| 検索ビュー | チェコ | 項目ビュー |
| I. | プロローグ |
ヨーロッパ中央部にある共和国。正式国名はチェコ共和国。チェコ語ではチェヒという。ボヘミア(チェコ語でチェヒ)とモラビア(モラバ)、シロンスク(スレスコ)の一部からなる。ポーランド、スロバキア、オーストリア、ドイツと国境を接する。かつてはチェコスロバキアの一部だったが、1993年1月1日、スロバキアと分離、独立した。面積は7万8864km²。人口は1022万911人(2008年推計)。首都はプラハ。
| II. | 国土と資源 |
国土は、西のドイツとの国境線から東のスロバキアまでのびるボヘミア高原にある。北西から北東にかけて、クルシュネー山脈(エルツ山脈)、スデーティ山脈(ズデーテン山脈)、カルパティア山脈が高原をかこんでいる。南西部のドイツとの国境地帯にはボヘミアの森が広がっている。高原中央部はなだらかな起伏のある丘陵や農耕地、肥沃(ひよく)な河川流域からなる。主要河川は、ラベ川(エルベ川)、ブルタバ川(モルダウ川)、モラバ川、オドラ川(オーデル川)。最高峰はスデーティ山地にあるスニェジカ山(1603m)。最低地点はドイツ国境にあるラベ川で、標高117mである。
| 1. | 気候 |
高原地帯は大陸性の気候で、夏は温暖、冬は寒冷となる。山間部はきびしい冬と多雨、オーストリアに接する南部国境地帯は暑い夏と比較的穏やかな冬を特徴とする。プラハの平均気温は1月で-5~0°C、7月で13~23°C、年降水量は527mmである。
| 2. | 動植物と天然資源 |
森林でよくみられる樹木はトウヒとモミで、とくに高地に多い。標高があまり高くない所では、オーク、トネリコ、カエデなどの混合樹林が顕著である。低地ではクローバー、ヨシ、エニシダが繁茂している。野生動物は、環境汚染や森林伐採で希少になりつつある。オオカミ、ヒグマ、イノシシ、ヤマネコ、ワシ類、シャモア、キツネがカルパティア山脈中に生息している。
ボヘミア中北部の丘陵地や平地、モラビアの低地には肥沃な土壌が広がる。国土の33.6%(2005年推計)は森林で、針葉樹が多く、おもに材木として利用されている。鉱物資源では褐炭と亜炭が豊富で、おもに火力発電や製錬にもちいられる。良質の無煙炭とウラン鉱もあるが、埋蔵量はあまり多くない。水銀、アンチモン、スズ、鉛、亜鉛、鉄鉱石もかなり採掘される。
| III. | 住民 |
チェコ人(ボヘミア人)が人口の90%を占め、モラビア人4%、スロバキア人2%とつづく。残りの4%は、ドイツ人、ロム(ジプシー)、ポーランド人、ハンガリー人などである。人口は1022万911人(2008年推計)で、人口密度は132人/km²。75%(2005年推計)の住民が都市部にすんでいる。国内の深刻な民族問題は少ないが、チェコ独立後は多数派のチェコ人による少数派のロムや外国人に対する差別や迫害が散発している。
主要都市は首都プラハのほかに、モラビア地方の文化と工業の中心ブルノ、製錬と金属加工で名高いオストラバ、ビールで有名なプルゼニ、商工業都市オロモウツがあげられる。
| 1. | 言語と宗教 |
2001年の国勢調査によれば、住民の約60%は信仰する宗教をもっていない。残りの人々については、ローマ・カトリック教徒がもっとも多く、プロテスタント、東方正教会の信者はわずかである。
公用語はチェコ語で、スロバキア語とともにインド・ヨーロッパ語族の西スラブ語派に属する。モラビア語は、チェコ語とスロバキア語の中間の言語で方言とされる。ほかにドイツ語、ハンガリー語、ロマニー語が話される。
| 2. | 教育と文化 |
今日のチェコの文化はドイツ人、ユダヤ人、チェコ人の文化がまじりあって形成されており、豊かで多様な美術や音楽、文学を生みだしてきた。初代大統領に就任したバーツラフ・ハベルは高名な劇作家で、チェコ芸術界の指導者的存在だった。また詩人ヤロスラフ・サイフェルトは1984年にノーベル文学賞を受賞している。→ チェコ文学
