| 検索ビュー | ポルトガル | 項目ビュー |
| I. | プロローグ |
ヨーロッパ南西部、イベリア半島の西にある国。正式国名はポルトガル共和国。国名は国の歴史がはじまった町として知られる今日のポルトの古名、ポルトゥス・カレに由来する。北と東をスペイン国境にかこまれ、南と西には大西洋が広がる。大西洋上のアゾレス諸島とマデイラ諸島は自治地方。両諸島をあわせた総面積は9万2345km²。人口は1064万2836人(2007年推計)。首都は最大の都市リスボンである。
| II. | 国土と資源 |
国境は山と川からなり、内陸部は山がちだが、南西部には農耕の盛んな平野が広がる。中部のエシュトレラ山脈の最高峰は1993m。イベリア半島最長の河川テージョ川はリスボン付近で、それにつづくドウロ川はポルト付近で大西洋に流出する。グアディアナ川は東側、ミーニョ川は北側の国境をながれる。
| 1. | 気候 |
気候は高度によって変化し、南部の低地では夏季に高温になる。ドウロ川北部での年平均気温は10°C、テージョ川とドウロ川にはさまれた地域では15.6°C、グアディアナ渓谷では18.3°Cほどである。北部の海岸部では雨が多い。
| 2. | 天然資源と動植物 |
ポルトガル最大の天然資源は鉱物で、石炭、銅、金、鉄鉱石、陶土、スズ、タングステンなどが産出される。河川や人造湖の水力資源も豊富である。肥沃(ひよく)なテージョ渓谷をのぞいて、土壌はかならずしも農業に適していない。
動植物はスペインと類似しており、樹木ではトキワガシ、コルクガシ、ポプラ、オリーブが多い。野生動物では、オオカミ、ヤマネコ、キツネ、イノシシ、ヤギ、シカ、ウサギなど。南部には、ジェネットやカメレオンの仲間も生息している。鳥類も200種類以上をかぞえ、とくにテージョ川河口一帯は、フラミンゴやコウノトリなど北からの渡り鳥の越冬地となっている。
| III. | 住民 |
長い歴史の中で、イベリア人、ローマ人、西ゴート人(→ ゴート族)、ムーア人など、複数の民族が混合してきたが、今日のポルトガル人は言語的にも宗教的にもきわめて均質である。アゾレスおよびマデイラ両諸島をふくめた人口は1064万2836人(2007年推計)で、人口密度は116人/km²(2007年推計)である。近年、都市化がすすんでいるが、それでも人口の3分の1は農村部に居住している。1960年代から70年代前半にかけて多数のポルトガル人が移民として海外に流出し、アフリカの植民地独立があいついだ70年代半ばには大量の帰国者をむかえた。90年以降は外国人移民が増加している。
| 1. | 都市と宗教 |
首都リスボン(人口56万4657人(2001年))はポルトガル最大の都市で、重要な港湾都市でもある。そのほかには、国内第2の都市であるポルト、古都で産業の中心地のひとつでもあるコインブラなどが知られるが、規模は大きくない。ほとんどの都市は海岸部に集中している。
信教の自由は憲法によって保障されているが、カトリック教徒が人口の9割を占める。近年、都市部と南部では教会にかよう人が減少しているが、農村部では、依然としてカトリックの伝統が根強くのこっている。公用語はポルトガル語である。
| IV. | 教育と文化 |
義務教育は、6~15歳の9年間である。6~9歳の第1期(4年)、10~11歳の第2期(2年)、12~14歳の第3期(3年)からなり、第2期の1年目(5年生)で、第1外国語として英語が必修。第3期の1年目(7年生)から、第2外国語としてフランス語またはドイツ語を選択してまなぶ。この基礎教育につづく学校としては、日本の高校にあたる中等学校(3年制)と職業学校がある。2003年度には、38万9000人の学生が高等教育機関でまなんだ。リスボン大学とコインブラ大学の創立は、ともに13世紀にさかのぼる。
リスボンには、科学アカデミー図書館、アジューダ図書館、国立図書館、軍事図書館などがあり、トーレ・ド・トンボ国立公文書館には、9世紀以降の多数の歴史的な文書が所蔵されている。ポルト、エボラ、ブラガ、マフラの地方図書館には、多数の希少本や写本が所蔵されている。
