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鉄道
I. プロローグ

一対の金属製のレールによってつくられた軌道の上を、石炭、石油、電気をつかって車両を運転し、旅客や貨物をはこぶ施設の総称(蒸気機関車)。「鉄道」という用語は、狭義には軌道のことだが、広義には車両をふくむ鉄道の全体、さらに鉄道に関連する土地や建物、および機械設備などがふくまれる。モノレール:都市交通

II. レール

鉄道の前身は、荷馬車用道路またはトラムロード(トロッコ用軌道:トラムとはもともと石炭をはこぶトロッコのこと)で、16世紀ごろ石炭や鉄鉱石、石材などを鉱山や石切り場から港や水路などにはこぶためにつくられた。最初の荷馬車用道路は、厚板を2列平行においたものにすぎなかったが、牛や馬は、でこぼこの道路よりはるかに速いスピードで、重い荷物をひくことができた。初期のトラムロードでは、木製の軌道を固定するために枕木が使用されたが、まもなく、改良されて細長い鉄片を上にはり、馬車の車輪に鉄が使用されるようになった。1767年に、イギリスのレーノルズという鋳物工場経営者が最初に鋳鉄のレールをつくった。これは鉄の上張りをした木の軌道よりもずっと重い荷重にたえられた。89年には、W.ジェソップによって現在つかわれているものと同じΙ型の断面をもつレールがつくられた。

1811年に、英国の炭鉱主が、歯をきざんだレールの上に歯車の車輪をころがすという特許を獲得した。このアプト式といわれる歯軌条の原理は、極端な急勾配(こうばい)で車両をはしらせなければならないような場所で、補助の第3レールとして今でも活用されている。

現在つかわれているレールは、19世紀の初めにイギリスの北部でつかわれたエッジ・レールから発達したものである。車輪は、内側のエッジから外側にはりだしたフランジ(輪縁)によって、レールにはまっていた。多くの専門家は、トラムロードと区別して、鉄道とはレールが路床よりも高い線路をいう、と定義している。1825年に、イギリスのストックトン~ダーリントン間に蒸気機関車による鉄道が開業し、エッジ・レールが一般的につかわれるようになった。

イギリス以外で今日つかわれているレールの原型は、アメリカの発明家ロバート・スティーブンスによって、1830年に設計されたT型レールである。スティーブンスは、新しく設立されたニュージャージー州のキャムドン・アンボイ鉄道会社の技師長で、社長でもあった。T型レールは、頭部よりもひろい底部があり、枕木に直接スパイクをうちこめるように、両側に出縁があった。現在のアメリカでは、レールは、枕木の上にタイプレートといわれる金属板をおき、その上におかれた。この板は、レールの荷重を分散して、枕木にレールがくいこまないように、レールの底部よりもひろくできている。

現在のイギリスでつかわれているレールは、1835年に導入されたΙ型レールから発達した、ブルヘッド型レールである。ダブルヘッド・レールといわれたΙ型レールは、理論的には、上側が磨耗すれば上下逆にしてつかえる。しかし、実際には、レールの下側も、レールを垂直におくために必要なチェアとよばれる重い金属の留め金(座枕)との接触で磨耗してしまうため、上下を逆にしてはつかえず、あまり経済効果はなかった。バルクヘッド・レールは、Ι型レールよりも幅がひろく、頭部は厚さがあったが、やはり、木の楔で座枕にとりつけなければならなかった。断面が逆U字型で、縦長の木材の上にはまるブリッジ・レールは、92年まで、イギリスのグレート・ウェスタン鉄道会社でつかわれていた。

1. 錬鉄製レールと鋼鉄製レール

鋳鉄のレールに対する最初の改良は、1820年、イギリスで導入された錬鉄のレールである。イギリスはまた、はじめて鋼鉄のレールを製造した国でもある。アメリカでは鋼鉄製レールの製造は65年にはじまった。20世紀の冶金技術の発達は、レール用鋼材の品質を大幅に向上させたが、しばしば横方向の亀裂が使用中のレールの内部に発生し、事故をひきおこした。亀裂が発生する原因は、圧延機からでてくる高温のレールを冷却するときに生じる傷であることがわかって、この問題は解決された。

より重い列車をはしらせるためには、より重いレールが必要になる。初期の鉄道でつかわれた鉄製のレールは、1m当たり20kg以下の重さで、20世紀初めの鋼鉄製のレールでも、1mで30kg以上はなかった。これに対し、1930年代につかわれたレールの重さは50kg以上もあり、ときには65kg以上のものもつかわれた。

2. レールの継ぎ目

レールの継ぎ目は、軌道の中で比較的弱い部分であり、設計技術者は、レールを長くすることで継ぎ目の数を少なくした。蒸気機関車が開発されたころのレールの長さは0.914mだったが、1830年代には4.6~6.1mにのびた。20世紀初期の一般的なレールの長さは9.1mだったが、まもなく、12.2mの貨車が運行されるようになると10mになった。レールの長さは、レール自体を輸送する困難さから、一定の限界があった。1894年ごろにイギリスでつかわれた18.3mのレールは、アメリカでも敷設されたが、アメリカではおもに13.7mのレールがつかわれた。

