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ルーマニア
I. プロローグ

ヨーロッパ南東部にある共和国。正式国名もルーマニア。バルカン半島北東部にあり、ウクライナ、モルドバ、ハンガリー、セルビア、ブルガリアと国境を接し、東は黒海に面する。1947年に王制を廃してルーマニア社会主義共和国を樹立、以来共産党政権がつづいていたが、89年末に複数政党制に移行して現国名に改称した。面積は23万8391km²。人口は2224万6862人(2008年推計)。首都はルーマニア最大の都市ブカレスト。

II. 国土と資源

国土はほぼ楕円形(だえんけい)をなし、東西の最長部は約740km、南北は約475kmである。地形は変化にとむ。

中央部のトランシルバニア台地は丘陵が多いが、渓谷や耕作に適したなだらかな斜面がある。台地は山脈にかこまれ、東には東カルパティア山脈(カルパティア山脈)が南東方向にはしり、南ではトランシルバニアアルプスが東西にのびてドナウ川の「鉄門」とよばれる峡谷へとつづいている。ルーマニアの最高峰モルドベアヌ山(2543m)はトランシルバニアアルプスにある。台地の西側にはビホル山地がみられる。

これらの山脈の外側には平野が広がる。西部では、通常バナトとよばれるティサ平原がセルビアとの国境へ、クリシュ平原がハンガリーとの国境へ広がっている。南部ではトランシルバニアアルプスとブルガリアの間のワラキア平原、東部ではカルパティア山脈の東側のモルダビア平原がもっとも広大である。黒海沿岸のドブルジア(ブルガリア語ではドブルジャ)台地は南のブルガリアまでつづいている。

主要河川はドナウ川で、大部分が南の国境となり、セルビアおよびブルガリアと接している。鉄門付近とドナウ・デルタは湿地帯である。ほかに、ティサ川に流入するムレシュ川、モルドバとの国境となるプルート川や、オルト川、シレト川などがあり、いずれもドナウ水系に属する。山地には小さな淡水湖も多いが、黒海沿岸には大きな塩水湖があり、ラゼルム湖が最大である。

1. 気候

トランシルバニア台地、カルパティア山脈、西部の平原は、夏はしのぎやすいが冬は寒い。ワラキア、モルダビア、ドブルジアの各平原は、夏の暑さも冬の寒さも比較的きびしい。どの地方も冬から夏へと季節が急激にうつりかわる。年降水量は平野部では500mm程度だが、山岳地帯では1000mm前後となる。

2. 動植物と天然資源

森林はワラキア平原やモルダビア平原に集中しているが、現在では切りひらかれて農地化がすすんでいる。山麓(さんろく)の斜面にはカバ、ブナ、ナラなどの落葉樹がみられる。標高が高くなると、マツやトウヒなどの針葉樹林となる。1750mより上では高山植物にかわる。

野生動物の宝庫で、カルパティア山脈ではイノシシ、オオカミ、オオヤマネコ、キツネ、シャモアなど比較的大型の動物が生息する。平原にはリス、野ウサギ、アナグマなどがすむ。野鳥は種類も豊富で、とくに渡り鳥が飛来するドナウ・デルタの一部は自然保護区に指定されている。河川と黒海には、カワカマス、コイ、サケ、チョウザメなどがいる。

鉱物資源では、原油、天然ガス、岩塩、石炭、褐炭、鉄鉱石、銅、ボーキサイト、クロム、マンガン、鉛、亜鉛などを産出する。

III. 住民

2002年の調査では、ダキア人の子孫とされるルーマニア人が人口の89%を占めている。ハンガリー人は7%で、主としてトランシルバニアに居住する。ロム(ジプシー)は2%。そのほか、ウクライナ人、ドイツ人などがすむが、いずれも数は少ない。07年のEU(ヨーロッパ連合)加盟を機に、モルドバ、トルコなどからの外国人労働者や移民が流入する一方、国外に出稼ぎに出る国民もふえた。

1. 行政区分と主要都市

行政上は41の県とブカレスト特別市にわけられている。都市人口は人口の55%(2005年推計)を占め、最大の都市ブカレストは人口185万3000人(2003年推計)である。以下、おもな都市は、黒海の港湾都市コンスタンツァ、商業の中心地ヤーシ、工業の中心地ティミショアラ、商工業都市クルージュ、ドナウ川河港で金属工業が盛んなガラツィ、繊維、化学、金属工業のブラショフ、繊維、電気、化学工業の中心クラヨーバ、石油化学工業のプロイエシュティ。