チェコには、チェコスロバキア時代からの大きな図書館があり、文献をはじめ貴重なコレクションを所蔵するが、なかでも国立博物館と付属図書館、カレル大学図書館、チェコ共和国図書館のものが知られている。プラハのストラホフ修道院の所蔵品も注目に値する。
6~15歳(2002-2003年)が義務教育で、9年制の基礎学校がこれをになう。ほとんどの生徒は、ギムナジウム(普通科高校)、技術系高校、職業訓練校のいずれかに進学する。大学は25校。とくに1348年創立のカレル大学(プラハ大学)はヨーロッパ屈指の大学である。
| IV. | 経済 |
チェコは、共産党政権下での中央集権的な計画経済から市場経済への移行に成功している。もともとチェコスロバキアは旧社会主義諸国の中でも工業化がすすんでいたが、共産党政権の崩壊とともに民営化がすすめられた。1996年から97年にかけて経常収支赤字の拡大などから経済状況が悪化したが、経済法制改革によって99年に回復。マイナスにおちこんでいた成長率もプラスに転じ、GDP(国内総生産)は、2006年には1430億1803万米ドルになった。失業率は8.3%(2004年)。1995年、OECDに加盟、2004年にはEU加盟国となった。
| 1. | 農林漁業 |
労働人口の4%(2005年)が農林漁業従事者である。旧チェコスロバキア政府は、社会主義体制時代に没収された農地を150haまで、もとの所有者に返還することを決定。一部の国有地をのこして農地の私有がすすめられ、個人農の私有地が全体の4分の1、残りは農業企業および協同組合農場の農地となっている。
おもな作物は、テンサイ、コムギ、オオムギ、ジャガイモ、ライムギ、トウモロコシ、亜麻で、ビール醸造用のホップの生産量も多い。牧畜も盛んで、牛、豚、ヒツジやニワトリなどの家禽類(かきんるい)が飼育される。
林業も重要な産業で、材木の90%は針葉樹である。大気汚染などが原因で林業は下降傾向にある。漁業ではコイの漁獲量が多い。
| 2. | 鉱工業 |
鉱業は石炭が中心で、なかでも褐炭の埋蔵量が多く、主要なエネルギー源となっている。オストラバ、プルゼニなどの付近では無煙炭が採掘される。
第1次世界大戦後にオーストリア・ハンガリー二重帝国時代の重要工業地域を領土にいれて独立したチェコスロバキアは、第1次、第2次世界大戦間に世界有数の工業国となった。第2次世界大戦後は、共産党政権下で、製錬をはじめとする重工業に力がそそがれ、鉄鋼、機械類、輸送機器、兵器の製造が中心となったが、1970年代後半から、国際競争力の低下や機械設備の老朽化などのために工業は停滞した。90年代初頭に生産性の低い分野は整理され、外国直接投資が積極的にすすめられて、現在ではトヨタ自動車などの日本企業も進出している。工業の中心は、一般機械、電気機械、自動車をはじめとする輸送機器の製造で、ほかに、繊維・衣料、化学製品、製紙などが発達。ビール、カットグラスに代表されるガラス製品もチェコの特産として知られる。
| 3. | エネルギー |
2003年では、石炭による火力発電が総電力量の65.9%を占め、原子力発電は31.4%である。
| 4. | 通貨と銀行 |
通貨単位はコルナ(1コルナ=100ハレシュ)。チェコ国立銀行が通貨を発券し、通貨量の調整をおこなう。主要銀行の民営化は完了している。
| 5. | 外国貿易 |
2003年の輸出総額は487億米ドル、輸入総額は512億米ドル。おもな輸出相手国はドイツ、スロバキア、ポーランド、オーストリア、フランス、イギリス、イタリアで、機械類、輸送機器、化学製品、金属などが輸出される。おもな輸入相手国はドイツ、ロシア、中国、イタリア、フランス、オーストリア、オランダ、スロバキア、ポーランドで、機械類、輸送機器、鉱物性燃料、化学製品、農産物などが輸入される。
| 6. | 交通とコミュニケーション |
2005年には鉄道は総延長9513kmあり、その約4分の1が電化されている。12万7672km(2003年)の道路の100%が舗装され、そのうち高速道路は393kmである。航行に利用される河川のうち、ラベ川とその支流ブルタバ川は北海と、オドラ川はバルト海とむすんでいる。空路ではチェコ航空が国際線をもち、プラハにルジニェ国際空港がある。
