| スターリン,I.V. | 項目ビュー | ||||
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| II. | 革命家として |
司祭になるための勉強をしながら、マルクスの著作をはじめとする禁書をよみ、マルクス主義者に成長していった。卒業前に神学校を追放されて職業革命家の道にはいり、1901年にロシア社会民主党ティフリス委員会にくわわった。
1902年にバトゥーミで逮捕され、1年以上監獄生活をおくったのち、シベリアに流刑されたが、04年に脱走した。02~13年に8回逮捕されて、7回流刑され、6回脱走したが、最後の逮捕によって、13~17年の流刑生活をおくることになった。
この間、1904年にシベリアからもどったときに最初の結婚をしたが、妻エカチェリナ・スワニーゼは10年になくなり、19年に結婚した2度目の妻、ナジェージダ・アリルーエワは32年に自殺している。
1905~17年にかけての革命期には、一貫してボリシェビキ派に属した。ボリシェビキの指導者レーニンによって、12年に党幹部に登用され、新たな党機関紙「プラウダ(真実)」の編集にたずさわり、レーニンの勧めで最初の大論文「マルクス主義と民族問題」(1913)を書きあげた。
1917年の二月革命のあと、解放されてペトログラード(現、サンクトペテルブルク)へもどり、プラウダの編集活動を再開。4月にレーニンが到着するまで、カーメネフとともに首都の党をとりしきった。ふたりは、臨時政府との調停・協調政策をとなえたが、レーニンの帰国後は、その主張をかえ、レーニンの「四月テーゼ」にしたがった。
つづく10月(新暦11月)の武装蜂起で重要な役割をはたしたが、はなばなしい活躍をしたトロツキーにくらべればめだつ存在ではなかった。しかし、レーニン死後の権力闘争時代に、レーニンとならんでロシア革命を勝利にみちびいた人物として、自己の神格化をおしすすめた。