| 検索ビュー | セルビア | 項目ビュー |
| I. | プロローグ |
ヨーロッパ南東部、バルカン半島にある共和国。正式国名はセルビア共和国。セルビア・クロアチア語では「スルビヤ」という。ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、マケドニア、アルバニア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチアと接する。かつてはユーゴスラビア(旧)の一共和国だったが、1990年代に入って構成共和国があいついで独立し、のこったセルビアとモンテネグロが92年に新連邦国家「ユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴスラビア)」を創設、2003年には連合国家に移行し、国名も「セルビア・モンテネグロ」にかえた。その後、06年6月にモンテネグロが分離・独立したため、セルビアは単独の共和国となり、セルビア・モンテネグロの国際上の地位を継承した。08年2月、セルビア南西部の自治州で1999年から国際連合(国連)の暫定統治下にあったコソボがセルビアからの分離・独立を宣言したが、セルビアはコソボの独立をみとめていない。
コソボをふくむ面積は8万8361km²、人口は1015万9046人(2008年推計)。首都は同国最大の都市ベオグラード。
ドナウ川、サバ川、ティサ川がながれる北部の肥沃(ひよく)なボイボディナ平原、中部の人口の多いシュマディア地方、南部の山がちなコソボ地方の3地域からなる。
| II. | 住民 |
コソボをのぞく地域のおもな民族はセルビア人で、2002年の調査では83%を占める。少数民族は、北部のボイボディナ自治州に多いハンガリー人、南西部のサンジャクにすむボスニア人(ボシュニャク人:スラブ系イスラム教徒)など。ボイボディナやベオグラードには以前クロアチア人もすんでいたが、1991年に隣国のクロアチアが独立した際におきた内戦にセルビアが介入して以後、ほとんどいなくなった。コソボではアルバニア人が住民の90%近くを占めている。一方、200万をこえるセルビア人が、セルビア以外の旧ユーゴスラビア諸国に少数民族として居住している。
公用語はセルビア語(→ セルビア・クロアチア語)。コソボではアルバニア語も公用語としてあつかわれている。そのほか、ハンガリー語、スロバキア語、ルーマニア語、クロアチア語など、少数民族は自分たちの言語を話している。セルビア人はセルビア正教徒が多いが、アルバニア人の多くはイスラム教徒であり、ほかにローマ・カトリック教徒、プロテスタントも少数ながら存在する。
| III. | 経済 |
セルビアは、1991~92年の旧ユーゴスラビアの解体と、それにともなう内戦への関与によって、国際社会から経済制裁をうけ、経済はおとろえた。IMF(国際通貨基金)などさまざまな経済機構に加盟していた旧ユーゴスラビアの地位をうしなって有効な対策をうちだせないまま、すさまじいインフレや失業者の増大にみまわれ、経済成長が停止した。輸送や文化交流の面で制裁が部分的に解除された94年後半から復調の兆しをみせたが、98年からのコソボ紛争と99年のNATO(北大西洋条約機構)軍による空爆で、大きな被害をうけた。
2000年10月、ミロシェビッチ政権の崩壊後に発足したコシュトゥニツァ新政権は、国際協調路線をかかげて国際社会に復帰し、経済回復につとめた。00年中にIMFと国際連合(国連)への復帰がみとめられた。ミロシェビッチ時代からつづく社会構造を根本的にかえるのは容易ではないが、民営化がすすめられ、外国からの資本投資も軌道にのりはじめて、経済は改善の方向にむかっている。ただし失業率は依然きわめて高い。できるだけ早期のEU(ヨーロッパ連合)加盟をめざしている。
おもな産業は製造業と農業で、製造業では、鉄鋼、繊維、ゴム製品などが輸出もされている。通貨はディナールで、補助貨幣パラをもつ(1ディナール=100パラ)。
| IV. | 政治 |