チェコ・テレビ局とチェコ・ラジオ局は国営放送局で、このほかに民放のテレビ局や40をこすラジオ局が開局している。
| V. | 環境問題 |
火力発電につかっている石炭の質が劣悪なため、大量の燃えがらと二酸化硫黄などが排出され、高レベルの大気汚染の原因になっている。プラハでは1975年から90年までに、全般的な病気発生率が2倍になったが、大気汚染もその一因と考えられている。また酸性雨による森林の被害は、ヨーロッパ諸国中もっともひどく、80年代半ばの時点で、全国の森林の57%が酸性雨によって損傷をうけた。化学肥料の使用は野放し状態で、一部の地域では飲料水の中から人体に害となるほど大量の窒素化合物が検出されている。
また、国立公園3カ所のほか、およそ190カ所がなんらかのかたちで自然保護地域に指定されている。政府はさらに多くの土地を保護しようと、制度の拡充に積極的な姿勢をみせている。ユネスコの「人間と生物圏計画」にもとづいて5カ所が生物圏保護地区に指定され、湿地保全を目的とするラムサール条約によって保護地域に登録された場所も10カ所ある。
| VI. | 政治 |
1989年11月、東ヨーロッパをおそった民主化の嵐(あらし)の中で大規模なデモがおこなわれ、チェコスロバキアの共産党政権を崩壊へとみちびいた。その後、新しい指導者たちは、両大戦間期に成熟をみた民主主義を50余年をへて復活させた。90年6月に自由選挙がおこなわれたが、同時に連邦制がゆらぎはじめる。チェコ人とスロバキア人の連邦制と共和制に対する考え方が合意にいたらず、93年1月1日、チェコとスロバキアは連邦を解消し、分離した。
1992年末に採択され、93年1月1日に施行されたチェコ共和国憲法では、議会制民主主義国家を宣言している。
| 1. | 行政と立法 |
国家元首である大統領は議会によってえらばれ、任期は5年(3選は禁止)。大統領は首相を任命し、その補佐をうけて17名の閣僚も任命する。1993年1月、初代チェコ大統領にバーツラフ・ハベルが選出された。
議会は、上院と下院によって構成され、下院は議席数200で、比例代表制による直接選挙でえらばれる。任期は4年。上院は議席数81、任期は6年で、2年ごとに定数の3分の1ずつを改選する。上院は選挙方法などがきまらず、下院がその機能を代行してきたが、1996年11月に初の上院選挙(小選挙区制)がおこなわれ、ようやく二院制がととのった。
18歳以上の成人に選挙権があり、地方選挙、総選挙ともに投票率は高い。
| 2. | 司法と地方自治 |
司法機関としては最高裁判所、憲法裁判所、最高行政裁判所があり、そのほかにも高等裁判所、地方裁判所などがある。憲法裁判所の判事は15名で任期は10年である。大統領が任命し、上院の承認をえることが必要とされる。
1990年の行政改革でそれまでの州制が廃止され、2000年1月1日から新たに13州とプラハ首都特別区、計14の行政区制がしかれた。
| 3. | 政党 |
1989年に共産党政権が崩壊してから100以上の政党が生まれ、92年の選挙では連邦議会に12政党が、またチェコ国会(現チェコ共和国議会)には8政党が議員をおくった。もっとも有力な政党は市民民主党で、キリスト教民主党と提携して30%弱の得票率をえた。ついで左派ブロック(旧共産党)が14%強であった。
1996年におこなわれた分離独立後最初の総選挙で、市民民主党、キリスト教民主連合・チェコスロバキア人民党、市民民主連合が与党となり、野党は社会民主党、ボヘミア・モラビア共産党、共和党であった。98年の総選挙では社会民主党が第1党となり、少数単独政権を発足させた。社会民主党は、2002年の総選挙でもひきつづき第1党となったが過半数にはかなりたらず、キリスト教民主連合、自由連合と中道政権を樹立した。06年の総選挙では市民民主党が第1党となったが、少数単独内閣が議会の信任をえられず、キリスト教民主連合・チェコスロバキア人民党と、はじめて議席を獲得した緑の党との3党連立政権を発足させた。
