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ワーテルローの戦
I. プロローグ

一連のナポレオン戦争の最後の戦闘。1815年6月18日に、現在のベルギーの首都ブリュッセルの南東にあるワーテルローでたたかわれた。この戦いでナポレオンのひきいるフランス軍は敗北し、フランスによるヨーロッパ大陸支配がおわるとともに、ヨーロッパにおける新しい政治的・軍事的な勢力関係が確定した。

II. 戦いの背景

1804~13年にヨーロッパを支配したナポレオンは、14年、プロイセン、ロシア、イギリス、オーストリアなどのヨーロッパ列強からなる連合軍に敗北した。ナポレオンはフランス皇帝を退位し、連合軍は、イタリア半島とコルシカ島の中間にあるエルバ島をナポレオンにあたえ、この島の領主としての地位をみとめた。ナポレオンは、約1年にわたってこの島に滞在した。

ナポレオン退位後のフランスでは、ルイ16世の次弟プロバンス伯がルイ18世として即位し、ふたたびブルボン家をいただく王国にもどった。しかし、四半世紀におよぶ亡命生活から復帰したルイ18世は、変貌したフランス社会の現実が把握できず、革命前の栄華を夢みる貴族たちにとりかこまれて、適切な政治指導をおこなえなかった。いっぽう、戦争の終結にともなう需要の減退で、不況は深刻化し、また多数の復員将兵が失業状態におちいっていた。また、フランス帝国崩壊後のヨーロッパの国際関係の再構築のために、ウィーンでは連合国の会議(ウィーン会議)がひらかれていたが、各国の利害調整はむずかしく、会議は長びいていた。

ナポレオンは、こうしたフランス内外の状況を知らされ、ふたたび挑戦する機会をうかがった。1815年2月26日にエルバ島を脱出し、南フランスに上陸したナポレオンの北上につれて、したがう者は増加した。3月20日、パリに到着したナポレオンはふたたび皇帝の地位についた。

しかし、かつてのナポレオン支配をささえた「グラン・タルメ(偉大なる軍隊)」を統率した武将たちはかならずしもナポレオンの再起に賛成したわけではなかった。軍事指導者たちは、兵員の補充体制、軍需物資の生産体制など、社会的・経済的な条件が崩壊したことを知っており、1814年のナポレオンの退位に主導権をとったのは、じつは彼らであった。かつての部下の中には、復帰したナポレオンのもとにもどらなかった者も少なくなかった。また、かつてナポレオンの独裁をのぞんだ、商工業者や金融業者たちも、ナポレオンの戦争の続行と帝国の維持が経済の合理性をこえたことを感じて、帝政末期には支援をやめていた。

ウィーン会議に出席していた各国首脳は、ナポレオンの復帰を知らされて、1815年3月17日、オーストリア、イギリス、プロイセン、ロシアはそれぞれ15万の軍を編成して、フランス国境北方のベルギー領内に集結し、7月1日を期して攻撃を開始することを決定した。

III. ナポレオンの基本戦略

連合軍は2方向からベルギー領内をすすんだ。一方はプロイセンのブリュッヒャー元帥のひきいる11万6000のプロイセン・ザクセン連合部隊で、ドイツ側からすすんでナミュールに陣をおいていた。もう一方はイギリスのウェリントン公ウェルズリーのひきいるイギリス・オランダ連合軍で、これにドイツ諸邦の軍隊がくわわっていた。兵力は9万3000で、西側からベルギーをすすんで、ブリュッセル南方のキャトル・ブラに陣をかまえた。ウェリントン公は、連合軍総司令官でもあった。

ナポレオンの作戦計画では、ブリュッヒャー軍とウェリントン軍が連繋をとる前に両軍をたたいて分断し、東方から進撃してくるロシア・オーストリア連合軍と対戦するというものであった。これを実行するためにフランス軍は3軍にわけられた。ブリュッヒャー軍と対峙する右翼軍、ウェリントン軍とたたかう左翼軍、そしてもうひとつが戦略予備部隊で、これは「ビエイユ・ガルド」(古参近衛隊)といわれる、信頼できる部隊であった。

