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ハンガリー
I. プロローグ

ヨーロッパの中東部にある共和国。正式国名はハンガリー共和国。ドナウ川の中流域に位置する内陸国で、スロバキア、ウクライナ、ルーマニア、セルビア、クロアチア、スロベニア、オーストリアと国境を接する。面積は9万3030km²。人口は993万915人(2008年推計)。首都はブダペストで、同国最大の都市。

II. 国土と資源

国土の大部分はほぼ平坦(へいたん)で、ドナウ川が国土を東西に二分して南流し、その東をドナウ川の支流ティサ川がほぼ並行してながれている。ドナウ川の東側はアルフェルドとよばれる大ハンガリー平原で、西側は北部の一部をのぞいてゆるやかな起伏の丘陵地帯となっている。最高峰はマートロ山地のケーケシュ山(1014m)。西部のボコニュ山地の南には、中部ヨーロッパ最大の淡水湖バラトン湖がある。北西部の平原(小アルフェルド)は、スロバキア南部にまでのびている。

1. 気候

乾燥した大陸性気候で、冬は寒く夏は暑い。月平均気温は1月が-1.1°C、7月が21.1°Cである。降水量は初夏に多い。

2. 植生と動物

国土の21.2%(2005年推計)が森林でおおわれており、シナノキ、ブナなどの落葉樹がドナウ川以西の丘陵地帯や山地に広くみられる。野生動物では、ノウサギ、キツネ、シカ、クマ、鳥類は、カモ、サギ、ツル、コウノトリが多い。アルフェルドは渡り鳥の宝庫である。

近年、大気汚染による森林破壊がすすみ、1990年代初めには、森林の約36%に枯死や落葉の異変などがみられた。

3. 天然資源

アルフェルドは水はけのよい砂質土壌地帯で、ジャガイモ、トウモロコシ、ブドウなどが栽培されている。北部のドナウ川流域も一般的に肥沃(ひよく)である。アルフェルドの南方一帯は乾燥したアルカリ性土質の草地(プスタ)だったが、近年は農地化がすすんでいる。

国土の大部分が平坦であるため、水力発電に利用できるような水資源はあまりない。北部はとくに7~10月に雨が少なく、灌漑設備もふじゅうぶんなため、干ばつになりやすい。生活用水の約66%をドナウ川に依存しており、その水質汚濁が深刻な問題となっている。

鉱物資源では、ボーキサイトを多量に産出し、輸出している。ウラン、石炭も多く、ほかに石油、天然ガス、マンガン、鉄鉱石などを産するが、埋蔵量は一般に少ない。また、鉄鉱石や石炭はさほど良質ではない。

III. 住民

国民の約90%がアジア系のマジャール人(ハンガリー人)である。そのほかロム(ジプシー)、ドイツ人、スロバキア人、セルビア人、クロアチア人、ルーマニア人などがいる。人口は993万915人(2008年推計)、人口密度は108人/km²。人口の66%(2005年推計)が都市に居住する。

1. 行政区分と主要都市

ハンガリーには1特別市(ブダペスト)と19県があり、ブダペストは県と同等の地位をもつ。

首都ブダペスト(人口170万8000人(2003年推計))はハンガリーの文化・経済の中心で、産業は造船、金属加工などが盛ん。デブレツェンは農業地帯にあり、商取引の中心地である。そのほかの主要都市には、鉄鋼業や金属加工業が盛んなミシュコルツ、アルフェルドの農産物の集積地で、化学・繊維工業でも有名なセゲド、小規模な手工業で知られるペーチュなどがある。

ブダペスト周辺は急激に都市化がすすんでいるが、生活は農業と密接にむすびついており、本業とは別に、なんらかのかたちで農業にかかわっている人が多い。しかし、農村から都市への出稼ぎも少なくない。

2. 宗教と言語

ハンガリーは伝統的なカトリック国で、国民の約63%がカトリック教徒である。次に多いのがプロテスタントで、約25%を占める。ほかに、約1%のユダヤ教徒がいる。

フィン・ウゴル語派に属するハンガリー語(マジャール語)が公用語である。表記はラテン文字で、トルコ語、スラブ語、ドイツ語、ラテン語、フランス語からの借用語も多い。外国語では、ドイツ語、ロシア語、英語が普及している。

