人類学
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人類学
III. 自然人類学

自然人類学は、おもに人類の進化についての研究、生物体としての人間の研究、人間以外の霊長類の研究をおこなう学問である。

1. 人類の進化についての研究

自然人類学の代表的な分野のひとつが人類進化の研究である。古人類学者の一家として有名なリーキー家の業績などは、一般にも広く知られている。とりわけ、1960年代に東アフリカのオルドバイ峡谷から発見されたいくつかの化石人骨は、それまでの人類の生物学的進化についての考え方を大きくかえるものだった。74年にエチオピアで発見された猿人化石アウストラロピテクス・アファレンシスは、「ルーシー」というニックネームで知られているが、400万~300万年前の人類の仲間である。

1970年代後半から80年代にかけておこなわれた発掘調査では、現代人の直接の祖先であるホモ・ハビリスやホモ・エレクトゥスが230万~160万年前までは、猿人(アウストラロピテクス属やパラントロプス属)と東アフリカで共存していたという事実を明らかにした。2001年春には、アウストラロピテクス・アファレンシスが生存していた350万年前の地層から、別系統の化石がケニアで発見された。発見したのはルイス・リーキーの義理の娘ミーブ・リーキーである。アファレンシスと外見は大きくちがって、サルのように口の部分は前につきだしておらず、後のホモ・ハビリスにより近いひらたい顔をもち、これまで知られていなかった種だという。ケニアントロプス・プラティオプス(平らな顔をしたケニアの人間の意)と名づけられたが、これでアファレンシスの時代に猿人はすでに2系統存在していたことがわかった。しかし、どちらの猿人が現生人類の直接の祖先だったかはわかっていない。

近年の研究調査によって、続々と人類の祖先の古い化石がみつかっている。最近までは確実なところでは約440万年前と考えられるラミダス猿人(アルディピテクス・ラミダス)が最古とされてきた。ラミダス猿人は、エチオピア・アワシュ川中流のアラミス地域で発見され、1994年に発表された。しかし、2000年12月には、フランス高等教育研究機関コレージュ・ド・フランスなどの発掘チームがケニアの大地溝帯(アフリカ大地溝帯)から、さらに古い約600万年前の初期人類化石を発見したと報告した。また2001年7月には、エチオピア中部のミドルアワシュで、エチオピアの学者がラミダス猿人の亜種の化石をみつけたと発表、これは580万年前のものである。チンパンジーと同じくらいの大きさで、二足歩行の可能性があるという。

フランスのチームの化石は、ケニア北西部バリンゴにある600万年前の地層でみつかった。大腿骨や足、手の一部、歯のついた顎(あご)、完全な犬歯や臼歯、下顎などがある。大きさがチンパンジー程度あり、オルロリン・ツゲネンシス(通称「ミレニアム・アンセスター(先祖)」)と名づけられた。手の特徴から木登りが得意で、足の形態からは二足歩行していたと発掘チームは考えている。彼らが主張するようにこの種が二足歩行をおこなっていたとするならば、ラミダス猿人よりもさらにはやい人類出現の証拠となる。なお、2002年7月には700万年前にさかのぼる可能性のある猿人(サヘラントロプス・チャデンシス)の頭部化石がアフリカ中北部のチャドでみつかったとの報告があり、さらにはやい時期である可能性も出てきた。

遺伝子解析や化石の研究などから、人類は類人猿から約500万年前に分岐したといわれてきたが、これらの発見により分岐は約600万年前であった可能性が高まり、700万年前であった可能性さえある。人類の進化はそれまで考えられていたよりもはるかに複雑な過程をたどっていたようだ。

道具を製作し、使用する能力は、250万年以上前にさかのぼれることが明らかになっている。古い化石人骨にともなって簡素な石器が、東アフリカの各地で発見されたのである。道具についての能力は、その後の人類の進化にとって重要な意味をもっている。そこで、この化石人骨は「器用なヒト」という意味のホモ・ハビリスと命名された。今のところホモ・ハビリスがもっとも古いホモ属ということになる。その歯の形態や、道具を使用していたという事実から判断して、肉を食べる機会が多かったと考えられる。これは、菜食中心であったと推測されるアウストラロピテクスとの大きな違いである。

人類が最初に進化した場所は、アフリカであったことはほぼ間違いない。200万年前よりも古い人類の化石は、いずれもアフリカから発見されているし、その種類や数もかなり多くなってきた。ホモ・ハビリスは体が小さく、成人の脳の大きさは平均して650cc程度である。

