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パキスタン
I. プロローグ

南アジア、インド亜大陸北西部にある共和国。正式国名はパキスタン・イスラム共和国で、イギリス連邦に加盟する。西はイランと、北部と北西部ではアフガニスタンと国境を接し、北東部はカシミールにつながる。東部と南東部はインドと接し、南はアラビア海に面する。カシミールの帰属についてインドと対立している。1947年8月にイギリス領インドから分離、独立した当時、インドをはさんで東・西パキスタンからなる国家だったが、71年12月、東パキスタンがバングラデシュとして独立した。面積は79万6095km²(パキスタン支配下のアザドゥ・カシミール地域をのぞく)。人口は1億6776万2040人(2008年推計)。首都はイスラマバード、最大の都市はカラチ。

II. 国土と資源

国土は、北東部から南流してアラビア海にそそぐインダス川によって東西に二分される。東側にはインダス平野が広がり、西側はバルーチスターンの山岳地帯となる。このほか、南部のアラビア海の海岸沿いにつづく狭い沿岸平野、バルーチスターン山岳地帯の西側にあるカラン盆地、南東部のインドとの国境にまたがるタール砂漠がある。

インダス平野は北から南にかけて80~320kmの幅に広がっており、さらに北のパンジャブ平野と南のシンド平野にわかれる。パンジャブ地域ではインダス川支流のサトレジ川、ラービ川、チェナブ川、ジェラム川が天然の排水路となり、同時にインダス平野に灌漑用水(かんがいようすい)を供給する。

バルーチスターン山岳地帯はトバ・カカル山脈、シアハン山脈、スライマン山脈、キルタル山脈などの山脈がつらなっている。山岳地帯の最高峰はティリチミール(7690m)で、北部のヒンドゥークシュ山脈中にある。サフェドコー山地をつらぬくカイバー峠はアフガニスタンとの国境に近い。

パキスタンの最高峰はK2で、カラコルム山脈中にあり、標高は8611m。K2はチョモランマ(エベレスト)についで世界第2位の高さをほこる。

1. 気候

大部分が乾燥地帯に属するパキスタンの気候は、地域による気温差が極端に大きいことが特徴である。北および西側の山岳地帯では冬の気温は氷点下までさがる。インダス平野では夏の気温は32~49°Cまであがり、冬は平均13°C程度である。全体に雨は少なく、年降水量は、もっとも雨の多いパンジャブ地域で500mm程度、降水量の少ない南西・南東部では125mm以下にすぎない。雨はおおむね7月と8月にふる。

2. 動植物と天然資源

植生は標高の高低によって大きくことなる。高地斜面には高山植物が自生し、低い所ではマツ、カシ、ヒマラヤスギなどの林が多い。シカ、イノシシ、ワニ、クマ、水鳥などの動物のほか、淡水魚や貝や魚類も豊富である。鉱産資源としては、岩塩、クロマイト、石炭、石膏(せっこう)、石灰石、マンガン、硫黄(いおう)、陶土、石墨、銅、石油、天然ガスなどがある。

III. 住民

歴史上、パキスタンはくりかえし他民族の侵入をうけた地域だったため、住民の民族的背景は、ドラビダ系やインド・アーリア系から、ギリシャ、スキタイ、フン、アラブ、モンゴル、ペルシャ、アフガン系まで、きわめて多様である。主要な民族としては、パンジャブ人、シンド人、パシュトゥーン人、バルーチ人があげられる。

人口は1億6776万2040人(2008年推計)、人口密度は215人/km²(2008年推計)である。人口増加率は年平均1.8%(2008年推計)に達する。都市人口比率は34.8%(2005年推計)。

1. 行政区分と主要都市

行政上、バルーチスターン州、北西辺境州、パンジャブ州、シンド州の4つの州にわかれる。このほか、イスラマバード連邦首都地域と連邦直轄地域がさだめられている。

最大都市はシンド州の州都カラチで、人口は933万9023人(2006年推計)。その他の主要都市に、首都イスラマバード、歴史のある町ラホール、綿業の中心地ファイサラーバード、工業都市ラワルピンディ、製造業の中心地ハイデラーバード、新興工業地帯ムルターン、アフガニスタンとの交易の中心地ペシャーワルがある。

2. 宗教と言語

主要宗教はイスラム教で、人口の約97%がイスラム教徒である。そのうち5分の4はスンナ派、残りはシーア派に属している。少数派の中では、ヒンドゥー教とキリスト教の信徒が多いが、ほかにシク教の信徒、ゾロアスター教の信徒パールシー、それにわずかながら仏教を信仰するものもいる。憲法ではイスラム教国と規定してあるが、個人の信教の自由は保障されている。

公用語はウルドゥー語(インドの言語)だが、これを母語とするのは総人口の10%以下にすぎない。パンジャービー語は主としてパンジャブ州を中心に、総人口の半数以上がつかっている。北西辺境州、シンド州、バルーチスターン州ではそれぞれパシュト語、シンディー語、バルーチ語が話されている。官僚、軍人、高学歴者は英語をつかう場合が多い。

