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人類学
I. プロローグ

人間を生物学と人文科学、社会科学などの総合的視点から研究する学問。一般には文化人類学と自然人類学に大別される。自然人類学は、人間の生物体としての進化や、形質面での適応について研究し、文化人類学は、人間の社会生活におけるさまざまな営みに着目し、言葉や文化、習慣などについて研究する。

人類学はいろいろな文化をとおして人間を考えるという意味で、通文化的な学問といえる。かつての人類学研究は、ヨーロッパ以外の人々とその文化を研究してきたが、最近の研究は、現代文明そのものにも焦点をあてるようになってきた。人類学者は、人々の具体的な生活や活動の場に深くはいりこむフィールドワークとよばれる現地調査をおこない、そこでえられる直接の見聞を重視する。

II. 人類学の歴史

古代の旅行者や歴史家も、自分たちとはちがう文化に関心をもち、その異質な文化について書物をあらわした。ギリシャの歴史家ヘロドトスは、異文化の地を広く旅してまわり、それぞれの場所での生活様式をくわしく観察している。彼は現代の人類学者と同じように、その地の情報にくわしい人に直接あって話を聞き出し、家族組織や宗教行事などが文化によってことなることに、大きな関心をよせたのである。ローマ時代の歴史家タキトゥスも、後98年ごろ「ゲルマニア」をあらわし、ゲルマン民族の習慣や特徴、地理的な分布などについて記述している。

15世紀にはじまる大航海時代になると、新しい知識がふえ、思考方法にも新しい展開がみられる。新大陸アメリカやアフリカ、南アジア、太平洋の島々で「発見」されたさまざまな民族や文化は、やがて人類史についての考え方を根本から転換させていった。

チュルゴーやコンドルセなど18世紀のフランス啓蒙主義の学者たちは、長い人類の歴史や、文明の起源とその発展過程を理論化しようとこころみた。しかし、このような人類学的哲学は、聖書の天地創造の話とは矛盾するものであり、当時のキリスト教の立場と対立することになる。神学上の教義では、単純な文化しかもたない人々は神の恩寵(おんちょう)からみはなされて「未開」状態に堕落していった人々の生き残りであると考えられていた。

1856年、ドイツでネアンデルタール人の化石人骨がみつかり、90年代にはジャワ原人の骨が発見された。これは人類が長い進化の歴史をもつことをしめす画期的な証拠となった。19世紀には、ほかにも重要な考古学上の発見があった。たとえば、ブーシェ・ド・ペルトがパリ近郊で発見した数多くの古代の石器によって、先史時代の人類が数万年におよぶ時間をかけて文化を発展させてきたこともわかってきた。

人類学がはっきりとした学問分野として登場するのは19世紀中ごろのことである。アメリカで人類学の基礎をきずいたのは、アメリカ先住民のイロコイ同盟(イロコイ諸族)の研究で功績をあげたモルガンである。のちにモルガンは、文化進化についての一般理論をうちたてた。人類社会は「野蛮段階」からはじまり、植物の栽培と動物の飼育に特徴づけられる「未開段階」をへて、文字を発明する「文明段階」へと徐々に発展をとげたという理論である。ヨーロッパで人類学をおこしたのはイギリス人タイラーであり、とくに宗教の起源に着目しながら文化進化の理論をとなえた。

タイラーやモルガンをはじめとする当時の研究者は、人類の諸文化を合理性という観点からとらえている。そして、文化はどこでも同じように複雑な形態へと進化すると考えた。

人類学の応用分野での活動も19世紀にはじまる。1837年には先住民保護協会が設立され、翌38年にはパリ民族学会が発足した。これらの団体は、オーストラリア、アメリカの先住民に対する虐殺や、奴隷貿易などの非人道的な行為に反対し、ヨーロッパ人の良心にうったえる活動を展開した。

III. 自然人類学

自然人類学は、おもに人類の進化についての研究、生物体としての人間の研究、人間以外の霊長類の研究をおこなう学問である。

1. 人類の進化についての研究

自然人類学の代表的な分野のひとつが人類進化の研究である。古人類学者の一家として有名なリーキー家の業績などは、一般にも広く知られている。とりわけ、1960年代に東アフリカのオルドバイ峡谷から発見されたいくつかの化石人骨は、それまでの人類の生物学的進化についての考え方を大きくかえるものだった。74年にエチオピアで発見された猿人化石アウストラロピテクス・アファレンシスは、「ルーシー」というニックネームで知られているが、400万~300万年前の人類の仲間である。