コインブラの美術館は16世紀の彫刻のコレクション、エボラの美術館はローマ時代の彫刻や16世紀の絵画のコレクションで有名である。リスボンの国立古美術館は、12~19世紀の工芸品や絵画を所蔵している。またリスボンには、国立近代美術館や国立自然史博物館、考古学博物館などもある。
大西洋岸地域ではドルメン(巨石墳墓)、アルガルベ地方では鉄器時代の墓など、先史時代の遺跡が発見されている。ディアナ神殿、コニンブリガの都市遺跡、チャベスの橋などは、ローマ時代の建築物の代表例である。また西ゴートやイスラム支配の名残も国内にある多数の建築物にみとめられる。
14世紀はポルトガルの彫刻の黄金時代だった。ルネサンスとバロック期の彫刻は、ポルトガルの教会芸術の最高のものである。
民俗音楽は、イベリア半島の他の民俗音楽と似ており、カトリック教会の音楽、宮廷の吟遊楽人、放浪の吟遊詩人の音楽から影響をうけている。
文学については、ポルトガル文学参照。
| V. | 経済 |
1974年の革命で、ポルトガルの経済構造は大きく変化し、社会的、政治的混乱のために、しばらく危機的状況がつづいた。EC(ヨーロッパ共同体:現EU)への加盟をはたした80年代半ばから、貿易の拡大、国有化されていた基幹産業の民営化などによって経済は成長し、国民所得も上昇した。しかし、国内での格差は大きく、工業やサービス産業は西と南の沿岸地域に集中している。2005年のGDP(国内総生産)は1833億米ドル、国民1人当たり1万7375.80米ドル。
ポルトガルの労働力人口は、2005年現在556万人で、そのうちの55%が労働組合に所属している。
| 1. | 農林漁業 |
労働人口の13%(2003年)が農林漁業に従事しており、GDPの2.9%(2005年)を占める。おもな農産物としてはジャガイモ、ブドウ、トマト、トウモロコシ、コムギ、オリーブがあげられ、ポルトガルは世界的にも重要なワインとオリーブ油の産地として知られる。家畜は牛、ヒツジ、豚、ニワトリなどがかわれている。1990年にBSE(牛海綿状脳症)が発生し、感染拡大により98年からEU諸国への牛肉・牛肉製品の輸出が禁止されたが、2004年に解禁となった。
国土の41.3%を森林が占め、林業が盛んである。ポルトガルは世界最大のコルク生産国だが、2003年、ヨーロッパをおそった熱波のために大規模な山火事がおこり、コルクガシの森林が大きな被害をうけた。漁業もポルトガル経済にとって重要である。2004年の年間漁獲量は23万tである。
| 2. | 鉱工業 |
鉱業は、石炭、陶土、タングステンのほか、銅や金、スズなどを産出する。また、1979年からウランの採鉱もはじめられた。
ポルトガル経済における工業の比重はましてきており、労働力の33%(2003年)が工業など第2次産業に従事している。食品加工、繊維、機械、化学、木製品、ガラス製品、陶器、石油精製、建築用材などがある。1979年には、リスボンの南に石油化学コンビナートが建設された。レース、陶器、タイルなどは、ポルトガルの特産として世界に知られている。
2003年推計では年間発電量は443.1億kWhだった。おもに、スペインや北アフリカから輸入する石油・天然ガスによるが、発電の35.1%(2003年推計)は水力発電であり、ほかに、風力発電もおこなわれている。
| 3. | 通貨と外国貿易 |
ポルトガルの通貨単位はエスクードと、その100分の1のセンタボであったが、2002年1月からEU(ヨーロッパ連合)の単一通貨ユーロの紙幣や硬貨が流通し、独自の通貨は法的効力をうしなった。
2003年の年間輸入額は471億米ドル、輸出額は318億米ドル。主要な輸入品目は自動車、機械、鉱物燃料、電気・通信機器、食料品。輸出品目は、機械、通信機器、自動車、衣類・靴、化学・化学製品、木製品や紙製品など。主要貿易取引国は、スペイン、ドイツ、フランス、イギリス、イタリアである。観光による外貨収入が、慢性的な貿易赤字をおぎなっている。2005年の観光収入額は30億7663万米ドル。