以後、アメリカの鉄道では、レールを溶接して敷設するようになり、1本のレールが400mにまでなった。最初のうちは、あまりにも長いと、熱によって伸縮して変形するのではないかという不安から、溶接は慎重におこなわれた。しかし、縦方向の膨張と収縮は、変形をおこすほどではないことが経験からわかり、また、技術の発達によって溶接の強度をあげることができた。溶接できないところは、両側をボルトでとめた棒でレールを結合し、継ぎ目をカバーしている。このような継ぎ目の最初の発明者は、スティーブンスだと信じられている。

金属のレールをつかった初期の鉄道では、レールの各部分はしっかりと固定されていなかった。しかし、最近の鉄道建設では、より長くより強い留め金と、列車の荷重を枕木で均等に分散するため、幅のひろいタイプレートが使用される。数年の間は、レールをつなぐ突起のあるタイプレートがつかわれてきた。また、合衆国の鉄道にはほとんど、縦方向の変形をふせぐために設計された、アンチクリーパーとよばれる特別な留め金がついている。

1925年にはじまり、その後、とくに第2次世界大戦後急速に発達した列車集中制御装置(CTC)の設置は、鉄道線路の性能を高めたので、レール交換の頻度を減少させた。このシステムでは、制御司令室の制御盤かスイッチボードの前にすわっている1人の運行管理者によって、スイッチと信号で広範囲な線区の列車運行管理がおこなわれている。パネルには、各列車の位置が自動的に電光表示板に表示され、それぞれの信号をコントロールするノブと、スイッチをコントロールするレバーがある。

III. ゲージ(軌間)

レール頭部の最上部から、15.9mm下の点におけるレール内側の距離を、軌間(ゲージ・オブ・トラック、略してゲージ)という。アメリカ、カナダ、イギリス、メキシコ、ノルウェー、スウェーデン、そのほか多くのヨーロッパ大陸の国では、標準的なゲージは1435mmである。この軌間のものを標軌といい、これよりせまいものを狭軌、ひろいものを広軌という。なぜこの寸法が基準となったのかは推測でしかないが、おそらく、1.524mの車軸をもった鉄道車両をはしらせるために設置された、初期のトロッコ用軌道からの伝統であろう。初期のエッジ・レールのいくつかは、頭部が44.45mmの幅をもっていた。伝統的な板レールの幅にもとづいてそのようなレールを設置したことが、おそらく、結果的に1435mmの寸法になったのであろう。

19世紀を通じて、多くの鉄道会社が線路を建設したが、あるものは標準軌、あるものは広軌、狭軌と各社さまざまだった。1870年代ごろ、多くの鉄道は、通常、914mmの狭軌を採用した。狭軌を採用したのは、よりせまい盛り土や敷地ですみ、軽いレールがつかえ、急なカーブの線路ができるなどの理由による。71年には、アメリカで1476kmの狭軌鉄道が建設中であった。

1873年の鉄道恐慌以来、鉄道会社の株価が急落し、あらゆる種類の鉄道建設が中止においこまれた。このパニックは、より経済的である狭軌の鉄道建設を促進した、と主張する専門家もいる。

しかし、長距離の貨物列車は、ゲージのことなる鉄道の中継点では、貨物を別の貨車につみかえなければならないという不便があった。ゲージのことなる鉄道間の中継地点での貨物の扱い費用が膨大だったので、1886年ごろまでに、事実上全米の鉄道は、標準軌を採用することになった。その数年後には、多くのアメリカの鉄道会社が、一定の固定料金でたがいの貨物をとりあつかう協定をむすんだ。

中南米の鉄道は、いろいろなゲージを採用している。しかし、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスから放射状にはしる幹線の鉄道は、1676mmの軌間で建設されている。

ヨーロッパでは、幹線や支線の標準軌の鉄道網にくわえて、おもに山間部で、いまだに狭軌を採用している。スペインとポルトガルの幹線は1676mmのゲージを採用し、旧ソ連は1524mm、アイルランドではおもに1624mmである。アフリカとアジアはかなりまちまちで、エジプトの幹線は標準軌を採用しているが、南アフリカと日本の在来線では1067mm、日本の新幹線では、1435mm、インドの主要幹線では1676mmが採用されている。オーストラリアの鉄道は、いまだに州によってことなった軌間を採用しているので、支障をきたしている。

IV. 路盤とルート

線路の基礎になる地面を路盤という。線路のカーブは列車のスピードを制限し、上り勾配は高い馬力が必要となる。一般に線路は、地形にそって敷設されるが、多くの場所では、ほったり、切りくずしたり、土手をきずき、土盛りをして滑らかにする必要がある。最初の建設費用は、予想される操業費と収入とを勘案してきめられる。アメリカの鉄道は、国が発展する以前に建設されたので、当初の建設費用は一般には低くおさえられた。最近では、そのため、広範囲な改良が必要になった。

今日では、1%の勾配、つまり、100mの水平距離に対して1mの高低差が、急傾斜であると考えられている。近年の鉄道の改良計画では、重量貨物をはこぶ線路の傾斜は0.5%に制限されている。しかし、高速貨物サービスや時速160km以上の特急列車の出現によって、勾配よりもカーブが注目されるようになった。