3. 教育と文化

義務教育はない。初等教育は5歳からの5年間。中等教育は10歳からの5年間で、3年制と2年制の2段階で構成されている。初等教育をうけているのは学齢期児童の68%(2002-2003年)である。中等教育機関への該当年齢者入学率は23%(2002-2003年)、高等教育機関へは3%(2002-2003年)である。歴史のある主要大学はカラチ大学(カラチ。1951年創立)、パンジャブ大学(ラホール。1882年)、ペシャーワル大学(ペシャーワル。1950年)、シンド大学(ダードゥ。1947年)、農業大学(ファイサラーバード。1909年)などである。成人の識字率は47%(2005年推計)。

カラチにはリアカト記念図書館(1950年設立)、中央行政図書館(1950年)、カラチ大学図書館(1952年)など重要な図書館があり、パキスタン国立博物館(1950年)ではインダス文明に関する展示をおこなっている。古都ラホールにはパンジャブ公共図書館(1884年)、苦行釈迦(くぎょうしゃか)などのガンダーラ(ガンダーラ美術)彫刻やインダス文明の出土品で名高いラホール博物館(1864年)、パキスタンの物産を展示する工業・商業博物館などがある。ペシャーワル博物館(1906年)のガンダーラ彫刻のコレクションも一見に値する。国立公文書館(1951年)はイスラマバードにある。

IV. 経済

パキスタンのGDP(国内総生産:GNPとGDP)の成長率は、2006年では6.9%である。しかし、国民の大部分はまずしく、雇用は農業部門に大きくかたよっている。こうした状況はおもに高い人口増加率の結果だが、同時に、1971年にはじまる東パキスタン(現、バングラデシュ)の分離独立にともなう内戦や77年のクーデタといった政情不安も、経済成長と近代化をおくらせた要因となっている。なお、GDPは1268億米ドル(2006年)、1人当たりでは797.70米ドル。

1972年以降、政府は経済への介入を強め、主要産業を国有化した。しかしクーデタによる政権の交代にともない、78~83年の開発計画では民間資本が工業部門でより大きな役割をはたすよう政策が転換され、83~88年の開発計画では水力発電と農村開発への投資が重視された。88年から実施された開発計画では、貿易と国内取引の自由化、幅広い民営化政策がとられ、その結果、90年代初めにはGDP成長率の上昇、輸出の拡大、国内・外国投資の増加をもたらした。93年、政府は売上高税の導入、燃料税の引き上げなど歳入増加措置をとり、そのほかの措置の効果もあって財政赤字の削減、外国援助・借款への依存度の引き下げにも成功した。

1. 農業と林業

国土の28.6%(2005年推計)が耕作地である。農業などの第1次産業には労働人口の約42%(2002年)が従事しており、GDP(国内総生産)の19.4%(2006年)を生みだしている。

農地改革が長年にわたる大きな課題になっている。1947年の独立当時、わずかな数の大地主が全国の農地の大部分をもっていた。しかも彼らの多くは不在地主だった。70年代、ブットー政権が大規模な農地改革に着手、個人の土地所有面積を大幅に制限し、大地主からとりあげた農地を小作農に分配することを決定したが、地主たちの抵抗や官僚の手ぬるい地主対策から、改革は半端におわった。今日でも農地の約半分が少数の富裕な地主の手ににぎられている。

農作物の生産高も向上し、かつてはコムギ輸入国だったが、1970年代半ばに穀物の自給を達成している。おもな商品作物は綿花と米で、そのほかの主要農作物にコムギ、サトウキビ、トウモロコシなどがある。家畜は牛、スイギュウ、ヒツジ、ヤギ、ニワトリが飼育されている。

森林は国土の2.4%(2005年推計)にすぎない。年間約2612万m³(2006年推計)の丸太が燃料用に伐採された。

2. 漁業と鉱業

漁業資源は豊富だが、まだじゅうぶんに開発されていない。漁獲量は51万5472t(2005年推計)。その4分の3はアラビア海で水揚げされたもので、イワシ、メジロザメ、アンチョビー、エビなどが多い。

おもな鉱産物は石灰石、石炭、岩塩、石膏、ケイ砂など。このほか原油(2192万バレル(2004年))、天然ガス(238億22万m³)を産出する。

3. 工業とエネルギー

工業はまだ小規模だが、近年急速にのびている。工業のGDP(国内総生産)比は、1960年代に14%だったものが、2006年には27%を占めるにいたっている。おもにタバコ、セメント、石油製品、砂糖、自転車タイヤ、加工食品、綿製品、衣料品、肥料を生産し、ほかに陶器や絨毯(じゅうたん)などの工芸品も多い。

年間発電量は769億kWh(2003年推計)。発電量の約64%は火力発電、34%は水力発電による。インダス川の上流にあるタルベラ発電所は、大規模な水力発電所である。原子力発電所はカラチの近くにある。

4. 通貨と銀行

通貨単位はパキスタン・ルピー(1パキスタン・ルピー=100パイサ)。独立後の1948年に設立された中央銀行は、銀行券の発行、通貨や公債および外国為替などの管理、商業銀行の監督などをおこなう。70年代に入り、政府はパキスタン人所有の銀行をすべて国有化したが、その後の政策転換により90年代初めまでに2銀行を民営化、新たに民間商業銀行10行に設立認可をあたえた。イスラムの教義により利子の授受ができないため、パキスタンの銀行は利子をとって貸し付けをするかわりに、顧客を投資パートナーとしてあつかい、配当金をはらうかたちをとっている。

