| 検索ビュー | フランス革命 | 項目ビュー |
| I. | プロローグ |
革命前のフランス社会は身分制の社会であった。第一の身分は聖職者であり、全人口約2500万のうち0.5%にみたない12万人程度にすぎなかったが、全国の土地の1割を所有し、教会組織の維持のために、民衆から十分の一税を徴収していた。また、聖職者は免税の特権をもち、独自の行政機構と裁判所をもっていた。
第二の身分は貴族である。貴族は、先祖伝来の領地をもち、領主として領内の住民から貢租をとりたて、また領地を通過する商品からも税をとった。貴族は全国の土地の約2割をもっていたが、人数は全人口の1~1.5%と推定されている。事業をいとなむ豊かな貴族もいたが、零細な貢租でくらす貴族も多く、豊かな貴族は自由主義的で、貧しい貴族は保守的であった。貴族にも免税の特権があり、聖職者とともに、フランスを支配する特権的階層を構成していた。
国民の98%には肩書がなかった。この人々は、まもなく第三身分とよばれるようになる。彼らの中には、金融業や商工業で富をたくわえた者や、医師や弁護士のような高度な知識をもった者もおり、こうした人々はブルジョワとよばれた。だが、都市の人口の4分の3は、職人や労働者や零細な商人であった。全国的には、全人口の4分の3以上が貧困な農民であり、彼らは、領主に貢租をおさめ、国王に税をはらい、高利貸しにくるしめられることが多かった。全体として、貴族と聖職者が税をおさめずにすんだので、国家の財政をささえていたのは第三身分だったが、その社会的な地位は低かった。
18世紀になると、ブルジョワ層は、啓蒙思想の助けをかりて身分制や君主制を批判するようになっており、特権身分に対する揶揄(やゆ)や罵倒は、都市の民衆や農民にもひろまっていった。貴族は、王権が強化される中で権限が縮小し、また18世紀の経済発展にとりのこされ、豊かになったブルジョワをうらやみ、いきどおっていた。
ルイ16世が即位したころ、王国財政は危機におちいっていた。支出は歳入をこえており、しかも支出の大半は、膨大な累積債務の利息にきえていた。国王は、ブルジョワ出身の有能な財務長官チュルゴーやネッケルの意見をいれて税制改革をおこない、貴族と聖職者の免税特権を縮小しようとした。この改革案に貴族が猛烈に反対したため、ルイ16世は1614~15年以来、1世紀半ぶりの全国三部会召集を決意し、1789年1月から選挙がはじまった。第三身分の代表の選出は複雑な間接選挙でおこなわれたが、選挙の宣伝の中で、農民や都市の民衆は社会の仕組みを理解するようになった。
| II. | 革命の始まり(1789) |
聖職者と貴族の代表それぞれ約300名ずつ、第三身分の代表約600名、合計1200名がベルサイユに召集された。三部会は1789年5月5日に開会されたが、冒頭から議事の進行と議決の方法をめぐって対立が生じた。特権身分の代表たちは、伝統にしたがって身分別に議論をするつもりでいた。第三身分の代表は、身分制そのものを否認していたので、全員が一堂に会して議論し、ひとり1票で議決する方式を主張した。こうして、特権身分と第三身分の対立がつづいた。
1789年6月17日、第三身分部会は、理論家のシエイエスの提案で、国民議会と名のることをきめた。国王は第三身分の集会場を閉鎖して対抗したが、第三身分は近隣のテニスコートにあつまり、憲法が制定されるまで解散しないことを決定した(テニスコートの誓い)。6月24日、聖職者の多くと貴族の一部が第三身分の集会に参加した。国王はやむをえず、残りの貴族にも合流をうながした。第1段階は第三身分の勝利におわり、議員たちは、憲法制定国民議会と名のることをきめて、憲法制定の作業を開始した。
国王は、武力をつかう決意をし、軍隊の到着をまっていた。そして1789年7月11日、改革を主張する国務長官のネッケルを罷免した。ネッケル罷免の情報をきいたパリの民衆は武装を開始した。ネッケルは民衆に人気があり、罷免を国王と貴族による戦闘開始とうけとったのである。7月14日、パリの民衆はバスティーユ要塞にでかけた。要塞に保存されている火薬の引き渡しが目的だったが、話がこじれて衝突がおこり、要塞司令官が殺害され、要塞は占拠された。