| 4. | 交通とコミュニケーション |
舗装道路は7万2600km(2002年)。鉄道網は2839km(2005年)ほどで、スペインからのりいれる車両のため、ほとんどが広軌を使用している。主要港はリスボン、レイションエス、セトゥーバル、それにマデイラ諸島のフンシャルなど。国営のポルトガル航空は、国内、国外とも運航し、国外の航空会社もリスボン国際空港へ定期便をのりいれている。
1997年、ポルトガルのラジオ台数は302万台、テレビは632万台であった。日刊新聞は31紙で、発行部数はあわせて32万部(1997年)ほどであった。
| VI. | 環境問題 |
土壌の劣化が最大の懸案である。長年にわたる土壌の酷使が表土の浸食と消耗をまねいてきた。そのため、農耕地が国土の25.2%(2005年推計)を占めているにもかかわらず、ポルトガルは食糧の半分以上を輸入にたよっている。
森林が国土に占める割合は、41.3%(2005年推計)。公園や自然保護区に指定されているのは国土の4.4%(2004年)。
水質汚濁がすすんでおり、とくに海岸地域の汚染がひどい。汚染された物質がこの海域に流出し、海岸の生態系をおびやかしている。魚はポルトガルの主要な天然資源であるが、その大半はこのような沿岸海域が漁場となっている。
自動車の排気ガスや工場の排煙による大気汚染も問題となっており、その典型が首都のリスボンである。酸性雨のため、リスボンをふくめ各地で大量の樹木が枯死している。EUの一員として硫黄排出を規制する条約を締結したことから、大気の状態の改善が期待されている。
| VII. | 政治 |
憲法は、1976年に制定され、82年から数次にわたって改正されている。当初、憲法は、土地や天然資源の共有にもとづく「階級なき」国家をうたう社会主義的な内容をふくんでいたが、それらの条項は89年に廃止された。ストライキ権と集会の権利は保障されており、検閲と死刑は禁止されている。
| 1. | 行政、立法、司法 |
ポルトガルは共和国で、国家元首は、5年ごとに国民の直接選挙で選出される大統領である。大統領は、行政府の長である首相を任命するほか、議会および内閣の解散権、議会で採択された法案の拒否権などをもち、陸・海・空3軍の最高司令官を兼務する。一方、首相は内政と外交を担当する。内閣は18名ほどの大臣からなる。
立法権は一院制の共和国議会にある。議員は比例代表制による選挙で選出され、任期は4年。議会の議席数は230である。
普通裁判所は、日本の地方裁判所にあたる第一審裁判所、高等裁判所にあたる第二審裁判所(控訴裁判所)、最高裁判所からなる。ほかに、法律の合憲性を審査する憲法裁判所、国や地方自治体の公的支出を監督する会計裁判所などがある。
ポルトガルの地方自治の基本単位は市町村である。その下位団体として、キリスト教の教区に由来する区があり、いずれも住民が直接投票でえらんだ議会をもつ。海外領土のアゾレス諸島とマデイラ諸島は独自の政府と議会をもつ自治地方となっている。本土には、市町村を管轄する行政区画として18の県がおかれているが、1990年代から地方自治推進のための法整備がはじまり、リスボン大都市圏、ポルト大都市圏につづく広域行政組織として市町村共同体の編成がすすめられている。
| 2. | 政党 |
主要政党は社会党(PS)、社会民主党(PSD)、民衆党(CDS-PP)、共産党(PCP)、緑の党(PEV)。1974年の民主化後、連立政権がしばしば交代したが、85年の総選挙で社会民主党が過半数を制して初の単独安定政権が生まれ、95年までつづいた。95~2002年は社会党が、02年からは社会民主党と民衆党の中道右派が連立与党となったが、05年の総選挙で社会党が単独で与党の座にかえりざいている。
| 3. | 防衛 |
NATO(北大西洋条約機構)の加盟国であるポルトガルは、近代的な軍備を有する。徴兵制は2004年に廃止され、18歳以上を対象とする志願制となった。2004年の兵力は、陸軍2万6700人、海軍1万950人、空軍7250人である。