5. 外国貿易

パキスタンの外国貿易の構造は、原料や1次産品を輸出し、製品を輸入することを基本としている。2003年の輸出総額は127億米ドル、輸入は155億米ドルであった。おもな輸出品は綿製品、綿糸、米、皮革・革製品、衣料品、装身具、絨毯、魚など。輸入品は機械・輸送機器、化学製品、電気製品、石油製品、原油、鉄鋼、肥料、食料品など。おもな輸出相手先はアメリカ、アラブ首長国連邦、イギリス、ドイツ、香港など、輸入相手先はアラブ首長国連邦、サウジアラビア、クウェート、アメリカ、日本、中国などである。

6. 交通

パキスタンの経済発展を阻害する要因のひとつに、近代的輸送施設の未整備があげられる。道路の総延長は25万8340km(2004年)だが、舗装率は65%しかない。鉄道の総延長は7791km(2006年)。最大の港湾はカラチ港だが、1980年代にカラチの東側、カラチ製鋼所に隣接して第2の港ムハンマドビンカシム港が開港した。

国際空路には国営のPIA(パキスタン国際航空)が運航している。かつてはPIAが国内空路も独占していたが、1990年代初めに民間航空会社4社が国内線に参入した。国際空港はカラチ、ラホール、ラワルピンディなどにある。

V. 環境問題

急増するパキスタンの人口は、おもに国土の東側の谷や平野に集中している。動物の生息地はあらされているが、海岸沿いの低地やマングローブのしげる沼沢地など、重要な湿地はまだのこっている。西部の山岳地帯は生態的にはさほど損害をうけていないが、それでも地域によっては村落や農業などが、生物多様性に影響をおよぼしている。

国土の約9%が保護区となっており、10カ所の国立公園をはじめ、多くの野生生物保護区や禁猟区が指定されている。ただし生態学的な意義よりも、猟獣の保護や観光を目的にしたものが多い。しかも法律による強制力がないため、実質的に保護されているのは、国土の約9.1%(2007年)にすぎない。1人当たりの農業生産高は1980年から約20%上昇しているが、耕地の4分の1近くが灌漑されており、塩類集積(塩水害)が大きな問題となっている。ヤギなどの家畜の過剰放牧もいたる所で生態系をおびやかしている。

VI. 政治

パキスタンは東パキスタンをうしなったのち、1973年に新たな憲法を制定した。その後、新憲法には多くの修正がくわえられた。77年の軍事クーデタ後は戒厳令がしかれ、73年憲法は施行停止状態となった。85年の選挙で議会政治に復帰、戒厳令が解除され憲法も復活した。しかし99年10月の軍事クーデタで、憲法はまたもや停止され、暫定憲法命令が発せられた。その間の91年にはイスラム法であるシャリーアを国家最高の法律とさだめる法律が発効。2002年8月には、11月の民政移管を前にして憲法が改正され、下院の解散権、憲法の改正権など、大統領の権限が大幅に強化された。

1. 行政・立法・司法

国家元首は大統領で、連邦議会によって選出され、任期は5年。行政の最高責任者は首相で、首相は議会に責任をもつ。

立法権は二院制の連邦議会にある。小選挙区制の普通選挙によって選出される下院(国民議会)議員は、2002年10月の選挙で定数217から342にふえ、うち60議席が女性に、10議席が非イスラム教徒の少数民族にわりあてられる。任期は5年。上院の議席も87から100にふえ、うち88議席は4つの州議会議員によって選出され、のこる8議席と4議席は連邦直轄地域とイスラマバード連邦首都地域からえらばれる。任期は5年。

司法の最高位として最高裁判所があり、各州に高等裁判所がおかれている。ほかに連邦シャリーア裁判所があり、イスラム法による裁判がおこなわれる。

2. 政党と国防

1977年7月に政党活動はきびしく制限され、79年10月には完全に禁止されたが、85年12月に活動の再開がみとめられた。93年10月の総選挙でパキスタン人民党(PPP、現在はPPP-P)が政権をにぎり、それまでの政権党であるパキスタン・ムスリム連盟(PML)は野にくだった。97年2月の総選挙でパキスタン・ムスリム連盟が政権を回復したが、99年10月の軍事クーデタで政権の座をうばわれた。(これ以後の動きは「歴史」の項を参照。)

軍隊は志願制で、総兵力は61万9000人(2004年)。このうち陸軍は55万人、空軍は4万5000人、海軍は2万4000人。ほかに国家警備隊18万5000人などがいる。

VII. 歴史

パキスタン地域の前史については、インダス文明およびインドの歴史を参照のこと。

1756~1947年の約200年間、インド亜大陸はイギリスの支配下におかれた。イギリスは、1857年のセポイの反乱を契機にイギリス領インドの政治改革にとりくみ、政党の結成をみとめた。85年にヒンドゥー教徒を中心にインド国民会議派が、1906年には少数派のイスラム教徒によってムスリム連盟が結成される。イギリスが09年にインド統治法の改正をおこなった際、イスラム教徒はイギリスに分離選挙を要求、改正法ではイスラム教徒に対する分離選挙区をもうけることがさだめられた。これによりイスラム教徒は47年の独立まで、イギリス領インドの国民議会や州議会に代表をおくることが保障された。

