| 検索ビュー | 宇宙探査 | 項目ビュー |
| I. | プロローグ |
有人または無人で宇宙飛行しながらおこなう探査。宇宙探査はすなわち宇宙航行学と同じことであり、物理学、天文学、数学、化学、生物学、医学、エレクトロニクス、気象学などの分野に発見をもたらす学際的な調査である。
有人・無人の宇宙探査機は、太陽系と宇宙の本質と起源に関する新しい科学データを多く提供しつづけてきた(→ 宇宙論)。また、地球の軌道をまわる人工衛星をつかって、世界的な通信、気象予報、航行の安全、金属資源の探査や軍事目的のための地表の調査などが発展した。
宇宙時代の幕開けと宇宙航行学の実用化は、1957年10月4日のソ連(現、ロシア連邦)による人工衛星スプートニク1号の打ち上げとともにはじまった。58年10月、アメリカではアメリカ航空宇宙局(NASA)が創設された。それ以来さまざまな宇宙船がおもに地球をまわる軌道にうちあげられた。アポロ計画では12人の宇宙飛行士が月面をあるき地球に帰還した。
| II. | 宇宙空間の物理学 |
地球の大気と宇宙空間の境目ははっきりとせず、ぼやけている。空気の密度は高度がますにつれてしだいに減少していくため、上層大気の空気はひじょうにうすく、やがて宇宙空間ととけあってしまう。
大気の密度をあらわす気圧は海面では760トルである(1トルは約133.3パスカル)。海面から30kmの高度では気圧は9.5トル、60kmでは0.21トル、90kmでは0.0019トルである。しかし、高度200kmでも、空力的な摩擦によって人工衛星を減速させるのにじゅうぶんな大気がのこっている。したがって、長期間使用する人工衛星は、もっと高い軌道にうちあげなければならない。
| 1. | 宇宙空間での放射 |
ふつうの基準では宇宙空間は真空である。しかし、宇宙空間にはひじょうに微量の水素などのガスや、ごくわずかな隕石や流星の塵(ちり)がふくまれ、太陽から放出されるX線、紫外線、可視光、赤外線が縦横にはしっている。おもに陽子、アルファ粒子、重い原子核で構成される宇宙線も存在している。
| 2. | 重力 |
17世紀のイギリスの物理学者であったニュートンは万有引力の法則の中で、宇宙の中にあるすべての物質はほかのすべての物質と、質量の積に比例し、距離の2乗に反比例する力でひきあう、とのべている。したがって地球の重力は、地球からはなれるにつれて減少するが、宇宙船をふくむすべての物体におよんでいる。重力場(→ 場)は無限のかなたまで広がっており、どの高度においても重力が作用している。
地球あるいはほかの天体の周りをまわる宇宙船が無重力になるといわれるのは、遠心力の効果が、重力とひとしく反対の向きにはたらくためである。このような状態のもとでは、宇宙船の中の物体は空間にうかんでいるようにみえる。同様に、月が地球におちてこないのは、遠心力と重力のバランスがとれているからである。
航空機(飛行機)は、翼などにはたらく空力的な力によって、重力にさからってとびつづけることができる。しかし、宇宙空間には空気がないため、宇宙船はこの方法でとぶことができない。したがって、宇宙船が宇宙空間に存在するためには軌道をえがいていなければならない。
地球の大気中をとぶ航空機は、推進と飛行のためにプロペラと翼をつかうことができるが、宇宙では空気がないためにそうすることができない。宇宙船はニュートンの運動の3法則にもとづいて、推進と飛行をロケットの反作用にたよっているのである。宇宙船がある方向にロケットの爆風を噴射させると、ロケットの排気ガスに対する反作用として、反対向きの運動量をえることができる。→力学の「ニュートンの運動の3法則」
| III. | 人間と宇宙空間 |
宇宙空間は人間にとって多くの面でこのましくない環境である。空気も酸素もないために、人間は呼吸することができない。なんの保護もうけていない人間の身体は、真空の宇宙空間では数秒のうちに爆発的な減圧によって破壊されてしまう。惑星の影になった部分では温度が絶対零度に近づくし、太陽放射を直接あびれば致命的な高温になってしまう。高エネルギーの太陽放射と宇宙線も、地球大気によってまもられていない人間にとって致命的なものとなりうる。
このような状況は宇宙船の中でつかわれる装置や機械にも影響をあたえうるので、これらの設計と建設は宇宙環境にあわせておこなわなければならない。無重量状態が人間にどんな影響をあたえるかを知るために、宇宙空間での実験が長期にわたって集中的におこなわれてきた(→ 宇宙・航空医学)。
宇宙環境から人間を保護する方法がいくつかある。現在、人間は地球と同じ状況をほぼ再現した、加圧空気あるいは酸素の供給される気密室あるいは宇宙服の中で行動している。気密室や宇宙服の温度・湿度は空気調整装置で制御されている。宇宙船の外側表面での吸収と反射によって、宇宙船に影響をおよぼす熱放射の量を調整する。さらに宇宙飛行は地球の周りにあるバン・アレン帯からの強い放射をさけるように計画されている。
将来の長期にわたる惑星間飛行では、太陽放射の嵐(あらし)から身をまもるために厚いシールドをつけるか、乗組員を宇宙船の中央部分にいれて搭載物資や装置でとりかこみ、保護するようにしなければならないだろう。長期にわたる宇宙旅行や、地球の周りをまわる人工衛星での長期滞在の場合、宇宙船を回転させ、遠心力によって人工的な重力をつくることで無重量の効果を軽減できるかもしれない。
| IV. | 歴史 |
人々は現実に可能になる何千年も前から宇宙飛行を夢みてきた。その夢の証拠が、さかのぼること前4000年のバビロニアの書物をはじめとして、神話や物語としてえがかれている。古代ギリシャのダイダロスとイカロスの神話もまたとぶことへの普遍的な望みを反映している。2世紀には、ギリシャの作家ルキアノスが想像上の月旅行について書いている。
17世紀初めにはドイツの天文学者ヨハネス・ケプラーが、月旅行に関する科学小説とでもいうべき「夢」を書いた。フランスの文学者のボルテールは「ミクロメガス」(1752)の中でシリウスと土星への旅についてかたっている。1865年にはフランスの作家ジュール・ベルヌが「地球から月へ」の中で宇宙旅行をえがいた。宇宙飛行への夢は20世紀になってもさめることはなく、イギリスの作家H.G.ウェルズが「宇宙戦争」(1898)、「月世界最初の人間」(1901)を出版した。最近では、宇宙飛行への夢はサイエンス・フィクション(SF)によってはぐくまれている。
| 1. | 初期の開発 |