しかし、およそ180万年前になると、同じホモ属でもかなり体が大きく、脳の大きさも800ccをこえる別種が出現する。この新しい大型のホモ属の化石人骨も、東アフリカから発見されている。それはホモ・エレクトゥスと総称されるもので、おそらく150万年前までには、アフリカからヨーロッパやアジアの地へと広がったと考えられている。

ホモ・エレクトゥスの化石人骨としてもっともよく知られているのは、かつてはピテカントロプスという学名でよばれていたジャワ原人と、北京郊外の周口店で発見され、シナントロプス・ペキネンシスという学名がつけられていた北京原人である。これらの原人は東アフリカのホモ・ハビリスよりもはるかに新しい時代の人類であり、その年代はジャワ原人が120万~70万年前、北京原人が50万~25万年前と推定されている。

同じホモ・エレクトゥスの仲間でも、北京原人は、ジャワ原人とくらべると、脳がわずかに大きく、平均して1050cc程度ある。ホモ・エレクトゥスの化石人骨はヨーロッパやアフリカの各地でも発見されており、いっしょに出土する数多くの石器類などの考古学的証拠からは、採集狩猟生活をいとなんでいたことがわかる。周口店の発掘調査では、火の使用の痕跡と考えられる灰の層がみとめられている。

有名なネアンデルタール人や、そのあとでユーラシア各地から発見された旧人の化石人骨については、現生人類の直系祖先ではなく、現代人(ホモ・サピエンス)とは別系統のヒトの仲間で、数万年前に絶滅したと考える研究者が多い。いずれにしても、ネアンデルタール人は23万~3万5000年前ごろに、ヨーロッパや中東地域の各地に数多くすんでいた採集狩猟民だった。がっしりとした体つきで、眉(まゆ)の部分がひさしのようにつきだした顔に特徴がある。脳の大きさは最大で1600ccをこえ、現生人類(ホモ・サピエンス・サピエンス)よりむしろ大きい傾向がある。

ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの中間的形態をしめす化石人骨も発見されている。一部の研究者は、これを両者の混血とみなしている。やがて、4万~1万年前の氷河時代末期になると、もはや現生人類とかわりのない特徴をもった人類が、アメリカ大陸やオーストラリア大陸をふくむ世界各地にあらわれてくる。

人類の進化

2. 人間の生物学

自然人類学のもうひとつの大きな分野は、現在の人間の生物学的特徴をめぐる研究である。かつては、人種をどのように区分すればよいか、それぞれの人種の特徴はどのようなものか、というような研究が主流だった。そして、皮膚や目の色、毛髪の特徴、血液型、頭の形など、さまざまな項目についての計測法が進歩するにつれ、人種の分類はますます複雑になっていった。人種

現在では「純粋な人種」や「人種の原型」という考え方は誤解をまねくものとして、強く否定されている。今日地球上にすむ人類はすべてホモ・サピエンスであり、基本的には同一の祖先集団に由来しているのである。

確かに遺伝的特徴をみると地域ごとに違いがみとめられるが、中間的な形態や混合形態がかならずある。遺伝子伝達の仕組みはそれほど単純ではなく、たえず変異をもたらすのである。人間を人種ごとに分類するのは生物学的な根拠ではなく、むしろ社会的あるいは政治的な行為といえる。たとえば「東洋人」「黒人」「ヒスパニック」「白人」などは、遺伝的特質だけできめられるのではなく、文化的特徴も考慮にいれて社会的に規定された集団なのである。

やがて人間生物学者の関心は、遺伝の複雑な仕組みのほうにむいていった。今は、いろいろな条件のもとで、遺伝的適応と生理的・文化的な適応との間の相互関係がしらべられている。たとえば、病気や栄養不良の場合、あるいは高地や熱帯などのきびしい環境のもとでくらす場合などである。医療人類学者は、高血圧や糖尿病などの症例をとりあげ、文化や社会に関連するデータを遺伝の研究にとりいれる試みをおこなっている。

3. 霊長類の研究

生物体としての人間は、猿や類人猿と同じ霊長類に属している。したがって近縁種にあたるヒヒやチンパンジー、ゴリラなどを研究対象にして、その群れの生活や行動、食性などをしらべることは、人類学にとって重要な研究分野になっている。