ムスリム連盟は1940年のラホール年次大会でイギリス領インドを分割し、別にイスラム教徒の国家(パキスタン)を建設するとの決議をおこなった。46年のイギリス領インドの独立をめぐる会談の中で、分離独立を主張するムスリム連盟と、統一インドとしての独立を主張するインド国民会議派とがきびしく対立した。このためイギリス政府はイギリス領インドの分割を決定、47年8月14日、主権をインドとパキスタンに委譲する。こうしてパキスタンは、インドをはさんで1600kmもはなれた2つの地域、西パキスタンと東パキスタンからなるイギリス自治領として独立することになった。

1. 分離独立にともなう諸問題

1947年8月のイギリス領インドの分離独立は多くの難民を生みだした。約350万人のヒンドゥー教徒やシク教徒がパキスタンからインドにのがれ、逆に500万人のイスラム教徒がインドからパキスタンに流入したのである。その過程でヒンドゥー教徒とイスラム教徒が各地で衝突し、おびただしい犠牲者を出したとつたえられている。このため、インドとパキスタンの関係ははじめから険悪なものとなった。さらに両国は、藩王国の帰属をめぐって、対立を深めていった。各藩王国はインドかパキスタンへの帰属を藩王が決定することになったが、カシミールではヒンドゥー教徒の藩王がインドへの帰属をきめた。しかし、パキスタンはカシミールの住民の85%がイスラム教徒であることを理由にインドへの帰属に反対し、47年秋、両国は最初の戦火をまじえることになる。

この第1次インド・パキスタン戦争は国際連合の仲介で停戦、国連監視のもとで住民投票をおこないカシミールの帰属をきめるという国連決議が採択された。しかし、インドはカシミールの約3分の2を占拠したまま、住民投票の実施を拒否した。カシミールの帰属をめぐる対立は現在もつづき、両国の間によこたわる不信と反目の要因となっている。

2. 共和制以前

独立後の最初の政府はムハンマド・アリ・ジンナーが総督、リヤーカト・アリ・ハーンが首相となり、首都はカラチにおかれた。政府はただちに行政制度の確立、軍の強化、難民の定住、地方政治家の懐柔、経済・社会改革など多くの事業に着手した。しかし官僚をはじめ人材は少なく、政治体制をかためるにはいたらなかった。

独立を指導したジンナーが1948年に死去、アリ・ハーンも51年に暗殺され、卓越した指導者もなく、政治はいっそう混乱していく。そうした中でムスリム連盟は国民の支持をうしない、55年の国民議会選挙では野党に転落した。国民議会は55年10月に西パキスタンの4州をひとつの行政単位に統合する法令を公布、さらに56年2月には新憲法を公布した。

これによりパキスタンはイスラム共和国となり、当時総督だったイスカンダル・ミルザ将軍が暫定大統領に選出される。その後も政治の混乱はつづき、1958年10月、全軍最高司令官兼戒厳司令官のムハンマド・アユーブ・ハーン将軍が無血クーデタをおこしミルザ大統領を解任、みずから大統領に就任した。

3. アユーブ・ハーン時代

アユーブ・ハーン大統領は10年以上にわたってパキスタンを統治し、いくつかの改革をおこなったが、パキスタン社会がかかえる根本的な問題は解決できなかった。しかし、開発のおくれていた東パキスタンについては、東西パキスタンの経済格差をなくすことはできなかったものの、開発資金の配分を大幅に増加して開発を促進させた。

アユーブ・ハーン大統領がとりくんだ変革の中でもっとも悪影響をのこしたものは、おそらく「基本的民主主義制」の導入であろう。この制度は、アユーブ・ハーンが制定した1962年憲法にうたわれている。その内容は、全国を8万区の行政区にわけ、各行政区では住民が1名の代議員を選出、この代議員が大統領、国会議員、州議会議員の選挙人団を構成するという、間接選挙制を基本としたものである。

アユーブ・ハーンはアメリカと良好な関係を維持し、それゆえ多額な経済・軍事援助をひきだすことができた。しかし、対米関係は1965年のカシミールをめぐる第2次インド・パキスタン戦争で大きくゆらぐことになった。戦争がはじまるやアメリカは両国への軍事・経済援助を停止したため、パキスタンは唯一の武器の供給源をたたれたのである。第2次インド・パキスタン戦争は2週間後にソビエト連邦(ソ連)の仲介で停戦した。66年1月、ソ連首相の招きでアユーブ・ハーン大統領とインドのラス・バハドウル・シャストリ首相がタシケントを訪問し、両国は開戦前の状態にもどることをとりきめたタシケント協定に調印した。

タシケント協定とカシミール問題についての政府の対応に、パキスタン国民は不満と怒りをつのらせた。ズルフィカル・アリ・ブットー外相はアユーブ・ハーン大統領の独裁とカシミールをうしなった外交上の失政をはげしく攻撃した。国民の反政府運動が高まる中、1969年3月、アユーブ・ハーンは辞任を表明、その権限を陸軍総司令官ムハンマド・ヤヒヤー・ハーン将軍に委譲する。ヤヒヤー・ハーン将軍は大統領に就任すると、ただちに戒厳令を布告した。

4. 内戦

ヤヒヤー・ハーン大統領は就任後、国民の支持をえるため300人の高級官僚を解任した。また、パキスタンのGNP(国民総生産)の半分を支配するといわれた30財閥を特定し、これら財閥の力をおさえる目的で、1970年に独占禁止法を制定して貿易規制をおこない、同時に民政移管を公約した。しかし、その後公約を実現することなくヤヒヤー・ハーン政権は崩壊していく。