IV. 教育と文化
1. 教育

義務教育は原則12年。2003年に改定された義務教育制度では、6~8歳で小学校に入学し、18~20歳で中等教育を修了する。職業訓練や技能習得に重点がおかれ、中等教育では普通科のほかに各種の専門学校がある。

高等教育機関は約90。ブダペスト、ペーチュ、セゲド、デブレツェンなどの総合大学のほか、教育、工業、農業などの単科大学がある。

2. 文化

古代のマジャール人は東方の異教文化をもっていたが、10世紀のキリスト教への改宗後は西欧文化の影響下におかれ、宗教文学や年代記などでラテン語がつかわれるようになった。15世紀にルネサンスを経験し、16世紀の宗教改革に際して、民衆語であるマジャール語がラテン語にとってかわった。

18~19世紀にはフランス啓蒙主義(けいもうしゅぎ)や西欧的な自由主義を吸収する。このためハンガリーは、しばしば「西欧文明の防波堤」とみなされた。第2次世界大戦後の共産主義時代には、文化においてもソ連の模倣がみられた。ハンガリー文学

3. 図書館と博物館

全国に約5000の公共図書館がある。ブダペストのセーチェニ図書館(1802年設立)が最大で、約240万冊の蔵書をほこる。ほかに国立文書館(1756)、ハンガリー科学アカデミー図書館(1826)、国会図書館(1870)など、主要図書館のほとんどがブダペストにある。

ハンガリー国立歴史博物館(1802)をはじめ、ブダペストには博物館も多い。

4. 美術と音楽

絵画は19世紀のロマン主義時代にひとつのピークをむかえた。国際的知名度は高くはないが、ムンカーチ、メルシェらが代表的な画家としてあげられる。20世紀ではモホリ・ナギが有名である。

10世紀のキリスト教の受容によって、グレゴリオ聖歌、宗教改革以後のコラールなど、西欧の宗教音楽がもたらされた。これに対して大衆音楽は東方の影響が強い。15世紀にはインド起源とされるロム(ジプシー)により、独特のはなやかな楽器演奏や歌がつたえられた。民俗音楽にはトルコ風の東洋的な和声の影響もみられる。

17~18世紀のハンガリー貴族は、お抱えのオーケストラや歌劇団をもち、外来演奏家をやとったりもした。オーストリアの作曲家ハイドンはその一例で、30年間にわたってエステルハージ家につかえた。

19世紀には、ハンガリー・オペラの創始者として知られるエルケル、ピアニストとしても名高いリストらすぐれた作曲家が輩出している。ドホナーニは20世紀後半までピアニスト、指揮者としても活躍した。20世紀以前のハンガリー音楽にはドイツ音楽の強い影響がみられたが、バルトークとコダーイはハンガリー民謡の収集、出版にとりくみ、その旋律をみずからの作品にもとりいれた。民俗音楽:西洋音楽

V. 経済

第2次世界大戦前は農業国で、小規模におこなわれていた工業も戦争で破壊された。1948年の共産党政権の成立後、政府は工業化に重点をおいた一連の5カ年計画をすすめ、重工業の育成に専念した。しかし、68年にはじまった経済改革では、重工業偏重の見直しがはかられた。

1990年の非共産党政権の成立後、計画経済から市場経済への移行がすすめられ、また大規模な民営化も開始され、93年の段階で、すでにGDP(国内総生産)の約50%を民営部門が占めた。ハンガリーは外国企業にとっても魅力的な市場となり、89年以後の対東欧直接投資の50%以上が集中した。しかし、旧共産党が議会で勢力をもりかえしてからは、改革のペースが緩やかになっている。

1. 農林漁業

国土の53.6%(2005年推計)が可耕地で、1980年代半ばには、その94%が集団農場や国営農場だった。穀物生産が中心で、トウモロコシ、コムギ、ビート、オオムギ、ジャガイモ、ヒマワリ、ライムギなどが栽培されている。牛、豚、ヒツジ、馬、家禽(かきん)などの畜産や酪農も盛ん。ワイン醸造もおこなわれており、トカイ産がとくに有名である。