列車の振動をのぞくために、カーブは、単純な円弧から半径を徐々に大きくするイーズメント・カーブ(緩和曲線)になってきている。列車はカーブにさしかかると、遠心力によって外側に力がかかるが、その遠心力に対抗するために、レールの外側を高くする。その高さは、カーブの程度と予測される列車の速度で決定される。

安定性を確保するために、土盛りは、数層につみあげてつくられる。各層は、次の層をつむ前に、土、砂利、その他の材料をしっかりつめこんで、線路の荷重を分散し、水はけをよくしたり、強度を増加させる。切れ込みをいれ、土盛りした路盤の両側は、土砂崩れをふせぐために、緩やかな傾斜にしなければならないが、その角度は材料の種類によってことなる。

切れ込みが石の場合は、側面は傾斜が比較的急でもかまわない。両側が土の場合は、浸食されて穴があくのをふせぐために、しばしば、芝生や石炭殻の厚い層でおおったり、土壌改良剤などがつかわれたりする。

路盤は、水によって大きな損害をうける。切れ込みや土盛りを水の被害からまもるために、路盤の路肩には排水用の溝がほってある。線路に平行にはしっている溝をせきとめたり、排水したりするために、予備用の溝や線路の地表下に敷設された排水管が必要な場合もある。

ときには、木材の板でささえたコンクリートの上に線路を敷設することもある。路盤が地面の湿気によってやわらかくなるのをふせぐ新しい方法は、路盤と地面の間に重いプラスチックやゴムの板をおくことである。路盤が軟弱である所では、サブバラストといって、バラストの下に1段バラストをもうけることもある。

1. 路盤の改良

鉄道が15~18m以上深い窪(くぼ)地を通過する場合には、構脚や橋、あるいは高架橋などがつかわれる。一般に、鉄道の改良には、路盤の路肩の幅をひろげることや、構脚や橋の強化が計画されてきた。

トンネルの建設はひじょうに費用がかかるため、線路が丘や山にさしかかると迂回して敷設することが多かった。トンネルは、かたい岩盤を切りひらく以外は、鉄筋コンクリートや耐食性の金属などで内部をおおわなければならない。ときには、水はけをよくするために、ゆるい傾斜のある所につくられることもある。

V. 枕木と道床

レールをささえる枕木は、もとは加工されていない木材だったが、現在ではクレオソートその他の防腐剤を注入するようになった。これによって枕木の寿命は5~6年から25~30年までのびた。またコンクリート製の枕木が一般的になった。枕木の寸法や一定区間につかう枕木の数がふえ、厳密な品質基準がつくられた。

枕木は、路盤の上に道床をつくってその上におかれる。道床はバラストともいい、昔は土や石炭殻のような材料でできていたが、今日では、一定の大きさの砂利や砕石、または鉱滓(スラグ)にかわった。砕石の不規則な形が空間をつくって水はけをよくすると同時に、レールに弾力性をあたえるので、荷重が道床に均等に分散される。道床の厚さは、ますます重くなる列車の荷重にたえられるように増加してきた。いくつかの路線では、道床の厚さは、600~800mmにもなっている。

VI. 電化

世界で最初に電車を実用化したのは、ドイツのE.W.ジーメンスである。1879年にジーメンスは、ベルリンの郊外で電気機関車の牽引(けんいん)による電車の試運転に成功し、81年にはベルリン~リヒターフェルデ間で、電車の運行が開始された。以後、電車は、95年にアメリカの鉄道の短距離区間に導入され、庶民の足として都市交通に重要な位置を占めるようになった。

日本では1895年(明治28)に、京都市内ではじめて電車が運転された。第3回内国勧業博覧会(1890年)で公開されたスプレーグ式をもちいたもので、大型車両は、1914年(大正3)、東京~桜木町間に導入された。

VII. 客車とサービス

当初の客車は、駅馬車に鉄道の車輪がついたもので、長さがおよそ4.6m、幅が2.1mだったが、まもなく、4輪ではなく、もっと大型の6輪車が導入された。ヨーロッパの客車の多くは、コンパートメントという部屋にしきられている。そのほかの列車は、一方にせまい通路がついており、旅の間、乗客はトイレや食堂車にいける。ポーター・サービスや指定席のついたアメリカの寝台車やパーラーカーは、ほぼヨーロッパの一等車に相当し、デイ・コーチ(普通客車)は二等車にあたる。

1. 寝台車

世界最初の寝台車は、1836年にアメリカで採用された。これは一方の壁側に粗末な段々ベッドをすえつけたものであった。59年、アメリカの発明家ジョージ・プルマンは、アルトン鉄道会社の2台の車両を寝台車に改造し、64年に、その後約75年間アメリカの標準となった寝台車の特許をとった。

2. アムトラック

1930年代に旅客サービスは大幅に改良され、車両の軽量化、流線型の列車の採用、空調設備の改良および高速化などを実現した。しかし、第2次世界大戦後のアメリカでは、旅客列車の衰退がはじまった。60年代後半までに、鉄道は郵便と貨物の急行便事業をうしない、旅客サービスも赤字を累積してきた。議会は、71年にアメリカ旅客鉄道輸送公社(アムトラック:Amtrak)を設立してこれに対応し、アムトラックは、全米の都市間旅客列車を責任管理することになった。82年までに、アムトラックは、いくつかの鉄道会社からうけついだ古い客車や機関車を新型にかえた。これらによって年間乗客数は、72年の1660万人から、86年には2020万人に増加した。