当時、パキスタンの統一をおびやかす要求が東パキスタンから出されていた。それはアワミ連盟の指導者ムジブル・ラーマンが要求したもので、パキスタンを連邦制にかえるよう主張していた。連邦政府の権限は国防と外交のみで、通貨さえ、相互の交換性をもたせながらも、東西パキスタンで別の通貨をもつという、事実上東パキスタンの独立をもとめるものであった。ムジブル・ラーマンの主張は東パキスタンの人々の幅広い支持をうけ、1970年12月の総選挙でアワミ連盟は東パキスタンで地すべり的勝利をはたし、国民議会の過半数を制する。西パキスタンではブットーひきいるパキスタン人民党(PPP)が最大の議席を獲得した。

ムジブル・ラーマンの分離主義的傾向に疑念をもったヤヒヤー・ハーン大統領は、1971年3月、国民議会の招集を無期限に延期した。これに対しムジブル・ラーマンはヤヒヤー・ハーンとブットーをはげしく批判、対決姿勢を強めていく。同年3月半ば、ヤヒヤー・ハーンはダッカにおもむきムジブル・ラーマンとの会談にのぞんだが、話し合いは決裂。3月26日東パキスタンがバングラデシュ独立を宣言すると、パキスタン軍はいっせいに軍事行動をおこした。ムジブル・ラーマンは逮捕され、西パキスタンに連行されて国家反逆罪で裁判にかけられた。その後、東パキスタン各地で独立運動に対する軍事弾圧がおこなわれた。

東パキスタンにおける軍事弾圧は多くの犠牲者を出した。インド政府は1000万人にのぼる難民が国境をこえてインドへ流入したと主張している。アワミ連盟の指導者はカルカッタ(現、コルカタ)にのがれ、そこでバングラデシュ亡命政権を樹立した。1971年12月3日、難民流入を理由にインドが内戦に介入、第3次インド・パキスタン戦争に発展する。戦争は13日後の12月16日、東パキスタン駐留軍司令官がインド軍に降伏して終結し、バングラデシュは独立を達成した。12月20日、ヤヒヤー・ハーン大統領はブットーにパキスタンの政権を委譲した。

5. ブットー政権

大統領に就任したブットーはパキスタンを再建すべく、基幹工業、保険会社、国内資本の銀行、教育機関を国有化し、さらに土地改革を実施した。1973年4月、国会は新憲法を制定。これにもとづいてブットーが首相に、ファザル・エラーヒ・チョウドリが大統領に選出された。しかし、国有化政策と土地改革は財界人、大地主を敵にまわすことになる。宗教界もブットーの社会主義的政策をイスラムに敵対するものとみなした。

1977年3月におこなわれた総選挙は、ブットー政権とそれに敵対する勢力との対決となった。総選挙では9野党勢力が統一戦線のパキスタン国民連合(PNA)を結成し、ブットーのパキスタン人民党に対抗した。国民議会選挙で敗北したパキスタン国民連合は、与党パキスタン人民党が不正選挙をおこなったとして抗議運動を強め、つづく州議会選挙をボイコットする。多数の死傷者を出した抗議運動は6週間つづき、混乱の中で軍の政治介入の条件がととのえられた。

6. ジア・ウル・ハク体制

事態打開の見通しがたたない中、1977年7月5日、陸軍参謀長ムハンマド・ジア・ウル・ハク将軍がクーデタをおこし、ふたたび戒厳令をしき憲法を停止した。ブットーは政敵殺害の罪で有罪判決をうけ、79年4月4日に処刑された。81年3月23日、ジア・ウル・ハク大統領は戒厳令が解除されるまでの暫定憲法を公布し、政党活動を復活させた。しかし、反政府運動を強めていたパキスタン人民党をふくめ、多くの政党は解散させられる。

1979年12月のソビエト連邦(ソ連)のアフガニスタン侵攻にともない、パキスタンには300万人をこえる難民が流入した。81年9月、ジア・ウル・ハク政権はアメリカから6年間に32億ドルという巨額な経済・軍事援助をとりつけた。85年2月には国民議会選挙が実施され、同年4月に新政府が発足、12月には戒厳令が解除されて形式上は民政移管が実現する。しかし、これは大統領権限の強化や軍人主導体制の確立をもりこむなど、憲法を大幅に修正して復活させたうえでの措置であった。ジア・ウル・ハク大統領はアフガニスタン問題などで新政府と対立、88年5月、国会の解散と新たな選挙実施を発表した。3カ月後、ジア・ウル・ハク大統領は飛行機墜落事故で死亡し、暫定政権が樹立された。

7. 民政復帰

暫定政権の大統領には官僚のグーラム・イスハーク・ハーンが任命され、1988年11月に総選挙が実施された。選挙ではパキスタン人民党が国会で第1党となり、パキスタン人民党党首でズルフィカル・アリ・ブットーの娘ベナジール・ブットーが首相に就任した。イスラム国家でははじめての女性宰相の誕生である。しかし、90年8月、イスハーク・ハーン大統領は不正と政治の非効率を理由にブットー首相を解任。10月の総選挙でパキスタン人民党は敗北、野にくだった。選挙に勝利したのはイスラム民主同盟で、ナワズ・シャリフを首相とする政府をうちたてた。財界出身の新首相は国営企業の民営化、外国投資の促進など市場経済化政策をとり、政情不安で疲弊した経済の再建をめざした。