宇宙飛行がたんなる夢であった時代には、天文学、化学、数学、気象学、物理学の研究者たちは、太陽系、星の世界、地球の大気について理解を深めようとしていた。前7~前6世紀にはギリシャの哲学者タレスとピタゴラスが地球は球であることに気づいた。前3世紀にはアリスタルコスが地球が太陽の周りをまわっていると主張した。前2世紀にヒッパルコスは星と月の運動について論じていた。2世紀になるとアレクサンドリアのプトレマイオスが、プトレマイオス体系(天動説)の中で地球を太陽系の中心にすえた。
| 2. | 科学的な発見 |
プトレマイオスの時代から約1400年後、ポーランドの天文学者ニコラス・コペルニクスが、地球をふくむ惑星が太陽の周りをまわっているという地動説を体系的に説明した(→ コペルニクス体系)。16世紀後半、デンマークのティコ・ブラーエの観測データをもとに、ケプラーが惑星の運動の法則(→ ケプラーの法則)を発見した。ガリレイ、エドモント・ハリー、ウィリアム・ハーシェル、ジェームズ・ジーンズなども宇宙航行学に直接的な貢献をした天文学者である。
物理学と数学の発達も宇宙航行学の基礎をかためるのに貢献した。1657年、ドイツの物理学者ゲーリケは「マクデブルクの半球の実験」をおこない、真空を維持できることを証明して、「自然は真空を拒否する」という古い理論が誤りであることをしめした。17世紀末、ニュートンは万有引力の法則と運動の法則を公式化した。ニュートンの運動の法則は、宇宙船の推進と軌道運動についての基本原理となっている。
こうして、はやい時期に科学的な基礎がかたまったにもかかわらず、宇宙船のロケット推進や誘導、制御をする方法が確立する20世紀まで、宇宙飛行は可能にならなかった。
| 3. | ロケット推進 |
ロケット推進の技術も起源は古い。古代のロケットは燃料に火薬をつかい、今日の花火によく似ている。1232年、中国では開封の町をモンゴル帝国の侵攻から防御するのにロケットがつかわれたという。ルネサンス以後、ヨーロッパの戦争でもロケットがつかわれたらしく、実際に軍事でつかわれた記録がのこっている。1804年にはイギリスの軍隊が射程距離約1830mのロケットを装備したロケット部隊を創設した。
1890年、ドイツの法学部の学生ヘルマン・ガンスウィンドは固体推進薬をつかう宇宙船を考えたが、これは安定性の問題に注意をはらう必要性を大きくアピールすることになった。ロシアのコンスタンティン・ツィオルコフスキーは1903年に著書「反動装置をもちいた宇宙空間探検」の中で、宇宙船に液体推進薬をつかうロケットを提案した。23年、ドイツの数学者・物理学者ヘルマン・オーベルトが「惑星間空間へのロケット」を出版した。この本にドイツの建築技師ウォルター・ホフマンが加筆して、25年に「天体へ到達する可能性」を出版した。この中には惑星間軌道についての最初のくわしい計算がのせられている。
アメリカにおけるロケット推進のパイオニアは、クラーク・カレッジ(現在はクラーク大学)の物理学教授ロバート・ゴダードであった。彼は1920年代初めに液体燃料をつかったロケット実験をはじめた。そして、26年に液体燃料によるロケットの打ち上げにはじめて成功した。
第2次世界大戦(1939~45)によって、長距離弾道飛行ロケットの開発は、弾みがついた。アメリカ、ソ連、イギリス、ドイツは軍事目的のロケット開発に着手した。もっとも成功したのがドイツで、バルト海沿岸のペーネミュンデで、ロンドンの攻撃につかわれた液体推進のロケットV-2号を開発した。その生産は、ミッテルバウ・ドーラの地下工場で強制収容所の収容者たちの奴隷的労働によっておこなわれ、多くの収容者が犠牲になった。戦争がおわるとアメリカ軍は多くのV-2号をもちかえり、垂直飛行の実験につかった。ドイツのエンジニアの一部は戦後ソ連にうつったが、ウォルター・ドルンベルガーとウェルナー・フォン・ブラウンらの主要なロケット専門家はその責任をとわれることなく、アメリカに移住した。→ミサイルの「ミサイルの歴史」
| V. | 宇宙船 |
人間をのせない宇宙船は、直径数センチメートルから数メートルまでのさまざまな大きさで、電波送信装置を搭載するなどの設計目的にあわせた形態にすることができる。しかし、有人宇宙船は、宇宙飛行士のための空気や食料と水、航行・誘導装置、座席や寝台の設備、地上との通信装置を搭載するように設計され、大気に再突入するときに宇宙船をまもるための熱シールドもほどこさなければならない(本項目の「打ち上げと再突入」を参照)。
| 1. | 推進力 |
宇宙船をうちあげて推進させるロケットエンジンにはおもに2つのタイプがある。火薬と同じようにもえる化学物質をつかう固体推進ロケットと、別のタンクにいれた液体燃料と酸化剤とをつかう液体推進ロケットである。アメリカでは宇宙船をうちあげるロケットの大部分が数段式になっており、各段はそれぞれの燃料で別々に動力をえるようになっている。各段の燃料が消費されると、空になった段は宇宙船から切りはなされる。
打ち上げロケットの技術は、ICBMやSLBMといった長距離弾道ミサイルの技術と共通しているため、1957~65年まで、人工衛星をうちあげる能力をもっていたのはアメリカとソ連の2カ国だけであった。その後、フランス、日本、インド、中国、イギリスが地球の周りをまわる人工衛星をうちあげるようになった。83年5月には13カ国が参加するヨーロッパ宇宙機関(ESA)が、フランス領ギアナのクールーにあるスペースセンターをつかって、打ち上げ計画をスタートさせた。そして、アメリカとロシア、ヨーロッパ宇宙機関、中国は有人宇宙船の必要条件である10t近くのペイロード(積載物)を軌道までもっていく能力をもつ打ち上げロケットを所有している。
| 2. | 打ち上げと再突入 |
宇宙船は特別に建設された基地からうちあげられる。宇宙船と推進ロケットがすえつけられ、打ち上げ前にじゅうぶんに点検をうける。点検作業はコントロール・センターのエンジニアと専門家によって指揮される。すべての準備がととのうとロケットエンジンに点火され、ロケットと宇宙船は離陸する。