パリは興奮状態になり、市民は勝手に市長をえらび、前日、市民によって結成された国民衛兵の司令官として、アメリカ独立戦争の英雄ラ・ファイエット侯がえらばれた。また、パリ市のシンボル・カラーの赤と青に王家の白をくわえ、新しい旗印がつくられた。国王は軍隊の引き揚げを宣言し、パリで3色の標識をうけとり、パリの新しい市制を承認した。全国の都市がパリにしたがい、市民の手で行政機関が設立されていった。
同じころ、農村では暴動がおきていた。事件はほとんどの場合、貴族の軍がせめてくるというデマがながれ、パニックにおちいった農民が貴族の城館をおそうという経過をたどった。全国に波及した農村の暴動の波は「大恐怖」とよばれたが、これは農民の領主に対する昔からの恨みを表現したものだった。自由主義的な貴族は、これをみて譲歩の必要を感じ、議会の作業に協力するようになった。いっぽう、王弟アルトワ伯をはじめとする保守派の貴族は、国外に亡命しはじめ、国外から革命の粉砕をくわだてるようになる。
| III. | 憲法制定国民議会(1789~91) |
1789年8月4日の夜、議会は、貴族のもっている特権の廃止を決定した。興奮状態のうちに、領主の領民に対する特権や聖職者の十分の一税、各州や都市の特権などが廃止され、フランスの封建制は終わりをつげた。8月26日には、「人は生まれながらにして自由であり、平等である」ことを宣言する「人権宣言」が採択され、身分制も廃止された。
国王は「人権宣言」の承認を拒否した。事態の予想外の進展に王は抵抗し、同年10月には、ふたたび軍隊をよびよせた。パリの民衆も再度、行動にでた。女性が中心になったデモ隊が、10月5日、ベルサイユの宮殿におしかけ、翌日、国王一家を馬車にのせてパリに連行した。パリにつれてこられた国王は一連の法令を承認し、国王とその家族はパリの中心にあるチュイルリ宮殿にはいり、議会もパリに移動した。
議会は、チュイルリ宮殿に付属する馬の練習場におかれて、憲法や、他の法律の制定作業をおこない、新しい国家の骨格をつくった。フランスは憲法にもとづく三権分立の国家ときめられた。選挙でえらばれた議員たちの議会が立法を担当し、行政は王のもとにおかれる。司法は選挙でえらばれる司法官が担当するものとされた。昔からの州は廃止され、全国は80余りの県にわけられた。州は、フランス王国に編入された当時の事情に応じて、免税の特権や、州独自の昔からの法律をもっており、場合によっては独自の議会をもっていた。革命前のフランスは多くの小国家の寄せ集めだったのである。
新しいフランス王国は、パリにおかれた唯一の政府が、全国共通の法律によって統治する、中央集権国家となった。議員の選挙は、納税額による制限選挙制とされ、一定以上の納税額がない者、すなわち収入のない者は国政に参加する資格をみとめられなかった。「人権宣言」の中には、私有財産の擁護や、経済活動の自由がうたわれており、新しいフランスは、ブルジョワたちの理想を体現する国家であった。
立法活動が進展する中で、議員たちは多様な党派を形成した。王政と貴族の特権をまもろうとする貴族たちは議場の右側に、立憲王政を支持する自由主義貴族と上層のブルジョワたちが中央に、共和政をのぞみ、また貧困階層の要求をうけいれようとする人々が左側にあつまった。ここから、右翼、左翼という政治用語が生まれた。最初の段階で革命政府の中枢を占めたのは、有数の財産家ラ・ファイエット侯や、ブルジョワ出身の貴族ミラボーなどの立憲王政派であった。
党派間の溝をひろげたのは教会の問題だった。国家の膨大な借金を帳消しにするために、教会財産を没収して売却する法律が制定され、また1790年に、聖職者を国家の公務員にする法律がつくられた。聖職者には国家への宣誓が義務づけられ、彼らは宣誓の可否をめぐって分裂した。