| VIII. | 歴史 |
現在のポルトガルの地域は、前2世紀にローマの属州ルシタニアの一部となるが、5世紀には西ゴート族(→ ゴート族)に支配がうつり、その後8世紀になるとイスラム教徒のムーア人に征服された。997年にレオン王のベルムド2世が、現在のポルトガル北部をムーア人から奪回し、1064年にはフェルナンド1世(カスティリャ王)が、現在のコインブラまでレコンキスタ(国土回復戦争)をすすめた。レコンキスタ後の地域は封建体制のもとにくみこまれた。
1093年、アンリ・ド・ブルゴーニュは、カスティリャのアルフォンソ6世からポルトガル伯の爵位をあたえられた。その子アフォンソ・エンリケスは1143年にカスティリャから独立し、ポルトガル王アフォンソ1世として即位、79年にはローマ教皇によってポルトガルの独立が承認された。
| 1. | 中世ポルトガル王国 |
アフォンソ1世は、新王国の領土をテージョ川まで拡大し、その子サンチョ1世は、新領土へのキリスト教徒による再植民を奨励した。12世紀後半には、北アフリカのイスラム王朝であるムワッヒド朝がキリスト教徒の南下を一時はばんだが、1212年ナバス・デ・トロサの戦でカスティリャ軍が勝利したのちは、さらにレコンキスタがすすめられた。
アフォンソ3世はアルガルベ地方を征服し、ポルトガルの首都をコインブラからリスボンへうつした。彼は身分制議会にもとづく統治をはじめ、王権の強化をはかった。その子のディニスはコインブラ大学を創立し、ポルトガル海軍の発展につくした。1294年にはイギリスと通商協定がむすばれた。ディニスをついだアフォンソ4世は、カスティリャのアルフォンソ11世とむすんでムーア人とたたかい、1340年のサラド川の戦で大勝をおさめた。
1385年、ジョアン1世によってアビス朝が成立する。同年、彼はカスティリャのたび重なる攻撃に対して勝利をおさめた。彼の子エンリケは、アフリカ西海岸をとおってインドにいたる航路を開拓、植民地帝国ポルトガルの端緒をつくった。マデイラ、アゾレスの両諸島が発見され、また、モロッコにせめこんだポルトガル軍は、1415年、ムーア人からセウタをうばった。→ ポルトガル王国
| 2. | 領土拡大の時代 |
ポルトガルの航海者は大西洋を南下して、1444年にはベルデ岬に、60年にはシエラレオネにまで達している。ドゥアルテ王(在位1433~38年)とアフォンソ5世はモロッコ遠征をくりかえし、タンジールとアシラを獲得した。
| 2.A. | ジョアン2世の治世 |
ジョアン2世は、強大化した貴族勢力をおさえて王権の回復につとめ、また海外政策としては1482年にエルミナ(現、ガーナ)にポルトガルの要塞(ようさい)をきずき、コンゴ王国(現、アンゴラ)と外交関係をむすんだ。87~88年には、ディアスがアフリカ南岸をまわる東方航路を開く。94年、ポルトガルとスペインはトルデシーリャス条約をむすび、カーボベルデ諸島(→ カーボベルデ)西方370レグア(約600km)の線上から東に位置する土地が、ポルトガルの勢力範囲とされた(→ 教皇子午線)。
| 2.B. | マヌエルとその後継者たち |
マヌエル1世の治世下で、ポルトガルの勢力は最大となった。バスコ・ダ・ガマがディアスの発見した航路をたどってインドに達し、香料・奢侈品(しゃしひん)の交易がはじめられる一方、アルブケルケにひきいられたポルトガル軍は1510年から15年にかけて、ゴア(インド)、マラッカ(ムラカ。マレーシア)、マルク諸島(インドネシア)、ペルシャ湾のホルムズ島を占領する。また中国との商取引を開始し、エチオピアとの外交関係を確立した。マヌエル1世はスペインにならって、ユダヤ人とイスラム教徒を追放した。その子ジョアン3世はブラジルの植民地化をすすめ、やはりスペインにならって異端審問制度をとりいれた。しかし57年に彼が死去すると、ポルトガルは衰退にむかいはじめ、セバスティアン王、エンリケ王の治世をへて、80年にアビス朝は終焉(しゅうえん)する。