2. 宗教と言語

ギリシャ正教会(東方正教会)からわかれたルーマニア正教会が最大の宗教組織で、国民の大半がその信徒である。ハンガリー人にはローマ・カトリック教徒、ドイツ人にはプロテスタントが多い。また、ブカレストにはユダヤ教徒がおり、ドブルジアのタタール人やトルコ人にはイスラム教徒がみられる。

公用語はルーマニア語で、ほぼ100%の国民が話す。ほかにハンガリー語、ドイツ語、ロマニー語、トルコ語、セルビア・クロアチア語、イディッシュ語なども使用されている。

3. 教育

小学校から大学まで公立校の授業料は無料。7~14歳の子供を対象に8年制(小学校4年、中学校4年)の義務教育をおこなっている(2002-2003年)。義務教育修了後は高等学校(第1期2年、第2期2年)に進学できる。教育制度は実務や技術の習得に重点をおいている。

高等教育機関には、ヤーシ大学(1860年創立)、ブカレスト大学(1864年)ほかの総合大学と、工科大学などが設置されている。

IV. 文化

ルーマニア文化は古代ローマの文化から派生したが、スラブ人、マジャール人(ハンガリー人)、ギリシャ、トルコなどの文化の影響もうけている。詩や民話、民謡がルーマニア文化の真髄をなし、西ヨーロッパのさまざまな潮流の影響にさらされながらも土着的な要素をとどめている。文学、美術、音楽は19世紀に成熟期をむかえた。

1. 文学

ルーマニア文学はきわめて多様な発展をみせており、おおむね5期にわかれる。

15~18世紀の第1期は、宗教文学が主体だった。18世紀後半からの第2期には、ラテン系民族としての自覚にもとづくルーマニア人の歴史や言語についての著作があらわされた。

第1次世界大戦以前の約100年間に文学は成熟をとげたが、これは国家の統一の反映でもあった。詩人で劇作家のバシーレ・アレクサンドリがこの時期の代表的な文学者で、ロマン派の詩人ミハイ・エミネスク、劇作家イオン・ルカ・カラジアレも後世代の作家たちに影響をあたえた。両大戦間の第4期における文学は民族的なテーマをあつかったものが多く、小説家ではミハイ・サドベヤヌが代表的である。

社会主義体制下の1940年代後半から80年代にかけての文学は、一時的に統制がゆるめられた60年代後半をのぞいて、ソビエト連邦(ソ連)の影響によるリアリズム(社会主義リアリズム)に特徴づけられる。宗教学者ですぐれた文学者でもあったミルチャ・エリアーデは、第2次世界大戦後ルーマニアをはなれた。フランスで活躍した不条理劇の作家イヨネスコもルーマニア出身である。

2. 美術と音楽

文学と同様、美術も19世紀にひとつのピークをむかえた。この時期の代表的な画家は、肖像画のテオドル・アマンと風景画のニコラエ・グリゴレスクである。社会主義時代はソ連風のリアリズムが主流となった。彫刻家ブランクーシは20世紀美術のあり方に大きな影響をあたえた。

バイオリニストで作曲家のジョルジュ・エネスコ、ピアニストのディヌ・リパッティなど、すぐれた音楽家も輩出している。

3. 図書館と博物館

主要な図書館は、国立図書館とルーマニア・アカデミー付属図書館である。ブカレストのルーマニア国立美術館は、ルーマニアだけでなく西ヨーロッパやオリエントの充実したコレクションを所蔵している。

V. 経済

第2次世界大戦以前は農業国だったが、戦後は一連の5カ年計画によって工業国への転換をはかってきた。しかし、重工業の偏重により、慢性的な消費財の不足や深刻な環境汚染がおこった。

1989年12月にチャウシェスク政権が崩壊した後、経済は実質的に解体し、輸出が激減した。90年に導入された市場経済への移行をめざす経済改革で、通貨の切り下げ、消費財の補助金カット、国営企業の民営化などが実施された。急激なインフレがおこったが、94年5月のIMF(国際通貨基金)からの融資により沈静化にむかった。IMFとの合意により、97年から経済改革プログラムを実施、民間部門が成長しだした2000年以降はプラス成長に転じた。07年1月、EU(ヨーロッパ連合)加盟を実現した。個人消費の拡大や、金融、自動車などでの海外直接投資の増加で好調をたもってきたが、08年からの世界的な金融危機がルーマニア経済にも大きな影響をあたえている。