再突入は、もどってきた宇宙船が地球の大気圏に入るとき、動圧過加重や空力的な加熱によって破壊されることなく着陸できるように減速するのが問題である。アメリカのマーキュリー、ジェミニ、アポロ計画の宇宙飛行では、宇宙船の先端表面を特別に開発した耐熱シールドでおおうことで克服した。熱シールドとは、金属、プラスチック、ファインセラミックスでできたタイルのカバーを船体に接着してあり、再突入の際にとけて蒸発する。宇宙船や宇宙飛行士に損傷をあたえることなく熱を放散させるのである。滑走路に着陸するスペースシャトルが開発される以前は、アメリカの有人宇宙船はすべて着陸の衝撃をやわらげるために海に着水した。宇宙飛行士と宇宙船はすぐにヘリコプターによって回収され、待機している軍艦にはこばれた。ソ連の時代からロシアの宇宙船はシベリアのさまざまな地点に着地していた。
| 3. | 地球の周りの軌道 |
地球をまわる宇宙船の軌道は、円形か楕円形である。円形軌道にある人工衛星は一定の速度でうごいているが、高度が高いほど地表との相対的な速度がおそくなる。赤道上3万5800kmの高度では、人工衛星は地球に対して静止状態となる。人工衛星は地球とまったく同じ速度で静止軌道を移動するので、常に赤道のある地点の上空にある(→ 静止衛星)。通信衛星や静止気象衛星(GMS)はこのような軌道にうちあげられている。
楕円軌道では速度が変化し、地球の近地点で最高速度となり、遠地点で最低となる。楕円軌道は地球の中心をとおる平面上ならどこでもよい。極軌道は、北極と南極をとおる平面、つまり地球の自転軸がとおる平面上にあり、赤道軌道は赤道をとおる平面上にある。軌道平面と赤道平面とがなす角度は、軌道傾角とよばれる。→ 軌道
地球は極軌道にある人工衛星の下で24時間に1回自転する。極軌道にあるテレビカメラと赤外線カメラを搭載した気象衛星は、1日で北極から南極まで全地球の気象状況を観測することができる。
人工衛星の軌道が真空の宇宙空間にあるかぎりは、摩擦によって速度がおちることがないので、推進力なしに軌道をうごきつづける。しかし、軌道の一部または全部が地球の大気中をとおる場合には、空気との摩擦によって減速される。このためしだいに軌道高度はさがっていき、ついには大気中に完全に再突入し、流星のようにもえつきてしまう。
| VI. | 無人宇宙計画 |
宇宙をとぶ神話、夢、小説や科学技術の長い歴史は、1957年10月4日、ソ連による最初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げで頂点に達した。この人工衛星につけられたロシア語名は「世界の旅行仲間」を意味するスプートニク・ゼミリで、その名のとおり太陽の周りをまわる地球の仲間となった。
| 1. | 初期の人工衛星 |
スプートニク1号は直径58cm、重さ83kgのアルミニウム製の球形で、地球の周りを96.2分で1周した。この人工衛星は楕円軌道をとり、遠地点は946km、近地点は227kmである。また、この球の中につみこまれた装置は、21日間、宇宙線、流星体、上層大気の密度と温度についてのデータを送信してきた。57日目にスプートニク1号は地球大気に再突入し、空力熱のためにもえてしまった。
第2の人工衛星もまたソ連製で、スプートニク2号である。1957年11月3日にライカ犬をのせてうちあげられ、宇宙医学に重要な情報をおくってきた。スプートニク2号は打ち上げから162日後に地球の大気に再突入し、破壊された。
スプートニク2号がまだ軌道上にあった1958年1月31日、フロリダ州ケープカナベラル(1963~73年はケープ・ケネディとよばれた)からアメリカ初の人工衛星エクスプローラ1号がうちあげられた。重さ14kg、直径15cm、長さ203cmの円筒形の人工衛星は112日間、宇宙線と微小隕石の測定結果を送信してきたが、その中にはバン・アレン帯の発見へとつながるデータもふくまれていた。
1958年3月17日、アメリカ第2の人工衛星バンガード2号がうちあげられた。その軌道がどのように変化したかを正確にしらべることにより、地球がわずかに洋ナシの形をしていることがわかった。この衛星は太陽エネルギーをつかって6年以上も信号をおくりつづけた。つづいて58年3月26日にはエクスプローラ3号が、5月15日にはスプートニク3号がうちあげられた。1327kgのスプートニク3号は、60年4月に軌道が低下するまで太陽放射、宇宙線、磁場などを測定しつづけた。
| 2. | 無人月探査 |
地球にもっとも近い天体である月は、多くの宇宙計画の対象となってきた。1959年9月12日にうちあげられたソ連のルナ2号は36時間後に月に衝突した。月の科学的探査はこのときからはじまった。月面裏側の最初の写真は59年10月4日にうちあげられたルナ3号によって撮影された。64年7月28日にアメリカがうちあげたレインジャー7号は、月に衝突する直前に高度が約1800kmから約300kmにさがるまで、月面のテレビ画像を4306枚送信してきた。地球にいるわたしたちにはじめての月のクローズアップ写真を提供したのである。
| 2.A. | サーベイヤー |
1966年1月31日、ソ連のルナ9号は、月面へのはじめての軟着陸に成功した。軟着陸とは、破壊されることなく着陸することをいう。5月30日、アメリカのサーベイヤー1号もこれにつづいて軟着陸に成功し、1万1237枚の月のクローズアップ写真を地球におくってきた。
月探査への興味は、月に人間を着陸させる計画にあつまっていた。これにむけてさらに多くの無人月飛行がおこなわれ、1967年にはサーベイヤー3号と5号も月に軟着陸し、多くの月面のテレビ画像を地球におくってきた。サーベイヤー3号は月の土壌のサンプルを採取し、テレビカメラでそれらをしらべた。サーベイヤー5号はアルファ粒子散乱法をつかって月面を化学的に分析した。これは地球外の天体をその場で分析したはじめてのケースである。
| 2.B. | ルナ・オービター |
月着陸のための調査では、もうひとつのアメリカの宇宙船ルナ・オービターが活躍した。1966年と67年に5機のルナ・オービターが月をまわった。そして、1~3号は月面から数十キロメートルの低高度で、4号は高高度から月面全体を、5号は月の裏側の写真をそれぞれ何千枚も撮影し、データを地球におくってきた。これらの写真をもとに、アポロ計画のための着陸地点がえらばれたのである。
| 2.C. | ルナ |