1815年6月15日、ナポレオン軍は国境をこえたが、このときにはまだ連合軍の準備はととのっていなかった。フランス軍はサンブル川をわたり、シャルルロワでプロイセン軍の先遣部隊を撃破した。ついでナポレオンは、ネー元帥ひきいる左翼軍にシャルルロワ北方19kmのキャトル・ブラにあるウェリントンの騎兵旅団を攻撃するよう命令し、グルーシー元帥の右翼軍には、東方のジリーに駐屯しているプロイセンの旅団を攻撃するよう命じた。グルーシーは、午後おそくには作戦を完了して、ブリュッヒャー軍の集結しているフルーリュス付近まで進出した。

この結果、フランス軍はウェリントン軍とブリュッヒャー軍の中間にわりこむことに成功し、戦いの初日の夜には戦略的に優位にたった。フランス軍主力部隊は西方のウェリントン軍にむかうことも、東方のブリュッヒャー軍をせめることも可能な位置にあった。

IV. 6月16日の戦

1815年6月16日、ナポレオンは予備部隊とともに、国境に近いシャルルロワからフルーリュス方面へ北上した。ここでナポレオンはグルーシー軍を指揮して、プロイセン軍部隊を撃破したあと、東方のナミュールから進撃してくるブリュッヒャーの本隊とたたかうために、フルーリュスの北にあるリニーにむかった。

ナポレオンは、リニーにおいて、キャトル・ブラにおけるネー元帥の攻撃に呼応してブリュッヒャーを攻撃する計画だった。予備部隊は状況に応じて、東、もしくは西にむかってすすみ、応援することになっていた。もし、予定どおりに戦況が展開すれば、予備部隊は北西にむかい、キャトル・ブラでネー軍に合流し、ブリュッセルに進撃して、連合軍を2つに分断することになっていた。

16日午後、ナポレオンはキャトル・ブラ方向でネー軍の発する砲声をきいて、7万2000の部隊を8万3000のブリュッヒャー軍に突入させた。血みどろの戦いが1時間以上もつづき、決着がつかない中、ナポレオンは、ネー元帥にあてて、第1軍団3万を、リニーにむけて増派するよう、緊急の指令を発した。伝令はネー元帥の司令部におもむかず、直接に第1軍団のドルーエ将軍につたえた。

ドルーエはただちにリニーにむかって出発した。第1軍団の出発を事後にきいたネーは、軍団にキャトル・ブラにひきかえすよう命令を発した。第1軍団がリニーの戦場に到着するのと同時にネーの命令がとどいた。ドルーエは、今度はネーの指令にもとづいてひきかえし、結局、どちらの戦闘にも参加することができなかった。リニーの戦場では、ナポレオン軍は3時間にわたってねばり、ブリュッヒャーの部隊に勝利した。ブリュッヒャー軍は1万2000の死傷者をだして退却したが、7万の主力部隊は無傷でのこった。

キャトル・ブラでは、ネーはイギリス・オランダ連合軍の陣地に対して、ただちに攻撃をしかけることを躊躇(ちゅうちょ)した。このため、ウェリントンの騎兵と歩兵が数個師団、増援にかけつけた。午後2時にネーは攻撃を開始したが、ネー軍は、ドルーエの軍団を欠いたために苦戦し、ウェリントン軍をくずすことができなかった。午後7時、ネー軍はイギリス・オランダ連合軍におしかえされた。ドルーエの軍団と合流できたのは、夜9時であった。

V. モン・サン・ジャンの戦

1815年6月17日早朝、ウェリントンはブリュッヒャーからの連絡で、リニーでの連合軍の敗北を知った。ウェリントンは、ワーテルローの真南にあるモン・サン・ジャン(聖ヨハネの山)の村付近でブリュッヒャー軍と合流し、ナポレオン軍と対決する計画をたてた。ウェリントンは、カモフラージュのために騎兵1個旅団をのこして、キャトル・ブラからモン・サン・ジャンにむけて北上した。

