フランス革命
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フランス革命
II. 革命の始まり(1789)

聖職者と貴族の代表それぞれ約300名ずつ、第三身分の代表約600名、合計1200名がベルサイユに召集された。三部会は1789年5月5日に開会されたが、冒頭から議事の進行と議決の方法をめぐって対立が生じた。特権身分の代表たちは、伝統にしたがって身分別に議論をするつもりでいた。第三身分の代表は、身分制そのものを否認していたので、全員が一堂に会して議論し、ひとり1票で議決する方式を主張した。こうして、特権身分と第三身分の対立がつづいた。

1789年6月17日、第三身分部会は、理論家のシエイエスの提案で、国民議会と名のることをきめた。国王は第三身分の集会場を閉鎖して対抗したが、第三身分は近隣のテニスコートにあつまり、憲法が制定されるまで解散しないことを決定した(テニスコートの誓い)。6月24日、聖職者の多くと貴族の一部が第三身分の集会に参加した。国王はやむをえず、残りの貴族にも合流をうながした。第1段階は第三身分の勝利におわり、議員たちは、憲法制定国民議会と名のることをきめて、憲法制定の作業を開始した。

国王は、武力をつかう決意をし、軍隊の到着をまっていた。そして1789年7月11日、改革を主張する国務長官のネッケルを罷免した。ネッケル罷免の情報をきいたパリの民衆は武装を開始した。ネッケルは民衆に人気があり、罷免を国王と貴族による戦闘開始とうけとったのである。7月14日、パリの民衆はバスティーユ要塞にでかけた。要塞に保存されている火薬の引き渡しが目的だったが、話がこじれて衝突がおこり、要塞司令官が殺害され、要塞は占拠された。

パリは興奮状態になり、市民は勝手に市長をえらび、前日、市民によって結成された国民衛兵の司令官として、アメリカ独立戦争の英雄ラ・ファイエット侯がえらばれた。また、パリ市のシンボル・カラーの赤と青に王家の白をくわえ、新しい旗印がつくられた。国王は軍隊の引き揚げを宣言し、パリで3色の標識をうけとり、パリの新しい市制を承認した。全国の都市がパリにしたがい、市民の手で行政機関が設立されていった。

同じころ、農村では暴動がおきていた。事件はほとんどの場合、貴族の軍がせめてくるというデマがながれ、パニックにおちいった農民が貴族の城館をおそうという経過をたどった。全国に波及した農村の暴動の波は「大恐怖」とよばれたが、これは農民の領主に対する昔からの恨みを表現したものだった。自由主義的な貴族は、これをみて譲歩の必要を感じ、議会の作業に協力するようになった。いっぽう、王弟アルトワ伯をはじめとする保守派の貴族は、国外に亡命しはじめ、国外から革命の粉砕をくわだてるようになる。