| 3. | ハプスブルク朝とブラガンサ朝 |
エンリケの死後、スペイン国王フェリペ2世が、1580年ポルトガル王フィリペ1世として即位する。ハプスブルク・スペインへの併合の60年間、ポルトガルにはスペインの重い軍事費の負担がかかり、他方ポルトガルの東方貿易支配は1600年からオランダとイギリスにかわるようになっていた。40年、フランスの援助をうけてポルトガルは独立し、ブラガンサ公ジョアンがジョアン4世として即位、ブラガンサ朝がはじまった。
| 3.A. | ジョアン4世とその後継者たち |
ジョアン4世は1630年以来ブラジルを占領していたオランダ人を追放し、イギリスとの伝統的なきずなを強めた。18世紀に入ってブラジルで金とダイヤモンドが発見されると、ポルトガルはふたたび繁栄への道をたどりはじめる。1683~1750年に、ポルトガル貿易はイギリス商人に独占される。ジョゼ1世のもとで、宰相ポンバルは、貴族と教会の特権をおさえ、産業と教育を奨励し、貿易の外国人独占状態をたちきるなどの業績をあげた。フランス革命とナポレオン戦争の時代には、ポルトガルはイギリスとともに反フランスの立場にたった。
1807年ナポレオン軍がポルトガルを攻略すると、王室はブラジルに亡命、リオデジャネイロに政府をおく。11年にフランス軍が撤退しても、王室はブラジルにのこり、15年ブラジルは分離王国となった。16年ジョアン6世は両王国の王位を継承し、ポルトガルは摂政会議を通じて支配されるようになった。
| 3.B. | 立憲君主制 |
1820年、ポルトガル軍は立憲政治の確立をめざして革命をおこす。ジョアン6世は立憲君主としてポルトガルに帰国し、子のドン・ペドロをブラジル摂政としたが、ブラジルは22年に独立を宣言、ドン・ペドロはブラジルのペドロ1世として即位した。一方、ポルトガルではペドロの弟のドン・ミゲルが絶対王政の回復をはかって反乱をもくろむが失敗し、ウィーンに亡命した。
1826年、ブラジルのペドロ1世はポルトガル王ペドロ4世として即位。王権をさらに強化した憲章を制定したのち、彼は王位を7歳の娘マリア2世にゆずる。28年、ウィーンからもどったドン・ミゲルはマリア2世から王位をのっとったため、内乱が勃発(ぼっぱつ)するが、イギリス、フランス、スペインの援助をえて、マリア2世は34年に王位に復帰した。その後ペドロ5世、ルイス王のもとで、政治的な紛争はしだいにおさまった。
| 4. | 共和国 |
しかし、カルロス1世の治世の時代になって共和主義運動がおこり、1910年10月、陸海軍の革命でカルロスの子マヌエル2世が退位させられ、ポルトガル共和国が成立する。
つづく15年間は政治的混乱の時代だった。第1次世界大戦中、イギリスとの同盟関係からポルトガルはドイツとたたかうことになる。国内の政治紛争はやまず、1919年にはこれにくわえて王党派の反乱がおこる。26年5月には軍事クーデタが成功、カルモナ将軍が権力の座についた。28年にはコインブラ大学の経済学教授サラザールが蔵相に任命され、ポルトガルの財政再建のために大きな権限があたえられた。
| 4.A. | サラザール独裁体制 |
サラザールは財政再建に成功し、共和国憲法で剥奪(はくだつ)されていた教会特権を復活させ、1930年には権威主義的色彩の強い政治組織「国民同盟」を組織、32年には独裁者として首相に就任する。ポルトガルは計画経済にもとづく組合主義的国家となり、この新しい体制は「新国家」体制とよばれた。36年にスペイン内乱がはじまると、サラザールはフランコ将軍ひきいる反乱軍を支持し、39年にはスペインと友好不可侵条約、40年には第2次世界大戦における両国の中立を確約した議定書がむすばれた。しかし枢軸国側の戦況が不利になると、ポルトガルは連合国側よりの立場をとるようになる。
計画経済は大戦中に大きな打撃をうけた。また東インド諸島へ日本が進出したため、アジアにおけるポルトガルの海外領土はおびやかされ、1942年にはティモール島を占領された。大戦末ごろには、ポルトガルは失業と貧困にくるしんでいた。政府は47年5月、反乱未遂事件をきっかけに多数の労働運動の指導者と軍の将校をカーボベルデ諸島へ追放、反体制派を抑圧した。