3. 外国の旅客サービス

現代の鉄道の主役は、アメリカからほかの国にうつった。1964年(昭和39)には、日本の国鉄が東海道新幹線を開業することで、高速鉄道サービスを開始した。

ヨーロッパでは、ドイツとフランスは独自の高速サービス網を発達させ、1981年に、フランスの国有鉄道は、パリ~リヨン間とパリ~ジュネーブ間に、時速260kmで運行するトラン・ア・グランドゥ・ビテス(TGV)という高速鉄道を開通させた。イギリスの鉄道は、特急列車のために新しい鉄道を建設せず、アドバンスド・パッセンジャー・トレイン(APT)を発展させて、既存の線路で操業することにした。APTは、従来の旅客列車よりもはるかに高速の、時速210kmでカーブをまがる車両傾斜機構を使用した。しかし列車の安定装置に問題があって、操業は大幅におくれ、ロンドン~スコットランド間で運転を開始したのは1984年である。

VIII. 貨車とサービス

積載能力が大きくなればなるほど、車両の自重に対する荷重の比率は大きくなる。たとえば、全長14.6m、重さ27tの石炭運搬車は、77tの石炭をはこぶことができる。しかし、全長15.24mで、34tの重さ(23%増)の石炭運搬車は、109t(41%増)の石炭をはこぶことができる。前述の77tおよび109tの積載能力のある石炭運搬車は、一般の使用では、もっとも大きな貨車の部類にはいる。現在、よくつかわれている36~45tの積載能力のあるボックスカーは、75年前の貨車と比較すると大きな相違がある。その当時は、9~14tの積載能力が一般的だった。イギリスでは、短距離、小口の委託貨物が多く、ほとんどの貨車は14t以下の荷物を輸送している。

特定の目的にあわせて、いろいろな特別設計貨車がつくられている。大型のセミトレーラーを低床貨車で輸送するのは、24.4mのフラットカーである。肉そのほかの生鮮食品のためには、冷凍車や保温車が必要である。生きたニワトリや家畜のための貨車もある。アンモニアのような気体、ガソリン、石油、アルコール、酸、および塗料などのような液体、半固体または液をふくむ固体は、タンクカーで運搬される。

IX. 鉄道車両設計の進歩

19世紀のもっとも重要な発明の中に、エア・ブレーキと連結器がある。今日では、ほとんどのアメリカの車両がエア・ブレーキを装備している。エア・ブレーキは、車両をつなぐ連結器が破損したときや、圧縮空気システムに漏れが生じたときなどに自動的に作動する。1870年代に、アメリカの発明家エリー・ジャニーは、ピボット・ナックル付きの連結器の設計で特許をとった。ピボット・ナックル付きの連結器は、2台の車両をおしつけると自動的に連結し、車両の側面にあるレバーで解除できるもので、87年には、すべての車両にジャニー連結器の改良モデルが採用された。

鉄道建設の初期のころから、車両が衝突したときの衝撃をやわらげるために、車両の先頭と最後尾につける緩衝器が導入された。もっと近代的なものは、緩衝器同士の表面の摩擦を利用するものである。たとえば、アメリカの旅客車両では、車両の両端にある緩衝器の頭は、水平なプレートで、次の車両のプレートの上または下にすべりこんで、コネクティング・プラットフォームを構成する。改良された連結器の場合は、スライド式摩擦装置がばねにかわった。

20世紀になると、車両製造技術の発達によって、車軸にころ軸受が導入された。以後、ころ軸受は、車軸の軸受にとりつけられたスリーブ・ベアリングにかわった。

X. ターミナルと操車場

ターミナルとは、各地から到着する個々の車両が、そこで目的地ごとにわけられ、列車に編成される所である。貨物および乗客ターミナルは、駅の施設だけでなく、ポイントの切り替えをしたり、軌道にのせる機構をもった操車場でもある。ふつう修理工場が隣接し、乗客ターミナルの場合は、売店や操車場、車庫などがある。

車庫では、車両が清掃され、寝台車や食堂車に必需品がはこびこまれる。はいってくる機関車は、列車を受け入れ、操車場で切りはなして、検査、修理、格納などのために機関庫に回送される。貨物ターミナルでは、機関車と乗務員室を切りはなした列車を、編成操車場へ回送して再編成する。水平な線路の場合は、車両を転轍機でうごかさなければならないが、大規模なターミナルでは、ハンプ式操車場があり、重力でうごかす。新しく編成された列車は、別の操車場にすすみ、そこで貨物の積み降ろしや修理、格納または出発のための準備などをおこなう。

XI. アメリカの鉄道

鉄道時代がくる前のアメリカには、2~3線の路面軌道があった。たとえば、1795年に操業したボストンの路面軌道は、煉瓦(れんが)をはこぶためにつかわれた。高く土盛りした線路を、フランジ(輪縁)のある車輪ではしる、いわゆる鉄道といえる最初の路線は、1826年にマサチューセッツで建設されたグラナイト鉄道で、石切り場からネポンセット河畔の埠頭(ふとう)まで花崗(かこう)岩をはこぶものであった。基本的には重力と数頭の馬でうごかしたが、短い傾斜のある所では、連続したチェーンのついた固定式エンジンでうごかした。

