| 検索ビュー | クールベ,G. | 項目ビュー |
1819~77 影響力の大きかった多作なフランス画家。同国人のドーミエ、ミレーとともに、19世紀半ばに写実主義の基礎をきずいた。
農夫の息子として1819年6月10日オルナンに生まれ、40年ごろ法律を勉強するという名目でパリにでた。ルーブルにある傑作を模写しては独学で絵をまなび、50年に「石割り人夫」(1849)を発表。道路工事をする人たちを淡々とありのままにえがいたこの絵は、感情たっぷりに異国情緒をうたいあげるロマン主義者たちや、アカデミーの伝統をかたくなにまもろうとする官学派のお偉方の教えを明らかにあざわらっていた。
さらに大作「オルナンの埋葬」(1849~50)が彼らを激怒させた。この絵ではボロをまとった農民たちが、墓穴の周囲にむらがっている。クールベはこうした伝統への挑戦を、別の大作「画家のアトリエ」(1855)でもくりひろげた。この作品には「私の芸術家としての7年間の生活に関する真の寓意画」という副題をつけている。絵の中央にはクールベがすわって風景画をえがいており、わきには少年と犬と官能的な女性の裸体像がある。画面左手では、退屈そうに無関心をよそおった人々がわざと彼を無視しており、右手では生気ある友人たちが彼の絵をたたえるようにながめている。同じころ、社会主義的なリアリストとして芸術や生活についての信条を詳細につづった挑発的な声明文を発表しているが、このころまでに彼の名前はひろく知れわたるようになった。
クールベ固有の様式も当時すでに完成の域に達していた。技術的習熟と大胆で色数の少ない色調、構成の単純さ、強靭でむしろあらあらしい造形をもつ裸体像、風景や海景などにパレットナイフを多用した極端な厚塗りが特徴としてあげられる。
絵と同じく政治においても急進派だったので、1871年のパリ・コミューン政府のもとではすべての美術館を監督する役に任じられ、暴徒の略奪から市のコレクションをまもりぬいた。しかし、コミューン政府が崩壊すると、バンドーム広場にあったナポレオンの記念柱がひきたおされるのをみとめたかどで非難され、収監されたうえ、再建する費用をしはらうよう宣告された。73年にはスイスのブベーに逃亡し、77年12月31日になくなるまでこの地で制作をつづけた。