ソ連がおこなったほかの2つの無人自動月計画も注目に値する。1970年9月12日にうちあげたルナ16号は月に着陸し、約113gの月の土壌を密封した容器にいれ、地球にもどった。同年11月10日にうちあげられたルナ17号は、自動月面車ルノホート1号を軟着陸させた。この月面車にはテレビカメラと太陽電池が装備されており、地球から遠隔操作されながら10日間、10.5kmをはしり、テレビ映像と科学データをおくってきた。73年、ルナ21号により月面の別の地点に着地したルノホート2号は35kmをはしって、1号と同じことをくりかえした。ルナ計画は76年のルナ24号で終了した。日本でも90年(平成2)1月に宇宙科学研究所(現、宇宙航空研究開発機構)が「ひてん」をうちあげ、3月には「ひてん」から分離した「はごろも」を月の周回軌道に投入することに成功した。なお、「ひてん」自身も月をつかったスイングバイの実験などをおこなったのち92年に月の周回軌道にのり、93年に月面に落下した。
| 3. | 科学衛星 |
打ち上げ用ロケットと科学衛星(→ 人工衛星)に搭載された装置の信頼性がますにつれて、さまざまな人工衛星が開発された。人工衛星は、太陽とほかの星、地球、宇宙空間そのものについてデータをえる新しい方法だった。地表からこのようなデータをえようとしても、大気が地球をおおっているため、ラジオゾンデをつかうといったかぎられた方法しかなかったのである。
| 3.A. | ハッブル宇宙望遠鏡など天文衛星 |
アメリカでも1962年から多くの天文衛星がうちあげられた。たとえば、軌道太陽天文台(OSO)は太陽の紫外線、X線、ガンマ線をしらべた。パイオニア衛星は宇宙線、太陽風、宇宙空間の電磁気をしらべた。軌道天文台(OAO)は星の放射を観測し、軌道地球物理学天文台(OGO)は太陽、地球、そして宇宙環境の関係を調査した。83年にうちあげられたイギリス・アメリカ共同の赤外線天文衛星(IRAS:アイラス)は、銀河系(→ 天の川)のかくされた部分を探査した。
1990年、スペースシャトル「ディスカバリー」から軌道に投入されたハッブル宇宙望遠鏡は、さらに多くの科学的データをもたらしている。宇宙望遠鏡の運用をはじめてすぐに望遠鏡の主鏡に欠陥があることが発見されたが、スペースシャトル「エンデバー」にのりこんだ宇宙飛行士が、93年12月にハッブル宇宙望遠鏡の修理をおこなった。しかし、修理前でさえこの望遠鏡は地上にいる天文学者に、これまでに観測されたことのない現象をふくむ貴重な映像をおくることができた。
| 4. | 実用衛星 |
実用衛星は、通信、環境、航行の3つに分類される。この種の実用衛星もまた、地球外からの観測に重要な機能を発揮する。
環境衛星は地球と大気を観測し、さまざまな目的のために映像をおくってくる。気象衛星は毎日、温度と雲のようすを知らせてくる。静止気象衛星(GMS)は、静止軌道から30分間隔で地表の広い面積の画像をおくってくる。2機のSMSでアメリカ全土および付近の海洋域を網羅することができる。日本のひまわりも静止気象衛星である。→気象学の「高層気象観測」
| 4.A. | ランドサット |
アメリカのランドサットは、地球を多波長のスキャナーで観測し、データを地上局におくってくる。カラー画像に処理されたこれらのデータの映像から、土壌の特徴、水と氷の量、沿岸の水の汚染、塩分濃度、農作物や森林の虫害に関する情報をえることができる。森林火災も地球の軌道上から発見することができるのである。また、地質学者が石油や鉱床のある場所を確認するために、地殻の褶曲や割れ目の調査もおこなわれる。1986年にうちあげられたフランスのSPOT衛星は、ランドサットよりもはるかにくわしい地球の映像をおくってくる。→ リモートセンシング
| 4.B. | 軍事偵察衛星 |
アメリカなどでは軍事偵察衛星(→ 軍事衛星)をつかって、大気中と宇宙空間での核爆発を検出したり、弾道ミサイル発射場、軍艦や軍隊の移動といった軍事目的の写真を撮影したりしている。1980年代にはアメリカがレーザー技術をつかった対弾道ミサイル防衛システムの開発を提案したことで論争がおこった。→ 宇宙兵器
| 4.C. | 航行衛星 |
航行衛星を利用すると、船や潜水艦はみずからの位置を数の誤差で知ることができる。現在では、人工衛星からの信号のドップラー偏移(→ 赤方偏移)を測定することのできる商船であれば、アメリカ海軍のトランシット衛星を利用することができる。また、複数のGPS衛星をつかう航行システムが、軍事と産業目的のために運用されている。1967年には宇宙空間の利用に関する宇宙条約が締結された。→ 宇宙通信:GPS
| 5. | 惑星調査 |
月よりも遠い天体では、惑星探査機が着陸した火星と金星、接近した水星、木星、土星、天王星、海王星が調査され、彗星についても調査がおこなわれた。
| 5.A. | 火星 |
旧ソ連は1971年5月に火星2号と3号をうちあげた。この2機の惑星探査機は火星に到達したが、わずかなデータをおくってきただけだった。73年7~8月には火星4~7号をうちあげたが、技術的な不調がついてまわった。88年、旧ソ連は火星の衛星であるフォボスに着陸させるフォボス1号と2号の探査機をおくったが、どちらも電波による連絡がとれなくなった。
アメリカでは1971年5月にマリナー9号がうちあげられ、11月から72年10月まで火星の周りをまわって、火星のほぼ完全な地図をつくるのにじゅうぶんな写真を送信してきた。75年の8月と9月にはバイキング1号と2号が火星への11カ月におよぶ旅を開始した。それぞれの惑星探査機には、生命の検出と化学分析をおこなうための実験室、2台のカラーテレビカメラ、気象と地震の測定装置のほか、着陸船が搭載され、地球から操作できるように設計された3mの長さの格納式の採取道具を装備していた。両機とも数年間うまく機能し、火星の地図をつくるデータをえることができた。
1990年代に入ってNASAでは、将来の有人火星探査を念頭において、いくつかの火星探査衛星をおくりこんでいる。マーズ・グローバル・サーベイヤーは97年9月に火星周回軌道にのり、99年3月から火星の地形や磁場の本格的な観測をおこなった。2002年4月までの観測によって高解像度の火星の地形図などがえられた。また1997年7月にはマーズ・パスファインダーが火星への軟着陸に成功し、地表の各種データや映像をおくることに成功した。2001年10月に火星の周回軌道にのったマーズ・オデッセイは、火星の南極近くの地層に水があることをつきとめるなど、多くの成果をあげている。
宇宙科学研究所(現、宇宙航空研究開発機構)が開発した日本初の火星探査機(惑星探査機)「のぞみ」は1998年(平成10)7月にうちあげられた。しかし、たび重なる計器の故障などにより、2003年12月に火星の周回軌道にのせることが断念された。