1950年代を通じて、ポルトガルはアメリカとの関係を強化した。60年代、ポルトガルの海外植民地では次々に解放戦争がはじまる。61年にインドはゴアを併合し、以降アンゴラ、ポルトガル領ギニア(現、ギニアビサウ)、モザンビークでも反乱がおこる。このアフリカでの動きに対して多大な兵力をつぎこむ一方、領土内での政治的、経済的状況の改善につとめた。しかし、戦闘は70年代に入ってもつづけられ、ポルトガルは国際連合から「植民地戦争」をおこなったことで非難をうける。
1960年代の半ば、ポルトガルは外資導入政策をとり、経済はいくぶん成長へとむかった。この間、いくつかの学生デモはあったが、反サラザール派は結束しなかった。
| 4.B. | 民主化 |
1968年9月、サラザールをついで首相に就任したカエタノは、サラザールのアフリカにおける抑圧的な政策をそのままうけついだ。アフリカにおける一連の解放運動はポルトガル経済をゆさぶり、植民地戦争は泥沼化していった。この状況に危機感をつのらせた左翼的将校グループは74年3月、「国軍運動(MFA)」を結成し、同年4月25日、無血クーデタによりカエタノ政権を打倒する。40年以上つづいた独裁体制はおわり、臨時大統領に就任したスピノラ将軍は、国内の民主化とアフリカ領土での和平を約束した。
しかし、植民地の完全独立をとなえるMFAとスピノラ派との対立は深まり、辞任したスピノラが1975年3月、クーデタに失敗して亡命したあと、政権は革命評議会が掌握。軍の再編や社会経済改革に着手し、重工業や銀行の国有化や、大土地所有の接収、再分配をすすめた。社会党と共産党の対立が激化し、政治情勢は不安定だったが、9月に海軍中将アセベドが首相に就任すると、政情はやや安定を回復する。この間、アフリカでは、ギニアビサウ、モザンビーク、カーボベルデ、サントメ・プリンシペ、そしてアンゴラが、あいついで独立をはたした。一方、東ティモールは、ポルトガルが撤退して75年に独立派が独立を宣言したが、その後インドネシアに占領された。
| 4.C. | 混迷をへて安定政権へ |
1976年4月、「階級なき国家」をうたった新憲法が公布され、議会選挙では社会党が多数を獲得、党首ソアレスが首相に就任した。6月にはエアネス将軍が初の直接選挙により大統領にえらばれる。しかし、旧植民地から大量の帰国者をむかえたことなどから、ポルトガルは深刻な経済危機にみまわれ、国内政治の混乱がつづいた。79年12月の選挙では、サ・カルネイロひきいる保守派の民主連盟が圧勝し、82年、憲法が改正されて社会主義色はうすめられた。83年4月の総選挙後ソアレスがふたたび首相の座にもどり、緊縮政策とEC(ヨーロッパ共同体。現EU)加盟の交渉がはじめられる。
1985年10月の総選挙の結果、社会民主党のカバコ・シルバを首班とする連立内閣が成立した。翌86年ポルトガルはECに加盟する。87年の選挙では、社会民主党が過半数を制し、革命後はじめて単独の安定政権が誕生した。カバコ・シルバは89年に憲法を改正して国有産業の民営化をすすめ、経済拡大政策を推進。91年の総選挙でも社会民主党が多数を獲得した。前首相ソアレスは86年、大統領に選出され、91年に再選されている。
| 4.D. | 近年の動向 |
1995年の総選挙ではグテレス党首のひきいる社会党が多数派となり10年ぶりに政権に復帰、96年の大統領選挙でも、社会党のサンパイオ前リスボン市長が社会民主党のカバコ・シルバをやぶって選出された(2001年に再選)。グテレス政権は、EU通貨統合参加を最優先課題として財政赤字の削減とインフレ抑制をすすめ、財政赤字が国内総生産(GDP)の3%以内という参加基準を達成し、99年1月、EU通貨統合の第1陣参加を実現した。98年5月に開かれたリスボン万博が1000万人をあつめて成功したことが、経済好調の一要因となった。
