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セザンヌ,P.
I. プロローグ

1839~1906 近代絵画の父とよばれるフランスの画家。自然主義的な描写、個性的表現、絵画の抽象性を理想的に総合しようと努力した。

同時代の芸術家の中で、セザンヌほど20世紀の美術に深い影響をあたえた人物はいない。フランス人画家マティスやスペイン人芸術家ピカソに対して最大の影響力をあたえた人物であった。マティスは彼の色彩を賛美し、ピカソは彼の平面的な画面構成をキュビスムのスタイルにまでおしすすめた。

しかし生前はほとんど注目されることはなく、孤独のうちに制作をつづけた。批評家たちを信用せず、友人も少なく、1895年まではほとんど絵を発表していない。そのうえ、その行動を奇異なものとしかみなかった家族からも孤立し、その芸術の革新性が理解されることはなかった。

II. 初期の生活と作品

1839年1月19日、南フランスのエクサンプロバンスの町で裕福な銀行家の息子として生まれた。のちに小説家・文学者として名声をはせたゾラは少年時代からの芸術仲間だった。はやくから芸術に関心をしめし、父親を大いになげかせた。61年、家族との口論の末に、かろうじて美術の勉強の許しをもらい、野心をもやしてすでにゾラがおもむいていたパリにむかう。すぐにパリ美術界の急進的な動きにひきよせられた。とくにロマン派の画家ドラクロワに傾倒し、わかい芸術家の中ではクールベや、評判の高いマネに心をひかれた。彼らの写実主義絵画がもたらした様式と主題は、当時の人々に衝撃をあたえていた。

III. 印象派の影響

セザンヌの初期の作品の多くは、前世代のロマン派的な表現方法をうけつぐ厚塗りの暗い色調でえがかれた。ゾラが写実主義小説で自分の関心を追求したように、セザンヌもしだいに今日的な生活を主題にとりあげ、それを理想化したり、様式化したりせずに、自分で観察したとおりにえがくようになる。

初期作品の円熟に重要な影響をあたえたのは、ピサロであった。ピサロはセザンヌより年長だったがまだ世間にみとめられず、パリ郊外の農村に大家族とともにくらしていた。彼はセザンヌを精神的にはげまし、戸外の光を表現する印象派の新しい技法をおしえた。印象主義

モネやルノワールなどの画家たちとともに、ピサロは純粋な色彩の点描により、下描きのスケッチや輪郭線をつかわずに、戸外ですばやく画面にえがく方法をつくりだしていた。画家が自然を前にしたときに変化する画家自身の感情や、移りゆく自然そのものの印象を、こうしたやり方でとらえることができると彼らは考えた。1872~73年のわずかな期間に、ピサロの指導によってセザンヌは暗い色調から明るい色調にかわり、農地や農村の光景をえがくことに専念するようになった。

IV. エクサンプロバンスへの帰郷

他の印象派の画家たちより技術的には未熟であったが、セザンヌはこのグループにうけいれられ、1874年と77年にはいっしょに作品を発表した。印象派は概して商業的にはあまり成功していなかったが、彼の作品はとりわけきびしい批評にさらされた。70年代後半から80年代には、セザンヌはパリでの人間関係をほとんどたち、故郷のエクサンプロバンスですごすことが多くなった。82年以後はピサロと緊密に仕事をすることもなくなった。86年にはゾラの小説の一節が自分の失敗をほのめかしていると思いこみ、憤激したすえに昔なじみの友と絶交するにいたった。この年に父親の遺産を相続し、47歳にしてようやく経済的に自立したが、社会的にはまったく孤立したままだった。

V. セザンヌの色彩

このような孤立の中で、一途にひとつの目的に専心していたことが、1880年代と90年代のめざましい展開をもたらしたとされている。この時期も明るい印象派の色彩で自然に即してえがいていたが、しだいに絵具の塗り方を単純化するようになっていき、ボリュームのある形を純粋な色彩の並置によって決定できると考えるようになる。やがて自然の光と自然の形を色彩だけで表現する方法を発見した、と評されるようになる。

セザンヌは印象派が実現した明るい輝きの感覚をそこねずに、彼らが放棄した構築的な形態をふたたび導入したかにみえる。闇と光で「立体感を表現する」のではなく、色によって「調整する」のだとセザンヌ自身がかたっている。立体感の表現という人為的な約束ごとのかわりに、もっと自然に近い、彼自身の言葉をかりれば「自然に平行する」ような、強い表現力をもつ調整方法をとろうとした。印象派の技術的な問題に対するセザンヌの解答は、他の印象派の画家たちよりもさらにいっそう整然とした、表現力のある色彩の使い方をしたことにあったといえる。

しかしセザンヌ自身は、自分の目標がどうしても満足のいくようには達成できないと思っていた。作品の大半は未完成のままのこされ、破壊された作品も多い。人物像がうまくいかないことをしきりになげいた。実際、3点の「女性大水浴図」(1898~1905)など晩年の人物画の大作にみられる奇妙な歪(ゆが)みは、自分自身に課した色彩調整法の厳格さがひきおこしたものとされている。

やがて、セザンヌの特異な表現形式のほとんどすべては、次の世代の画家たちにうけいれられるようになった。印象派の自然主義的な絵画はもはや形骸(けいがい)化したとみた彼の後継者たちは、誠実な感性をとりもどして現代美術を切りひらくためには、どんなに困難でも、新しくて独創的な様式が必要だと考えた。

VI. セザンヌ作品の意味

長い間セザンヌは、印象派の古い仲間たちや、オランダ人画家ゴッホやフランス人画家ゴーギャンなどのわかい世代の過激な後期印象派の芸術家たちにしか知られていなかった。しかし1895年、パリの野心的な画商ボラールがセザンヌ展を企画し、その後数年間にわたって成功させた。1904年ごろにはおもな公式展でセザンヌがとりあげられ、06年10月22日エクサンプロバンスで没するころには伝説的人物になっていた。

晩年には、仕事中の彼の姿をみて、あわよくば有益な言葉をききたいと、わかい芸術家たちが大勢おとずれた。セザンヌの様式も理論も謎(なぞ)につつまれたまま、ある人には素朴なプリミティブ派にみえ、ある人には卓抜な技術をもった洗練された作家にうつった。しかし、厳格な画面構成とむすびあわされた強烈な色彩は、彼自身はしきりになげいていたにもかかわらず、きわめて個性的なやり方で絵画の基本的な表現要素を総合することに成功したことを雄弁にものがたっている。

現代美術と現代建築:後期印象派