スターリン,I.V.
印刷するには、[ファイル] メニューの [印刷] をクリックします。
スターリン,I.V.
IV. 独裁者

レーニンの死後、ジノビエフ、カーメネフとトロイカ(三人組)体制をくんで国の指導にあたり、ライバルでレーニンの後継者と目されていたトロツキーをおいおとした。次にはブハーリン、ルイコフと結託して、それまでのパートナー、ジノビエフとカーメネフに対抗した。1926年にトロツキー、ジノビエフ、カーメネフが「左翼反対派」として、スターリンに挑戦したが、スターリンは、トロツキーとその支持者たちを党から除名、追放した。そして、29年の50歳の誕生日までには反対派を一掃し、ソビエト連邦の独裁者となった。

1928年初め、スターリンは、遅々としてすすまない農業生産を改善するために、シベリアを視察した。このあと農民からの穀物調達が強められたが、農業はふるわず、29年末には恐慌の様相をしめしはじめるにおよび、それまで緩やかだった農業集団化計画を、強力に全国へと拡大した。クラーク(富農)と名指しされた農民たちが処刑され、何百万人もの農民が土地をおわれてシベリアにおくられ、死んでいった。工業化の面では、おくれたソ連の工業力水準を高くおしあげた。

強引な農業集団化と急速な工業化は、国民を疲弊させ、農村では飢餓が蔓延したが、不満をもらす人々は強制収容所におくられた。党の指導部にはスターリンに対抗できる古参ボリシェビキはもはや存在しなかったが、スターリンのやり方に反対する空気が強まっていった。

ペトログラードを改称したレニングラード(現、サンクトペテルブルク)党組織の指導者キーロフは、その指導力をひろくみとめられ、党内での期待はスターリンにならぶほどだった。しかし、1934年12月のキーロフの暗殺は、スターリンによる「大粛清」開始の合図となった。ジノビエフ、カーメネフ、ブハーリンら、かつてのライバルたちは、見せしめの裁判で架空の国家反逆罪をみとめさせられ、死刑を宣告された。

大粛清の間に何百万もの党や工場や軍の指導者たちが姿をけし、一方でフルシチョフ、ブレジネフら新世代の指導者たちに上昇の道をひらいた。追放、逮捕、強制収容所送りは、ほとんどの家庭におよび、秘密警察(KGB)と強制収容所による恐怖政治が国民の日常を支配した。その間、36年に「スターリン憲法」を制定し、民主的内容をおりこんだが、自ら無視しつづけた。