議会は一院制で、議員は直接選挙(比例代表制)でえらばれる。定数は250名、任期は4年。元首は直接選挙でえらばれる大統領で、任期は5年である。おもな政党に、極右民族主義のセルビア急進党(SRS)、穏健派民族主義のセルビア民主党(DSS)、欧米的改革を志向する民主党(DS)、経済改革をめざして2002年に結成されたG17プラスなどがある。かつてミロシェビッチ政権をささえたセルビア社会党(SPS)は、議席を大幅にへらしたが一定の勢力をたもち、近年は中道左派政党への脱皮をはかっている。
| V. | 歴史 |
現在のセルビアの地は古代にはイリュリアの一部だったが、44年にローマ帝国に征服され、その属州モエシアとなる。3世紀にはゴート族の攻撃をうけ、395年のローマ帝国分裂後はビザンティン帝国の一部となった。このため、7世紀にモラバ川以西に移住してきたセルビア人も、ビザンティン帝国の支配下におかれることになる。
| 1. | オスマン帝国支配 |
1168年、ステファン・ネマーニャがセルビア人を統一して最初のセルビア王国をうちたてた。セルビアはしだいに拡大し、ステファン・ドゥシャン(在位1331~55年)の時代には、現在のセルビア、モンテネグロ、アルバニア、ギリシャの一部をふくむ地域を領土とした。しかし1389年、同じころに台頭してきたオスマン帝国にコソボの戦で敗北し、1459年にはその支配下に入った。
その後345年におよぶオスマン支配をへて、セルビア人はカラジョルジェのもとでふたたび統一されることになる。1804年にはじまった第1次セルビア蜂起(ほうき)は9年間つづいたが、13年にオスマン支配が復活し、カラジョルジェは国外にのがれた。しかし、15年にミロシュ・オブレノビッチを指導者とする第2次セルビア蜂起がおこり、数カ月のうちにセルビアの大部分が解放された。オブレノビッチは世襲の公とみとめられ、セルビアは一定の自治を保障される。30年には公国として完全な自治を獲得した。
1817年に帰国したカラジョルジェは刺殺されたが、この暗殺にオブレノビッチが関与していたことから、両家の間には対立が生じた。39年、専横的な君主だったオブレノビッチは退位においこまれ、2人の息子が公位をついだ。42年にはカラジョルジェの息子アレクサンダルが即位したが、58年に位をおわれ、オブレノビッチ家の支配が復活する。復位したミロシュの息子ミハイロは67年、巧みにオスマン軍を完全撤退させたが、翌年暗殺されたために、いとこのミランがあとをついだ。
| 2. | オーストリア・ハンガリーの支配 |
1877~78年のロシア・トルコ戦争でセルビアはロシアと同盟し、バルカンでトルコをやぶった。セルビアはベルリン会議(1878年)で独立を承認されたものの、結果的にはオーストリアに従属することになった。82年、ミランはオーストリアの支持をえてセルビア国王となり、85年にはブルガリアと東ルーメリアの併合をくわだて、ブルガリアに宣戦布告した。セルビアはオーストリアの介入によりかろうじて勝利したが、対ブルガリア戦での失態に刺激された急進派は改革に着手し、89年には自由主義的な憲法を起草、ミランを退位においこんだ。
ミランの息子アレクサンダルが王位についたが、反動的な政策と腐敗の蔓延(まんえん)のために批判をあび、1903年に暗殺された。セルビア議会はカラジョルジェビチ家のペータルを国王に選出する。ペータルは政治の自由化につとめ、急進党の創設者ニコラ・パシッチが首相として外交政策を担当した。
豚戦争(1905~07年)とよばれる関税論争でかげりをみせていたセルビアとオーストリアの関係は、1908年のオーストリアによるボスニアとヘルツェゴビナの併合によって決定的に悪化する。セルビアがバルカン戦争(1912~13年)の結果、マケドニアの一部、ノビパザル、コソボなどを獲得したことから、オーストリアはバルカンにおけるセルビアの勢力伸張に危機感をつのらせた。
| 3. | 第1次世界大戦 |
1914年6月28日、ボスニアのサラエボでオーストリア皇太子夫妻がセルビア人民族主義者に暗殺されるという事件(サラエボ事件)がおきると、オーストリア政府はセルビアの責任を追及し、7月宣戦を布告。オーストリアを支援するドイツと、ドイツの勢力拡大を警戒するロシア、フランス、イギリスなどが参戦して、第1次世界大戦がはじまった。セルビアは、8月に侵攻してきたオーストリア軍をいったんは駆逐したものの、12月までにドイツ・オーストリア同盟軍に占領される。16年、セルビア政府はギリシャ領のコルフ島(ケルキラ島)へのがれた。
| 4. | ユーゴスラビアへの参加 |