1970年代後半から80年代にかけておこなわれた発掘調査では、現代人の直接の祖先であるホモ・ハビリスやホモ・エレクトゥスが230万~160万年前までは、猿人(アウストラロピテクス属やパラントロプス属)と東アフリカで共存していたという事実を明らかにした。2001年春には、アウストラロピテクス・アファレンシスが生存していた350万年前の地層から、別系統の化石がケニアで発見された。発見したのはルイス・リーキーの義理の娘ミーブ・リーキーである。アファレンシスと外見は大きくちがって、サルのように口の部分は前につきだしておらず、後のホモ・ハビリスにより近いひらたい顔をもち、これまで知られていなかった種だという。ケニアントロプス・プラティオプス(平らな顔をしたケニアの人間の意)と名づけられたが、これでアファレンシスの時代に猿人はすでに2系統存在していたことがわかった。しかし、どちらの猿人が現生人類の直接の祖先だったかはわかっていない。

近年の研究調査によって、続々と人類の祖先の古い化石がみつかっている。最近までは確実なところでは約440万年前と考えられるラミダス猿人(アルディピテクス・ラミダス)が最古とされてきた。ラミダス猿人は、エチオピア・アワシュ川中流のアラミス地域で発見され、1994年に発表された。しかし、2000年12月には、フランス高等教育研究機関コレージュ・ド・フランスなどの発掘チームがケニアの大地溝帯(アフリカ大地溝帯)から、さらに古い約600万年前の初期人類化石を発見したと報告した。また2001年7月には、エチオピア中部のミドルアワシュで、エチオピアの学者がラミダス猿人の亜種の化石をみつけたと発表、これは580万年前のものである。チンパンジーと同じくらいの大きさで、二足歩行の可能性があるという。

フランスのチームの化石は、ケニア北西部バリンゴにある600万年前の地層でみつかった。大腿骨や足、手の一部、歯のついた顎(あご)、完全な犬歯や臼歯、下顎などがある。大きさがチンパンジー程度あり、オルロリン・ツゲネンシス(通称「ミレニアム・アンセスター(先祖)」)と名づけられた。手の特徴から木登りが得意で、足の形態からは二足歩行していたと発掘チームは考えている。彼らが主張するようにこの種が二足歩行をおこなっていたとするならば、ラミダス猿人よりもさらにはやい人類出現の証拠となる。なお、2002年7月には700万年前にさかのぼる可能性のある猿人(サヘラントロプス・チャデンシス)の頭部化石がアフリカ中北部のチャドでみつかったとの報告があり、さらにはやい時期である可能性も出てきた。

遺伝子解析や化石の研究などから、人類は類人猿から約500万年前に分岐したといわれてきたが、これらの発見により分岐は約600万年前であった可能性が高まり、700万年前であった可能性さえある。人類の進化はそれまで考えられていたよりもはるかに複雑な過程をたどっていたようだ。

道具を製作し、使用する能力は、250万年以上前にさかのぼれることが明らかになっている。古い化石人骨にともなって簡素な石器が、東アフリカの各地で発見されたのである。道具についての能力は、その後の人類の進化にとって重要な意味をもっている。そこで、この化石人骨は「器用なヒト」という意味のホモ・ハビリスと命名された。今のところホモ・ハビリスがもっとも古いホモ属ということになる。その歯の形態や、道具を使用していたという事実から判断して、肉を食べる機会が多かったと考えられる。これは、菜食中心であったと推測されるアウストラロピテクスとの大きな違いである。

人類が最初に進化した場所は、アフリカであったことはほぼ間違いない。200万年前よりも古い人類の化石は、いずれもアフリカから発見されているし、その種類や数もかなり多くなってきた。ホモ・ハビリスは体が小さく、成人の脳の大きさは平均して650cc程度である。

しかし、およそ180万年前になると、同じホモ属でもかなり体が大きく、脳の大きさも800ccをこえる別種が出現する。この新しい大型のホモ属の化石人骨も、東アフリカから発見されている。それはホモ・エレクトゥスと総称されるもので、おそらく150万年前までには、アフリカからヨーロッパやアジアの地へと広がったと考えられている。

ホモ・エレクトゥスの化石人骨としてもっともよく知られているのは、かつてはピテカントロプスという学名でよばれていたジャワ原人と、北京郊外の周口店で発見され、シナントロプス・ペキネンシスという学名がつけられていた北京原人である。これらの原人は東アフリカのホモ・ハビリスよりもはるかに新しい時代の人類であり、その年代はジャワ原人が120万~70万年前、北京原人が50万~25万年前と推定されている。