リニーにいたナポレオンはグルーシーにブリュッヒャー追撃を命じ、ネーに対してはウェリントン軍とただちに交戦するように命じた。しかし、ウェリントン軍の動きをつかんでいなかったネーはこの命令にしたがわなかった。午後、ナポレオンはネー軍の陣地に到着して指揮をとり、ウェリントン軍の追撃にはいった。夕方になって、ナポレオン軍はモン・サン・ジャンの南側にイギリス・オランダ連合軍を発見したが、連合軍は、窪道を利用して配置についていた。いっぽう、グルーシーは豪雨のために、一日中、ブリュッヒャー軍においつくことができなかった。

6月18日早朝から、フランス軍とイギリス・オランダ連合軍双方が戦闘配置についた。ウェリントン軍は南にむかって陣をしき、156門の大砲と6万8000の兵からなっていた。北にむかって展開したフランス軍は 246門の大砲と7万2000の兵からなっていた。ナポレオンはウェリントンのブリュッセルへの退路をたったうえで壊滅させる作戦をたてていた。いっぽう、ウェリントンは、ブリュッヒャーからの連絡で、18日のうちに兵力7万のブリュッヒャー軍が到着することを知っていたので、ブリュッヒャー軍が到着するまでもちこたえることを目標にしていた。プロイセン・ザクセン連合軍が到着すれば、ナポレオン軍の右側面から包囲できるはずであった。

午前11時半、ナポレオン軍がウェリントン軍の右翼に陽動作戦をしかけて戦闘が開始された。午後1時ごろ、ナポレオンはプロイセン軍の先遣部隊が東から接近するのを発見したが、グルーシー軍はブリュッヒャー軍の本隊を捕捉することができず、位置がつかめないままであった。モン・サン・ジャンの村の尾根にそって展開するウェリントン軍とフランス軍の間で死闘がつづけられた。イギリス・オランダ連合軍は数波にわたるフランス軍の攻撃にたえていた。午後4時ごろ、機会をうかがっていたブリュッヒャーの先遣部隊が戦闘にくわわった。フランス軍はいったん後退したがおしもどし、ついで午後6時ごろ、ネーがイギリス・オランダ連合軍の中央部深くに突入したが、やがておしもどされた。

このあと、ナポレオン軍は総攻撃を開始した。近衛兵5個大隊をのぞく全軍が連合軍中央部への突撃に投入された。しかし、連合軍はフランス軍の攻撃をはねかえし、フランス軍は列をみだして後退した。ナポレオンは、戦列をととのえて再度攻撃をしかけたが、連合軍をうちやぶるにはいたらなかった。グルーシー軍より先に到着したブリュッヒャー軍が、午後8時ごろ、ウェリントン軍の最左翼に結集し、フランス軍の右翼に突入してきた。フランス軍はパニックにおちいって逃走を開始し、ビエイユ・ガルドが後衛をつとめて連合軍の追撃をふせいだので、かろうじてナポレオンはにげのびることができた。プロイセン軍が18日の夜を通じて、おちのびるフランス軍をサンブル川の渡河地点まで追撃した。

VI. 結末

1815年6月22日、ナポレオンは再度の退位声明に署名し、7月8日にはルイ18世がフランス国王に復位、ここにナポレオンの「百日天下」はおわった。7月15日、イギリス当局はナポレオンの降伏を受諾し、ナポレオンは、今度はアフリカ大陸の大西洋沖合にあるセントヘレナ島に追放された。6月18日のワーテルローの戦で、フランス軍は約4万人、イギリス・オランダ連合軍は約1万5000人、プロイセン軍は約7000人の死傷者をだした。このほか、6月15日から17日までの戦いでも両陣営で数千の死傷者をだした。