではほかのバルカン諸国との協調につとめた。しかし、農民同盟による独裁政治は軍人や都市の中産階級には不人気で、23年にクーデタでたおされ、スタンボリスキは殺害された。農民同盟、共産党、自由主義者をのぞく諸派の新政府のもとでも内紛はつづき、25年にはギリシャとの対立が再燃する。35年、国王ボリス3世がこうした状況を利用してクーデタをおこし、独裁体制を樹立した。

第2次世界大戦中の1940年9月、バルカン諸国の制圧にのりだしていたドイツの圧力によって、ブルガリアはルーマニアから南ドブルジアを獲得する。しかし、翌41年3月にはドイツから日独伊三国同盟への加入を強いられた。翌4月、ブルガリアはギリシャとユーゴスラビアに、12月にはアメリカとイギリスに宣戦を布告した。

1943年、劣勢にたったドイツはブルガリアに対ソ戦への参戦を要求した。8月、ユダヤ人迫害の要求などに抵抗していたボリス3世がヒトラーとの会見後に急死したため、6歳の息子シメオン2世が即位したが、ボジロフの親ドイツ政権が樹立される。44年9月、ソ連軍のブルガリアへの進撃がはじまると、共産党や農民同盟の組織した「祖国戦線」が呼応してクーデタを挙行し、政権を掌握。10月には連合国との休戦協定がむすばれた。

戦後処理がソ連主導ですすめられたため、第2次世界大戦後はソ連の影響力が強まった。1946年11月の総選挙は、ソ連の介入を理由とする反対派のボイコットの中でおこなわれ、「祖国戦線」が大勝した。

5. 社会主義時代

1946年9月、国民投票で国王シメオン2世の退位がきまり、ブルガリアは人民共和国の樹立を宣言した。共産党の指導者コラロフが大統領、コミンテルン元書記長のゲオルギ・ディミトロフが首相に就任する。

1947年2月、連合国との講和条約がパリで調印され、ブルガリアはまたも領土の割譲と返還、多額の賠償を課せられることになった。同年12月、ソ連憲法をモデルとした新憲法が採択され、ブルガリアは社会主義への道をあゆみはじめる。農民同盟指導者のニコラ・ペトコフをはじめ共産党以外の勢力を次々に粛清し、共産党が一党体制を確立した。

対外政策もソ連の動向に左右されるようになり、ブルガリアは近隣諸国のうち、1948年にコミンフォルム(→インターナショナルの「コミンフォルム」)から追放されたユーゴスラビアや、西側陣営に入ったギリシャ、トルコとの友好関係を断念せざるをえなかった。

社会主義国時代のブルガリアはトドル・ジフコフが共産党書記長に就任した1954年以降、ほぼその指導のもとにあった。コメコンおよびワルシャワ条約機構に加盟したブルガリアは、ソ連のもっとも忠実な同盟国となり、その見返りとして70年代にはソ連から多額の援助をうけ、工業化を推進した。

6. 体制の転換

1980年代半ば、ジフコフ政権はトルコ系住民の同化にのりだし、氏名のスラブ化、トルコ語の使用禁止などを強制したことから、89年にはトルコ系住民が大量に国外へのがれた。この事件をひとつのきっかけとして民主化要求が高まり、同年11月にジフコフは退陣においこまれる。

後任の書記長となったムラデノフのもとで、トルコ人の権利回復や複数政党制の導入を皮切りに改革がはじまる。1990年2月の共産党大会で一党独裁を放棄、6月におこなわれた戦後初の自由選挙では社会党(旧共産党)が勝利したが、8月には反体制派の指導者ジェリュ・ジェレフが議会で大統領に選出される(1992年1月に再選)。

1991年7月、新憲法が国民議会で承認された。同年10月、新しい制度のもとでおこなわれた選挙で戦後初の非共産党政権が誕生したのち、改革が本格化し、市場経済化や土地の再私有化などがすすめられた。92年には国営企業民営化法が議会を通過し、バルカン航空などの大規模な国営企業が売却された。

しかし、実質賃金の低下、高い失業率、急激なインフレが生活を圧迫したため、国民の政府批判が高まり、1994年12月の総選挙では不満票をあつめた社会党が勝利した。95年1月に社会党のビデノフ政権が成立したが、96年に入って銀行があいついで倒産するなど経済危機がますます深まったため、12月には内閣総辞職においこまれた。これに先だつ11月の大統領選挙では、民主勢力同盟のペタル・ストヤノフが与党社会党の候補を大差でやぶって当選した。

第2党だった民主勢力同盟のソフィアンスキ暫定内閣が1997年2月に発足するまで約2カ月の政治的空白が生じるなど、政局は混乱をきわめた。4月には繰り上げ総選挙が実施され、経済改革の継続と親西欧外交の推進を主張する民主勢力同盟が過半数を制した。5月には民主勢力同盟議長のイワン・コストフを首相とする新政権が発足した。コストフ政権は経済安定化を最優先課題とし、これまで実施がおくれていた電話、石油精製など主要国営企業の民営化をおしすすめた。