1. 農林水産業

国土の43%(2005年推計)が耕地と長期作付用地に利用されており、農業などの第1次産業従事者は労働人口の32%(2005年)を占める。1980年代半ばには農地全体の約90%が集団化されていた。重工業優先の政策のもとで農業投資は削減され、80年代には食料不足が深刻化した。90年代以降、政府は脱集団化をすすめた。

おもな農作物は、トウモロコシ、コムギ、ライムギ、テンサイ、ジャガイモ、ブドウ、果実類である。ワイン生産も主要産業のひとつとなっている。

国土の26.7%(2005年推計)をおおう森林は国有地である。黒海とドナウ・デルタはチョウザメ漁で知られており、ほかに大西洋でもマグロ漁などをおこなっている。

2. 鉱工業

おもな鉱物資源は石油で、プロイエシュティが石油産業の中心であるが、産出量は減少している。1980年代初めに黒海の油田が発見されたものの埋蔵量が枯渇しつつあり、現在では石油を輸入している。カルパティア山脈には岩塩が豊富で、トランシルバニアアルプス西部では瀝青炭と鉄鉱石を産する。

第2次世界大戦後、機械・化学を中心に重工業に比重をおいた工業化を急速にすすめてきた。鉄鋼の生産は1990年代に入って電力不足や原料不足のため減少した。ほかに化学肥料、セメント、ラジオ、テレビ、自動車、加工食品、ゴム製品、繊維製品などが生産される。

3. エネルギー

総発電量は517億kWh(2003年推計)。そのうち火力発電が60%(2003年推計)、水力発電が31%を占める。セルビアと共有するドナウ川の鉄門ダムはヨーロッパ最大級のダムで水力発電の要(かなめ)である。1980年代には石油など燃料の多くが貿易収入をふやすため輸出にまわされ、慢性的なエネルギー不足により国民はエネルギーの節約を強いられていた。96年にチェルナボーダ原子力発電所1号機が運転を開始し、火力発電の占める割合は減少した。

4. 通貨と外国貿易

通貨単位はレイ(単数はレウ)。レイは1991年から市場と連動している。国立銀行が発券銀行で、すべての国家事業の財政運営を監督する。2005年7月に1万レイ=1新レウのデノミを実施した。

1940年代半ばから80年代まで外国貿易は国家が独占していたが、低迷する経済を活性化させるため、93年に貿易が自由化された。輸出総額は235億米ドル(2004年)。おもな輸出品は、機械類、電気・電子機器、繊維製品、金属製品、靴など。輸入総額は327億米ドル(2004年)で、おもな輸入品は、機械類、電気・電子機器、石油・石油製品、自動車、化学製品などである。貿易相手国は、イタリア、ドイツ、フランス、ロシア連邦、トルコなど。

5. 交通とコミュニケーション

おもな港湾は黒海沿岸のコンスタンツァ、ドナウ川下流のガラツィ、ブライラなどにある。ジュルジュは、プロイエシュティ油田からのパイプラインをもつ河川交通の要衝。1984年開通の運河により、コンスタンツァとドナウ川の港町チェルナボダがむすばれた。92年にはマインドナウ運河が完成し、ライン川を経由して黒海から北海への輸送が可能になった。

国営タロム航空と民間のラル航空が、ブカレストと国内および海外の主要都市とをむすんでいる。

郵便、電信電話は国営である。新聞は地方紙が主体で、国内に居住するさまざまな民族の言語による新聞や雑誌も数多く出ている。1989年のチャウシェスク政権の崩壊後、日刊紙がふえた。主要紙は、アデバルル(真実)、エベニメントゥル・ジレイ(今日のできごと)など。

VI. 環境問題

産業に起因する大気汚染や水質汚濁が深刻な問題となっている。各種の工場や火力発電所では、燃料のほとんどを石炭にたよっているため、二酸化炭素や二酸化硫黄が大量に排出される。ルーマニア中央部のコプシャミカや南部のジュルジュのような工業地帯、それに首都ブカレストでは、大気汚染がとくに深刻化している。

また、工場廃水がドナウ川などの河川に流出して水質を汚染しているため、ドナウ河口のデルタ地帯では生態系が危機にさらされている。このデルタはヨーロッパ最大の湿地帯で、1991年に世界遺産に登録されているが、2004年、ここに生息する数百種におよぶ鳥類や、数十種もの魚類・爬虫類(はちゅうるい)などのうち、63種が絶滅の危機にある生物とされた。