2004年1月には、ヨーロッパ宇宙機関(ESA)の探査機マーズ・エクスプレスが火星の周回軌道にのったが、搭載していたビーグル2の火星軟着陸には失敗した。一方、03年6月にうちあげられたNASAの無人探査車「スピリット」は、04年1月4日に火星の赤道南側にあるグセフ・クレーターへの軟着陸に成功した。また同月25日には姉妹車の「オポチュニティ」が、ほとんど反対側にあたるメリディアニ平原に軟着陸をした。両探査車は高度な分析装置をつかって岩石の構造や成分の調査などをおこない、04年には火星にかつて大量の水が液体の状態で存在していたことをしめす証拠をみつけたと発表した。08年5月に火星の北極圏、ボレアリス平原への軟着陸に成功したNASAのフェニックス探査機は、従来の観測装置だけでなく、ロボットアームを装備しており、火星の表面を数十センチメートル掘削し、土壌のくわしい成分分析や氷の存在の確認をおこなっている。
| 5.B. | 金星 |
旧ソ連は金星の濃厚な雲でおおわれた大気をとおりぬけるという計画をたて、大成功をおさめた。1970年8月にうちあげられたベネラ7号は、高温・高圧にたえて温度のデータを23分間送信してきた。72年にうちあげられたベネラ8号は土壌の分析をふくむ表面のデータをおくってきた。75年10月には、ベネラ9号と10号が表面に着陸船をおろし、両探査機とも1時間にわたって、金星表面のはじめての写真をおくってきた。
1978年、ベネラ11号と12号はプローブ(探査装置)を放出し、それぞれ12月25日と21日に金星に着陸した。両探査装置とも、大気が88気圧で表面温度が460°Cであることを記録した。82年3月1日と5日にベネラ13号と14号が金星に着陸した。2機は地表の写真を送信し、大気と土壌にふくまれる化学元素を分析した。83年10月10日と14日、ベネラ15号と16号は金星をまわる軌道に入り、レーダーによる像をおくってきた。85年6月、ハレー彗星へとむかう途中のベガ1号と2号が、金星の大気中に4機の探査装置を放出した。
アメリカでは、パイオニア・ビーナス1号(オービター)と、4機の大気探査装置をつんだ2号が1978年5月20日と8月8日にうちあげられ、それぞれ12月6日と10日に金星に到着した。オービターは金星のほぼ全表面の地図を作成し、探査装置は大気の組成と運動、太陽風の影響を分析した。89年5月にはマゼラン探査機がスペースシャトルから放出され、90年8月から92年9月まで金星の観測をおこない、地形の解明に活躍した。そして、94年10月に金星の大気に突入した。2005年11月、ヨーロッパ宇宙機関(ESA)は、探査機ビーナス・エクスプレスをうちあげた。06年4月に金星に到着した同探査機は、09年5月初めまで金星大気の観測をおこなっている。
| 5.C. | 水星 |
太陽にもっとも近い水星のくわしい調査は、1973年10月NASAがうちあげたマリナー10号による。マリナー10号は74年2月に金星のそばをとおり、その重力をつかって太陽軌道に入ったあと、3月には水星から692kmの距離まで近づき、この惑星が月のようにクレーターでおおわれているようすをはじめて送信してきた。9月におこなわれた水星との2度目の接近で、存在がまったく予想されていなかった水星の磁場を検出した。75年3月、最後の接近では、マリナー10号は325kmまで近づくことに成功した。2004年8月、NASAは太陽系探査プログラム「ディスカバリー計画」のひとつとして、水星探査機メッセンジャーをうちあげた。08年1月と10月に水星に接近し、11年3月には水星を周回する軌道にのり、約1年にわたって水星の観測をおこなう予定である。
| 5.D. | 木星と土星 |
1972年3月と73年4月にうちあげられたアメリカのパイオニア10号と11号は、火星軌道の先の未踏であった小惑星帯(→ 小惑星)を無事にとおりすぎ、73年12月と74年12月に木星のそばを通過した。258kgの2機の探査機は、木星から13万1500kmと4万1000kmのところを通過した。パイオニア10号はさらに太陽系の外へと旅をつづけ、太陽系外におくられた最初の人工物体となった。約8万年後に最初の星と遭遇する予定である。パイオニア11号は79年9月に土星から2万1400kmまで接近した。
ジェット推進研究所で開発され、1977年にうちあげられたボイジャー1号と2号は、79年の3月と7月に木星系およびその衛星のいくつかにも接近し、さまざまな測定をおこない、写真を撮影した。その後、これらの探査機は80年11月と81年8月に土星系のそばをとおりすぎた。両探査機とも現在も活動中で、データ収集をつづけながら、太陽系の外側に広がる深宇宙をめざして飛行中である。
1989年10月にスペースシャトル「アトランティス」から放出された惑星探査機ガリレオは、95年12月に木星の大気圏内に7個のプローブ(探査装置)を投下し、58分間観測データを送信した。その後、ガリレオの本体は、木星とその衛星の観測をおこなっていたが、2003年9月に木星の大気圏に突入し、消滅した。
NASAの惑星探査機カッシーニ=ホイヘンスはアメリカとヨーロッパ13カ国共同の土星探査計画で、1997年10月にうちあげられ、2004年7月に土星の周回軌道にのった。08年まで土星系の観測をおこなう予定となっている。探査機にはヨーロッパ宇宙機関(ESA)が製作した小型探査機のホイヘンスが搭載されていて、05年1月には衛星のひとつであるティタンに軟着陸した。その飛行中には大気圏の組成などが観測された。07年にカッシーニは、ティタンの北極および南極地方に、400をこえるメタンの湖を発見した。これらは火山活動や浸食によって形成されたと考えられている。
| 5.E. | 天王星と海王星 |
土星のそばをとおりすぎたあと、ボイジャー2号は天王星へとむかった。1986年1月、雲でおおわれた天王星から約7万km以内のところをとおりすぎ、新しく4本の環と10個の新しい衛星を発見した。さらにこの探査機は衛星のひとつミランダにも接近し、氷でできたミランダの写真をおくってきた。それからボイジャー2号は海王星へとむかい、89年8月に5000km以内のところを通過し、太陽系を最終的にはなれる前に海王星の新しい衛星を6個発見した。
| VII. | 有人宇宙計画 |
1957年に最初の人工衛星の打ち上げに成功してからまもなく、ソ連とアメリカは地球をまわる軌道に人間をおくりこむ計画をスタートさせた。両国は無重力が生物にあたえる影響を調査するために、イヌとサルを軌道へおくった。
| 1. | ウォストークとマーキュリー計画 |