同じホモ・エレクトゥスの仲間でも、北京原人は、ジャワ原人とくらべると、脳がわずかに大きく、平均して1050cc程度ある。ホモ・エレクトゥスの化石人骨はヨーロッパやアフリカの各地でも発見されており、いっしょに出土する数多くの石器類などの考古学的証拠からは、採集狩猟生活をいとなんでいたことがわかる。周口店の発掘調査では、火の使用の痕跡と考えられる灰の層がみとめられている。

有名なネアンデルタール人や、そのあとでユーラシア各地から発見された旧人の化石人骨については、現生人類の直系祖先ではなく、現代人(ホモ・サピエンス)とは別系統のヒトの仲間で、数万年前に絶滅したと考える研究者が多い。いずれにしても、ネアンデルタール人は23万~3万5000年前ごろに、ヨーロッパや中東地域の各地に数多くすんでいた採集狩猟民だった。がっしりとした体つきで、眉(まゆ)の部分がひさしのようにつきだした顔に特徴がある。脳の大きさは最大で1600ccをこえ、現生人類(ホモ・サピエンス・サピエンス)よりむしろ大きい傾向がある。

ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの中間的形態をしめす化石人骨も発見されている。一部の研究者は、これを両者の混血とみなしている。やがて、4万~1万年前の氷河時代末期になると、もはや現生人類とかわりのない特徴をもった人類が、アメリカ大陸やオーストラリア大陸をふくむ世界各地にあらわれてくる。

人類の進化

2. 人間の生物学

自然人類学のもうひとつの大きな分野は、現在の人間の生物学的特徴をめぐる研究である。かつては、人種をどのように区分すればよいか、それぞれの人種の特徴はどのようなものか、というような研究が主流だった。そして、皮膚や目の色、毛髪の特徴、血液型、頭の形など、さまざまな項目についての計測法が進歩するにつれ、人種の分類はますます複雑になっていった。人種

現在では「純粋な人種」や「人種の原型」という考え方は誤解をまねくものとして、強く否定されている。今日地球上にすむ人類はすべてホモ・サピエンスであり、基本的には同一の祖先集団に由来しているのである。

確かに遺伝的特徴をみると地域ごとに違いがみとめられるが、中間的な形態や混合形態がかならずある。遺伝子伝達の仕組みはそれほど単純ではなく、たえず変異をもたらすのである。人間を人種ごとに分類するのは生物学的な根拠ではなく、むしろ社会的あるいは政治的な行為といえる。たとえば「東洋人」「黒人」「ヒスパニック」「白人」などは、遺伝的特質だけできめられるのではなく、文化的特徴も考慮にいれて社会的に規定された集団なのである。

やがて人間生物学者の関心は、遺伝の複雑な仕組みのほうにむいていった。今は、いろいろな条件のもとで、遺伝的適応と生理的・文化的な適応との間の相互関係がしらべられている。たとえば、病気や栄養不良の場合、あるいは高地や熱帯などのきびしい環境のもとでくらす場合などである。医療人類学者は、高血圧や糖尿病などの症例をとりあげ、文化や社会に関連するデータを遺伝の研究にとりいれる試みをおこなっている。

3. 霊長類の研究

生物体としての人間は、猿や類人猿と同じ霊長類に属している。したがって近縁種にあたるヒヒやチンパンジー、ゴリラなどを研究対象にして、その群れの生活や行動、食性などをしらべることは、人類学にとって重要な研究分野になっている。

タンザニアの国立公園内で、数年にわたって野生チンパンジーの観察をつづけていたイギリスの人類学者グドールは、チンパンジーが小枝をつかってアリ釣りをしたり、石や棒をうまくなげるという事実を確認した。実験室内でも、チンパンジーが重い棒をつかって剥製(はくせい)のヒョウを攻撃したという観察例が報告されている。つまりチンパンジーは簡単な道具をつかう能力をもっているのである。チンパンジーが声や身振りで相手に意思をつたえることも確認された。

