サクラ
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サクラ
IV. サクラの観賞の歴史

古代日本では、サクラは春の訪れをつげるだけでなく、農業の1年を予想する花であった。人々はサクラの咲き方や花持ちをみて、その年の気候の特徴を知り、稲作を考えた。サクラは「古事記」や「日本書紀」にも書かれ、「古事記」にでてくるオオヤマツミノカミ(大山祇神)の娘のコノハナノサクヤヒメ(木花之開耶姫)の木花はサクラのことで、開耶が転じてサクラとなったとされる。

日本最古の歌集「万葉集」は奈良時代の歌を中心にあつめられているが、そのなかにサクラをうたったものが40首ある。いちばん多いのはハギの140首、ついでウメの118首で、サクラは3番目である。サクラはもともと野山に生える野生の木であり、中国文化の影響もあってそのころ庭園に植えられ、身近にあるうつくしい花として人々に愛されていたのはウメであった。「万葉集」のサクラはほとんど山野のものをうたっているが、庭のサクラをよんだものが少しある。ウメと同じようにサクラを庭に植えて観賞する風潮は、このころはじまっていることがわかる。

1. ウメからサクラへ

「万葉集」から少し後にでた「古今和歌集」では、サクラをうたったものがウメより多くなった。花の代表がウメからサクラにかわったのは、平安時代の承和年間(834~848)といわれる。京都御所の紫宸殿の庭には「右近の橘(たちばな)」と「左近の梅」が植えられていたが、このウメがサクラにかえられ、「左近の桜」になったのがこのころであり、サクラの重用をものがたっている。また、平安時代に書かれた「源氏物語」にもサクラはうつくしい花としてえがかれている。

2. サクラと武士

サクラはさいたときのうつくしさだけでなく、ちるときのはかなさも人々の心をとらえた。それは武家の台頭とともに、「花は桜木、人は武士」といった潔さに変調され、中世にはいると武士の生き方をあらわす花となっていった。こうしたサクラへの異常な観念は、ずっとのちの昭和20年までのこることになる。

サクラの観賞は、天皇や貴族の楽しみとしてはじまり、中世からは武士にも広がった。源頼朝、足利義満、豊臣秀吉など、天下をとった武士はいずれも盛大な花見の宴を開いている。

3. サクラの黄金時代

サクラが一般の庶民にもしたしまれるようになったのは、江戸時代にはいってからである。サトザクラ(里桜)とよばれる園芸品種もふえ、サクラを研究した書籍も次々と刊行された。とくに寛政年間(1789~1801)から天保年間(1830~44)の約50年間は、サトザクラの栽培がもっとも盛んになり、250種以上も記録されている。サクラは歌舞伎や能の舞台、浮世絵、屏風(びょうぶ)絵、置物、陶磁器、着物などの絵柄に盛んにとりいれられている。

4. ソメイヨシノの誕生

江戸末期、江戸の染井村(現在の東京都豊島区駒込)の植木屋で新種のサクラがつくりだされた。当時、名に聞こえたサクラの名所の吉野山(奈良県)にあやかって、「吉野桜」として売りだしたところ、人々はそのうつくしさに驚嘆し、あらそって植えたので、数年にして東京一帯に広まっていった。しかし、吉野桜では、吉野山のヤマザクラと混同するので、「染井吉野(そめいよしの)」を正式名とした。

ソメイヨシノは花が大きくうつくしいうえに、葉がでる前に花だけがこぼれんばかりにさき、樹勢がよく、接ぎ木でも簡単にふやせることから大人気となった。明治期になって全国に植栽が広がり、その結果、サクラといえばソメイヨシノをさすほどになっていった。ソメイヨシノが、オオシマザクラとエドヒガンをかけあわせたものとわかったのは、ずっと後のことである。