最初に宇宙に人間をおくったのはソ連であった。宇宙飛行士ガガーリンは1961年4月12日にウォストーク1号で地球を1周し、「地球は青かった」とつたえてきた。1時間48分の飛行中に、彼は327kmの遠地点と180kmの近地点に到達し、無事にシベリアに着陸した。63年6月16日にうちあげられたウォストーク6号の宇宙飛行士であるテレシコワは宇宙を飛行した最初の女性である。彼女は地球を48周した。→ ウォストーク
一方、アメリカのマーキュリー計画も形をなしつつあった。1961年5月5日、シェパードはフリーダム7号で15分間の有人弾道飛行に成功し、宇宙にとびたった最初のアメリカ人となった。62年2月20日には、グレンがアメリカ人としてはじめて地球を3周した。
| 2. | ウォスホートとジェミニ計画 |
ソ連はウォストーク宇宙船を改造して、2人から3人の宇宙飛行士をのせられるウォスホート宇宙船を準備した。1964年10月12日、宇宙飛行士コマロフ、エゴロフ、フェオクチストフがウォスホート1号で16周の飛行をおこなった。これはこの年おこなわれた唯一の宇宙飛行で、旧ソ連の宇宙飛行士が宇宙空間ですごした時間の合計は455時間になった。アメリカの合計は54時間しかなかった。65年3月18日、宇宙飛行士ベリャーエフとレオーノフの2人がウォスホート2号でうちあげられた。この17周の飛行中、レオーノフは最初の宇宙遊泳に成功し、命綱をつけて船外活動(EVA)をおこなった。
| 2.A. | ジェミニ計画 |
アメリカのジェミニ計画は月にいくのに必要とされる技術を開発するために計画されていた。1961年5月、アメリカ大統領ジョン・F.ケネディは「60年代がおわる前に」人を月におくって無事に地球に帰還させることを目的としたアポロ計画をスタートさせた。この国家的な取り組みによって、大規模な飛行計画が集中的にはじめられたのである。その前段階のジェミニ計画は2人の宇宙飛行士を搭乗させ、長時間にわたる操縦をおこない、ほかの宇宙船とのランデブーとドッキングの技術を開発するように計画されていた。65~66年の間に10回の飛行がおこなわれた。
| 2.B. | 船外活動 |
ジェミニ4号ではホワイトがアメリカの宇宙飛行士としてはじめて船外活動をおこない、圧縮ガスとジェットによる操縦装置をつかって、21分間宇宙ですごした。
1965年12月、ジェミニ6号と7号が軌道上で30cmの距離でランデブーをおこなった。20時間軌道をまわったあと、シラーとスタフォードののったジェミニ6号は着陸し、ボーマンとラベルののったジェミニ7号はさらに軌道をまわり、約331時間をすごした。このほぼ14日間の飛行によってえられた医学データは、10日間のアポロ計画を成功させるために役だつものであった。さらにこの飛行は、水素と酸素をつかった燃料電池やさまざまなシステムの信頼性も証明してみせた。つづくジェミニ10号、11号、12号は、前もって軌道にうちあげてあった宇宙船とのランデブーとドッキングに成功した。
1966年11月の最後の飛行までに、アメリカの宇宙飛行士の宇宙滞在時間は約1024時間に達し、アポロ計画の準備は着々とすすんでいった。
| 3. | ソユーズとアポロ |
しかし、1967年はアメリカ、ソ連両国にとって悲劇的な年であった。アメリカのアポロ宇宙船は司令船(CM)、機械船(SM)、月着陸船(LM)からなり、3人の宇宙飛行士がのりこむが、1月27日、ケープ・ケネディでの地上テストのとき、3人がのりこんだ司令船で火災が発生した。宇宙船の中は加圧した純粋酸素でみたされていたため、3人の宇宙飛行士グリソム、ホワイト、チャフィーはふきでた炎につつまれ、焼死した。この惨事により、宇宙船の設計と材質を根本的にみなおすこととなり、アポロ計画は1年以上おくれることになった。
| 3.A. | ソユーズ |
同1967年4月23日、ソ連では、ソユーズ1号がうちあげられた。ソユーズ1号にはコマロフが搭乗していたが、地球の大気圏に再突入し、着陸パラシュートを開く時におそらく紐(ひも)がもつれたために墜落死してしまった。この事故によってソ連の宇宙計画は約2年間おくれることになった。→ ソユーズ
| 3.B. | アポロ |
1968年10月11日、最初の有人飛行のアポロ宇宙船7号がサターン1Bロケットによってうちあげられた。宇宙飛行士のシラー、カニンガム、エイゼルは宇宙船の性能をチェックし、地球の写真をとり、テレビ画像を送信しながら地球を173周した。68年12月21日打ち上げのアポロ8号は、ボーマン、ラベル、アンダースをのせて月の周りを10周したのち地球に帰還した。ちなみに、アポロ8号以降の打ち上げにはすべてサターンVロケットが利用された。サターンVは60年代初頭から開発された最大級のロケットで、直径10.1m、全長110.6m、重量は2913tもあった。
マクディビット、スコット、シュワイカートをのせたアポロ9号は、161周する間にアポロ着陸船の切り離し作業、ランデブー、ドッキングのテストをおこなった。スタッフォード、ヤング、サーナンによるアポロ10号は月を31回周回し、月着陸のリハーサルをおこなった。計画どおりスタッフォードとサーナンはアポロ司令船から月着陸船へのりうつり、もう1人の宇宙飛行士ヤングが司令船の操縦をしている間に、月面から高度14.3kmのところまで下降した。その後、月着陸船は上昇して司令船とのランデブーとドッキングをおこなった。2人の宇宙飛行士が司令船へと移動したあと、着陸船を投棄し、地球にもどる軌道に入るために機械船のロケットに点火して無事に地球にもどった。こうしてアポロ計画によっていよいよ宇宙飛行士を月に着陸させる準備がととのった。
一方、ソ連は無人のゾンド探査機をうちあげ、月を周回させた。ベレゴボイは、1968年10月にソユーズ3号で地球を60周し、ソユーズ4号と5号は69年1月に地球軌道上でランデブーとドッキングに成功した。宇宙船が連結されている間に5号の宇宙飛行士エリセーエフとフルノフの2人は宇宙服を着て、ソユーズ5号からシャタロフが操縦するソユーズ4号へと船外をとおって移動した。同年10月には、1日ずらしてうちあげられたソユーズ6号、7号、8号が軌道上でランデブーをしたが、ドッキングはしなかった。2人の宇宙飛行士をのせたソユーズ9号は、70年6月に18日という最長の宇宙飛行記録をつくった。
| VIII. | 月に立った人類 |