VII. 政治

1991年12月に国民投票で承認された憲法にもとづいて統治されている。同憲法はルーマニアを議会制の共和国と宣言し、人権、市場経済、複数政党制を保障している。

1. 行政、立法、司法

国家元首は大統領で、任期は5年、直接選挙でえらばれる。大統領は首相を任命し、その補佐をうける。立法機関は二院制の国会。下院は332議席で、そのうち18議席は少数民族にわりあてられている。上院は137議席。両院とも議員は直接選挙でえらばれ、任期は4年である。

最高裁判所のもとに、高等裁判所、地方裁判所があり、そのほか憲法裁判所がおかれている。1989年12月に死刑が廃止された。

2. 政党

1948年、共産党が唯一の合法政党となり、65年以降チャウシェスクの指導のもと、政治を全面的に支配した。89年チャウシェスクが失脚、共産党が分裂して、多数の新党が結成された。90年代初め、登録数は200にものぼったが、全国的規模の影響力をもつのは数党にすぎない。

チャウシェスク政権が崩壊して以後、議会で最大勢力をしめたのは旧共産党系の社会民主主義党だった。同党は1996年の総選挙にやぶれたが、2000年の総選挙では勝利して単独政権をつくり、01年にルーマニア社民党と合併して社民党(PSD)となった。つづく04年の総選挙で社民党は第1党を維持したものの、国民自由党(PNL)と民主党(PD)を中心とした連合に政権をうばわれた。07年に民主党は自由民主党と合併して民主自由党(PD-L)と改称。08年の総選挙の結果、民主自由党と社民党・保守党同盟が2大勢力となった。そのほかの主要政党に、ハンガリー系少数民族の政党であるハンガリー人民主同盟や民族主義的政党の大ルーマニア党がある。

3. 厚生

医療、保養施設での休暇、年金をはじめとする社会保険の給付は政府がおこなう。病院や養護施設は、非衛生的で不適格な状態のものが少なくない。チャウシェスク政権時代は出生率を高めるため避妊や妊娠中絶が禁じられていたが、1989年の政変後に合法化された。

4. 防衛

すべての成人男子に、陸軍または空軍で12カ月、海軍で18カ月の兵役を義務づけていたが、2003年8月からいずれも8カ月に短縮され、06年末に徴兵制は廃止されて志願制に移行した。兵力は、陸軍6万6000人(2004年)、海軍7200人、空軍1万4000人。

1994年、ルーマニアはNATO(北大西洋条約機構)加盟のステップとして「平和のためのパートナーシップ」協定に調印した。ついで、2002年11月にNATO加盟がみとめられ、04年3月に正式加盟した。この間、03年のイラク戦争に際してはアメリカ・イギリスを支持してイラクに部隊を派遣。05年には国内4カ所にアメリカ軍の軍事施設の設置をきめている。

VIII. 歴史

現在のルーマニアにあたる地域が歴史にはじめて登場したのは106年ごろ、トラヤヌス帝に征服されてローマ帝国の属州ダキアとなったときである。当時の住民は、ギリシャ北部のトラキアから移動してきたダキア人が主体だった。そこにローマから植民者がおくりこまれ、道路や橋、城壁がつくられた。現在も黒海沿岸のコンスタンツァからドブロジア地方(ドブルジャ地方)、ドナウ川にかけてその遺跡がみられる。

3世紀のゴート族をはじめ、フン族、スラブ人、トルコ系のブルガール人などの侵入を次々にうけたが、住民はローマ時代にとりいれたラテン文化をたもちつづけ、スラブ人との混血によってしだいに独自の民族集団を形成する。彼らはブラフ人(ワラキア人)とよばれ、隣接するビザンティン帝国にたえず脅威をあたえた。ブルガリアの支配下にあった9世紀には、東方正教会をうけいれている。

13世紀、ハンガリーの南下によりブラフ人はトランシルバニアアルプスの南や東カルパティア山脈東方におわれ、それぞれ土着の公を擁してワラキア公国、モルダビア公国を建設した。2つの公国はハンガリー王やポーランド王の宗主権をみとめたが、ハンガリーがモハーチの戦(1526年)でオスマン帝国に敗北したのちは、およそ300年にわたりオスマン帝国の支配下におかれる。16世紀末にはワラキアのミハイ公のもとオスマン帝国軍をしりぞけ、短期間ながらトランシルバニア公国をくわえた3公国の統一を実現した。モルダビア

