フランス革命
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フランス革命
IV. 立法議会(1791~92)

立法議会選挙では再選が禁止されていたので、議員全員が新人であった。また制限選挙制のために、裕福な商工業者や弁護士などが多かったが、貴族はきえていた。議会では、立憲王政を支持し、91年憲法に満足する者が、議場の右側を占めた。これらの議員にはフイヤン修道院にあつまるクラブの会員が多かったので、フイヤン派とよばれ、政治の主導権をにぎった。議場の左側の議員には、ジャコバン修道院でひらかれるクラブの会員が多く、ジャコバン派とよばれた。同派の議員は貧困な階層の要求に同情的だった。

1791年の秋の穀物収穫は不良で、同年末から食料品価格が高騰し、貧困な農民や都市の民衆は、暴動をおこして食料品の価格統制を要求した。だが、フイヤン派政権はこの要求を拒絶した。翌92年の春になると、各地で王党派の反乱がおき、また、王妃マリー・アントワネットの母国オーストリアは、フランスの革命を憂慮し、亡命貴族たちを支援した。そのため、4月に政府はオーストリアと開戦した。

フランス軍は敗北を重ねた。将校は全員が貴族で、その半数は亡命していた。軍の編成はみだれ、将校と兵士の信頼関係もくずれていた。1792年7月になると外国軍と亡命貴族の部隊がフランス国境に到達した。政府は非常事態宣言をだし、これにこたえて、各地で国民衛兵が組織され、パリに到着した。この際にマルセイユからきた部隊の進軍の歌が、「ラ・マルセイエーズ」として有名になり、のちに国歌になった。パリでは、地区ごとに住民の集会が頻繁にひらかれ、兵士の募集がおこなわれた。

フランス軍の敗北や、外国軍隊の侵攻がうわさされて騒然とする中で、王家に危害をくわえる場合には、パリを完全に破壊するというオーストリア・プロイセン連合軍司令官の宣言がパリにつたえられた。パリの民衆は憤慨し、1792年8月10日、チュイルリ宮殿を襲撃。国民衛兵もそれにくわわって、王宮を制圧した。議会は民衆運動の圧力に屈伏して王権の停止が宣言され、王の一家は監禁された。さらに、これまでの議会にかえて全国民の代表のあつまる公会を設置し、あらためて憲法を作成することがきめられた。また、民衆の要求で亡命者の財産の没収が決定された。