亡命政府は南スラブ人の統一国家をつくるというコルフ宣言に同意した。第1次世界大戦終結後の1918年12月、セルビア、クロアチア、スロベニアの指導者が「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」の成立を宣言。29年に「ユーゴスラビア王国」と改称した。
第2次世界大戦中、1941年にドイツに占領され、ミラン・ネディチ将軍の傀儡(かいらい)政権がつくられた。枢軸国の敗北後、共和国宣言がなされ、45年、セルビアはユーゴスラビア連邦人民共和国を構成する一員となった。
以後のユーゴスラビア時代は、ユーゴスラビア(旧)を参照。
| 5. | 新ユーゴスラビアの形成 |
1991年、ユーゴスラビアが解体しはじめたとき、セルビアはそれまでの主導的な地位を保持し、また、ほかの共和国にすむセルビア人を保護するため、連邦の維持を主張した。クロアチア、スロベニア、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴビナの4共和国が独立を宣言したあと、のこされたセルビアとモンテネグロは92年4月にユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴスラビア)を形成した。しかし、国際社会はこれを承認せず、国際連合(国連)への加盟も拒否した。
1989~97年にセルビア大統領の座にあったミロシェビッチ(1997年からはユーゴスラビア大統領)は、政敵の追放、マス・メディアの統制などによって権力の保持をはかると同時に、91~92年にかけて次々と独立を宣言した4共和国に対して、連邦軍の名で干渉をくりかえした。そのため、とりわけセルビア人が多くすむボスニア・ヘルツェゴビナでははげしい内戦となった(→ ボスニア紛争)。この内戦は95年のデートン協定で終結したが、ユーゴ連邦は国際的な批判をあびることになった。
一方、ミロシェビッチは、セルビア国内の少数民族に対する抑圧も強めた。とくにアルバニア人の多いコソボ自治州に対しては1989年から軍事支配をつづけ、アルバニア人を職場から追放したり住居からの立ち退きをせまるなど、差別的な政策をおこなった。90年には、コソボおよびボイボディナ両自治州の議会と政府を解散させ、自治権をうばった。このため、セルビアを脱出する者があいつぎ、コソボの独立またはアルバニアとの合併、ボイボディナの自治復権を主張する声が高まった。
| 6. | コソボ紛争 |
1996年4月、コソボでアルバニア系学生がセルビア人に射殺される事件がおこり、セルビア人とアルバニア人の衝突がはげしくなった。コソボ独立をめざすアルバニア人武装組織のコソボ解放軍(KLA)が結成され、穏健派をおしのけて主導権をにぎった。
1998年2月末、セルビア治安部隊がコソボ解放軍の掃討作戦を開始し、本格的な戦闘がはじまった。セルビア治安部隊は、アルバニア人の家屋破壊、無差別殺害をすすめ、国際的な非難がまきおこった。数十万のアルバニア人が難民となって、アルバニア、マケドニアなど周辺諸国へのがれた。9月、国連安全保障理事会の即時停戦決議、10月、NATO(北大西洋条約機構)の軍事介入警告、ヨーロッパ安全保障協力機構(OSCE)による監視団常駐によって事態は一時沈静化した。
1999年2月から、ユーゴスラビア連邦・セルビア共和国政府とアルバニア系住民の和平会議が、アメリカ、ロシアなど6カ国の仲介でおこなわれた。3月、アルバニア人側は6カ国提案の暫定協定案を受諾したが、連邦側は拒否した。コソボ監視団が撤退し、3月24日、NATO軍によるユーゴスラビア各地への空爆が開始された。連邦軍がコソボに本格投入され、セルビア人民兵組織もくわわって、アルバニア人に対する「民族浄化」作戦がすすめられた。
6月3日、連邦政府は和平案を受諾、10日空爆は停止された。国際治安部隊が派遣されるとともに、国連コソボ暫定統治ミッション(UNMIK)が発足し、コソボは事実上、国連管理下におかれた。今度は逆に、アルバニア系住民によるセルビア人に対する報復事件が頻発し、セルビア系住民の流出がつづいた。
国連管理下で、2000年10月にコソボ内各自治体の議会選挙、翌01年11月には州議会選挙がおこなわれた。これらを通じてコソボは、UNMIKの管理下ではあるが、自治政府をもつ「準国家」的な存在となり、セルビアとの関係はたたれた。