1969年、人類は月にたつという長い間まちのぞんでいた目標を達成した。人類初の月面着陸をなしとげたアポロ11号は7月16日にうちあげられた。月をまわる軌道に入ったあと、宇宙飛行士エドウィン・オルドリンとニール・アームストロングの2人は月着陸船に移乗した。マイケル・コリンズは月着陸船を分離したあと、月をまわる軌道にのこり、司令船と機械船の操縦をおこなった。
月着陸船は7月20日に月面におり、「静かの海」の端に着陸した。数時間後、大きな宇宙服で身をつつんだアームストロングがはしごをおり、日本時間の21日午前5時17分39秒に月面に足をおろした。彼は、「1人の人間にとっては小さな1歩だが、人類にとっては大きな1歩である」とつたえてきた。まもなくオルドリンもおりて、2人は月面を2時間以上あるいた。22kgの土壌のサンプルをとり、月面の写真撮影をし、太陽風の実験装置やレーザービーム反射鏡(→ レーザー)、月震実験装置(→ 地震学)を設置した。
アームストロングとオルドリンはアメリカの国旗をたて、人工衛星による通信回線をつかってホワイトハウスにいるアメリカ大統領ニクソンと話をした。彼らのようすは衛星通信によって地球にテレビ生中継された。月からの帰還は、月着陸船の下半分を打ち上げ基地としてつかい、上段だけで月をはなれた。上段は司令船と機械船にドッキングし、宇宙飛行士が宇宙船にもどったあと投棄され、ハワイ近くの太平洋上に着水し、7月24日に回収された。
「月の人」によって地球に有害物がもちこまれる可能性も考えられて、帰還した宇宙飛行士たちは3週間隔離された。
| 1. | アポロ11号以降のアポロ計画 |
アポロ11号の成功につづき、1972年12月7日にうちあげられた17号までの計6回の打ち上げと5回の月面着陸がおこなわれた。この打ち上げのうち、70年4月11日にうちあげられたアポロ13号は、機械船の電源用酸素タンクが爆発したため月着陸を中止し、月の裏面をまわり奇跡的に生還した。当初は20号まで打ち上げが予定されていたが、アメリカの宇宙関連予算が削減されたため、17号まででアポロ計画は終了した。くわしくはアポロ計画を参照のこと。
| 2. | 中国の有人宇宙飛行 |
2003年10月15日、中国はカンスー省(甘粛省)にあるチウチュワン(酒泉)衛星発射センターから長征(チャンチェン)2Fロケットをつかい、初の有人宇宙船「神舟(シェンチョウ)5号」の打ち上げに成功した。これは1961年のソ連(4月)、アメリカ(5月)についで3番目の成功であった。楊利偉(ヤン・リーウェイ)宇宙飛行士は高度343kmの円軌道で地球を14周(飛行距離は60万km)し、21時間23分の飛行ののち、16日に無事帰還した。
| IX. | 宇宙ステーション |
ソ連のサリュートとアメリカのスカイラブは、宇宙ステーションとして設計された最初の宇宙船である。宇宙ステーションは、長期にわたって地球をまわり、乗組員がほかの宇宙船でやってきたりかえったりする宇宙の基地であり、地球上ではできない実験や天文観測もすることができる。→ 宇宙ステーション
| 1. | ソ連の宇宙ステーション |
重さが約17tのサリュート1号宇宙ステーションは1971年4月19日にうちあげられた。5日後、3人の宇宙飛行士をのせたソユーズ10号がドッキングをしたが、宇宙飛行士の移乗はおこなわれなかった。
同1971年6月にはソユーズ11号がサリュート1号とドッキングし、3人の乗組員が宇宙ステーションに入り、人間の宇宙滞在記録を24日にのばした。宇宙ステーションでは地球資源調査と生物学的実験がおこなわれた。しかし、地球に帰還したとき、ドブロボルスキー、ボルコフ、バツァエフの3人の宇宙飛行士は、バルブの空気漏れが原因で死亡しているのがみつかった。宇宙服を着ていなかったので即死に近かったと思われる。ソ連の計画はふたたび遅延を余儀なくされた。73年4月、サリュート2号宇宙ステーションがうちあげられたが、明らかに制御ができなくなって、軌道上にさまざまな部分をおとしてしまった。
| 1.A. | サリュート |
しかし、その後1973~77年にはサリュート3~5号がうちあげられ、つづく6号(1977年9月~82年7月)と7号(1982年4月~91年2月)には宇宙飛行士が多くおとずれた。キューバ、フランス、インドの宇宙飛行士や、84年7月17~29日のソユーズT12号で女性としてはじめて船外活動をしたサビツカヤなどである。サリュートでもっとも有名な飛行のひとつは、84年に宇宙飛行士キジム、ソロビヨフ、アチコフが、地球にソユーズで帰還する前に、当時としては最長の237日間滞在したことである。
| 1.B. | ミール |
サリュート宇宙ステーションの後継機としてソ連が設計したミール宇宙ステーションは、1986年2月19日にうちあげられた。ミールは、6つのドッキング場をもち、2人の宇宙飛行士が滞在することができる。95年にはボリャコフがミール滞在で、当時最長の437日と17時間をすごした。
1987年4月12日、ミールとのドッキングに成功した天文物理実験用モジュールのクバントは、4台のX線望遠鏡を装備し、発見されたばかりの超新星(→ 新星と超新星)の観測をおこなった。それは、爆発した星からやってくるX線は地球上では大気にさえぎられて検出することができないからである。→ X線天文学
なお、ミールには1990年2月2日に、日本人初の宇宙飛行士となった秋山豊寛(とよひろ)がのりこんだ。当初の設計寿命は3~5年であったが、ミールは修理を重ねながら飛行をつづけていた。しかし、老朽化がすすんだこともあり、2001年3月23日、ミールは人為的に大気圏への再突入がおこなわれ、ニュージーランド東方の南太平洋にしずんだ。
| 2. | アメリカの宇宙ステーション |
アメリカのスカイラブ計画は、ソ連のサリュート計画よりも大規模で複雑であった。アポロ計画の途中取り止めで余剰となったサターンVロケットの第3段部分の燃料タンクを改造してつくられたスカイラブの重さは、サリュートの5倍近い75tもあった。また、内部の容積も、357m³と、約3.5倍もあった。スカイラブは地球軌道実験室として機能し、太陽の研究、滞在する3人の宇宙飛行士の長期的な医学研究、広範囲のスペクトルによる地球の観測、無重量状態での金属結晶の成長といった科学技術的な実験をおこなった。宇宙飛行士の移乗には、アポロ宇宙船(指令船と機械船)がつかわれた。