タンザニアの国立公園内で、数年にわたって野生チンパンジーの観察をつづけていたイギリスの人類学者グドールは、チンパンジーが小枝をつかってアリ釣りをしたり、石や棒をうまくなげるという事実を確認した。実験室内でも、チンパンジーが重い棒をつかって剥製(はくせい)のヒョウを攻撃したという観察例が報告されている。つまりチンパンジーは簡単な道具をつかう能力をもっているのである。チンパンジーが声や身振りで相手に意思をつたえることも確認された。

猿や類人猿の集団生活のあり方やコミュニケーションの方法についての研究は、遠い過去におこった人類の進化を理解するうえで重要な見通しをあたえてくれる。

4. 日本の自然人類学

自然人類学の中心課題は人類の起源と系譜(人類の進化)であろう。日本各地から出土する石の矢じりは古くから注目された。日本の先住民を学問的に論じたのはお雇い外国人である。モースは1877年(明治10)に大森貝塚を発掘し、プレ・アイヌ説をとなえた。ベルツは日本人を長州型と薩摩型の2型にわけ、前者は上流階級、後者は庶民にみられるとした。小シーボルトは文政年間に来日した父の大シーボルトの説をついでアイヌ説をとなえた。

日本人として最初に人類学を手がけたのは坪井正五郎であり、同志らと1884年に学会(後の日本人類学会)を創設した。彼は留学中にまなんだ英国流の人類学の普及につとめ、日本の先住民についてはアイヌの伝説によるコロボックル説をとなえたが、骨学的研究(骨)によりアイヌ説をとなえる小金井良精はこれに反論し、激烈な論争があった。1920年(大正9)ごろには縄文文化と弥生文化の別がみとめられるようになり、鳥居龍蔵は前者はアイヌによるが、現代日本人は朝鮮半島をへて渡来し弥生文化をになった固有日本人から派生したと考えた。以上はいずれも交代説とよばれる。

清野謙次は石器時代から奈良朝(奈良時代)まではたえず混血はあったとし、石器時代から金属器時代への移行期には生活変動により体質にめざましい変化があったと考えた。長谷部言人は文化の進歩により咀嚼(そしゃく)器や四肢の使用法がかわり、頭骨や四肢骨に変化はあったが、石器時代から現代まで日本人は遺伝的に連続すると説いた(遺伝)。これらは移行説とよばれる。

太平洋戦争後になると、研究者の数がしだいにふえ、研究調査は活発になる。鈴木尚は膨大な人骨資料を収集、関東を中心とする人骨の形態の変遷の検討から縄文から弥生移行期と明治維新期に変動が大きいことを明らかにして、移行説を補強した。他方、金関丈夫は北九州、山口の弥生人骨をもとに朝鮮半島からの渡来を主張した。これは渡来説とよばれる。多数の解剖学者(解剖学)からなる生体測定班(年代測定法)の成果をもとに小浜基次は現代日本人を畿内型と東北・裏日本型にわけ、それぞれ朝鮮半島とアイヌに関連づけた。

今日の研究者は重点の置き方に若干の違いがあるが、移行説と渡来説を折衷する案を支持している。最近はたんに形態学だけでなく、人類遺伝学、考古学、年代学など幅広い領域との連係がすすむ一方、日本周辺の地域での調査が徐々に可能になり、その解明がすすめられている。重要なこととして、アイヌを欧米の一部の研究者はコーカソイド起源としたのに対し、今日の日本の人類学者はモンゴロイドの一員と考えている。山口敏はアイヌと縄文人との強い類似性を人骨の形態から指摘している。

自然人類学の教育機関としては1939年(昭和14)に東京大学理学部に人類学科、62年に京都大学理学部動物学教室に自然人類学研究室、68年に同大学に霊長類研究所がもうけられたが、各医科・歯科大学解剖学教室などからも自然人類学志望の研究者が多数でている。68年には東京と京都で第8回国際人類学民族学会議が開催された。その前後から自然人類学の研究は国内外で急速に広がり、骨の研究も運動との関連で検討され、とくに咀嚼、歩行(直立二足歩行)の研究はすすんでいる。

人類進化との関連で霊長類の形態、生理機構・生化学的研究がなされ、今西錦司らによるニホンザルやチンパンジーなどの生態・行動の研究は世界をリードしている。鈴木尚は1961年にイスラエルのアムッドでネアンデルタール人を発見したが、今日でも国内の研究者によってアフリカやジャワで人類化石の探査が進行し、かなりの成果がえられている。そのほか須田昭義らの日米混血児の成長の縦断的研究など、ヒトの変異や適応にかかわる研究が重ねられている。