しかし、ミハイ公が1601年に暗殺されるとオスマン帝国の支配が復活し、きびしい政治的抑圧がくわえられた。ワラキアとモルダビアは同じ東方正教会のロシアに援助をもとめた。オスマン帝国は18世紀初め、ロシアの影響力の増大を食いとめる目的でファナリオット制を導入し、帝国のえらんだ公に両公国の統治をゆだねる。ギリシャ人がしばしばこの要職についたため、ギリシャ語が公用語となった。

18世紀後半以降はオスマン帝国の衰退に乗じてロシアが影響力を強め、1802年には公の任命権を獲得した。さらにロシア・トルコ戦争での勝利により、12年、ロシアはモルダビア公国の一部だったベッサラビアをうばう。21年にはじまったギリシャ独立戦争を通じてオスマン帝国の支配はさらに弱まり、両公国は自治を拡大したが、その一方でヨーロッパ列強のバルカン地域への介入が強まった。

1. 統一と独立

クリミア戦争で敗北した結果、ロシアは両公国への影響力をうしない、ベッサラビア南部をモルダビアに返還した。1859年、両公国はモルダビアの貴族のクザを共通の公として統一され、ルーマニア公国となる。

1866年、ホーエンツォレルン家のカールがカロル1世として即位し、世襲権をオスマン帝国からみとめられた。77年にロシア・トルコ戦争がはじまると、カロルはロシア側にたって参戦し、オスマン帝国からの完全独立を宣言した。78年のベルリン会議でルーマニアは独立を承認されたが、見返りにベッサラビア南部をロシアに返還することになった。一方で、ルーマニアは北ドブルジアをえている。

1881年、ルーマニアは王国を宣言する。1912年の第1次バルカン戦争では中立をたもったが、13年の第2次バルカン戦争ではセルビア、ギリシャ側についてブルガリアを撃破した。戦後処理のブカレスト条約で、南ドブルジアを獲得し、バルカン最大の勢力としての地歩をきずいた。

2. 第1次世界大戦

第1次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)すると、ルーマニアははじめ中立の立場をとったが、1916年に連合国側で参戦し、ハンガリー領トランシルバニアに進撃する。ドイツ・オーストリア軍の反撃により17年1月には逆に国土の大部分を占領されたが、18年10月に連合国側の勝利が確定したのち、ルーマニアはトランシルバニアなどをふたたび占領した。オーストリアとのサンジェルマン条約およびハンガリーとのトリアノン条約により、ブコビナやバナトの大部分、トランシルバニアなどをえて、ルーマニアは戦前の約2倍の領土をもつ広大な国となった。また、ベッサラビアの領有権も連合国からみとめられた。

以後、第2次世界大戦までのルーマニアは、土地改革、たちおくれた経済の再建などの国内問題になやまされた。イオン・ブラティアヌの民族自由党政権(1922~26年、1927年)は実質的には独裁に近く、人口の半分以上を占める農民の反発をまねいた。対外的にも、ベッサラビアの領有権をめぐるソ連との対立をはじめとする領土問題をかかえていた。

1928年、民族自由党に反対するユリウ・マニウの民族農民党政権が成立し、30年にはマニウの助力で国王が亡命先から帰国、カロル2世として即位する。しかし、経済状態は悪化の一途をたどり、コドレアヌひきいるファシスト(ファシズム)組織「鉄衛団」の台頭で政治対立がますます激化した。38年、こうした状況を利用して、国王カロル2世が独裁制をしいた。

3. 第2次世界大戦

第2次世界大戦がはじまると、ルーマニアははじめ中立の立場をとっていたが、1940年6月、ドイツと不可侵条約をむすんでいたソビエト連邦(ソ連)がベッサラビアと北ブコビナを占領。さらにイタリアとドイツの圧力により、8月にトランシルバニア北部をハンガリーに、9月に南ドブルジアをブルガリアに割譲した。同じころ、ルーマニアはドイツに占領され、イオン・アントネスクの親ドイツ政権が成立する。カロル2世は亡命し、かわってミハイ1世が即位したが、実権はアントネスクと鉄衛団の手中にあった。

1941年6月の独ソ戦の勃発に際し、ルーマニアはドイツのソ連進攻に参加し、大戦に正式参戦した。ルーマニア軍はベッサラビアとブコビナを奪回し、12月にはアメリカ合衆国に宣戦を布告した。国内では民族農民党などが反戦運動をくり広げ、44年春、ソ連軍のルーマニアへの反撃がはじまるといっそう活発化する。8月、ソ連軍の入城と同時に国王ミハイと側近の軍人がクーデタでアントネスク政権をたおし、連合国への降伏をもうしでた。