| 4. | 防衛 |
連邦解消後、チェコスロバキア軍はチェコ軍とスロバキア軍にわかれた。2004年現在、チェコ軍の総兵力は2万2272人で、このほかに5600人が国境と国内警備にたずさわっている。徴兵制は04年10月に廃止され、05年1月には完全に志職業軍人化された。
| VII. | 歴史 |
西スラブ族の一部族であるチェコ人は、9世紀にキリスト教に改宗、10世紀初頭にボヘミア王国を建設した。14世紀、カレル1世(在位1347~78。神聖ローマ皇帝としてはカール4世)の治下で、ボヘミアは政治的にも文化的にも絶頂期をむかえる。その後、フスの宗教改革で国内は混乱状態におちいった。フスは1415年、異端の罪で火あぶりの刑に処されたが、彼の教えにもとづいてフス派はローマ・カトリック教会の権威とたたかい、11世紀から入植がはじまったドイツ人の特権層を攻撃した。
1526年、ドイツ系でカトリック教徒のオーストリア・ハプスブルク家がボヘミア王に選出されると事態は悪化。1618年にチェコ人の反乱がおきた(→ 三十年戦争)が、20年には鎮圧された。その後の300年間、ボヘミアとモラビアではカトリックへの改宗とドイツ化が強力にすすめられ、両地方はハプスブルク帝国の領地の一部にすぎなくなった。
| 1. | チェコスロバキアの誕生 |
第1次世界大戦中、チェコ民族主義の指導者マサリクとベネシュが、スロバキアの指導者ミラン・シュテファーニクや連合国の支持をえて、チェコ人とスロバキア人のための共和国建国にむけて臨時政府を設立した。そして、1918年10月28日に、プラハでチェコスロバキア共和国の成立が宣言された。新共和国はボヘミアとモラビアのチェコ地域とシュレジエン(シロンスク)の一部、スロバキアを領土としていた。
両大戦間にチェコスロバキアでは民主主義が発達し、ヨーロッパでも有数の工業国となった。しかし、ナチス・ドイツの領土拡張主義がこの繁栄をすべてうばっていった。1938年、イギリス、フランス、イタリア3国はチェコのズデーテン地方のドイツへの割譲を承認、ハンガリーとポーランドもチェコスロバキアの領土の一部を獲得した。ナチスは翌年、残りの領土にも侵入し、ボヘミアとモラビアを保護領に、スロバキアを独立国とした。
1945年のヒトラーの死と第2次世界大戦の終結により、チェコスロバキアのほとんどの領土は返還された。46年の選挙で共産党は投票総数の38%をかちとって第1党となり、48年に、共産党の支配が確立し、チェコスロバキア人民共和国が樹立された。
| 2. | 民主化の波 |
1960年代末、共産党の指導者ドゥプチェクの自由化政策が、それまでの共産党による抑圧政策と対立するようになると、ソ連と東ヨーロッパ諸国は軍隊をチェコスロバキアに派遣する。こうして「プラハの春」として知られる民主化運動は、68年8月におしつぶされた(→チェコスロバキアの「ソ連の侵攻とフサーク体制」)。69年1月、チェコスロバキアは連邦制をとり、チェコとスロバキアがそれぞれ議会と政府をもつことになった。
1980年代末にソ連やほかの東ヨーロッパ諸国から政治改革の波がおしよせると、チェコスロバキア共産党の強硬派は、もはや改革の流れをおしもどすことはできなかった。89年11月、大規模なデモののち、共産党指導者は党幹部の地位をおりた。政府は、バーツラフ・ハベルひきいる反体制派のグループ「市民フォーラム」との交渉に応じ、同年12月、スロバキア人のマリアン・チャルファを首相とする新政権が発足。ドゥプチェクが連邦議会議長にえらばれ、連邦議会はハベルをチェコスロバキア大統領に選出した。この変革は流血をともなわず、なめらかにおこなわれたことから、「ビロード革命」とよばれている。
1990年4月、連邦議会は、国名に両共和国の平等性を反映すべきとのスロバキアの要求をうけいれ、国名を「チェコとスロバキア連邦共和国」にすることに決定。同年6月におこなわれた選挙は46年以降初の自由選挙で、市民フォーラムとその提携政党が両議院において多数を占めた。2年間の任期で大統領に再選されたハベルは、チャルファに連立政権の樹立を要請した。