猿や類人猿の集団生活のあり方やコミュニケーションの方法についての研究は、遠い過去におこった人類の進化を理解するうえで重要な見通しをあたえてくれる。

4. 日本の自然人類学

自然人類学の中心課題は人類の起源と系譜(人類の進化)であろう。日本各地から出土する石の矢じりは古くから注目された。日本の先住民を学問的に論じたのはお雇い外国人である。モースは1877年(明治10)に大森貝塚を発掘し、プレ・アイヌ説をとなえた。ベルツは日本人を長州型と薩摩型の2型にわけ、前者は上流階級、後者は庶民にみられるとした。小シーボルトは文政年間に来日した父の大シーボルトの説をついでアイヌ説をとなえた。

日本人として最初に人類学を手がけたのは坪井正五郎であり、同志らと1884年に学会(後の日本人類学会)を創設した。彼は留学中にまなんだ英国流の人類学の普及につとめ、日本の先住民についてはアイヌの伝説によるコロボックル説をとなえたが、骨学的研究(骨)によりアイヌ説をとなえる小金井良精はこれに反論し、激烈な論争があった。1920年(大正9)ごろには縄文文化と弥生文化の別がみとめられるようになり、鳥居龍蔵は前者はアイヌによるが、現代日本人は朝鮮半島をへて渡来し弥生文化をになった固有日本人から派生したと考えた。以上はいずれも交代説とよばれる。

清野謙次は石器時代から奈良朝(奈良時代)まではたえず混血はあったとし、石器時代から金属器時代への移行期には生活変動により体質にめざましい変化があったと考えた。長谷部言人は文化の進歩により咀嚼(そしゃく)器や四肢の使用法がかわり、頭骨や四肢骨に変化はあったが、石器時代から現代まで日本人は遺伝的に連続すると説いた(遺伝)。これらは移行説とよばれる。

太平洋戦争後になると、研究者の数がしだいにふえ、研究調査は活発になる。鈴木尚は膨大な人骨資料を収集、関東を中心とする人骨の形態の変遷の検討から縄文から弥生移行期と明治維新期に変動が大きいことを明らかにして、移行説を補強した。他方、金関丈夫は北九州、山口の弥生人骨をもとに朝鮮半島からの渡来を主張した。これは渡来説とよばれる。多数の解剖学者(解剖学)からなる生体測定班(年代測定法)の成果をもとに小浜基次は現代日本人を畿内型と東北・裏日本型にわけ、それぞれ朝鮮半島とアイヌに関連づけた。

今日の研究者は重点の置き方に若干の違いがあるが、移行説と渡来説を折衷する案を支持している。最近はたんに形態学だけでなく、人類遺伝学、考古学、年代学など幅広い領域との連係がすすむ一方、日本周辺の地域での調査が徐々に可能になり、その解明がすすめられている。重要なこととして、アイヌを欧米の一部の研究者はコーカソイド起源としたのに対し、今日の日本の人類学者はモンゴロイドの一員と考えている。山口敏はアイヌと縄文人との強い類似性を人骨の形態から指摘している。

自然人類学の教育機関としては1939年(昭和14)に東京大学理学部に人類学科、62年に京都大学理学部動物学教室に自然人類学研究室、68年に同大学に霊長類研究所がもうけられたが、各医科・歯科大学解剖学教室などからも自然人類学志望の研究者が多数でている。68年には東京と京都で第8回国際人類学民族学会議が開催された。その前後から自然人類学の研究は国内外で急速に広がり、骨の研究も運動との関連で検討され、とくに咀嚼、歩行(直立二足歩行)の研究はすすんでいる。

人類進化との関連で霊長類の形態、生理機構・生化学的研究がなされ、今西錦司らによるニホンザルやチンパンジーなどの生態・行動の研究は世界をリードしている。鈴木尚は1961年にイスラエルのアムッドでネアンデルタール人を発見したが、今日でも国内の研究者によってアフリカやジャワで人類化石の探査が進行し、かなりの成果がえられている。そのほか須田昭義らの日米混血児の成長の縦断的研究など、ヒトの変異や適応にかかわる研究が重ねられている。

IV. 文化人類学

文化人類学は、さまざまな場所でおこなわれる現地調査(フィールドワーク)が基本になっている。20世紀前半の人類学の調査目的は、うしなわれつつある人間の生活様式を記録にのこすことにあった。ヨーロッパ以外の文化が、しだいに近代化あるいはヨーロッパ化し、独自性をなくしつつあったからである。文化によってさまざまな違いをしめす社会組織、宗教、衣服、道具、食料獲得の方法や言語について記録する仕事は、民族誌研究とよばれてきた。一方、民族誌の内容を比較分析し、世界中の諸民族、諸文化に共通する原理を発見したり、文化についての一般理論をもとめるのが民族学である。