この数年前の1815年に、アメリカではじめての鉄道建設許可書が、ニュージャージー州から発明家ジョン・スティーブンスにあたえられた。彼は、T型レールを発明したロバート・スティーブンスの父で、アメリカの鉄道の父ともよばれる。ジョン・スティーブンスはペンシルベニア鉄道の発起人であったが、このプロジェクトを実行にうつす資金がなかった。

アメリカの鉄道網の建設は、1828年になってやっとボルティモア~オハイオ間ではじまり、30年に開通した。

1. 鉄道網の発達

大陸横断鉄道は、1836年の政治家ジョン・プリュームとロバート・ジョン・ウォーカーの提案によって本格化した。以後、49年のゴールド・ラッシュと、北西部がカナダに併合されるのではないかという不安に刺激されて、南北戦争の期間中に、ユニオン・パシフィック鉄道の建設がはじまった。

1862年に、ユニオン・パシフィックなど数社の鉄道会社に対し、広範な連邦政府の無償土地払い下げが許可がされた。ネブラスカ州のオマハから西にのびているユニオン・パシフィック鉄道会社の線路と、カリフォルニア州のサクラメントから東にのびているセントラル・パシフィック鉄道会社の線路が、69年にユタ州のプロモントリーで連結され、ついに東海岸と西海岸をむすぶ大陸横断鉄道が完成した。

南北戦争後のインフレで一時鉄道の開発は停滞したが、その後は、とくに中西部および西部を中心に急速な発展をとげた。ところが、1873年の恐慌によって、鉄道株が暴落し、発行価格程度になってしまったため、鉄道の延長は事実上中断してしまった。しかし、80年代になると、再度鉄道建設ブームがおこり、1年間に1万1265.4kmの割合で、路線がのびていった。このブームは、年によって伸び率に差はあったが、1910年までつづいた。

2. 鉄道会社の合併

19世紀の後半に、コーネリュース・バンダービルトとその息子のウィリアム・ヘンリー・バンダービルトは、ニューヨーク・セントラル鉄道会社を設立した。20世紀初頭の数年間に、すでに大規模で複雑に発達していたいくつかの鉄道網が合併し、巨大な力をもった鉄道帝国に発展した。ボルティモア・アンド・オハイオ鉄道会社は、一時期、すでに東部および中西部の巨大な鉄道網を支配していたペンシルベニア鉄道会社の傘下にはいった。北西部への大陸横断ルートは、J.P.モルガン社の傘下にはいり、南西部およびサンフランシスコへの大陸横断ルートは、アメリカの鉄道王エドワード・ヘンリー・ハリマンの支配下にはいった。

1870年代までに、鉄道が合併して成長し、巨大な権力と影響力をもつようになったことと、疑問視されるような強引な事業のやり方が原因で、鉄道に対する民衆の反感が高まった。大部分の州で、管轄権をもつ鉄道委員会ができ、87年には、連邦議会が州間商業委員会を設立した。1904年に、アメリカ連邦最高裁判所は、シャーマン・反トラスト法を鉄道に適用した。そして、同年、連邦議会は州間商業委員会に対して、鉄道会社を製造会社および鉱山会社から切りはなすことを命令した。

1960年代以降、多数の鉄道会社の大型合併が実現し、多くの会社がその中に吸収された。なかには倒産した会社もあった。合併によって設立された会社は、68年の、ペン・セントラル鉄道会社。しかし、このペン・セントラルも70年に倒産。76年、ペン・セントラル社をふくむ、北東部の倒産した鉄道会社が連邦議会の法律によって合併し、コンソリデイテッド・レール・コーポレーション(Conrail)が設立された。70年に、グレート・ノーザン社、ノーザン・パシフィック社、およびバーリントン社が合併し、バーリントン・ノーザン(BN)社が設立されたが、その後、BNはセントルイス・サンフランシスコ(Frisco)鉄道会社を吸収した。チェサピーク・アンド・オハイオ、ボルティモア・アンド・オハイオおよびウェスタン・メリーランドの各鉄道会社は、チェシー・システム社の子会社となった。81年にチェシー社は、ファミリー・ライン社と合併し、CSXコーポレーション社を設立した。ファミリー・ライン社はシーボード・コーストライン社、ルイスビル・アンド・ナッシュビル社、およびクリンチフィールド社の集合体であった。しかしながら、ウェスタン・メリーランド社以外は、すべて独立して営業している。

XII. 日本の鉄道
1. 鉄道の夜明け

日本の鉄道は、1854年(嘉永7)アメリカの東インド艦隊司令長官ペリーがひきいる4隻の黒船とともにやってきた。アメリカ大統領から将軍へあてた贈り物の中に、蒸気機関車と客車の模型1組(実物の4分の1大)がふくまれていた。横浜村の海岸に陸揚げされたあと、アメリカ人の手によって、はじめて蒸気機関車の運転がおこなわれた。黒煙をあげ、地響きをたててはしる姿に、応接の役人や多くの日本人は大きな衝撃をうけた。数年後の1868年(明治元)、江戸~横浜間の鉄道敷設案が提唱されたが、この計画に対しては、明治政府の高官の間でも圧倒的に反対が多く、民間でも街道筋の旅籠(はたご)、かご屋、飛脚などの業者が強く反対した。結局、伊藤博文、大隈重信らの熱意により、69年に国有鉄道建設の計画がたてられた。