| 7. | ミロシェビッチ体制の崩壊 |
この間、1997年にユーゴスラビア連邦大統領に転出したミロシェビッチのあとのセルビア共和国大統領には、腹心のミルティノビッチがついた。コソボ紛争中もミロシェビッチ体制は維持されたが、世界各国による経済制裁が長期化する中で国民の生活は悪化し、民族主義をあおるミロシェビッチの支配はくずれていった。
2000年9月のユーゴスラビア連邦大統領選挙で野党連合候補のコシュトゥニツァにやぶれたミロシェビッチは、セルビア社会党内の支持も急速にうしない、その社会党も一般の支持をうしなった。同年12月におこなわれたセルビア議会選挙では、コシュトゥニツァを支持する民主野党連合が圧勝、社会党は惨敗した。
オランダのハーグにもうけられている国際連合(国連)の旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷は、コソボ自治州のアルバニア系住民に対する殺人や迫害などの罪でミロシェビッチを起訴、国際逮捕状を出していたが、セルビア政府は、2001年6月28日にミロシェビッチを戦犯法廷にひきわたした。それに先だつ4月1日に職権乱用の容疑でセルビア当局はミロシェビッチを逮捕したが、戦犯法廷への引き渡しについてはコシュトゥニツァ連邦大統領が慎重な態度をとり、セルビア共和国首相のジンジッチがそれを無視したかたちで強行した。ミロシェビッチに対する裁判は、7月3日にはじまった(のちの2006年3月、ミロシェビッチは裁判中に死亡)。
| 8. | 連合国家への移行 |
ボスニア紛争やコソボ紛争によって国際的な制裁をうけたユーゴ連邦は、経済的な困難におちいり、これらの紛争に直接かかわっていなかった連邦構成国のモンテネグロは、しだいに独立への傾向を強めていった。コシュトゥニツァ大統領は連邦の再編を模索したが、モンテネグロとの調整は難航した。モンテネグロの独立がコソボやマケドニア、ボスニア・ヘルツェゴビナにあたえる影響を懸念したEUが仲介に入り、2002年にようやく合意が成立した。
2003年2月の連邦議会は新憲法案を採択、その結果、ユーゴ連邦は連邦制から連合国家に性格をかえ、連合政府の権限は大幅に縮小された。国家名も「セルビア・モンテネグロ」にかわり、1929年以来つかわれてきたユーゴスラビアという国名は消滅した。初代大統領には、共通議会で選出されたモンテネグロのマロビッチが就任した。新憲法には、3年後にモンテネグロで独立の是非を問う国民投票をおこなうこともふくまれていた。
新連合国家がうごきはじめた2003年3月、独立国家のゆるい連合体を主張してきたセルビアのジンジッチ首相が、ミロシェビッチ時代から暗躍していたマフィアによって暗殺され、非常事態宣言が出される事態となった。後任の首相にはジブコビッチ元ユーゴ連邦内相が就任し、ジンジッチの改革路線は継承されることになった。
この間の2002年10月にセルビア共和国の大統領選がおこなわれ、連邦大統領からの鞍替(くらが)えをはかるコシュトゥニツァが多くの票を獲得した。しかし、規定の投票率50%にとどかず不成立となった10月につづき、12月の再選挙でも投票率が50%をわり、これも不成立となった。03年11月におこなわれた大統領の再々選挙には、コシュトゥニツァがひきいるセルビア民主党が、大統領選出を議会でおこなうよう主張してボイコット、結局この選挙も、3回の中で最低の投票率で不成立となった。
2003年12月には共和国議会選挙がおこなわれ、極右民族政党といわれるセルビア急進党が約3割の得票率で82議席をえ、第1党となった。同党の躍進は、ミロシェビッチ体制崩壊後の民主改革派政権が国民生活を向上させることができず、国民が嫌気をおこした結果だった。なお、この選挙には、公判中で拘置所に収容されているミロシェビッチ党首を、セルビア社会党が比例代表名簿1位で登載、同党は議席配分条件の得票率5%を突破して22議席を獲得、ミロシェビッチは当選した。また、躍進したセルビア急進党の党首で同党の名簿1位に登載されたシェシェリも、ミロシェビッチと同様拘置されていたが、当選した。ただし、2人とも実際の議会活動が不可能なため、それぞれの党が提出した議員名簿にはふくまれなかった。