1999年の総選挙で社会党が勝利し、グテレスがひきつづき政権を担当したが、2000~01年は金利の上昇から内需が減少するなど経済不振におちいり、01年12月の統一地方選挙で社会民主党に大敗したため、グテレスは辞任。02年3月におこなわれた繰り上げ総選挙の結果、社会民主党が第1党となり、党首バローゾが首相に就任して民衆党との連立内閣を発足させた。バローゾは、財政健全化を最大の課題としてきびしい緊縮財政をしき、対GDP比4.4%にのぼっていた01年の財政赤字を、02年、03年とも3%以下におさえて、EUの改善勧告にこたえた。
2004年7月、バローゾは、プロディの後任としてEUヨーロッパ委員会の委員長に選任され、首相を辞任。後継首相について、野党社会党は、6月におこなわれたヨーロッパ議会選挙での大勝を背景に、議会解散・総選挙を実施して選出するよう要求したが、サンパイオ大統領は、連立与党の推薦をうけて、社会民主党の新党首となったリスボン市長サンタナロペスを首相に任命し、新政権が発足した。しかし、経済運営の失敗、閣僚の辞任などによる政局の混乱でサンタナロペス首相への批判が高まり、12月、大統領が議会の解散を発表して内閣は総辞職した。05年2月に実施された繰り上げ総選挙の結果、野党第1党の社会党が過半数を獲得。同党のソクラテス書記長が首相に指名され、3月、社会党の単独政権がスタートした。ソクラテス政権は経済回復をめざして緊縮財政を実施したが、増税、景気の低迷などにより支持率がさがり、同年10月の統一地方選挙では、リスボンはじめ主要都市の市長の座を中道右派から奪還できなかった。サンパイオ大統領の任期満了により06年1月におこなわれた大統領選挙で、与党左派陣営は候補が乱立して票がわれ、社会民主党と大衆党の支持をえたカバコ・シルバ元首相が過半数を得票して当選した。1974年の民主化後、はじめての保守系大統領だが、ソクラテス政権のすすめる財政再建政策に大きな変化はないとみられている。
| 4.E. | 近年の外交 |
1980年代後半にスペインとの関係を改善した。87年、中華人民共和国との間で、99年のマカオ返還を合意。88年からポルトガルはアンゴラ和平に重要な役割をはたし、モザンビーク和平交渉にもくわわった。
旧ポルトガル領の東ティモールをめぐっては、1975年にインドネシア軍が侵攻して以来、外交関係をたっていたが、99年5月、インドネシアとの間で、東ティモールの住民の意思を尊重することで合意した。同年8月の住民投票で独立がえらばれた後は多国籍軍派遣に協力、11月、インドネシアと24年ぶりに国交回復した。
一方、1996年7月、ポルトガルの植民地だったブラジル、アンゴラ、モザンビーク、サントメ・プリンシペ、カーボベルデ、ギニアビサウの6カ国とともに、政治経済協力やポルトガル語の復権などを目的とするポルトガル語圏諸国共同体(CPLP)を創設。2002年には、独立した東ティモールを加盟国にくわえた。
| 5. | 日本とポルトガルの関係 |
1494年にスペインとの間でむすばれたトルデシーリャス条約にもとづき、ポルトガルは東アジアに進出、やがて日本にも到達する。1543年(天文12)、種子島に3人のポルトガル人が漂着し、鉄砲という新しい武器を戦国時代の日本につたえた(→ 鉄砲伝来)。これ以後、日本とポルトガルの関係は、イエズス会のカトリック布教とポルトガル商人のいわゆる南蛮貿易の2つで展開された。こうして日本にはボタン、タバコ、カルタなどのめずらしい品々だけでなく、当時のヨーロッパの学問や文化がもたらされることになった(→ 南蛮文化)。84年(天正12)には、カトリックに改宗した九州の諸大名が派遣した天正遣欧使節がポルトガルをおとずれている。
しかし豊臣秀吉、それにつづく江戸幕府はキリスト教を邪教とみなして禁止し、貿易でもポルトガルの勢力はオランダやイギリスにとってかわられるようになる。1639年(寛永16)には幕府の鎖国政策にもとづいて、ポルトガル船の日本への来航は禁止された。こののち両国の関係が再開されるのは、1860年(万延元)の日葡修好通商条約をまたなければならない。