20世紀後半になると、民族学はその一分野である文化人類学に代表されるようになり、イギリスやフランスで独自に発達してきた社会人類学ともしだいに融合していく。一時期、人類学は社会体系についての研究に焦点をあてるべきだとする社会人類学の主張と、文化の比較分析を重視するという、アメリカで主流だった考え方をめぐって、かなり論争があった。しかし実際の人類学調査の場面では、この2つの立場はそれほど矛盾しない。社会体系だけを切りはなして調査することはできないし、具体的な生活や行動の様式について研究するときも、常に社会体系が考慮される。最近アメリカでは、この両者をあわせて社会・文化人類学とよぶこともある。

日本では、まだ民族学という言葉がのこっている。たとえば学会組織の名称は日本民族学会であり、もっとも大きな文化人類学の研究組織も国立民族学博物館という名称になっている。しかし、大学などをはじめとして一般には文化人類学という言葉が定着してきた。

1. 親族と社会組織

19世紀の人類学者たちが発見したもっとも重要な事実は、前近代のあらゆる社会では、さまざまな社会的関係の中心にかならず親族関係がみいだせるということだろう。クラン(氏族)やリネージなどの親族組織が基本的集団になっている社会はかなり多い。親族組織の長を父方が継承する場合、この仕組みを父系とよぶ。商業活動が活発となり大規模な都市が発展するまでは、ヨーロッパの多くの社会は、政治面でも経済面においても父系親族集団が中心になって組織されていた。

母方を通じて親族集団の長がうけつがれる母系原理の社会はあまり多くない。これを最初に記録したのは古代ギリシャのヘロドトスで、事例を小アジアのリキアでみいだしている。アメリカ先住民のイロコイ、チェロキー、クリーク、ナバホ、また、アリゾナとニューメキシコ両州のプエブロなどは母系の親族体系をもつ社会として知られている。

親族関係を母方と父方の双方からもとめるのが双系親族組織である。これはアフリカ南部のカラハリ砂漠にすむクンや、イヌイットとエスキモーなど、もっとも簡単な社会組織からなる採集狩猟民社会にみられる。一方では、現代のアメリカ合衆国などのように複雑な文明社会も、双系の親族体系をもっている。ただし現代文明では、親族以外の関係によってむすばれている組織が数多くあり、双系親族組織はあまり重要な社会的役割をはたしてはいない。

リネージやクランなどの親族集団では、ひとりの共通の祖先がいて、成員はすべてその子孫と考えられている。複数の親族集団が共通の祖先によってむすびついている場合もある。このため、親族関係が基本になっている社会では、儀礼や戦闘などの際には、かなり多くの人々が結集する。このときに自分たちと、近隣の人々や敵との区別がはっきり意識される。

かつて親族研究は文化人類学の中心的な課題だった。フランスの人類学者レビ・ストロースは親族の基本構造についての理論をうちたて、日本の文化人類学にも大きな影響をあたえた。

2. 結社

産業化されていない小規模社会でも、親族組織とは関係のない、結社とよばれる重要な社会集団が形成されることがある。結社とは、個人が自発的に参加する組織である。アメリカ大平原の先住民族の軍事結社はその一例である。メンバーはともにたたかい祝宴をもよおし、共同でおこなうバッファロー狩りのときには違反行為をとりしまる監視役もつとめた。アリゾナ州やニューメキシコ州にすむズニ、ホピなどの先住民は、今でも複雑な儀式の準備にあたる宗教結社をもっている。西アフリカには秘密結社をもつ社会がいくつかあり、社会を統制する役割をになうだけではなく、娯楽の場も提供している。

新しい土地への移住者は、しばしば自分たちで独自の組織を結成する。アメリカ合衆国内にある「ノルウェーの息子たち」「イタリア系アメリカ人クラブ」などの組織も、典型的な結社で、アフリカやアジアの都市に移住してくる人々が組織する結社とほぼ同じ性格をもっている。

3. 政治・社会体系の進化

もっとも簡単な仕組みの社会といえば、イヌイットおよびエスキモー、カラハリ砂漠のサン、中央アフリカのピグミー、オーストラリアの先住民アボリジニなどの採集狩猟民社会があげられる。これらの社会では数家族がいっしょになってバンドという集団を構成し、たがいに親族関係にある30人から100人ぐらいの人々が、一定のテリトリー内を移動しながらくらしている。

