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スターリン,I.V.
I. プロローグ

1879~1953 ソ連共産党書記長、在任1922~53年。首相、在任1941~53年。ロシア革命後のソ連と、第2次世界大戦後の社会主義陣営を指導した。

本名、ヨシフ・ビッサリオノビチ・ジュガシビリ(1910年ごろ、「鋼鉄の人」を意味する変名スターリンを名のる)。現グルジア共和国のゴリで、靴屋の子として生まれる。両親はともにロシア語をはなせなかったが、スターリンは1888~94年にゴリの教会学校にかよい、ロシア語をまなんだ。優等生だった彼は、給費生としてティフリス(現トビリシ)の神学校に進学した。

II. 革命家として

司祭になるための勉強をしながら、マルクスの著作をはじめとする禁書をよみ、マルクス主義者に成長していった。卒業前に神学校を追放されて職業革命家の道にはいり、1901年にロシア社会民主党ティフリス委員会にくわわった。

1902年にバトゥーミで逮捕され、1年以上監獄生活をおくったのち、シベリアに流刑されたが、04年に脱走した。02~13年に8回逮捕されて、7回流刑され、6回脱走したが、最後の逮捕によって、13~17年の流刑生活をおくることになった。

この間、1904年にシベリアからもどったときに最初の結婚をしたが、妻エカチェリナ・スワニーゼは10年になくなり、19年に結婚した2度目の妻、ナジェージダ・アリルーエワは32年に自殺している。

1905~17年にかけての革命期には、一貫してボリシェビキ派に属した。ボリシェビキの指導者レーニンによって、12年に党幹部に登用され、新たな党機関紙「プラウダ(真実)」の編集にたずさわり、レーニンの勧めで最初の大論文「マルクス主義と民族問題」(1913)を書きあげた。

1917年の二月革命のあと、解放されてペトログラード(現、サンクトペテルブルク)へもどり、プラウダの編集活動を再開。4月にレーニンが到着するまで、カーメネフとともに首都の党をとりしきった。ふたりは、臨時政府との調停・協調政策をとなえたが、レーニンの帰国後は、その主張をかえ、レーニンの「四月テーゼ」にしたがった。

つづく10月(新暦11月)の武装蜂起で重要な役割をはたしたが、はなばなしい活躍をしたトロツキーにくらべればめだつ存在ではなかった。しかし、レーニン死後の権力闘争時代に、レーニンとならんでロシア革命を勝利にみちびいた人物として、自己の神格化をおしすすめた。

III. 行政官として

十月革命後、民族問題人民委員部の長となり、スベルドロフやトロツキーとともにレーニンをたすけ、困難をきわめた国内戦初期の諸問題の解決にあたった。いくつかの戦線の司令官として国内戦に参加し、党内では、ねばり強い組織活動と行政的な仕事にたずさわり、地位を強化していった。1919~22年に国家管理人民委員部(20年に労働者・農民監督人民委員部に改組)の長をつとめ、22年には党書記長に就任した。書記長として、たえず増大していく新入党員の支持を確保し、地方党組織から党中央委員会にいたる党のピラミッド機構を支配した。

レーニンは、スターリンが党書記長として巨大な権力を行使することに疑念をもち、遺言となった「大会への手紙」で、書記長の座から更迭(こうてつ)することを要求した。しかしレーニンの病状の急速な悪化によって、スターリンは遺言を非公開とすることに成功した。

IV. 独裁者

レーニンの死後、ジノビエフ、カーメネフとトロイカ(三人組)体制をくんで国の指導にあたり、ライバルでレーニンの後継者と目されていたトロツキーをおいおとした。次にはブハーリン、ルイコフと結託して、それまでのパートナー、ジノビエフとカーメネフに対抗した。1926年にトロツキー、ジノビエフ、カーメネフが「左翼反対派」として、スターリンに挑戦したが、スターリンは、トロツキーとその支持者たちを党から除名、追放した。そして、29年の50歳の誕生日までには反対派を一掃し、ソビエト連邦の独裁者となった。

1928年初め、スターリンは、遅々としてすすまない農業生産を改善するために、シベリアを視察した。このあと農民からの穀物調達が強められたが、農業はふるわず、29年末には恐慌の様相をしめしはじめるにおよび、それまで緩やかだった農業集団化計画を、強力に全国へと拡大した。クラーク(富農)と名指しされた農民たちが処刑され、何百万人もの農民が土地をおわれてシベリアにおくられ、死んでいった。工業化の面では、おくれたソ連の工業力水準を高くおしあげた。

強引な農業集団化と急速な工業化は、国民を疲弊させ、農村では飢餓が蔓延したが、不満をもらす人々は強制収容所におくられた。党の指導部にはスターリンに対抗できる古参ボリシェビキはもはや存在しなかったが、スターリンのやり方に反対する空気が強まっていった。

ペトログラードを改称したレニングラード(現、サンクトペテルブルク)党組織の指導者キーロフは、その指導力をひろくみとめられ、党内での期待はスターリンにならぶほどだった。しかし、1934年12月のキーロフの暗殺は、スターリンによる「大粛清」開始の合図となった。ジノビエフ、カーメネフ、ブハーリンら、かつてのライバルたちは、見せしめの裁判で架空の国家反逆罪をみとめさせられ、死刑を宣告された。

大粛清の間に何百万もの党や工場や軍の指導者たちが姿をけし、一方でフルシチョフ、ブレジネフら新世代の指導者たちに上昇の道をひらいた。追放、逮捕、強制収容所送りは、ほとんどの家庭におよび、秘密警察(KGB)と強制収容所による恐怖政治が国民の日常を支配した。その間、36年に「スターリン憲法」を制定し、民主的内容をおりこんだが、自ら無視しつづけた。

V. 戦争の指導者

軍の指導者層が大量に粛清されたこともあって、ソ連は第2次世界大戦の初めには大きな打撃をこうむった。1941年に人民委員会議長(首相)にも就任したスターリンはみずからナチス・ドイツに対する戦争の指揮にあたり、多大な人的犠牲をいとわずたたかい、とくに自らの名を冠したスターリングラード(現、ボルゴグラード)の戦での勝利は、独ソ戦の転換点となった。

スターリンは、テヘラン(1943)、ヤルタ(1945)、ポツダム(1945)での連合国の首脳会談に出席して、東ヨーロッパにおけるソ連の勢力圏をみとめさせたうえ、戦後、ソ連軍が解放した国々の大部分に共産主義支配を拡大した。

晩年にはますます偏執狂的になり、身体も弱まって、あらたな粛清を開始しようとしていた。1953年1月、スターリンは、おもにユダヤ人からなるモスクワの医師たちを謀殺容疑で逮捕するよう命令。このいわゆる医師団事件は、30年代への回帰の先ぶれかと思われたが、同年3月5日のスターリンの死によって、新たな流血はふせがれた。

VI. スターリンの評価

強大な国家の冷酷な支配者スターリンの評価については、議論がわかれている。ソ連時代の歴史家は、スターリン体制はいくつかの誤謬(ごびゅう)があったものの基本的には偉大なものだったと評価してきたが、西側の学者やグラスノスチ(情報公開)以後のロシアの学者は、スターリン時代の血まみれの粛清を非難している。