1944年9月のソ連との休戦成立後、共産党、自由党、民族農民党などによる国民民主戦線が政権をとったが、ソ連を後ろ盾にもつ共産党がしだいに実権をにぎっていった。45年3月に耕民戦線のペトル・グローザを首班として成立した政権は、46年11月の総選挙をへて完全に共産党主導となった。47年12月、国王ミハイは退位し、ルーマニアは人民共和国を宣言する。48年4月にはソ連憲法をモデルとする新憲法が制定された。

この間、1947年2月には連合国との間にパリ講和条約がむすばれた。これにより、ルーマニアはトランシルバニア北部の領有をみとめられたものの、ほかの領土については40年におこなった譲渡が正当とされた。さらにソ連に対する重い賠償を課せられ、軍備を制限された。

4. ソ連の影響下で

1948年から49年にかけての大きな変化は、文化機関がソビエト連邦(ソ連)をモデルに再編されたことである。ソビエト化の過程で反対派が次々に粛清され、西側諸国から人権侵害との非難が高まった。

1952年と65年に憲法が改正されたが、基本的にはソ連型の政治がつづいた。戦後を通じてルーマニアの指導者の地位は強固だったが、なかでもチャウシェスクは、65年に共産党第1書記に就任して以来、急速に頭角をあらわした。

1950年代には国有化と工業化が強力に推進され、60年代には年12%という東ヨーロッパ諸国で最高の経済成長率を記録する。1949年7月にはじまった農業の集団化も、わずかな私用地をのこして62年に完了した。

外交面においても、ルーマニアは戦後初期にはコミンフォルム(インターナショナル)、COMECON(経済相互援助会議)、ワルシャワ条約機構というソ連中心の組織と密接な協力関係にあったが、1960年代初めからしだいに独自路線をとるようになる。63年にソ連が提起したCOMECONの統合強化に対しても、ルーマニアは工業化推進の妨げになるとして反対をつらぬいた。60年代まで、ルーマニアの主要な貿易相手国はソ連・東ヨーロッパ諸国だったが、西側諸国との貿易や外交も60年代後半から徐々に深まった。

中国とソ連の対立に対してルーマニアは中立の立場をとり、1964年には中国を訪問したマウレル首相が仲裁をこころみるなど自主外交を展開した。チャウシェスクはワルシャワ条約機構を強化しようとするソ連の政策を批判し、68年のチェコスロバキアへの軍事介入(プラハの春)に際しては非難を表明した。

5. 1970~80年代

1970年代に入ると、ますます明確に独自の外交路線をあゆむようになる。69年にはアメリカ大統領ニクソンがルーマニアを訪問し、チャウシェスクも数度にわたって訪米した。72年にIMF(国際通貨基金)と世界銀行への加盟をみとめられ、76年には東側諸国としてはじめてEC(ヨーロッパ共同体)と協定をむすぶ。77年にはエジプトのサーダート大統領のイスラエル訪問を実現させるなど、中東和平にも貢献した。

一方、ルーマニアはソビエト連邦(ソ連)・東ヨーロッパ諸国とも友好関係を推進し、1976年にはブレジネフがルーマニアを訪問している。しかし、79年のソ連によるアフガニスタン侵攻には追随しないなど、一定の距離をたもった。

内政面では、チャウシェスクは共産党による厳格な一党支配を確立しようとし、党、政府、文化機関における反対派の存在をゆるさなかった。1970年、75年の洪水、77年の地震とあいついで自然災害にみまわれたが、重工業や貿易では成長を維持した。しかし、外貨はほぼ対外債務の返済にあてられたため、国民は食料、燃料、電力にも事欠く耐乏生活を強いられる。共産党政権に対する国民の反発は、88年に発表された8000の村の破壊をともなう強制移住計画でいっそう強まった。

6. 体制の転換

1989年12月、ティミショアラで反政府デモがおこなわれた。これに対するチャウシェスクの容赦ない弾圧をきっかけに国民の怒りが爆発し、全国規模の反政府運動がまきおこった。チャウシェスク夫妻は国民を支持した軍によって逮捕され、12月25日に処刑された。チャウシェスク政権崩壊後、イオン・イリエスクひきいる救国戦線評議会が暫定的に政権についた。