貴族たちは、伝統の秩序がみだれ、自分たちの身があやうくなることをおそれた。国外に亡命する貴族が増加し、彼らはオーストリアやプロイセンなどの外国君主の援助で部隊を結成した。国内でも、教会の影響の強い農村部では、革命に反対する勢力が出現した。いっぽう、一般の農民や都市の貧困階層は、革命が別段の利益をもたらさないので、しだいに議会に対して不満をもつようになった。パリでは、政治に関心のある市民が傾向に応じて多数のクラブをつくり、また48の地区ごとに住民の集会が開催されるようになった。
1791年6月、国王一家がパリを脱走した。一家の馬車は、フランス東部の国境付近で発見され、パリにつれもどされた。パリの貧困な民衆は共和政を要求し、立憲王政をまもりたい政府とはげしく対立した。7月17日、王政廃止を要求して、シャン・ド・マルスの練兵場にあつまったパリの民衆に対して、ラ・ファイエットの指揮する国民衛兵が発砲し、約50人が死んだ。それでも、憲法制定の作業は終了し、9月に憲法制定国民議会は解散した。10月には選挙が実施され、新しく立法議会が召集された。しかし、国内の亀裂はひろがるばかりであった。
| IV. | 立法議会(1791~92) |
立法議会選挙では再選が禁止されていたので、議員全員が新人であった。また制限選挙制のために、裕福な商工業者や弁護士などが多かったが、貴族はきえていた。議会では、立憲王政を支持し、91年憲法に満足する者が、議場の右側を占めた。これらの議員にはフイヤン修道院にあつまるクラブの会員が多かったので、フイヤン派とよばれ、政治の主導権をにぎった。議場の左側の議員には、ジャコバン修道院でひらかれるクラブの会員が多く、ジャコバン派とよばれた。同派の議員は貧困な階層の要求に同情的だった。
1791年の秋の穀物収穫は不良で、同年末から食料品価格が高騰し、貧困な農民や都市の民衆は、暴動をおこして食料品の価格統制を要求した。だが、フイヤン派政権はこの要求を拒絶した。翌92年の春になると、各地で王党派の反乱がおき、また、王妃マリー・アントワネットの母国オーストリアは、フランスの革命を憂慮し、亡命貴族たちを支援した。そのため、4月に政府はオーストリアと開戦した。
フランス軍は敗北を重ねた。将校は全員が貴族で、その半数は亡命していた。軍の編成はみだれ、将校と兵士の信頼関係もくずれていた。1792年7月になると外国軍と亡命貴族の部隊がフランス国境に到達した。政府は非常事態宣言をだし、これにこたえて、各地で国民衛兵が組織され、パリに到着した。この際にマルセイユからきた部隊の進軍の歌が、「ラ・マルセイエーズ」として有名になり、のちに国歌になった。パリでは、地区ごとに住民の集会が頻繁にひらかれ、兵士の募集がおこなわれた。
フランス軍の敗北や、外国軍隊の侵攻がうわさされて騒然とする中で、王家に危害をくわえる場合には、パリを完全に破壊するというオーストリア・プロイセン連合軍司令官の宣言がパリにつたえられた。パリの民衆は憤慨し、1792年8月10日、チュイルリ宮殿を襲撃。国民衛兵もそれにくわわって、王宮を制圧した。議会は民衆運動の圧力に屈伏して王権の停止が宣言され、王の一家は監禁された。さらに、これまでの議会にかえて全国民の代表のあつまる公会を設置し、あらためて憲法を作成することがきめられた。また、民衆の要求で亡命者の財産の没収が決定された。
| V. | 国民公会(1792~93) |
史上はじめて、成人男子全員が参加する普通選挙がおこなわれ、1792年9月21日に開催された国民公会はただちに共和政を宣言した。国民公会の構成員の主流は依然としてブルジョワジーであったが、すでに立憲王政派は存在せず、新人もふくめて、議員はかつてのジャコバン派とその同調者であった。
しかし、ジャコバン派は2つの陣営に分裂した。右派の議員は、ジロンド県の出身者が中心になっていたので、ジロンド派とよばれた。左派は、議場の後方上部にあつまり、山岳派とよばれた。ジロンド派と山岳派の違いは、民衆運動に対する態度にあった。1792年9月初頭、パリ市内の監獄が多数の市民におそわれ、囚人1000人以上が殺されるという事件がおきた。囚人たちによる反革命の陰謀といううわさが、この「九月の虐殺」事件の原因であった。ジロンド派は、民衆を危険視するようになり、山岳派は、民衆をおさえるために妥協の必要を感じた。