2005年には、森林は国土の21.2%である。第2次世界大戦後、市街地の急激な拡大、大規模な開発、ずさんな植林のため、森林の破壊がすすんだ。1960年代から政府が伐採を制限し、植林計画を強化しており、1990年~2005年には、年間0.7%の樹木が植林されている。

漁業はバラトン湖、ドナウ川、ティサ川が中心で、パーチ(スズキ)、コイ、カワカマス、ナマズなどが漁獲される。

2. 鉱工業

社会主義時代はすべての鉱山が国有化され、生産も国が管理していた。石炭、ボーキサイト、石油、天然ガスを産する。

工業は鉄鋼、アルミニウム、セメント、革製品が中心で、ほかにレースなどの服飾品、農業機械、テレビ、ラジオ、ミシン、化学製品、肥料、綿製品などが生産されている。農産物加工品の輸出も盛んである。ただし、天然資源がとぼしいため、工業原料の多くを輸入にたよっている。

3. 通貨と外国貿易

通貨の単位はフォリント(1フォリント=100フィレール)。ハンガリー国立銀行が銀行業務全体を統括し、通貨、為替、貯蓄を担当する。外国貿易銀行は貿易を、開発銀行は大規模投資をうけもつ。多額の対外赤字と未成熟な銀行制度が経済のネックになっている。

社会主義時代には、すべての卸売りおよび大部分の小売りが国家の管理下におかれ、外国貿易の半分がソ連、東ヨーロッパ諸国で占められていたが、1980年代以降は西側諸国との貿易がいちじるしく増大した。おもな貿易相手国はドイツ、旧ソ連諸国、イタリア、オーストリアなど。輸出品は、機械、輸送機器、農産品、化学製品、繊維、鉄鋼、輸入品は、原油、鉄鉱石、機械部品などである。94年にEU(ヨーロッパ連合)と連合協定をむすんで98年3月から加盟交渉に入り、2004年5月に正式加盟した。

4. 交通とコミュニケーション

ハンガリーでは、ドナウ川が交通の大動脈である。1992年、マインドナウ運河が開通し、黒海から北海への航行が可能になった。航空会社は部分的に民営化されている。道路の総延長は15万9568km(2003年)、舗装率は44%にとどまっている。

郵便、電信、電話はいずれも国営。電話は需要に対して業務がおいついていない。電話総数の半分がブダペストに集中し、地方はさらに整備がおくれている。放送では、国営ラジオが3本のステーションを、国営テレビが2チャンネルを放送している。1994年には民間テレビ局が開設された。

ブダペストの三大日刊紙はある程度政府の統制をうけるものの、出版物はほぼ完全に自由である。発行部数では、旧社会主義労働者党機関紙で、現在は独立系の「ネープサバチャーグ(人民の自由)」が最大。

5. 労働

労働人口の32%(2005年)が工業、5%が農林水産業、63%がサービス業その他に従事している。1992年に制定された労働法により、労働組合の結成の自由がみとめられている。労働者は軍人と警察官をのぞき、ストライキ権をもつ。

VI. 環境問題

急速な工業化が原因で、大気汚染、水質汚濁、土壌汚染などさまざまな環境問題がおきている。大気汚染の原因は、おもに自動車の排気ガスと、電気機器製造工場の排気にふくまれる有害物質である。また、大気中の硫黄酸化物によっておこる酸性雨は、森林、水路、建築物などに大きな被害をあたえている。汚染された大気は風で広く周辺地域へとはこばれるため、近隣諸国でも同じような問題をひきおこしている。

河川、湖、地下水の汚染は、まったく処理されないまま河川にながされている工場廃水が原因である。また、ほとんどの家庭がじゅうぶんな衛生設備をもたないハンガリーでは、下水処理の不備も水質汚染の一因になっている。そのため中央ヨーロッパで最大の広さをもつバラトン湖の汚染は深刻な状況になっている。土壌も国内各地の工場からの化学物質をふくむ排水の垂れ流しによって汚染されている。ハンガリーにはヨーロッパ大陸の水路の大動脈というべきドナウ川がながれているので、周辺諸国の汚染が波及し、また逆に自国の汚染を周辺諸国に広めるなど、悪影響の相互作用がある。