採集狩猟民のバンド集団は、ごくかぎられた地域をのぞいて、今はほとんどみられない。しかし、かつてはあらゆる社会がこのような組織をもち、おそらく人類の歴史の99%は採集狩猟の歴史だったと考えられる。したがって、現代の採集狩猟民はきわめて貴重な存在である。親族どうしの関係や宗教的観念、あるいは健康維持の方法など、そこにみられるさまざまな文化的特性は、まさに現代人の文化のルーツといえる。

やがて人類は、食料資源にめぐまれた場所で定住生活をはじめた。そして植物の栽培と動物の家畜化という重要な転換が生じる。家畜は食料だけではなく、輸送手段にもなるし衣服の原材料としても有用だった。農耕や牧畜は、やがて複雑な社会や経済のシステムを生みだしていくことになる。

食料生産の開始と新石器時代への移行は、中東地域と東アジアで1万2000年前に、それぞれ独立しておこったと考えられる。定住村落に人口が集中するようになると、政治組織や社会組織が発達する。そして宗教儀式への参加や食料品の交換を目的にして、数多くの地域集団がたがいに関係をもつようになり、数千人におよぶ大きな社会も出現した。

小規模な社会には「中央政府」のようなものは存在しないが、多少とも人口が増加すると、政治権力が生まれてくる。食料生産が増大すれば、そのような権力者を経済的にささえることもできる。首長制は、やや小規模な社会にみられる政治権力のひとつのあり方である。首長制社会では、首長のもとに食料や貢ぎ物があつめられるが、首長がすべて消費するのではなく、共同体のメンバーに再分配される点に特徴がある。

4. 国家の出現

国家の起源については、これまでに多くの議論がなされてきた。たとえば、中東地域をモデルにした理論では、人口が増加して食料の増産が必要になり、そのため灌漑(かんがい)農業が発達したと考える。そして、その資源をまもるために軍事組織が必要になり、やがて最初の都市国家が生まれたと説明する。別の理論によれば、サハラ砂漠の塩交易におけるトンブクトゥのように、交易の要衝の地に最初の国家が出現したという。そのような場所では軍事組織が必要であり、また立地条件からいっても行政の中心として好都合だからである。

国家は、世界各地で、それぞれの歴史的な経緯や生態学的条件などのさまざまな要因によって成立したと考えるのがただしいようだ。ところが、ひとたび王国が成立すると、どこでも同じような発展をとげる点が重要である。王国は成立した当初とまったく同じ状態にとどまることはない。かならず、王国への敵対者とならないように周辺の人々を征服し、近隣地方に領域を広げて、経済的収奪をはかる。

「人類最初の文明の地」である中東、エジプト、北部インド、東南アジア、中国、メキシコ、ペルーの例をみると、王国にはかならず軍事要塞(ようさい)がある。また、神殿を建立したり、複雑な宗教儀礼をおこない、神官組織も発達する。国家が出現すると、必然的に少数の軍事・宗教エリートが生まれ、多くの農民や労働者を支配する図式ができあがる。社会が階層化するのである。

5. 宗教体系の進化

採集狩猟民のバンド社会における信仰体系は、かならずしも社会組織のように単純とはいえない。超自然的世界や自然の力に対する畏(おそ)れが基本にあり、これに精霊や神観念などが複雑にからみあっている。しかしカラハリ砂漠のクンの場合には、超自然の観念はあまりはっきりせず、物事の因果関係や死後についての観念もあいまいである。確かに、小規模な社会の中には宗教観念にとぼしい社会もある。ボリビア東部のシリオノ社会でも、人の死後についてはっきりした考えをもっていないという報告がなされている。

どちらかといえば平等な社会である採集狩猟民社会では、余剰食料がないため、専門の宗教職能者はいないが、シャーマンは存在している。小規模社会では、シャーマンが唯一の宗教的な役割の担い手になっている場合が多い。シャーマンとは、超自然的存在や自然の力と直接交信することによって、病気などのさまざまな問題を解決する力をさずかると信じられている人物である。ただし、シャーマンは小規模な社会だけではなく、現代アメリカのような規模の大きい社会でもみられる。

同じように小規模な社会であっても、農耕をおこなう村落共同体などでは、宗教体系もととのい、人々はいろいろな儀礼に参加するようになる。しかし儀礼の責任は、聖職者のような特別の人物がおうのではなく、全員が交代でひきうけている。一般に宗教的な儀式は、親族が中心になっておこなう場合が多い。