国民公会の主導権をにぎり、政府を構成したのはジロンド派だったが、その政権は長くはつづかなかった。最初の対立は国王の処置をめぐっておきた。山岳派は、民衆が要求する国王の裁判と処刑をせまったが、ジロンド派政権は消極的で、国王の処刑によって、国の内外に反発が強まるのをさけようとした。だが、議員の多数は山岳派の、民衆運動に同調する作戦を不可欠と感じていた。国王の裁判は国民公会で1792年12月にはじまり、翌93年1月中旬、議員の投票で有罪が決定した。有罪判決にはほぼ全員が賛成したが、死刑の宣告に賛成するものは半数を少しこえたにとどまった。ルイ16世は、1月21日、革命広場(現コンコルド広場)で、群衆にかこまれてギロチンで処刑された。
対外戦争では、ジロンド派政権は短期決戦で有利な状況をつくり、一気に戦争を終結させる予定だった。しかし、1792年9月にフランス東部のバルミーでプロイセン軍をやぶったあとの終戦工作に失敗した。志願兵は最初の勝利に勢いづき、ベルギー、ドイツ、イタリア方面にすすんだ。フランス軍のベルギー進出に危機感をもったイギリスは、ルイ16世の処刑を口実に外交関係を断絶し、フランス政府は準備のないまま、翌93年2月、対イギリス戦争を開始した。まもなくイギリスが中心となって対仏大同盟が結成され、フランスは周辺諸国との戦争にまきこまれた。3月下旬には、フランス軍はオランダとベルギーで敗北し、敵の軍隊はふたたび、国境に近づいた。同じころ、フランス西部で反革命暴動が発生した。
危機的な状況の中で、パリでは、左派系の新聞や政治クラブが断固たる対処を政府に要求し、これに応じて山岳派の発言権も強まった。国民公会は、山岳派の主導で、1793年3月初めに革命裁判所を設立し、4月には公安委員会を設置した。この委員会は数名の国民公会議員によって構成され、行政活動を監視し、必要な場合には国防政策を決定する権限をあたえられた。5月にはいると、公安委員会は穀物などの最高価格令を公布した。
この当時、パリの町では無数の新聞が発行されており、それらの新聞のつたえる情報や呼び掛けは、地区の集会などを通じて一般の民衆にまで浸透していた。はげしい扇動をする「デュシェーヌおじさん」と題する新聞をだしていたエベールや、司祭のルーなどが、民衆の間で人気があった。また、新聞「人民の友」を発行し、1792年8月の蜂起に大きな影響をあたえたマラは、反革命の陰謀を書きたて「九月の虐殺」事件をひきおこした。これら民衆運動のリーダーたちはジロンド派政権打倒をよびかけていた。
1793年6月2日、8万のパリ市民が議場をとりかこみ、ジロンド派の主要メンバーを逮捕した。ジロンド派政権は崩壊し、山岳派が主導権をにぎり、貧困な農民の要求をいれて、亡命貴族から没収した土地を細かく分割して売却することや、農民の共有地を平等に分割することをきめた。さらに、山岳派主導のもとに、国民公会は、6月に新しい憲法を採択した。この中には、貧困な者に労働の機会をあたえることや失業者の生活保障、万民への教育の保障などがもりこまれ、人民は蜂起する権利をもつと記された。そして、参政権は、成人男性に限定されていたが、貧富を問わずあたえられることになった。
山岳派の支配する国民公会が富裕階層の活動を規制し、貧困階層を優遇する姿勢をしめしたことから、国民公会に反発する動きが全国にひろがり、パリを脱出していた、かつての議員や、新たに公会をおわれたジロンド派議員などが中心になって、反政府運動が組織され、マルセイユやトゥーロン、ボルドーなどの港湾都市、リヨンなどの商業都市で暴動がおきた。フランス西部の暴動はひろい範囲に拡大し、フランス共和国は近隣諸国全体を敵としていたので、北部、東部、南部の全国境地帯で戦闘がくりひろげられ、指揮官と兵員の不足しがちなフランス軍は各地で苦戦を強いられた。
| VI. | 恐怖政治(1793~94) |