国土の約8.9%(2007年)が公園や保護区に指定され、その地域では開発が制限されている。しかし、酸性雨や水質汚濁による森林破壊をくいとめることは不可能な状況である。

VII. 政治
1. 立法、行政、司法

1949年制定の憲法が89年に改正され、共産党(社会主義労働者党)の一党独裁に終止符がうたれた。国名も人民共和国から共和国に改称された。

元首である大統領は、議会により5年ごとに選出される。日常の政治をになう首相は、閣僚とともに大統領の推薦にもとづき、これも議会により選出される。議会は一院制で、4年ごとに改選される。定数386で、そのうち176名は小選挙区制、152名は比例代表制、58名が余剰票集計による全国候補者名簿制でえらばれる。選挙権は18歳以上の国民にあたえられている。

ブダペストにある最高裁判所のほか、県裁判所、地方裁判所、首都裁判所、労働裁判所がある。裁判官はすべて選挙でえらばれるが、最高裁判所長官は任期4年で議会により選出される。これ以外に、違憲立法審査権をもつ憲法裁判所が1990年に発足した。

1949年以来、社会主義労働者党が共産主義政権を維持してきたが、89年の改革以後は党員が激減し、同年10月、社会党に再編された。ほかに中道右派の青年民主連盟、民主フォーラム、自由民主同盟などがある。

2. 地方自治と厚生

社会主義時代は、5年ごとに改選される評議会が県や市町村の行政、地域経済、社会・文化活動を担当した。また、すべての地方機関が中央省庁に従属していた。しかし、現在は複数政党制にもとづく自治体にかわっている。

1972年から、すべての国民が社会保険に加入しており、その財源は、労働者の年間所得の約7%にあたる保険料によってまかなわれている。医療費は無料である。

3. 防衛

2004年の兵力は、陸軍2万3950人、空軍7500人である。小艦隊がドナウ川の警備にあたっている。04年11月に徴兵制を廃止し志願制に移行した。駐留旧ソ連軍は1990~91年に撤退が完了した。94年には「平和のためのパートナーシップ」協定に調印、99年にはNATO(北大西洋条約機構)へ正式に加盟した。

VIII. 歴史

現在のハンガリーにあたる地域は、古代ローマ時代にはパンノニアとよばれていた。帝国の辺境にあったパンノニアには、はやくからゲルマン人をはじめとする諸民族が進出した。

マジャール人(ハンガリー人)がこの地にすみついたのは、895年ごろとされる。族長アールパードにひきいられたマジャール人は、半世紀余りにわたってヨーロッパ中部一帯に君臨したが、955年、のちに初代神聖ローマ皇帝となるオットー1世にやぶれた。これをきっかけにキリスト教と西欧文化が伝来し、975年にはゲーザ公がキリスト教に改宗した。その子イシュトバーン1世はアールパード朝を創始し、1000年にローマ教皇から国王の称号をさずけられ、ハンガリー王国が成立した。

1. アールパード朝

イシュトバーン1世の即位により、ハンガリーは新たな時代をむかえる。キリスト教が国教となり、王権が強化されたが、マジャール人以外には重税を課すなど従属を強いたため、イシュトバーンの死後は異教徒やゲルマン人の反乱になやまされた。対外的には、ラースロー1世がローマ教皇グレゴリウス7世と同盟をむすんだことでハンガリーの地位は高まり、クロアチア、ボスニア、トランシルバニアなどに領土を広げた。

しかし12世紀、ビザンティン帝国の皇帝マヌエル1世の扇動で生じた内紛をきっかけに王権が弱体化し、封建諸侯が乱立する。1205年に即位したアンドラーシュ2世は、貴族を優遇して中央集権体制を復活させようとしたが、成功しなかった。後継者のベーラ4世の治世には、内部分裂に乗じたモンゴル軍の侵入(1241)で国土が荒廃し、王国の崩壊に拍車がかかった。