やがて大統領と首相の権力争いが政治を混乱させていった。1993年7月、軍の仲介で両者は同時に辞任することで合意、これをうけて総選挙が同年10月に実施された。ベナジール・ブットーひきいるパキスタン人民党が国会、州議会選挙で過半数をとって勝利し、ブットーが首相にかえりざいた。

1996年11月、レガリ大統領は首相による司法権の独立の侵害や政治腐敗などの理由でブットー首相を解任し国会を解散した。それをうけて97年2月に総選挙がおこなわれ、野党のムスリム連盟が圧勝し、シャリフ党首が首相に就任した。

1990年代初めからインドとパキスタンの関係は緊張をましていた。カシミール問題をめぐる両国の会談が94年1月に決裂。同年2月、ブットー政権は全国規模のストライキを組織し、インド側カシミール(ジャム・カシミール州)でインド軍とはげしい戦闘をつづけているイスラム教徒のゲリラ勢力への支持を表明した。対立が深まる中、インド、パキスタン両国が核兵器開発競争にはしるのではないかという懸念が生まれた。

1994年3月、パキスタンはボンベイ(現、ムンバイ)のパキスタン総領事館を閉鎖し、12月にはカラチのインド総領事館を閉鎖するよう命じた。インドはニューデリーのパキスタン大使館の外交官15人を追放してこれに対抗した。95年1月、インドはパキスタンが会談再開の条件としたカシミールからのインド軍削減要求を拒否し、96年1月には停戦ライン付近で断続的に交戦がつづいた。97年3月になると、中断していたインドとの外務次官協議が再開され、5月の南アジア地域協力連合首脳会議の際には首脳会談がもたれ、カシミール問題をふくむ両国の懸案事項に関する協議機関の設置や捕虜・抑留者の釈放問題などで合意をみた。しかし、8月にはカシミールでインド・パキスタン両軍の軍事衝突が発生。98年5月には、インドが地下核実験を実施したことで、緊張が一挙に高まり、同月28日に、インドに対抗してバルーチスターン州のチャガイ山地で5回にわたる地下核実験を強行したのにつづき、30日にも1回の地下核実験をおこなった。第1回の実験後、タラル大統領は「パキスタンの安全保障に対する外部からの脅威」にそなえて、全土に非常事態を宣言した。

パキスタンは1990年代半ばから深刻な国内問題に直面した。インドからの分離独立時にインドから流入した人々「ムハージル」と元からいたシンディー民族がシンド州、とくにカラチで武力衝突をくりかえし、94年だけで650人以上が殺害された。武力衝突は95年になっていっそうはげしさをまし、3月にはアメリカ外交官2人が犠牲になった。また96年には、パンジャブ州でスンナ派とシーア派との武力衝突があいついだ。

1999年2月、ラホールでシャリフ首相とインドのバジパイ首相との会談がおこなわれた。両国首脳は、偶発的な核兵器使用をふせぐためのホットライン設置、ミサイル発射実験の際の事前通告、条件付きでの核実験凍結などを内容とする「ラホール宣言」を発表した。

5月、パキスタンのイスラム武装勢力が、カシミールの停戦ラインをこえてインド側のカルギル地区に侵入した。インド空軍機による空爆がくわえられ、地上でも大規模戦闘に発展した。7月、シャリフ首相はワシントンでアメリカのクリントン大統領と会談し、武装勢力の撤退に同意、事態は収拾された。

8. 再び軍政へ

1999年10月、シャリフ首相はムシャラフ陸軍参謀長の解任を発表した。カルギル紛争の処理をめぐって、ふたりの意見が対立したものとみられている。しかしムシャラフ参謀長の解任に反発する国軍が即日クーデタをおこし、シャリフ首相を逮捕・監禁した。権力を掌握したムシャラフは、憲法の停止を宣言し、首相に相当する最高行政官の地位についた。議会は機能停止においこまれ、ムシャラフを議長とする国家安全保障会議が国権の最高機関として設置された。

クーデタの際にムシャラフの搭乗する飛行機の着陸を妨害したのはハイジャック罪にあたるとして、特別法廷はシャリフに死刑を求刑した。クリントン大統領などの働きかけで極刑は回避され、シャリフは2000年4月に終身刑判決をいいわたされたのち、12月にサウジアラビアに国外追放された。

最高裁判所は、同年5月、クーデタを合法とし、1999年10月から3年以内の民政復帰を命令、軍政の最終期限を2002年10月12日とした。ムシャラフ最高行政官は、01年6月、名目的存在となっていたタラル大統領を解任し、みずからが大統領に就任した。同時に機能を停止していた下院と4つの州議会すべてを正式に解散した。ただ、民政への政治日程は変更しないと言明した。

2001年7月には、1999年のカルギル紛争で冷えきったインドとパキスタンの関係を改善するための首脳会談が、インドのバジパイ首相との間でおこなわれたが、カシミール問題での進展はなかった。また同年9月にアメリカ同時多発テロが発生し、その首謀容疑者がウサマ・ビンラーディンとのアメリカの発表をうけたパキスタン政府は身柄引き渡しをアフガニスタンのタリバーン政権に要求したが、タリバーンは拒否。パキスタン政府はアメリカを支援することに同意して、基地使用などアフガニスタンの攻撃に協力した。