社会が階層化され、集権的な制度が確立すると、神官などの聖職者を中心とする宗教体系が発達し、社会全体にかかわる大規模な儀礼がおこなわれるようになる。また道徳的規範や政治的規範もできあがっていく。しかし、このように宗教体系が複雑化しても、病気の治療などにかかわる個人的なシャーマニズムは消滅することはないし、家族や親族がまとまっておこなう宗教儀式がきえてしまうこともない。

最初の都市国家では、宗教的なリーダーと政治経済面のリーダーはしばしば密接な関係をもっていた。これが宗教の保守的な側面を強めた。一方で、社会改革の動きの中で宗教はしばしば重要な役割をはたしてきた。社会が困難に直面し、社会不安が生じると、かならず新しい宗教体系があらわれてきた。これは簡単なシステムの社会であれ、複雑な文明社会であれ、同じようにおこる現象である。宗教は、一時的には現状維持の方向にはたらくこともあるが、社会の根本的な変化をもたらす力ももっている。

6. 文化の発展

19世紀に提唱された文化の単純な進化理論は、その後いろいろな批判をうけた。20世紀前半の代表的な人類学者であるボアズやクローバーは、このような進化理論に強く反対した。文化や社会が発展する過程は世界各地でそれぞれことなっているから、普遍的な進化段階を想定したり、一般的な傾向について論じるのは誤りであるというのである。このような極端な主張は、今はあまりみられない。むしろ、考古学や民族学研究が明らかにしてきた新しい事実によって、旧来の進化理論を修正し、新しい理論展開をもとめるようになっている。

文化の進化については2つの考え方がある。19世紀の進化主義者は、すべての人類は基本的に共通の心理傾向をもつという前提にたっていた。したがって、あらゆる文化は同じような過程をたどって発展すると考えた。この考え方からいえば、国家が出現すると、どこでも支配階層が形成され、社会が階層化するという問題も、人間に共通した心理的な特性として説明されることになる。

もうひとつの考え方は、人間の生活にかかわる物質的な基盤を重視する立場である。たとえばエネルギー源や技術の水準、生産のシステムなどである。今はこちらの考え方を支持する人類学者が多い。そして物質的な基盤とともに、環境がおよぼす影響も大きな要因として考慮されるようになった。確かに複合的な文化システムは、地形や気候条件にめぐまれた場所で発展しているからである。

物質的基盤が文化の進化や社会発展を決定づける重要な要因であるという点には反論の余地はない。しかし、観念の領域に属する事柄の影響力や、それをうけとる心理的側面も、けっして無視することはできない。その具体的な例としてはイスラム文化の拡張があげられるし、共産主義と反共主義のイデオロギー対立が社会や文化にもたらした影響も大きかった。

1970年代になると、人類学には新しい理論的アプローチがみられるようになった。それは生態学理論とよばれ、さまざまな事象を個別にではなく、全体としてとらえようとするものである。つまり物質的側面と心理的側面とをすべてふくみ、その間に位置するさまざまな事柄をとりあげて考察しようというのである。そのためには、さまざまな要因をみちびきだし、相互の関連をとらえる多変数分析が必要になる。

一般的にいえば、文化の進化を100年あるいは1000年単位の長い時間の枠組みで考える場合には、どうしても物質的基盤を重視しなければならない。しかし、比較的短い時間の中でみるならば、生態学的な枠組みの中で象徴や観念がはたす役割を考えるのも有効な方法である。これは、たとえば少数民族のアイデンティティの形成や宗教的活性化運動の研究の場合にあてはまる。

V. 人類学の方法

人類学者は、それぞれの研究テーマによって、多岐にわたる方法を採用している。

1. 考古学的研究の方法

考古学資料をあつかう人類学者にとっては、編年を決定する作業がなによりも重要である。過去の人間の活動は、発掘によってえられる遺物から知ることができる。それを時間の順序にしたがってきちんとならべるのが編年である。5万年前より新しい考古学資料の年代決定の方法としては、炭素の放射性同位体による測定法がもっとも広くもちいられている。

この方法の理論的な基礎は、動植物の体内にはきまった量の炭素の放射性同位体(炭素14)がふくまれているという点にある。動植物が死ぬと、炭素14は一定の速度で放射性崩壊して安定な炭素の同位体(炭素12)になる。そこで木片や綿繊維、炭化物などにふくまれている放射性炭素の量を測定すれば、かなり正確な年代を決定することができる。ただし、この方法では7万~6万年以前の資料は測定することができない。