2. 外国支配の始まり

1301年、アンドラーシュ3世の死によりアールパード朝は断絶し、その後、08年からフランスのアンジュー家の支配がはじまる。アンジュー朝の時代には国内の秩序が回復され、セルビアの一部を併合した。42年に王位をついだラヨシュ1世はポーランド王もかね、ハンガリーはヨーロッパ有数の大国となった。ラヨシュ1世は産業の振興につとめたが、治世の末期には、バルカン半島を北上してきたオスマン帝国におびやかされるようになる。

その後、1387年にはアンジュー家にかわってルクセンブルク家のジギスムントが即位。彼はオスマン勢力への抵抗をこころみたが、96年には大敗を喫した。ハンガリーの王権争いに乗じたオスマン帝国の侵入は15世紀に入ってもつづいたが、フニャディの活躍で食いとめられた。

フニャディの息子マーチャーシュ1世(在位1458~90)は外交手腕にすぐれ、1480年代にハプスブルク家からオーストリアの支配権をかちとり、モラビアやシロンスク(シュレジエン)も併合してハンガリーは中欧の最強国となった。しかし、マーチャーシュ1世の死後は封建諸侯が勢力をもりかえして国内はみだれ、農民の反乱が頻発した。

3. ハンガリーの分割

16世紀に入ると政治的混乱が深まる中で外国勢力の圧力が強まり、1526年にはスレイマン1世ひきいるオスマン帝国軍にモハーチの戦で大敗した。以後150年以上にわたり、ハンガリーは3分割される。西部と北部はハプスブルク家の支配下に入り、東部のトランシルバニアはオスマン帝国保護下の公国となり、中央部はオスマン帝国の占領下におかれた。東部のトランシルバニア公国は、その後ハプスブルク家とオスマン帝国の支配に対するハンガリー貴族の抵抗運動の拠点となり、宗教改革の際にはハプスブルク家を象徴するカトリックへの反感からプロテスタントが広まった。

三十年戦争(1618~48)がおこると、トランシルバニア公ベトレンと、その後をついだラーコーツィ・ジェルジ1世はハプスブルク家に対する戦いをくりひろげ、神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント3世に信教の自由をみとめさせた。しかし、その後プロテスタントに対する弾圧が強まり、テケリ公が反乱をおこしたが失敗し、ハンガリー王位の継承権がハプスブルク家にわたる。1699年のカルロビツ条約の結果、オスマン帝国の支配からは解放されたものの、今度は全土がハプスブルク家の支配下に入った。

4. ハプスブルク家による支配

1703年にはトランシルバニア公ラーコーツィ・フェレンツ2世の指導のもと、貴族と農民がスペイン継承戦争(1701~13)を機にハプスブルク家からの独立戦争をくわだてた。反乱は失敗におわり、11年に神聖ローマ皇帝カール6世から大赦をうけ、一定の自治をみとめられたものの、ハンガリーは以後100年以上の間ハプスブルク家に従属することになる。

4.A. 民族的復興

1789年のフランス革命の影響はハンガリーにもおよんだ。19世紀に入るとナショナリズムが高まり、1830年代にはセーチェニやデアークら自由主義的な貴族が改革運動をおこした。40年代にはコッシュートら下層貴族が、農民の封建的義務の廃止などを要求して急進的な改革運動をおこなう。文学においても、これに呼応する動きがみられた。

4.B. 1848年革命とアウスグライヒ

ハンガリー人急進派は1847年の議会選挙で大勝すると、バッチャーニを首班とする内閣の樹立を要求した。全ヨーロッパに革命の気運が高まる中、48年3月、オーストリアからの事実上の分離が可決される。ハンガリー議会は翌49年4月に独立を宣言し、対オーストリア独立戦争がはじまった。

これに対し、オーストリアのフランツ・ヨーゼフ1世はロシアのニコライ1世とむすび、1849年8月にハンガリー軍を鎮圧、ハンガリーにオーストリアの中央集権的な支配が復活した。その後、オーストリアは59年の対イタリア戦争にはじまる対外戦争にあいついで敗北し、ハンガリー人に対して融和的な態度をしめすようになる。67年3月、オーストリアとハンガリーはアウスグライヒ(妥協)をむすび、ハプスブルク家の皇帝を共通の君主とするオーストリア・ハンガリー二重帝国を形成した。