1990年5月の総選挙では救国戦線が大勝し、イリエスクが大統領にえらばれた(1992年に再選)。91年末には新憲法が施行されたが、改革の遅れとインフレ、失業、低賃金などによる生活状態の悪化に対して国民の不満が高まり、94年2月には200万もの労働者によるゼネストがおこなわれた。救国戦線は92年に社会民主主義党と民主党に分裂、これにくわえて、極右勢力の台頭や王政復古の動きなどで政局の混迷がつづいた。

こうした中で、1996年6月に実施された地方選挙では、与党の社会民主主義党が得票率20%でからくも勝利をおさめたが、11月の総選挙では野党連合の民主会議に敗北を喫した。この結果、89年以来政権についていた社会民主主義党は野党にまわり、民主会議など中道3党による連立政権が成立、民主会議のチョルベアが首相に就任した。同時に実施された大統領選挙でも、民主会議のコンスタンティネスクがイリエスク大統領をやぶって当選した。チョルベア政権は体制転換後初の非共産党系政権として経済改革の推進をめざしたが、97年後半から顕著となった改革の遅れへの批判が高まり、チョルベア首相は98年3月に引責辞任した。翌4月には最大与党である全国農民党のバシレ幹事長が新首相に指名された。

外交面では、1993年2月にEU(ヨーロッパ連合)との連合(いわゆる準加盟)協定に調印し、94年1月にはNATO(北大西洋条約機構)との「平和のためのパートナーシップ」に参加した。EUやNATOへの早期加盟をめざして、ルーマニアは積極的に近隣諸国との関係改善にのりだした。96年9月にはハンガリーとの基本条約に調印してハンガリー系住民の地位と国境の保全を保障し、両国間の歴史的な緊張関係にいちおうの終止符をうった。97年5月にはウクライナとの友好協力条約に仮調印し、両国の係争地となってきた北ブコビナと南ベッサラビアに関する領土要求を事実上放棄した。また、ドイツに対しても、第2次世界大戦中のドイツ系住民の強制収容や戦後の追放に関してはじめて公式に謝罪した。これはルーマニアのNATO加盟に対するドイツの支持をねらった行動だったが、功を奏さず、7月のNATO首脳会議の決定では結局、新規加盟の第一陣入りは実現しなかった。EU加盟に関しても第一陣からはもれ、ブルガリアなど4カ国とともに交渉準備国とされた。

1999年12月、コンスタンティネスク大統領は、経済再建の失敗を理由にバシレ首相を解任した。ムグル・イサレスク前中央銀行総裁が首相に指名され、上下院の承認をえた。イサレスク政権は、インフレの抑制、経済成長をマイナスからプラスに転化すること、失業率の改善、財政赤字のGDP3%以内への縮小を最重要課題として取り組みをはじめた。こうした状況のもと、2000年11月の総選挙と大統領選挙では、社会民主主義党が過半数にはとどかなかったものの第1党となり、大統領にはイリエスクが復帰した。この選挙でのきわだった特徴は、少数民族を敵視する民族主義政党の大ルーマニア党が第2党に進出したことだった。

社会民主主義党は、ハンガリー人民主同盟、国民自由党などの閣外協力を前提に単独政権を樹立、アドリアン・ナスタセ元外相が首相に就任した。同党は、2001年にルーマニア社民党と合併して、党名を社民党と変更した。

7. NATO、EUへの加盟

ルーマニアでは、チャウシェスク政権が崩壊したあとも、旧共産党系勢力が官僚組織に強い影響力を維持したこともあって、政府高官による汚職が横行してきた。EU(ヨーロッパ連合)からも加盟交渉に影響するとの警告をうけていた。そのため、2003年3月、政府職員や国会議員が民間企業の役員に就任することを禁じ、マネー・ロンダリング規制ももりこんだ汚職防止法を制定した。また、省庁の削減、義務兵役の段階的廃止、大統領任期を4年から5年にするなど、EU加盟をめざしたさまざまな改革がおこなわれた。

懸案であったNATO(北大西洋条約機構)への加盟については、2002年11月に加盟をみとめられ、04年3月に正式加盟した。もうひとつのEUへの加盟については、東方への拡大の第一陣からはもれたが、04年12月までに加盟交渉が終了、07年の加盟が確実になった。

2004年11月に大統領選挙と総選挙がおこなわれた。大統領選挙は、12月の決選投票をへて、民主党党首トライアン・バセスク(前ブカレスト市長)がナスタセ首相をやぶって当選した。総選挙では、議席を大幅にへらしたものの社民党が第1党を維持したが、バセスク大統領の意向により、国民自由党、民主党、ハンガリー人民主同盟、ルーマニア人道党(2005年に「保守党」に改称)の連立政権が成立し、国民自由党のカリン・ポペスクタリチェアヌが首相に就任した。