| 3. | チェコとスロバキアに分離 |
その後の2年間における自由市場改革は、スロバキアよりもチェコに有利に作用した。こうした経済状況とスロバキア人の独立への要求が、連邦政府内での大きな政治問題となった。共和国政府に対する連邦政府の権限などに関して議論が重ねられた。連邦議会は妥協案をしめして両共和国の歩み寄りをもとめたが、失敗におわった。
1992年6月の選挙では、スロバキア人のウラジミール・メチアルひきいる独立推進派の民主スロバキア運動と、チェコ人バーツラフ・クラウスひきいる市民民主党が、議会の二大政党として台頭した。スロバキアの独立志向が強まる中で、スロバキア人議員はハベル大統領の3選をはばみ、ハベルは同年7月大統領職をしりぞいた。結局、両共和国は連邦制のあり方をめぐって合意に達することができず、解体、分離への動きが加速した。しかし、当時の世論調査によると、市民の過半数が連邦解体に反対であった。
チェコとスロバキアは交渉により平和裏に連邦を解消し、1993年1月1日、チェコ共和国とスロバキア共和国という2つの独立国が誕生した。同年1月末、チェコ下院はハベルを共和国初代大統領に選出し、前蔵相のクラウスは首相として、中道・右派連立政権を指揮することになった。政府は、EU(ヨーロッパ連合)への加盟を申請し、94年初頭には、NATO(北大西洋条約機構)と「平和のためのパートナーシップ」協定に調印した。これは、NATO加盟への布石であった。
| 4. | クラウス政権とその後 |
1995年11月、チェコはほかの東ヨーロッパ諸国にさきがけて、先進工業国をメンバーとするOECD(経済協力開発機構)への加盟を承認された。96年6月にはスロバキアとの分離後初の総選挙が実施された。選挙結果は、上院でこそ市民民主党、キリスト教民主連合・チェコスロバキア人民党、市民民主連合の与党連合が圧勝したものの、下院では政府の急進的な市場経済化政策への不満が批判票となってあらわれ、与党3党の総議席が過半数をわった。クラウス首相は下院で躍進した社会民主党の閣外協力をとりつけながら、かろうじて従来の与党3党による連立政権を維持しようとした。
しかし、貿易収支の悪化から通貨コルナが急落、インフレの激化で生活状態が悪化したため、政権内部からもクラウス首相への批判が噴出した。1997年10月にはジェレニエツ外相が首相との対立を理由に辞任、11月には下院選挙での献金疑惑の浮上をきっかけとしてクラウス内閣が総辞職においこまれた。チェコでは体制転換以後の東欧諸国で唯一、非共産党勢力が一貫して安定した政権を維持してきたが、政局は不安定におちいり、98年1月に中央銀行総裁のトショフスキーを首相とする新内閣が発足したものの、6月には、2000年の任期満了をまたず繰り上げ総選挙が実施された。
この結果、社会民主党が第1党となったものの決定的な支持はえられず、7月、市民民主党の閣外協力をえて、社会民主党議長ミロシュ・ゼマンを首相とする社会民主党の少数単独政権が発足した。2000年1月には、社会民主党が市民民主党との協力関係を強化して政権基盤の安定をはかったが、11月の上院選挙と地方選挙で大敗し、大幅に議席をへらした。上院では市民民主党の閣外協力をえても過半数に達しないという状況になった。
1998年1月には任期満了にともなう大統領選挙もおこなわれ、ハベル大統領がかろうじて再選された。2002年6月の総選挙で社会民主党は、市民民主党との協力協定を破棄して社会保障の充実をうったえてのぞみ、議席減を最小限にくいとめて第1党の座をまもった。しかし、過半数には遠くおよばず、中道のキリスト教民主連合・チェコスロバキア人民党、右派の自由連合・民主連合との3党連立で、ウラジミール・シュピドラ政権を発足させた。この総選挙では、市民民主党も議席をへらし、主要政党への批判票を吸収したボヘミア・モラビア共産党が大幅に議席をのばした。