5. 第1次世界大戦とハンガリー共和国

第1次世界大戦での敗戦により、オーストリア・ハンガリー二重帝国は1918年に崩壊した。ハンガリーでは10月に民主主義革命がおこってカーロイの連合政権が成立し、共和制が宣言される。しかし、社会不安、政治不安はおさまらず、19年3月には共産主義者クンひきいるソビエト共和国が成立した。ところがこの政権も、性急な農業政策に反発した農民の反革命の動きと、ルーマニア、チェコなど周辺諸国による干渉のために、わずか数カ月でたおれた。

6. 摂政政府

1919年11月、反革命の立場にたつ旧オーストリア・ハンガリー軍将校ホルティの暫定政権が連合国の管理下に樹立された。王国復活が宣言されたものの実際には国王はおらず、ホルティが摂政として24年間にわたり独裁体制を保持した。

1920年、連合国との講和条約であるトリアノン条約によって、トランシルバニア、クロアチア、スロバキアなど、多数のハンガリー人居住地域を周辺諸国に割譲することになった。このため、21~31年のベトレン・イシュトバーン内閣時代には、領土回復をもとめるナショナリズムの嵐(あらし)がふきあれる。右翼急進派のゲンベシュが政権についた32年以降は、全体主義的な傾向が強まった。ナチス・ドイツに接近し、その侵略政策の一端をになうかたちで周辺諸国から領土を奪回。国際連盟から脱退し、39年1月には日独伊防共協定に加盟した。

7. 第2次世界大戦

第2次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)に際してハンガリーは中立を宣言したが、実質的には完全に枢軸国寄りの政策を展開した。1941年6月にはソ連、12月にはアメリカに宣戦布告する。しかし、43年8月の対ソ戦での敗北以後は連合国との講和にかたむいたため、44年3月ナチス・ドイツに占領され、反対派やユダヤ人はきびしい迫害をうけた。同年10月、ソ連軍によるハンガリー解放がはじまると、単独講和の道をさぐっていたホルティは追放された。

1945年1月、ソ連を後ろ盾とする臨時政府が連合国との休戦協定に調印した。大規模な土地改革や総選挙につづいて、翌46年1月には共和国が宣言される。この間、共産党は急激に勢力をのばしたが、単独で政権をとるにはいたらず、小農業者党などとの連立政権が成立した。

8. 社会主義時代

1947年以降、アメリカ、ソ連両陣営の冷戦がはじまり、ソ連の東欧支配が強まると、ハンガリーでも共産党による権力の掌握がすすんだ。他の政党は非合法化され、社会民主党は共産党への統合を強いられ、勤労者党が結成された。49年5月の総選挙では勤労者党が大勝し、8月には人民共和国が宣言され、勤労者党(共産党)の一党独裁にもとづくソ連型の社会主義体制が誕生する。

国内では基幹産業の国有化や農業の集団化がおこなわれ、対外的にはソ連など社会主義国との友好関係が強調された。反体制的とみなされた者は逮捕、投獄、処刑、収容所送りというかたちで粛清されている。

1953年にソ連のスターリンが死去すると、権力を独占していた共産党書記長ラーコシ・マーチャーシュが首相を解任され、穏健派のナジ・イムレが後任にえらばれるなど、内政が一部緩和された。しかしソ連・東欧諸国間の関係にはほとんど変化がみられず、55年にはワルシャワ条約機構に加盟した。

8.A. ハンガリー事件

スターリン死後の変化は一時的なもので、1955年4月にはナジが突如首相を解任され、ラーコシ派が党第1書記と首相の座に復帰した。56年2月のフルシチョフソ連共産党書記長によるスターリン批判は、このような体制に対するハンガリー民衆の不満を爆発させた。学生と労働者は、ポズナニ暴動にはじまるポーランドの民主化運動にも触発されてたちあがり、ナジの復帰をかちとる。