その後、カシミールではテロが頻発し、2001年12月にはニューデリーにあるインドの国会議事堂に武装組織が侵入し、計12人が死亡、数十名が負傷する事件が発生した。犯行はパキスタンに拠点をもつイスラム系過激派によるものとされ、パキスタン政府はインド政府から武装組織に資金を提供していたと非難された。これに対しパキスタンは武装組織を制御するためにおこなっていたとして、インドの非難を否定。インドからの犯行組織の引き渡し要求に対して、パキスタンはこれを拒否したが、要求されたグループをふくむ5つの組織を非合法化した。しかし、カシミールでの戦火はつづき、両国間の緊張は高まった。停戦協定ラインへの軍隊配備も強化され、両国首脳とも「先制攻撃はありえない」と否定したものの、一時は全面戦争間近の空気がただよった。

2002年4月、ムシャラフ大統領は任期延長について国民投票をおこない、不正投票の指摘はあるものの国民の賛成をとりつけた。これにより同年10月の総選挙以降の民政移管後も政権を維持することが確実となった。10月におこなわれた総選挙では、大統領を支持するパキスタン・ムスリム連盟カイデアズム派(PML-Q)が第1党となり、以下、反大統領派のパキスタン人民党議会派(PPP-P)、イスラム原理主義政党の連合体である統一行動評議会(MMA)などがつづいた。パキスタン・ムスリム連盟カイデアズム派も単独過半数を占めるにはいたらず、パキスタン人民党の議員の一部やいくつかの少数政党の取り込みに成功してようやく連立内閣結成にこぎつけ、11月下旬にはパキスタン・ムスリム連盟カイデアズム派の幹事長ザファルラ・ジャマリが首相にえらばれた。しかし11月末には17議席をもつモハジール民族運動(MQM)が地方政策をめぐる対立から連立政権を離脱し、新政権ははやくも少数与党に転落した。なお、これに先だつ11月中旬、ムシャラフはこれまでの約束どおり、民政移管と憲法の復活を宣言したが、憲法改正により大統領権限が拡大されたため、民政復帰とはいっても実質は軍事政権継続とみられた。

9. インドとの関係改善と、核兵器開発技術提供疑惑

インドとの間ではその後も不穏な情勢がつづいたが、2003年4月、インドのバジパイ首相の提案をうけて、ムシャラフ大統領とバジパイの電話による直接対話が実現した。そして5月には、01年12月のインド国会議事堂襲撃事件以後ひきあげたままだった両国大使が復帰し、また閉鎖されていたインドとの定期バス路線や鉄道、航空路が再開されるなど、関係正常化がすすんだ。その後03年11月、カシミールの停戦ラインと国境線全域での停戦合意が成立し、04年2月にはカシミール帰属問題や両国間の安全保障など、すべての懸案事項の解決をめざして5月から公式協議をすすめることで合意した。カシミール問題の解決を有利にはこぶためには両国とも対米関係を無視できず、これら一連の動きにはアメリカの水面下での働きかけが強く作用していた。

一方、イランや朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の核兵器開発問題が注目される中で、パキスタンが両国に核兵器開発技術を提供したのではないかという疑惑が2003年11月に表面化した。イランが国際原子力機関(IAEA)に提出した報告書に、パキスタンの科学者から核兵器開発に必要なウラン濃縮技術に関する技術供与をうけたとの記述があったためである。04年1月、ムシャラフ大統領はその事実をみとめつつも、科学者たちによる個人的犯行であり、政府は関与していないと言明、関係科学者たちの厳罰を約束するとともに、その中心人物と目されるパキスタン「核開発の父」、アブドル・カディル・ハーン博士を科学技術担当の首相顧問から更迭した。ハーン博士は北朝鮮やイラン、リビアへの核技術流出にかかわったことをみとめたが、博士が責任をかぶるのと引き換えに政府が彼の赦免(しゃめん)をみとめるという裏取引がおこなわれたとの見方が支配的である。この疑惑を究明する過程で、世界的ネットワークをもつ核の闇(やみ)マーケットの存在が白日のもとにさらされることになった。

2005年10月8日、北部の山岳地帯でマグニチュード7.7の大地震が発生した。アザドゥ・カシミールや首都イスラマバードなどパキスタン側に死者8万6000人という大きな被害をもたらし、一方、停戦ラインをはさんで隣接するインドのジャム・カシミールでも1300人の犠牲者が出た。被災地域が狭い谷やけわしい山裾(やますそ)に多いため、パキスタン政府や諸外国のチームによる救援活動が難航したが、インド政府がパキスタン側住民のための救援施設をインド側にもうけると発表し、パキスタン政府も停戦ラインの5カ所でカシミール住民の往来を可能にするようインド政府に提案した。両政府はこれらに合意し、11月下旬から両国住民の徒歩による越境が開始された。すでにバスでの往来は05年4月に開始されていたが、徒歩による越境は1949年に停戦ラインがもうけられて以来はじめてのことである。徐々にすすみつつあったインドとの関係改善が、大災害をきっかけにさらに前進する結果となった。なお、この大地震では、イスラマバード在住の国際協力機構(JICA)日本人スタッフ1人とその長男が、高層アパートの崩壊により死亡した。