スカイラブは1973年5月14日の打ち上げの際に損傷をうけたが、5月25日にアポロ宇宙船でドッキングし、移乗した宇宙飛行士コンラッドとカーウィン、ワイツが船外修理活動をおこない、宇宙船の外側に熱を遮断する覆いをくみたて、ひっかかっていた太陽電池パネルをとりはずした。彼らの滞在は28日におよんだ。2回目の乗組員は59日間をすごし、3回目の乗組員は84日間すごし、スカイラブ計画は成功した。
望遠鏡による太陽観測は740時間以上におよび、17万5000枚の太陽の写真、約64kmにもなる電子データテープ、4万6000枚の地球の写真がもちかえられた。1979年7月11日、3万4981回目の周回でスカイラブは地球の大気圏に突入し、大部分がもえつきたが、一部の破片がオーストラリア南西部に落下した。
| 3. | 国際宇宙ステーション |
これからの宇宙開発は、国際共同事業としておこなわれるであろう。アメリカとソ連は1975年にアポロ・ソユーズテスト計画をおこない、アポロ宇宙船とソユーズ19号がドッキングして共同飛行をした。両国の共同飛行はこの後おこなわれていなかったが、95年6月27日にうちあげられたスペースシャトル「アトランティス」が29日にロシアの宇宙ステーション、ミールとのドッキングに成功した。現在、アメリカはロシア、カナダ、日本、ヨーロッパ宇宙機関(ESA)などと協力して、宇宙空間でくみたてる国際宇宙ステーション(ISS)を建設中である。98年に建設がはじまり、完成は2010年を予定している。
| X. | スペースシャトル |
アメリカでは1980年代初めから、スペースシャトルとしてよく知られている宇宙輸送システム(STS:Space Transportation System)が主要な宇宙計画となった。一方、ソ連は1988年11月にスペースシャトル、ブランを無人でうちあげ、回収することに成功した。92年に有人飛行をおこなう計画だったが、91年のソ連崩壊とともに計画が頓挫(とんざ)し、以後の打ち上げはおこなわれていない。
スペースシャトルは有人、多目的、再利用のできることを特徴とする宇宙往還機であり、約29tのペイロード(積載物)と乗組員を7人はこべるように設計されている。スペースシャトルは、巨大な外部燃料タンクと本体(オービター)、2本の固体ロケット・ブースター(SRB)からなり、SRBも再利用できる。オービターは理論的には100回の飛行にたえ、翼をつけているので地球に帰還する際に動力をつかわずに滑空して着陸することができる。人工衛星の放出やうちあげられた衛星の回収・修理や天文観測などがおこなえるため、打ち上げ費用のコストダウンにつながることが期待されている。
| 1. | 当初の成果 |
スペースシャトルの初飛行(STS-1)となった「コロンビア」はジョン・ヤングとロバート・クリッペンが操縦し、1981年4月12日にうちあげられ、14日には無事に帰還した。82年11月の第5回目(STS-5)からが実用飛行となり、「コロンビア」はアメリカとカナダの民間通信衛星を2機放出した。83年6月の第7回(STS-7)のフライトでは、アメリカ初の女性宇宙飛行士サリー・ライドが「チャレンジャー」にのり、83年11月の第9回(STS-9)では、「コロンビア」がヨーロッパ宇宙機関(ESA)の有人宇宙実験室「スペースラブ1号」をはこんだ。84年4月の第11回(STS-11)の「チャレンジャー」のフライトでは、衛星の回収、修理、再放出がおこなわれた。84年11月の第14回(STS-14)では、「ディスカバリー」が故障した高価な衛星を回収して地球にもちかえった。
| 2. | 「チャレンジャー」の事故 |
これらの成功にもかかわらず、シャトル計画は予定された打ち上げ計画よりもずっとおくれることになった。軍事テストにつかわれることがふえ、人工衛星の打ち上げではヨーロッパ宇宙機関(ESA)のアリアン計画とのきびしい競争に遭遇したためである。そして、スペースシャトル「チャレンジャー」は10回目の飛行の1986年1月28日、打ち上げから73秒後に爆発した。液体水素と液体酸素をつめた主要燃料タンクに密閉リング(Oリング)のうまくはたらかないブースターがつっこんだために、一瞬にして破壊されてしまったのである。この惨事で7人の搭乗員全員が死亡した。そのうちの1人、クリスタ・マコーリフはスペースシャトルにのりこんだ初の一般市民で、現役の高校教師であった彼女は、前年にシャトル計画の民間スポークスマンとして最初の「空飛ぶ先生」にえらばれていた。
この悲劇によって、システムを分析し再設計しなおすまで、シャトル計画は中止された。元国務長官のウィリアム・ロジャーズと元宇宙飛行士のニール・アームストロングを委員長とする大統領諮問委員会は、NASAの行政機構と、質の高い制御をおこなう効率的なシステムを維持できなかったことにおもな原因があると判断した。
| 3. | スペースシャトルの再開と2度目の事故 |
「チャレンジャー」の惨事にまなび、固体ロケット・ブースターのOリングシールは再設計された。スペースシャトル打ち上げ計画は5人の宇宙飛行士をのせた「ディスカバリー」の飛行によって1988年9月29日に再開された。この飛行ではNASAの通信衛星TDRS-3が軌道に放出され、さまざまな実験がおこなわれた。重さ11tのハッブル宇宙望遠鏡は90年4月に「ディスカバリー」によって軌道に投入されたが、光学的な欠陥があり、93年12月に「エンデバー」によって修理がおこなわれた。
1995年2月には「ディスカバリー」に初の女性パイロット(操縦手)であるアイリーン・コリンズが搭乗した。3月には「エンデバー」が、16日と15時間宇宙に滞在した。しかしながら、2003年2月1日には「コロンビア」が地上への帰還途中に空中分解し、7人の搭乗員が死亡した。この事故は、打ち上げ時に外部燃料タンクをおおう断熱材の塊(かたまり)がくずれ、「コロンビア」の左翼を直撃し、翼前縁の断熱材が破損したことが原因であった。そして、大気圏再突入時に摩擦で最大1500°Cにもなった空気が翼内部に侵入、空中分解をひきおこした。
この事実を重くみたNASAは、数々の安全対策をほどこし、事故からおよそ2年半ぶりの2005年7月26日に「ディスカバリー」をうちあげたが、外部燃料タンクの断熱材が脱落したり、シャトル底部の耐熱タイルの隙間(すきま)からセラミック材がとび出したりするなどの多くの問題が発生。NASAは、問題解決まで打ち上げを凍結すると発表した。一方、「ディスカバリー」は、日本人宇宙飛行士の野口聡一(そういち)らが史上初の飛行中における補修をおこない、8月9日に無事帰還した。