ナジは急進化した民衆に後押しされるかたちで、一党制の廃止、自由選挙の実施、駐留ソ連軍の撤退、ワルシャワ条約機構からの脱退などを宣言するにいたった。しかし、この動乱は結局、2度にわたるソ連の軍事介入で鎮圧され、ナジは反逆罪で処刑された。ハンガリー事件

8.B. カーダール体制

ハンガリー事件後はカーダールの指導のもと、勤労者党(のちに社会主義労働者党と改称)支配の立て直しがはかられた。当初はきびしい引き締めがおこなわれたが、1960年代後半から融和的な政策がとられるようになった。67年の総選挙では、非共産党の候補者が制限付きで立候補をみとめられた。68年からは、計画経済に市場原理をとりいれるという「新経済メカニズム」を導入している。

1970年代には、西ドイツとの国交正常化(1973)をはじめ西側諸国との関係が改善され、貿易や文化交流が拡大した。経済面では、80年から市場原理の導入など、思い切った改革が開始された。インフレの高進などのマイナス効果があらわれたため、政府は経済改革を中断しようとしたが、国民は強く反発し、88年には30年余り指導者の地位にあったカーダールが退陣においこまれる。後任のグロースは補助金カットなどきびしい経済政策の一方で、民間部門の拡大、検閲の緩和、スト権の承認などの自由化を実施したことから、社会主義労働者党以外の勢力が形成されはじめた。

9. 民主化の進行

1989年に政府は、ソ連で処刑されたナジ首相の国葬の実施というかたちでハンガリー事件の見直しをおこない、憲法を改正して複数政党制を導入した。また、国名を「人民共和国」から「共和国」にあらためた。90年におこなわれた戦後初の自由選挙では、社会主義労働者党を改称した社会党が敗北し、民主フォーラムを中心とする中道右派の連立政権が成立する。しかし94年の総選挙では、民主フォーラムの分裂もあり、社会党がふたたび議席の過半数を獲得し、党首ホルンが首相に就任した。社会党は単独政権ではなく第2党の自由民主連合との連立をえらび、政権の安定をはかった。95年6月の大統領選挙では、両党の推薦によりゲンツが再選された。

外交では、1990年に東欧諸国ではじめて欧州会議への加盟をはたし、94年にはNATOとの「平和のためのパートナーシップ」協定に調印し、EU(ヨーロッパ連合)への加盟を正式に申請した。政府は国営企業の大規模な民営化をすすめ、89年から拡大の一途をたどっていた財政赤字の削減にとりくんだ。ハンガリー経済は94年から上向きに転じ、96年3月には東欧ではチェコについで2番目にOECD(経済協力開発機構)への正式加盟をみとめられた。東欧では外国からの最大の投資先となり、2位のポーランド以下を大きくひきはなしている。好調な輸出にもささえられて97年には4%の経済成長を達成した。

10. NATO、EUへの加盟

周辺諸国とは1991~92年に一連の協力協定をむすんだが、スロバキア、ルーマニアとの関係は各国内のハンガリー系少数民族の扱いをめぐって緊張した。ホルン首相はハンガリー人への正当な処遇の保障と引き換えに、領土要求の放棄を表明した。スロバキアとは、ドナウ川のダム建設問題をめぐる対立もかかえている。こうした中で、ハンガリーは95年3月にスロバキアと国境線の画定や少数民族の権利擁護をもりこんだ善隣友好条約に調印し、EU加盟の早期実現をにらんで係争問題の解決への意欲をしめした。またユダヤ人問題に関しては、94年7月、第2次世界大戦中のホロコーストへの関与について公式に謝罪した。

1997年にはNATO、EUへの加盟がともに具体化にむけて前進した。NATO加盟については、同年7月のNATO首脳会議でハンガリー、チェコ、ポーランドの新規加盟が承認され、12月に議定書が調印された。加盟16カ国の批准をへて、99年3月に3国の正式加盟が実現した。EU加盟についても、97年12月のEU首脳会議で先発の交渉対象国(6カ国)にふくめられることがきまり、98年3月より政府間交渉が開始された。

国内の社会問題として、すべての国民の自由と人権が憲法で保障されているにもかかわらず、少数民族への差別や迫害がおきていることがあげられる。1993年にはロム(ジプシー)が正式に少数民族としてみとめられたが、ユダヤ人は依然としてみとめられていない。