内外の危機を前にして、国民公会は一連の措置をとった。公安委員会のメンバーが更迭され、民衆の要求にそって革命を徹底させようとしていたロベスピエールが中心になった。民衆の要求をいれて、食料の隠匿を摘発する部隊がつくられ、買い占めでもうけようとする商人は、場合によっては死刑にされることになり、また、生活必需品全体の価格が統制されることになった。
いっぽう、1793年8月に全国民を革命の防衛にかりだす国民総動員令が、9月には反革命容疑者に関する法律が制定され、不審な言動をする者はただちに逮捕された。そして10月には、平和が到来するまでは非常事態におかれるとして、全政府機関が公安委員会の監視下におかれ、公安委員会の独裁が成立した。
1793年10月以降には、王妃マリー・アントワネットやかつてのジロンド派議員などが処刑されたが、裁判の手続きは大幅に簡略化され、じゅうぶんな弁護はおこなわれなかった。こうして「恐怖政治」が進行し、93年3月に革命裁判所が設立されてから、翌94年7月までに処刑された者は、全国で1万6000人以上にのぼった。また、キリスト教は目の敵にされ、西暦が廃止され、共和暦が制定された。
強力な統制のもとで共和国軍の再編成は急速にすすんだ。全国でわかい男性が強制的に徴用され、選挙によって将校がえらばれ、軍隊は生まれかわった。戦場には国民公会から議員が派遣されて、状況を監視し、作戦に失敗した場合には、指揮官が処刑されることもあった。トゥーロン港をめぐる戦闘では、わかい将校ボナパルト(のちのナポレオン1世)の活躍がめだち、まもなく将軍に任命された。1793年のうちに、国内の暴動はほとんど鎮圧され、フランス国内に侵入していた外国軍は一掃され、フランス軍はふたたび、国外でたたかうようになった。
軍事的な危機の減少にともなって、独裁をささえていた勢力の間に亀裂がひろがっていった。公安委員会の独裁は、十数名の公安委員だけでおこなわれたものではなかった。議会の外部には、エベールなどのジャーナリストの指導によってうごく民衆運動があり、また議会の中には、公安委員会設立の母体となった山岳派のほかに、追放されたジロンド派とは別に過半数を占める一般の議員が存在した。彼らは議場前方の低い部分に席を占めたので、平原派とよばれていた。平原派は、革命の挫折をおそれて、一時はジロンド派政権を支持したが、やがて山岳派支持に転じていた。この平原派の支持があってはじめて、公安委員会の独裁がなりたっていたのである。
1794年の春になると、公安委員会は、国民公会外部の民衆運動への統制を強めはじめた。すでに93年夏には、過激な扇動をする司祭のルーが逮捕されており、彼は94年春に獄中で自殺した。公安委員会は3月、エベールとその仲間を逮捕し処刑したが、彼らの扇動は国内の対立を再燃させ、共和国を崩壊させる危険なものと判断されたのである。民衆運動の指導者が処刑されると、国民公会内部の結束を重視して民衆運動を危険視していたダントンらの「恐怖政治」の緩和を要求する声が高まったが、公安委員会は今度はダントンとその仲間を3月末に逮捕し、処刑した。
私欲のない謹厳な弁護士だったロベスピエールは、利己主義的で不純な勢力を排除して、貧富の格差のない、規律のある理想社会を建設しようと考えていた。しかし、平原派の議員たちにとっては、ロベスピエールの役割は、民衆運動を統制し、共和国をまもることにあった。内外の軍事上の敵が排除され、民衆運動の圧力がきえた以上、公安委員会は危険な存在であった。1794年7月27日、すなわち共和暦第2年熱月9日(→ テルミドール9日)、ロベスピエールとその友人たちは逮捕され、翌日、処刑された。
| VII. | 総裁政府(1795~99) |
1794年7月27日の事件(テルミドールの反動)のあと、国民公会で主導権をにぎったのは平原派だった。まもなく公安委員会の権限は縮小され、革命裁判所の組織はかえられた。また、ジャコバン・クラブは閉鎖された。最高価格令は廃止され、経済活動の自由が復活したが、はやくも食料品の投機や買い占めがおこなわれ、94年から95年にかけて、食糧危機が再来した。95年の4月と5月にパリでは民衆蜂起が発生したが、民衆運動の指導者たちはすでに存在せず、たちまち蜂起は鎮圧された。