外交面では、トルコやギリシャなど近隣諸国との協力関係強化をはかった。NATOとは1994年に「平和のためのパートナーシップ」協定に調印したものの、正式加盟には慎重な姿勢をとり、97年2月に東欧ではもっともおそく加盟申請の意向を明らかにした。5月に発足したコストフ政権はNATOおよびEU(ヨーロッパ連合)への加盟を長期的な目標として再確認したが、民主化と経済改革の遅れがひびいて、7月のNATO首脳会議では加盟交渉第1陣からはずれた。EUとの加盟交渉においても第1陣の交渉対象国には入れず、事実上の後回しである交渉準備国にとどまった。

1999年2月、マケドニアとの間で国境不可侵などをうたった共同宣言が調印された。ブルガリアは、マケドニア語はブルガリア語の1方言であるという立場をとっているが、共同宣言を両国語で作成することに同意した。

1999年11月、クリントン米大統領がブルガリアを訪問し、NATO加盟への協力を表明した。12月、EU首脳会議がブルガリアなど6カ国を加盟対象国に決定したのをうけ、経済省を新設して体制整備をすすめた。

7. 元国王が首相、大統領は旧共産党系の社会党党首

2001年の総選挙を前に、元国王のシメオン2世が亡命先のスペインから帰国し、新政党「国民運動」を旗揚げした。選挙の2カ月前であった。「民主勢力同盟」政権は、それまでの4年間で高インフレの鎮静や経済のプラス成長など成果をあげてきた。しかし、失業率の増加や金権腐敗などに不満をいだき、新しい変化をもとめる国民は、新政党の国民運動に期待をたくした。選挙の結果は、国民運動が約45%の得票をえて第1党となり、トルコ系政党「権利と自由のための運動」と連立して、シメオン内閣が誕生した。

東欧の旧社会主義国で、国外にのがれていた旧王家の人物が母国の政権の座につくのははじめてのことであった。シメオン2世は、1946年に退位させられてスペインに亡命し、実業家となってホテル経営などで成功した。半世紀後の96年にはじめて一時帰国した際、市民の大歓迎をうけ、その5年後に政権を担当することになった。

2001年11月には大統領選挙がおこなわれ、現職のストヤノフ大統領が社会党のゲオルギ・パルバノフ議長にやぶれた。この結果、大統領が旧共産党出身で、首相が元国王という世界でもめずらしい組み合わせが誕生した。選挙でシメオン2世はストヤノフを支持したが、ストヤノフが、金権腐敗の体質を批判され、また経済的混迷を克服できなかった民主勢力同盟の出身であることに国民は嫌気がさし、パルバノフがおしあげられた。

シメオン内閣は、税制改革や合理化で経済安定をはかったが、これらの経済政策が国民の不満をよんで、2003年の統一地方選挙で国民運動は大敗を喫した。課題となっていたNATO加盟は、02年のNATO首脳会議での決定をへて04年4月に正式加盟が実現し、EU加盟についても、05年4月に新規加盟条約の調印にこぎつけた。イラク戦争に際してはアメリカを支持し、戦後、治安維持部隊に参加してイラクに400~500人を派兵した。しかし、民間人もふくめて犠牲者があいつぎ、05年3月にアメリカ軍の誤射によりブルガリア兵が死亡したことから、派兵反対の世論が高まって、政府は05年中にイラクからの撤退を決定した。

8. EU加盟

2005年6月の総選挙では、社会党を中心とした左派連合「ブルガリアのために」が82議席を獲得し、与党の国民運動をおさえて第1党となった。連立政権樹立にむけての各党との交渉は難航したが、パルバノフ大統領の働きかけにより、国民運動、権利と自由のための運動と合意が成立。社会党党首セルゲイ・スタニシェフを首班とする大連立内閣が8月に発足した。06年10月の大統領選挙では、EU加盟にむけて経済・社会改革を推進してきた現職パルバノフが再選された。

EUヨーロッパ委員会から、いくつかの分野で加盟準備の遅れが指摘されていたが、ブルガリアは、当初の予定どおり2007年1月1日にルーマニアとともにEU加盟をはたした。なお、司法改革、汚職一掃、組織犯罪やマネー・ロンダリングへの対策、EU農業補助金が適切に配分される仕組み、食品の安全などについては、今後の改善努力がもとめられている。

9. 日本との関係

日本とブルガリアの交流の歴史は比較的新しく、1909年(明治42)の日本によるブルガリアの独立承認を端緒とする。20年代ごろまで両国の交流は翻訳を通じての文学紹介などにかぎられていたが、30年代以降、日本は対ソ戦略の必要上、ブルガリアにも軍事的関心を強め、39年(昭和14)には相互に公使館を設置した。43年には文化協定もむすんでいる。

第2次世界大戦中はともに枢軸国側にたって参戦したが、1944年に「祖国戦線」政府が連合国側に転じて国交は断絶、しかも戦後は体制を異にしたため、国交回復は59年とおくれた。実質的な交流は60年代から再開された。70年にジフコフ首相が大阪万博出席のために来日したのを契機に、両国の関係は急速に進展。貿易額はまだ多くはないが、合唱や新体操など文化面での交流は着実に拡大している。97年(平成9)11月にはストヤノフ大統領が国賓として訪日し、港や道路などのインフラ整備への投資を中心とする日本の経済、技術協力を要請した。

ソフィア大学には日本語学科、タルノボ大学には日本語コースが設置されており、日本語学習者の数がふえている。