10. ムシャラフ再選をめぐる混乱

2004年6月、ムシャラフ大統領とジャマリ首相の対立が深まり、ジャマリは辞任。パキスタン・ムスリム連盟カイデアズム派総裁のフセインが暫定首相をつとめたのち、8月の首相指名選挙により、財務・経済相だったアジズが首相に選出された。アジズはアメリカの銀行幹部としての経歴がある親米派で、対米関係、経済重視の政策が予想された。

アジズ首相のもとでおこなわれた経済構造改革や、対テロ戦争における対米協力の見返り援助により、景気は回復し、2005年には年7.8%の成長率を記録した。一方で、経済成長にとりのこされた貧困層や、政府の世俗主義や対米協力姿勢に批判的なイスラム宗教勢力の不満が高まり、治安状況は悪化。07年7月には、イスラマバード中心部で神学生らが治安部隊と衝突してモスクにたてこもる事件が発生し、多くの死傷者を出した。この事件の背景には、アフガニスタン国境付近で勢力をもりかえしつつあるタリバーンの協力もあるとされ、以後、各地で報復テロがあいついだ。

2007年10月に大統領選挙が実施され、ムシャラフが過半数の票を獲得した。しかし、ムシャラフの大統領立候補資格の是非を問題にした裁判が進行中であるとして、最高裁判所が投票結果の確定に待ったをかけた。パキスタンの憲法では、陸軍参謀長と大統領の兼任はみとめられておらず、ムシャラフの両職兼任は野党などから批判され、うったえられてきた。04年11月に成立した大統領兼職法によって、07年の大統領選挙までは兼任がみとめられるかたちとなっていたが、ムシャラフの次期大統領への立候補資格については疑問視されていた。最高裁判所長官のイフティカル・ムハンマド・チョードリーは、かねてからムシャラフには対立的であり、彼に不利な判断をくだすことが予想された。そこでムシャラフは、自身に批判的だったチョードリーを解任し、パキスタン全土に非常事態宣言を発令。憲法の効力を停止するとともに、野党や司法関係者の拘束にのりだした。

選挙後の混乱がつづく中、海外に亡命中だったベナジール・ブットー元首相が帰国。カラチでは彼女をねらった爆弾テロが発生し、130人以上が犠牲となったが、彼女は難をのがれた。ブットーは最初、きたるべき国民議会選挙にむけて、ムシャラフとの協力関係を模索した。しかし、ムシャラフが非常事態宣言の発令や反対派の拘束、さらにはブットーを2度にわたって軟禁状態におくなど、強硬姿勢を鮮明にしたことでまとまらず、彼女がひきいる野党パキスタン人民党議会派は、他の野党とともに反ムシャラフの共闘体制をかためた。

しかし、11月に最高裁判所がムシャラフの再選を合憲とする判定をくだしたことから、彼は陸軍参謀長の職を辞し、文民として大統領に正式就任した。ムシャラフは、非常事態宣言の解除と、停止されていた憲法の復活を発表し、2008年1月に予定されている国民議会選挙にむけた混乱収拾をはかった。

各党が国民議会選挙にむけて活動していた2007年12月、ブットー元首相の政治集会でテロ事件が発生し、ブットーが暗殺された。パキスタン各地では破壊行為が発生するなど国内が大きく混乱し、翌08年1月、選挙の日程が2月18日に延期された。ブットーをうしなったパキスタン人民党議会派は、ブットーの長男ビラワル・ブットーを総裁に選出し、夫のザルダリが共同総裁となった。

爆弾テロや自爆テロが多発する中で、2月18日に国民議会選挙が実施され、第1党にブットー元首相がひきいたパキスタン人民党議会派、第2党にシャリフ元首相ひきいるパキスタン・ムスリム連盟シャリフ派と野党勢力が議席をのばし、ムシャラフ大統領の与党パキスタン・ムスリム連盟カイデアズム派は大幅に議席をへらして第3党に転落した。

11. ムシャラフの大統領辞任

パキスタン人民党議会派とパキスタン・ムスリム連盟シャリフ派は連立政権樹立で合意し、パキスタン人民党議会派のユースフ・ラザ・ギラニが首相に選出された。ギラニは2007年11月にムシャラフ大統領が拘束した司法関係者を釈放。08年4月には連立政権を発足させたが、大統領を支持するパキスタン・ムスリム連盟カイデアズム派の政権参加や、シャリフが強くもとめたチョードリー元最高裁判所長官の復職をめぐる立場の違いから、翌5月にはパキスタン・ムスリム連盟シャリフ派が政権から離脱してしまった。

しかし、2008年8月、ギラニ政権はパキスタン・ムスリム連盟シャリフ派をまきこみ、ムシャラフ大統領の弾劾にのりだした。ムシャラフはこの動きをうけ、自身の訴追免除と国内滞在許可を条件に、大統領職を辞することで政府と合意した。

ムシャラフの辞任後、ムシャラフが強化した大統領権限を削減するかどうかでパキスタン人民党議会派とパキスタン・ムスリム連盟シャリフ派は対立し、パキスタン・ムスリム連盟シャリフ派はふたたび連立政権から離脱した。2008年9月におこなわれた大統領選挙ではパキスタン人民党議会派のザルダリ共同総裁が選出された。