日本最初の東京~横浜間の工事は1870年3月から、大阪~神戸間の工事は70年6月からはじまった。6月には京浜間の神奈川陸橋に着工し、つづいて10月から翌年の10月にかけて六郷川の鉄橋工事がおこなわれたが、この鉄橋は実に延長623.6mという、当時としては長大なものであった。71年に、かねて注文してあった4輪連結の水槽付き機関車(110号型)8両と炭水車付き機関車(5000号型)2両がイギリスからとどいた。この110号型の機関車の重量はわずか23tであった。

京浜間の新橋~野毛間29kmは1872年9月に開通、同月より運転営業を開始した。同じく大阪~神戸間32.7kmも74年5月に完成、77年には大阪~京都間も開通した。以後、89年7月に新橋~神戸間(約600.2km)の東海道本線が開通し、91年9月には、半官半民の日本鉄道会社により、上野~青森間の全線(約730.7km)が開通するなど、鉄道路線は国有、民間会社の別はあっても、次々と全国に延長されていった。

2. 明治期鉄道技術の輸入

当初、鉄道の建設にあたっては、日本の権益をもとめるフランスそのほかの列強諸国の外圧もあったが、結局イギリスに援助をもとめることになり、1870年(明治3)イギリスからエドモンド・モレルをまねいて建設師長とし、京浜間(新橋~横浜)と阪神間(大阪~神戸)の測量にとりかかかった。

モレルはたんに技術的なことばかりでなく、大蔵少輔(おおくらしょうゆう)伊藤博文に対して、管理機構の面でも工部省の設置が必要なことや、将来の技術者養成の専門教育機関の設立をすすめるなど、適切な進言をおこなった。さらに京浜間の工事に際しては、日本は木材が豊富であるから、レールの枕木は鉄よりも木のほうが適当であるという報告書を大隈重信におくっている。

開通した京浜間の鉄道はイギリス製機関車でひき、燃料もほとんどイギリスの輸入炭を使用した。運転は、イギリス人が担当し、日本人の火夫が釜たきをおこなうなど、すべてがイギリス方式であった。

新橋と横浜の停車場は、アメリカ人のブリジンスが設計した石造2階建て2棟連結で、正面に2カ所の出入口がある西洋式建築物であった。当時、鉄道の資材は車両、機械などほとんどがイギリス製であったため、レール、鉄製枕木、スパイクなどは輸入にたよっていた。

鉄道の設計段階で問題になったのは、ゲージであった。当時ヨーロッパでは、小規模の鉄道には狭軌のほうが経済的であるという意見が多く、日本政府から委任されたイギリス人ネルソン・レーは、顧問のブレストン・ホワイトと相談した結果、1067mmの狭軌を採用することに決定した。以後、日本の鉄道では、狭軌が現在にいたるまで使用されているが、後日、大隈重信は、鉄道の知識が浅いため、イギリス人にまかせたままにしたことを後悔する言葉をのこしている。

3. 民営鉄道の発達

1881年(明治14)に、日本で最初の民営鉄道「日本鉄道株式会社」が創設され、2年後、上野~熊谷間が開通、つづいて前橋まで延長された。91年には現在の東北本線が青森まで開通した。そのほか、85年から89年にかけては、阪堺鉄道、甲武鉄道、伊予鉄道、山陽鉄道、関西鉄道、九州鉄道、両毛鉄道、水戸鉄道などが次々と開業し、民営鉄道の営業路線は全国の50%をこえるようになった。

政府はこのような状況に対し、1892年に鉄道敷設法を公布して、鉄道建設の指導にあたることとなった。以後、官営、民営とも営業キロ数は伸長し、輸送力は増大していった。

1894~95年の日清戦争と1904~05年の日露戦争により、国力の増大と軍事的な要請で全国の幹線鉄道の統一がすすみ、06年、鉄道国有法が公布されると、翌年までに全国のおもな民営鉄道17社が買収、国有化された。

その後、全国各地の民営鉄道は地域の交通機関としての役目を分担することになり、明治末期から大正初期にかけて、全国的に民営鉄道が盛んに建設された。とくに東京や大阪などの大都市では、都市と近郊をむすぶ地域に電気鉄道が開通し、都市の発展につれてその経営規模は大きくなっていった。1919年(大正8)に地方鉄道法、21年には軌道法が公布され、民営鉄道に対して統一的な規制がしかれたのである。

4. 軍事と鉄道輸送

神風連の乱、萩の乱、西南戦争、京城事変(壬午軍乱)などによって、政府は軍事輸送の不備を痛切に感じた。なかでも軍部は、軍備の拡張と鉄道の建設を強く希望した。1883年(明治16)、軍部の指導者であった山県有朋は、軍事的観点から、東海道をさけて中山道(高崎~大垣)に鉄道を建設する案を提出した。