| 5. | NATOとEUへの加盟 |
1997年1月にはドイツとの「和解宣言」に調印、ドイツ側はナチス・ドイツによるチェコ(当時はチェコスロバキア)解体の責任を、そしてチェコ側は第2次世界大戦後のズデーテン地方からのドイツ人の追放に対する責任をみとめた。同宣言により両国関係が正常化されたことで、チェコのEUおよびNATO加盟への障害がまた1つとりのぞかれた。
EU加盟については、1997年12月のEU首脳会議の決定にもとづき、ポーランドなど5カ国とともに第1陣の加盟対象国として、98年3月からEUとの政府間交渉がはじまった。NATO加盟に関しても、97年7月のNATO首脳会議でポーランド、ハンガリーとともに第1陣の新規加盟が決定され、99年3月に加盟が実現した。EU加盟は、2002年12月のEU閣僚会議で、チェコをふくむ中・東欧諸国など10カ国の同時加盟が承認された。
2003年2月、1989年のビロード革命からチェコスロバキアの大統領として約3年、ついでチェコの初代から2期10年、大統領をつとめたハベルが、3選禁止の憲法規定により、任期満了で引退した。後任の大統領をきめる議会での選挙は、2度にわたって過半数をこえる候補が出ず、2月末におこなわれた3度目の選挙でやっとクラウス元首相を選出した。
EUへの加盟の是非を問う国民投票は、2003年6月におこなわれ、約77%の賛成で承認された。投票率は約55%であった。この結果により、04年5月に、EUへの正式加盟が実現した。
| 6. | 不安定な政権基盤 |
2004年6月のヨーロッパ議会選挙で連立与党は、24議席中わずか4議席しか獲得できず、シュピドラ内閣は総辞職した。8月、34歳のスタニスラフ・グロスがひきいる第2次3党連立内閣が、賛成101、反対99の小差で信任されて発足した。しかし、同年11月の上院選敗北にくわえて、05年に入ると首相の自宅購入資金をめぐる疑惑などが浮上し、3月に与党第2党が政権を離脱した。グロスは少数内閣で切りぬけようとしたが、政局の混迷が深まり4月に辞任、政権は短命におわった。後継首相にイジー・パロウベクが任命され、5月にグロス政権の閣僚の大半をひきついだ3党連立内閣が発足した。
2006年6月におこなわれたEU加盟後初の総選挙では、右派の市民民主党が、8年にわたり政権の座にあった社会民主党を小差でやぶり第1党となった。単独過半数を制した政党はなく、右派勢力、左派勢力どちらも100議席という状況で、新首相に指名された市民民主党議長ミレク・トポラーネクは9月に市民民主党の少数単独内閣を発足させたが、議会の承認がえられず総辞職。11月、クラウス大統領は再度トポラーネクを首相に指名した。議会で過半数の支持をえるためには大連立しかないが、所得税の一律化、年金改革、社会福祉の削減などをかかげる市民民主党は、これらで対立する社会民主党との大連立を断念し、キリスト教民主連合・チェコスロバキア人民党、緑の党との連立をきめた。07年1月、下院の内閣信任投票は、野党2議員の造反にたすけられた形で切りぬけた。これにより、選挙後7カ月以上つづいた混乱はひとまず収束したが、今後の政権運営は多難と予想される。
| 7. | 日本との関係 |
日本との関係は旧チェコスロバキア時代から良好である。日本は1993年1月1日のチェコ独立と同時に同国を承認し、同1月29日には外交関係を樹立した。伝統的に文化面での交流が中心であったが、体制転換後は政治・経済面など他の分野にも交流が拡大している。98年8月からは短期旅行者の査証相互免除も実施され、日本からの観光客がめざましい増加をみせている。
要人の公式・非公式の訪問も頻繁におこなわれており、チェコ側からは1995年12月にハベル大統領、96年9月にクラウス首相があいついで来日した。日本側からは96年に紀宮清子内親王が公式訪問し、最近では2001年7月に田中真紀子外相が、翌02年7月には天皇皇后両陛下がおとずれている。また03年8月に、日本の首相としてははじめて、小泉純一郎首相が訪問した。