検索ビュー 毛沢東

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毛沢東
I. プロローグ

1893~1976 中国共産党の指導者。1949年の中華人民共和国の成立とともに政府主席となり、54~59年には国家主席をつとめた。

II. 生誕から井岡山時代

湖南省湘潭県(湘潭)の農村に生まれ、長沙の師範学校でまなんだ。師範在学中に新文化運動に接し、「新民学会」を組織、1918年に卒業すると北京に出、マルクス主義、無政府主義にふれ、19年の五・四運動の際には長沙にあって学生運動を指導、その中でマルクス主義に対する確信をふかめていった。20年に師範学校付属小学校の主事(校長)となり、校内に「新民学会」員を中心に共産主義グループを組織、翌21年7月の共産党創立大会に同グループを代表して出席した。

1922年に、党務に専念するため学校を辞職、しだいに党内での地位を確立していった。第1次国共合作が分裂したあとの27年9月、湖南省秋収の反国民党武装蜂起を指導したが失敗、湖南・江西省境の井岡(せいこう)山に撤退して翌年、朱徳の軍と合流、最初の紅軍、工農紅軍第4軍を組織した。

III. 抗日戦争時代

1931年11月に、江西省瑞金で中華ソビエト共和国臨時政府が樹立されると、主席に就任、ついで35年、長征途上の貴州省遵義でひらかれた会議で共産党の指導権を名実ともににぎり、8月には八・一宣言を発して、抗日統一戦線の結成をうったえた。37年7月に、国民党の蒋介石との間で第2次国共合作が成立すると、長征完了後の革命根拠地陝西省延安において抗日戦を指揮するかたわら、農民を主体とした革命論である「実践論」「矛盾論」などを執筆、毛沢東思想の基礎をつくった。

IV. 中華人民共和国の成立以後

1945年8月の日本の降伏により第2次世界大戦は終結するが、中国では再び共産党と国民党が内戦(国共内戦)に突入、共産党はこれに勝利し、内戦終了直前の49年10月、毛沢東は北京で中華人民共和国の成立を宣言して政府主席(1954年から国家主席)に就任、中国の社会主義的改革を指導することになった。

建国当初、毛沢東はソ連を重視し、1950年2月にスターリンとの間で中ソ友好同盟相互援助条約に調印したが、ソ連式の社会主義建設にしだいに批判を強め、56年ごろからは中国独自の社会主義の建設をとなえるようになった。その代表的なものが58年に開始された全中国農民の人民公社化と大躍進運動であるが、結局失敗し、59年に国家主席の座を劉少奇にゆずった。

以後、党務に専念したが、不断の革命をとなえて1966年に文化大革命を発動し、紅衛兵らを動員、劉少奇ら反対派の追い落としに成功した。しかし、71年の林彪事件後、文革は終息にむかって毛沢東の指導力も低下、死の直前には、周恩来追悼に端を発した、反文革・反毛大衆運動とでもいうべき天安門事件(第1次)がおきた。また、毛沢東の死後、晩年の彼をささえた江青ら四人組はことごとく失脚、投獄された。