政府も1883年に中山道線の建設にふみ切ったが、結局、工事が困難なことや建設費などの点で、東海道に変更されることになった。89年6月には、陸海軍の大臣の要請により、横須賀線(大船~横須賀)が軍事路線として開通し、さらに94年の日清戦争勃発(ぼっぱつ)とともに、青山練兵場から甲武鉄道をへて、東海道本線に接続する品川西南線と東海道本線の神奈川~保土ヶ谷間が軍事費によって建設された。

1905年9月の日露講和条約によって、日本は南満州鉄道の経営権を獲得し、翌年6月に南満州鉄道株式会社が設立された。また、台湾総督府によって台湾縦貫鉄道が完成し、樺太(現サハリン)には陸軍第13師団の軍事輸送のために、11年に鉄道が開通した。05年1月には、朝鮮半島の京釜鉄道株式会社によって釜山~京城(現ソウル)が、翌年4月には京城~新義州が開通。44年、鴨緑江の架橋工事の完成により、鉄道は京城~長春間をむすんで、国際列車の直通運転が開始され、これによって大量の軍事輸送が可能になった。

なお、1934年(昭和9)12月には、南満州鉄道株式会社が大連~新京(現、長春)に、平均時速84.1kmの国際特急あじあ号の運転を開始した。

5. 帝国主義時代と鉄道

1931年(昭和6)の満州事変以後、国内の各企業にも戦争の影響がおよんだ。鉄道建設も例外ではなく、多くの工事が中止され、新線の建設は軍事路線が優先されるようになった。

1941年に太平洋戦争がはじまると、軍事上重要な路線は新設されたが、軍事輸送にかかわりのない路線は休止、縮小された。またレール、枕木、橋げたなどの資材や施設なども軍事路線に転用された。44年、鉄道敷設法戦時特例が公布されると、軍事路線の建設はさらに積極化し、貨物列車をひく蒸気機関車は、軍部の要請によって新しく設計されたD51型、D52型などの大型機関車が多用された。これらの機関車は戦後も旅客用の急行列車として活躍し、戦後の復興に貢献した。

6. 弾丸列車の計画

戦争による軍事輸送の増大と、軍による船舶の徴用で停滞した一般の海上輸送や自動車輸送の衰退などで、鉄道の輸送量は急激に増加し、ほぼ限界に達していた。そこで計画されたのが弾丸列車の新設であった。これは軍部が推進し、新しいアジアの建設を目的とした国家的な交通政策で、東京~下関間を直結し、下関~釜山をフェリーでむすび、さらには中国の天津、北京までのばそうという遠大な計画であった。

そのためには、下関~門司間の海底トンネルを掘削し、朝鮮海峡にも海底トンネルをつくり、1942年のシンガポール占領後には、東京~シンガポール間を鉄道でむすぶ計画もたてられていた。

7. 関門海底トンネル

本州と九州をむすぶ関門海峡の海底にトンネルをほるという計画は、すでに明治のころからあった。1919年(大正8)になり、最初の調査がはじまったが、関東大震災や世界的な大恐慌のため、一時中断された。しかし35年(昭和10)になると、軍部の強い要望もあり、関門隧道(すいどう)技術委員会がもうけられて、トンネルの掘削にシールド工法をもちいることなどがきめられて、地質、地盤、海底の調査などが実施されることになった。

1936年、6年計画で最初の下り線の工事が開始され、40年には上り線の工事がはじまった。工事にはシールド工法のほか、地質不良の個所では逆巻(さかまき)工法などもとりいれられ、下り線は42年6月、上り線は44年8月に、20人の犠牲者をだした難工事が完成した。この完成により、輸送時間は短縮され、関門トンネルの掘削技術は、青函トンネルの建設にも生かされている。

8. 戦後復興と鉄道

敗戦によって海外領土をうしなった日本は、産業がほとんど壊滅し、国土は荒廃した。鉄道も例外ではなく、空襲による被害は広範囲にわたり、車両や施設の老朽化にくわえ、資材の欠乏、職員の不足などで、まさに復旧困難な状態であった。国鉄では駅197カ所、車両1万3000台以上、私鉄では、駅104カ所、車両2600台以上が全壊した。

しかし、占領軍、復員軍人、引き揚げ者のすみやかな輸送など、戦後日本は鉄道に多くを依存しなければならなかった。国鉄と私鉄の関係者は劣悪な条件のもとで、任務を遂行していった。

輸送業務がつづけられた結果、1945年(昭和20)の鉄道の営業キロ数は戦前の80%に回復し、旅客と貨物の輸送量は戦前を上まわった。46年には、復旧のための車両整備5カ年計画と国鉄電化5カ年計画がたてられ、再建への歩みがはじまった。

以後しだいに設備関係の強化はすすみ、1946年からはじまった上越線の電化は翌年10月に完成。東海道本線は56年11月に全線の電化工事が完成し、70年10月の鹿児島本線の電化工事完成によって、青森~鹿児島間の全電化が完了した。

その間、新型機関車の製作技術や、電化の進展とともに列車の運行技術も向上し、1956年11月に東京~博多直通のあさかぜ号、57年10月には東京~長崎直通のさちかぜ号、58年10月には東京~鹿児島間のはやぶさ号、上野~青森間のはつかり号など、主要な長距離区間に特急列車が運転され、また中距離列車もスピードアップされるようになった。