数百万年前にもさかのぼる東アフリカの化石人類の年代を測定する場合には、別の放射性物質が利用される。たとえば放射性同位体のカリウム40がきわめてゆっくりした速度で崩壊して安定同位体のアルゴン40になるという事実を応用した測定法があり、カリウム・アルゴン法とよばれている。

年代測定法

2. 文化人類学の研究方法

文化人類学の調査では、ひとつのコミュニティや社会システムの中で、徹底した観察をおこなうというのが基本である。人類学者は、まずコミュニティの生活に入りこみ日常的な接触と観察をおこなう中で、そこの人々との友好関係を確立しなければならない。このフィールドワークの第1段階だけでも数週間から数カ月を必要とする。現地語を習得しなければならないとしたら、その期間はさらに長くなる。かつての民族誌学者は、まず、その土地の文化や社会システムにくわしい有力な情報提供者をさがしだして概括的なデータを収集し、それに調査者自身の直接の観察結果をてらしあわせて、データを完成させた。

しかし複雑に変化しつつある社会での調査には、別の手法も要求される。現代社会における食生活や健康維持の方法、余暇の過ごし方などをしらべるときには、サンプリング(抽出法)などによる体系的な面談調査がとりいれられている。経済活動を分析する場合には、市場での取り引き、労働時間、農業収穫量や漁獲量などの詳細なデータが必要になる。パーソナリティの研究では、さまざまな心理テストが採用されてきた。教会などが保管している古文書や、その土地固有の言語で書かれた記録、政府機関の文書など、さまざまな文書資料も分析の対象になる。

調査データが多様化し、複雑になるにつれて、数千あるいは数万にもおよぶ個別の情報をいかに管理するかが問題となる。複雑な文化変化の動向や、経済活動と社会的相互行動との関係を把握したり、多民族間の相互関係を分析するときなどは、統計的手法による検証も必要になっている。

しかし、このような新しい技術的・数量的調査法が、フィールドワークという基本的な調査法にとってかわるわけではない。情報提供者からのきめ細かな聞き取りをおこなうのは、儀式や象徴体系などの文化現象について緻密な分析と同様に、人類学の方法の中で依然としてもっとも重要な部分なのである。

VI. 近年の文化人類学研究の動向

1960年代は構造主義が全盛であり、文化人類学は理論面で大きな飛躍をとげた。このころから日本でも海外でのフィールドワーク研究がおこなわれるようになり、研究者の数も多くなってきた。70年代以降は、社会構造の分析(構造分析)にかわって、儀礼の研究が盛んになり、とくに象徴研究や文化理論研究がすすんだ。しかし、これらの研究の発展は、いわば古典的、あるいは伝統的な文化人類学の枠組みでの発展というべきだろう。近年の文化人類学は急速に変化しつつある。

1980年代以降、文化人類学はしだいに応用的な学問になってくる。研究者は保健衛生や教育、環境保護、都市開発などの現実の社会問題に関心をむけはじめた。とくにアメリカでは、多くの人類学者が行政機構や調査機関、保健所や病院などに勤務し、学校の現場、都市における衛生システム、大規模な農業開発計画、多元化した農村社会などさまざまな分野でフィールドワークを実施している。この傾向は日本の文化人類学者の間でもみられるようになった。

多くの文化が共存する複雑な社会に研究の主眼がむけられ、数量的な調査方法がとりいれられると、どうしても共同研究が必要になる。かつて文化人類学の調査といえば、単身で調査地におもむき、外部の社会とは隔絶された村で数カ月にわたって暮らすというのがふつうだった。しかし、今ではフィールドワークに統計分析の専門家や生物学者、社会学者などもくわわり、調査を補助する学生もふくめた共同プロジェクトとしておこなわれることも多い。

もうひとつの重要な動向は、コミュニティの人々との緊密な連携である。民族集団が独自に結成する組織、移住労働者の団体、女性団体、あるいは地元の診療所を中心とした組織などは、自分たちの運動のために、最新の統計資料や細かな情報を必要としている。人類学者はしばしば、これらの組織のメンバーと連携して調査をすすめることになる。たとえば、ある言語学者は民族団体と協力して、学校教育のための多言語教材の開発をすすめている。

人類学者は、もともと調査対象と緊密な関係をたもつことを心がけてきたが、調査する側と調査される側の区分ははっきりしていた。それが1980年代から、パートナーとしての関係にかわりつつある。調査対象となる人々の側にも、研究成果が利用されたり、還元されるようになってきたのである。