1998年5月におこなわれた総選挙で、青年民主連盟が第1党となり、社会党は第2党に転落した。7月、青年民主連盟議長ビクトル・オルバンを首相として、青年民主連盟・独立小地主党・民主フォーラムの中道右派連立政権が発足した。オルバン政権は、EU加盟政策では前政権をひきつぐとともに、スロバキア、ルーマニアなど近隣諸国との関係改善をおしすすめた。

しかし、順調な経済成長を背景にEU加盟が現実味をおびてくると、オルバン政権はむしろ保守化・右傾化に転じた。周辺諸国にすむハンガリー系住民に対する優遇策をもりこんだ法律を制定したり、第2次世界大戦中のチェコスロバキアによるドイツ系住民とハンガリー系住民の国外追放を批判するなど、民族主義的色彩のこい施策を次々とうちだしたため、周辺諸国の強い反発をよびおこした。

2002年4月におこなわれた総選挙では、社会党・自由民主同盟の中道左派勢力が与党の民族主義的政策に対する批判票をあつめて勝利し、4年ぶりに政権に復帰した。首相には、前回の社会党政権の蔵相をつとめた経済専門家のペーテル・メジェシーが就任した。

メジェシー政権は、前政権が周辺諸国にすむハンガリー系住民に対して特別待遇法を制定したことで悪化したスロバキアとルーマニアとの関係修復にうごき、2003年9月にルーマニアと、12月にはスロバキアと、特別待遇法を改善する協定に調印した。これにより、各国は自国内の少数民族に配慮することを確認した。

EU加盟については、2003年4月に、加盟の是非を問う国民投票を実施し、賛成84%で承認された。ただし、投票率は45%で、加盟に疑問をもつ国民がかなりいることをしめした。EUへの正式な加盟は、04年5月になされた。

11. 中道左派がはじめて政権を継続

2004年8月、内閣改造をめぐる与党内の対立でメジェシー首相が辞任、後任にはジュルチャーニ青年・スポーツ相がついた。05年6月、任期満了のマードル大統領の後任に、最大野党である青年民主連盟がおすショーヨム元最高裁長官を議会が選出した。

2006年4月におこなわれた総選挙では、社会党・自由民主同盟の中道左派勢力が過半数の議席を獲得した。ハンガリーでは、1989年の民主化後、4年の総選挙ごとに左派と右派の政権が交代してきたが、はじめて中道左派政権が継続することになった。イギリスのブレア首相を敬愛するジュルチャーニ首相が、ハンガリー流の「第三の道」を提唱、外資導入など積極的な自由主義的政策をとりいれたことが支持拡大につながった。

12. 日本との関係

日本との国交はすでにオーストリア・ハンガリー二重帝国時代の1869年(明治2)、修好通商条約の締結により開始されている。第1次世界大戦後に独立国となってからは、1924年(大正13)に洪日協会が設立され、民間の交流もはじまった。ハンガリーではこの時期、ユーラシア大陸のすべてのウラル・アルタイ語系民族を単一のツラン民族とみなすツラン主義が流行しており、その視点からも日本への関心が高まった。

第2次世界大戦後は、両国の体制の違いもあって、国交の回復は1959年(昭和34)とおくれた。また、貿易協定や文化協定がむすばれたのは60~70年代になってからである。しかし、ハンガリーにはアジア起源の民族としての日本に対する親近感が常にみられる。日本側では、東欧でもっとも経済改革がすすんだ国として関心が高まっており、投資や企業の進出もふえている。日本との貿易量は東欧では最大であり、2000年(平成12)にはEU加盟国のスペインやポルトガルをもうわまわった。

1997年6月には短期の滞在に対するビザ免除の取り決めがかわされた。2000年4月には、ゲンツ大統領がハンガリーからの初の国賓として日本を訪問、02年7月には、天皇皇后両陛下がハンガリーを公式訪問した。文化面の交流も官民両方のレベルで活発におこなわれており、1991年には東欧で唯一の国際交流基金事務所がブダペストに開設された。