1957年3月には電車線の強化が計画され、4月に東海道本線浜松~豊橋間、58年4月大宮~宇都宮間、同年10月大垣~美濃赤坂間に、それぞれ電車の運転が開始された。また同年11月には東京~大阪~神戸間に特急電車こだま号、60年6月東京~大阪間につばめ号、64年10月からは東京~新大阪間に東海道新幹線が営業運転を開始して話題をよんだ(新幹線)。

9. 高度経済成長と鉄道

高度経済成長期にともない、首都圏、京阪神、名古屋などの大都市圏の通勤人口がふくれあがり、鉄道の利用客は増加の一途をたどっている。その通勤輸送の混雑緩和と電車のスピードアップをはかり、スムーズな運転をめざしてさまざまな改善がおこなわれた。1970年(昭和45)7月から、山手線に通勤冷房車がはしるようになった。

在来線の旅客列車には、とくにカーブ走行に強い「クモハ591型振子電車」が採用された。これが1973年7月から特急電車として中央本線、紀勢本線、伯備線などで運転を開始し、カーブの区間でも時速120kmの高速で走行した。

ローカル線のスピードアップをはかるため、ガスタービン車などが製作された。そして、首都圏の通勤電車の混雑緩和のため、総武線と東海道本線を接続する両国~東京~品川間の地下鉄線が1976年10月に完成。つづいて埼京線、京葉線などの建設工事がはじまり、93年4月から中央線に通勤特快を3本運行するなど、新しいサービスが開始された。

しかしその半面、航空輸送や自動車の発達、高速道路網の充実などで鉄道の利用者数がへり、全国各地で国鉄の路線廃止があいついでいる。1982年の臨時行政調査会答審で、国鉄の経営を合理化し、悪化した経営再建をはかるために6分割して民営化することがきまり、87年4月1日より地域別にそれぞれJR北海道、JR東日本、JR東海、JR西日本、JR四国、JR九州、JR貨物の新しい株式会社が発足して現在にいたっている。なお、93年度の全鉄道営業キロ数は2万7152kmであり、そのうちJRは2万129.4km、全輸送人員は228億3900万人、うちJRは89億600万人であった。

10. 世界一となった日本の鉄道技術

1964年(昭和39)、日本で東海道新幹線が開通したあと、アメリカ、ドイツ、フランスなどの先進国の間でも高速列車の開発研究が盛んになった。一方、車輪によるこれまでの駆動方式では、スピードの向上には限界があるのがわかっていた。そこで各国では、高圧空気をふきつけて浮上させる空気浮上方式や、磁石の反発力を利用して浮上させる磁気浮上方式、推進力としてジェット噴射、プロペラ推進、またはリニアモーター駆動などの浮上推進方式の開発がはじまった。

日本では、浮上方式の研究はすでに1962年から、旧国鉄の鉄道技術研究所を中心に騒音、振動、大気汚染などの環境対策を優先しながら、磁気の反発力で地上数センチメートルを浮上するリニアモーターの開発研究がすすめられている。72年、鉄道100年を記念する行事のひとつとして、超電導磁気浮上車両(ML-100)の時速60kmの浮上走行を公開し、74年には宮崎県の日向市~都農間に延長7kmの実験線がつくられた。

1974年、日本航空による都心と空港間を連絡する低中速の交通機関として、常電導磁気浮上方式(HSST)の研究が、川崎市の実験線で開始され、78年2月14日には実験車両HSST-01によって時速307.8kmを記録した。しかしその後、名古屋鉄道と合弁で実用化をめざしたが、採算面などでの問題をクリアできず、実用化にむけた取り組みは難航している。2000年7月には日本航空がこの事業から撤退し、名古屋鉄道に営業譲渡された。05年3月、愛知高速交通東部丘陵線(愛称、リニモ)が、日本初の磁気浮上式リニアモーターカーの営業路線として、愛知万博にさきがけて開業した。最高速度は100km/h、営業距離は8.9km。

宮崎県の実験線では1979年12月21日、マグレブ(MAGLEV)とよばれる誘導反発式リニアモーターのML-500が時速517kmの世界記録を達成し、87年2月には、人をのせた2両編成のML-500が時速400.8kmを記録。さらに同年4月、国鉄の民営化後はJR鉄道総合研究所に研究がひきつがれ、88年3月に営業車(プロトタイプ車両)で時速362kmの記録をつくった。

国鉄民営化後、JR東海は、東海道新幹線のバイパスとして、東京~大阪間を1時間15分に短縮するリニア中央新幹線構想にもとづき、現JR中央本線の笛吹市~上野原市間の延長約42.8kmを山梨実験線として、1990年11月28日に起工、97年に先行区間の18.4kmが完成して同年4月3日から走行試験がおこなわれている。99年4月14日には、有人の鉄道として世界最高の時速552kmを記録した。しかし先行区間の建設に予想以上のコストがかかったことや用地買収のおくれなどから残りの区間の着工の見込みはたっていない。さらに、バブル景気の崩壊や、規制緩和にともなう航空輸送との競争激化などから東海道新幹線の輸送がのびなやんでいるため、中央新幹線構想自体が進展していない。建設コストだけにとどまらず、超高速運転による衝撃波や電磁波など、環境面で未知の問題も多く、早期の実現は困難とみられる。