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| III. | 憲法制定国民議会(1789~91) |
1789年8月4日の夜、議会は、貴族のもっている特権の廃止を決定した。興奮状態のうちに、領主の領民に対する特権や聖職者の十分の一税、各州や都市の特権などが廃止され、フランスの封建制は終わりをつげた。8月26日には、「人は生まれながらにして自由であり、平等である」ことを宣言する「人権宣言」が採択され、身分制も廃止された。
国王は「人権宣言」の承認を拒否した。事態の予想外の進展に王は抵抗し、同年10月には、ふたたび軍隊をよびよせた。パリの民衆も再度、行動にでた。女性が中心になったデモ隊が、10月5日、ベルサイユの宮殿におしかけ、翌日、国王一家を馬車にのせてパリに連行した。パリにつれてこられた国王は一連の法令を承認し、国王とその家族はパリの中心にあるチュイルリ宮殿にはいり、議会もパリに移動した。
議会は、チュイルリ宮殿に付属する馬の練習場におかれて、憲法や、他の法律の制定作業をおこない、新しい国家の骨格をつくった。フランスは憲法にもとづく三権分立の国家ときめられた。選挙でえらばれた議員たちの議会が立法を担当し、行政は王のもとにおかれる。司法は選挙でえらばれる司法官が担当するものとされた。昔からの州は廃止され、全国は80余りの県にわけられた。州は、フランス王国に編入された当時の事情に応じて、免税の特権や、州独自の昔からの法律をもっており、場合によっては独自の議会をもっていた。革命前のフランスは多くの小国家の寄せ集めだったのである。
新しいフランス王国は、パリにおかれた唯一の政府が、全国共通の法律によって統治する、中央集権国家となった。議員の選挙は、納税額による制限選挙制とされ、一定以上の納税額がない者、すなわち収入のない者は国政に参加する資格をみとめられなかった。「人権宣言」の中には、私有財産の擁護や、経済活動の自由がうたわれており、新しいフランスは、ブルジョワたちの理想を体現する国家であった。
立法活動が進展する中で、議員たちは多様な党派を形成した。王政と貴族の特権をまもろうとする貴族たちは議場の右側に、立憲王政を支持する自由主義貴族と上層のブルジョワたちが中央に、共和政をのぞみ、また貧困階層の要求をうけいれようとする人々が左側にあつまった。ここから、右翼、左翼という政治用語が生まれた。最初の段階で革命政府の中枢を占めたのは、有数の財産家ラ・ファイエット侯や、ブルジョワ出身の貴族ミラボーなどの立憲王政派であった。
党派間の溝をひろげたのは教会の問題だった。国家の膨大な借金を帳消しにするために、教会財産を没収して売却する法律が制定され、また1790年に、聖職者を国家の公務員にする法律がつくられた。聖職者には国家への宣誓が義務づけられ、彼らは宣誓の可否をめぐって分裂した。
貴族たちは、伝統の秩序がみだれ、自分たちの身があやうくなることをおそれた。国外に亡命する貴族が増加し、彼らはオーストリアやプロイセンなどの外国君主の援助で部隊を結成した。国内でも、教会の影響の強い農村部では、革命に反対する勢力が出現した。いっぽう、一般の農民や都市の貧困階層は、革命が別段の利益をもたらさないので、しだいに議会に対して不満をもつようになった。パリでは、政治に関心のある市民が傾向に応じて多数のクラブをつくり、また48の地区ごとに住民の集会が開催されるようになった。
1791年6月、国王一家がパリを脱走した。一家の馬車は、フランス東部の国境付近で発見され、パリにつれもどされた。パリの貧困な民衆は共和政を要求し、立憲王政をまもりたい政府とはげしく対立した。7月17日、王政廃止を要求して、シャン・ド・マルスの練兵場にあつまったパリの民衆に対して、ラ・ファイエットの指揮する国民衛兵が発砲し、約50人が死んだ。それでも、憲法制定の作業は終了し、9月に憲法制定国民議会は解散した。10月には選挙が実施され、新しく立法議会が召集された。しかし、国内の亀裂はひろがるばかりであった。