1795年に共和暦第3年の憲法が制定された。その性格は91年憲法に近く、フランスは「持てる人々の統治する国」になった。普通選挙制は廃止され、一定以上の納税をしている21歳以上の男子だけに選挙権があたえられた。独裁をさけるために、権力の分散がはかられ、定員 250人の元老会議と五百人会議の二院制がとられた。行政は5人の総裁からなる総裁政府に託され、総裁は五百人会議によって作成された50人の候補者リストから元老会議によってえらばれた。新しい憲法は成人男子全員の国民投票にかけられ、可決された。共和暦第4年霧月(ブリュメール)4日(1795年10月26日)、国民公会は解散した。
総裁政府をぎゅうじった穏和な共和派は過激な民衆運動を嫌悪したが、王党派に妥協する意志もなかった。しかし、山岳派の残党や、パリの民衆運動の活動家はのこっており、また、テルミドールの反動のあと、亡命していた貴族や、ひそんでいた立憲王政派がふたたびまいもどってきた。総裁政府は左右からの圧力に対してバランスをとる必要にせまられた。
1796年には、左翼の活動家の陰謀が発覚した。バブーフが中心となり、秘密結社を組織して権力を奪取し、平等な社会を建設する計画であった。この私有財産の否定をとなえた最初の社会主義団体の首謀者は逮捕され処刑された。すでに95年には小規模な王党派の暴動があったが、97年の3分の1の議員を改選する選挙では、王党派が当選者の大半を占めた。総裁政府は軍隊を利用し、王党派議員を追放した。さらに、98年の選挙でジャコバン派が進出すると、総裁政府は彼らの当選を無効とせざるをえなかった。
いっぽう、外国との戦争はつづいていた。恐怖政治の時代にたてなおされた軍隊は、経験をつみ、戦闘能力は高かった。1797年には、フランス国境周辺のオーストリア領をうばって、フランス共和国と同じ制度をもつ保護国にし、いったん戦争は終了したが、98年になると戦争は再開し、対仏大同盟諸国との全面的な戦争に発展した。
総裁政府は、左右の敵をおさえこみながら、国内の再建をすすめ、1796年には、中央官庁の機構が整備された。国民全体を国家の手で教育しようとする革命当初の計画は失敗したが、90年代の末には、各県に核となる学校がおかれ、ようやく全国的な教育行政がととのった。国家財政の基礎になる租税制度も98年には整備され、中央政府による全国の統治が軌道にのりはじめた。
しかし、1799年、戦争が激化するのと並行して、議会では左翼系議員が勢力をのばし、地方では王党派の活動が盛んになった。総裁政府をささえてきた共和派は、「持てる人々の統治する国」を安定させる人物に支配をゆだねようと考えた。それがナポレオン・ボナパルト(ナポレオン1世)であった。共和暦第8年霧月(ブリュメール)18日(1799年11月9日)、総裁政府は解散し、翌日、議会はナポレオンをふくむ3人の執政の任命を決定した。
| VIII. | フランス社会の変化 |
革命によって、フランス社会はどのように変化しただろうか。まず、身分制が廃止された。生まれによって一生が決定されることはなくなり、原則として、人々は、自己の意志と資質と努力によって人生をえらぶことができるようになった。自由で平等な個人の確立、所有の権利の確認は、資本主義的な経済活動の基本の条件であった。また、身分制の廃止は、領主をなくした。地域における領主の規制がなくなり、全国におよぶ自由な経済活動が可能となった。
政治的には、フランス全国を共通の法体系でつつみ、ただ一つの政府によって統治される国にかえた。しかし、3000万近い人口をもつ広大な国土を、中央政府の意向のもとに実際に統治するためには、緻密で堅固な行政組織と法体系が必要だった。そして、それを整理するには、長い安定した時間が必要だった。政治家や官僚がナポレオンの支配をうけいれた理由はここにあり、ブルジョワたちもナポレオンに期待した。経済についても、生産や流通の仕組みを整備し、宿敵イギリスに対抗できるようにする課題がのこされていたからである。