ポペスクタリチェアヌ政権は2007年1月のEU加盟を最大の目標にすえ、経済改革の一環として、05年1月、所得税(18~40%)と法人税(25%)を一律16%にひきさげ、同年7月には通貨レイのデノミを実施した。EUがもとめる司法改革に関する政府の法案は、同7月、社民党の影響下にある憲法裁判所により違憲としてさしとめられた。ルーマニアのEU加盟準備状況についてヨーロッパ委員会は、汚職問題などに改善がなければ加盟の1年延期もありうるとしていたが、06年9月、予定どおりの加盟を支持、ルーマニアは、ブルガリアとともに、07年1月1日、EUへの加盟をはたした。ただし、汚職対策、司法改革、農業助成金の運用や食品安全などについてはさらなる改善がもとめられており、加盟後も3年間はヨーロッパ委員会の監視下におかれることになった。

8. 政争による混迷と新政権の発足

一方、イラク撤退や閣僚人事をめぐって対立が表面化したバセスク大統領とポペスクタリチェアヌ首相の亀裂はさらに拡大していった。ポペスクタリチェアヌは、2007年4月、最大野党社民党の協力をえて内閣改造を断行し、バセスクの出身母体である民主党を除外して国民自由党とハンガリー人民主同盟の2党による少数内閣を発足させた。司法制度改革や汚職対策にとりくんできたバセスク派の法相マコベイも閣外におわれた。同月、上下院は、職権乱用などを理由に社民党が提出した大統領の職務停止案を可決した。憲法裁判所がこれをみとめてバセスクの職務は停止され、上院議長のバカロイウ元首相が大統領代行に選出されたが、5月に実施された国民投票の結果、大統領罷免は圧倒的多数で否決され、バセスクは大統領に復職した。民主党はポペスクタリチェアヌ内閣の不信任案を議会に提出。また、これまで内閣に協力していた社民党も、閣僚ポストの配分をめぐって内閣不信任案を提出するなど、政局の混迷がつづいた。12月、民主党は、06年に結成された反ポペスクタリチェアヌ派の自由民主党と合併して、党名を民主自由党に変更した。

2008年11月の総選挙は、民主自由党が大躍進し、全体の得票率では保守党と同盟をくんだ社民党が1位を維持したものの、選挙区ごとの議席配分合計で民主自由党がうわまわって第1党となった。ポペスクタリチェアヌ首相のひきいる国民自由党は3位だった。12月、中道右派の民主自由党と中道左派の社民党が大連立に合意し、民主自由党のエミル・ボック党首を首相とする連立政権が発足した。

9. 日本との関係

日本とルーマニアの実質的な交流がはじまったのは、明治維新以降である。1877~78年のロシア・トルコ戦争に日本の陸軍将校が従軍し、ロシアの同盟国ルーマニアから勲章を授与されたというエピソードがのこっているが、当初の交流はごくかぎられたものであった。日露戦争での日本の勝利はルーマニア人に強い印象をあたえ、日本への関心を一挙に高めた。

第1次世界大戦期には、対ソ戦略との関連で主としてバルカンへの軍事的関心が強まるが、信夫淳平「東欧の夢」(1919年)にみられるように、バルカンの歴史や社会への関心も芽生える。

第1次世界大戦後に両国は正式に国交を樹立し、1930年(昭和5年)には通商協定がむすばれた。30年代はともにファシズムへの道をあゆみ、40年にはルーマニアが日独伊三国同盟に加盟したことから、第2次世界大戦中は日本と同盟関係にあった。しかし、44年にルーマニアがドイツに宣戦布告したため、日本とも形式的には交戦状態に入った。

戦後は体制がちがうこともあって国交回復は1959年とおくれたが、チャウシェスク政権の独自路線が高く評価され、旧東ヨーロッパ諸国の中ではとくに貿易が比較的活発であった。

1989年の体制転換後、日本はルーマニアの民主化・市場化を積極的に支援した。97年にコンスタンティネスク大統領が、2002年にイリエスク大統領が、07年にはポペスクタリチェアヌ首相が来日。02年は、1902年にオーストリア・ハンガリー二重帝国に駐在した両国公使が、ウィーンで両国の外交関係や通商条約の締結協議をすすめてから100周年にあたり、ルーマニアで日本文化紹介の記念行事がもよおされた。