共和国議会選挙後の連立政権づくりは難航したが、2004年3月、セルビア民主党を中心に、コシュトゥニツァを首相とする連立政権が誕生した。この政権には第1党のセルビア急進党はもちろん、第3党の民主党も参加しなかったため、少数政権となった。
一方、4回目の大統領選挙は、投票率が50%に達しない場合は無効とするとの規定を議会で廃止して、2004年6月におこなわれた。決選投票の末、民主党のボリス・タディッチが、セルビア急進党のトミスラフ・ニコリッチをやぶり当選した。極右民族政党のセルビア急進党に対し、コシュトゥニツァ首相ら与党陣営がタディッチ支持にまわった結果であった。
| 9. | モンテネグロが分離・独立 |
2003年2月の連合国家への移行の際に実施がきめられていたモンテネグロでの国民投票は、06年5月におこなわれ、独立支持が55%をこえた。この結果、6月にモンテネグロは正式に独立、セルビアは単独の共和国となった。これによって旧ユーゴスラビアはもとの6カ国に解体した。あらかじめの合意により、セルビア・モンテネグロの国連議席など国際的な地位は、セルビアが継承することになった。
モンテネグロとの連合解消をうけてセルビア議会が可決した新しい憲法案が、2006年10月の国民投票で承認された。ミロシェビッチ時代の1990年に制定された憲法にかわるものだが、新憲法は、将来的地位が未確定のコソボ自治州を「不可分のセルビア領土」と明記しており、コソボの独立を要求しているアルバニア系住民の大半は国民投票をボイコットした。
2006年11月、セルビアは「平和のためのパートナーシップ」(PfP)への参加がみとめられ、NATO(北大西洋条約機構)加盟にむけて一歩前進した。一方、EU(ヨーロッパ連合)加盟の前段階となる安定化・連合協定(SAA)の締結交渉は05年10月に開始されたが、ボスニア内戦時のセルビア人武装勢力の軍事司令官で旧ユーゴ国際戦犯法廷に起訴されているムラディッチの引き渡しに非協力的だとして、06年5月、EUはセルビアとの交渉を停止した。
2007年1月、ミロシェビッチの死後初の総選挙が実施され、前回選挙で最大勢力になった国粋的民族主義のセルビア急進党が81議席をえて第1党を堅持した。しかし同党と連立をくむ政党がなかったため、第2党で親欧米の民主党が中心になって連立交渉を開始。ようやく5月に、民主党、セルビア民主党、G17プラスなどによる連立政権が発足した。首相には、セルビア民主党のコシュトゥニツァが留任した。選挙後、民主派政権の発足を後押しするためSAA交渉再開の条件緩和を表明していたEUは、5月末にセルビア警察がムラディッチの側近を逮捕したことを評価して、6月、凍結していた交渉を再開した。
| 10. | コソボの独立宣言とEU加盟問題 |
国際連合(国連)の暫定統治がつづいているコソボ自治州の将来について、2005年11月からコソボとセルビアの合意をめざして仲介活動をしていた国連事務総長特使のアハティサーリは、07年2月、EU(ヨーロッパ連合)を中心とする国際社会の監督下での実質的独立をみとめる包括的解決案を両者に提示したが、セルビアはこの解決案の受け入れを拒否した。
3月、アハティサーリ特使は調停をうちきり、コソボ独立を勧告する内容の報告書を国連安全保障理事会(安保理)に提出したが、特使の独立勧告を支持する欧米諸国に対して、ロシアは「コソボ独立は周辺地域の民族紛争を誘発しかねない」と独立に反対し、安保理決議は見送りになった。9月からは、アメリカ、ロシア、EUが新たな仲介役となって直接協議がおこなわれたが、進展がないまま12月の交渉期限をむかえた。11月のコソボ自治州議会選挙では、急進独立派の最大野党コソボ民主党が第1党の座を獲得しており、もはやコソボの一方的独立宣言はさけられない情勢となった。
2008年2月3日、大統領選挙の決選投票がおこなわれ、民主党の現職、タディッチがセルビア急進党のニコリッチを小差でやぶり再選をはたした。両者ともコソボの一方的な独立には反対していたが、タディッチはコソボ問題と切りはなしてEUの早期加盟をめざすとし、ニコリッチは、主要国がコソボ独立を支持しているEUへの加盟の見直しを示唆して、1月の第1回投票では首位にたっていた。決選投票で逆転勝利したタディッチは、EU加盟を支持する国民の選択とうけとめた。
2月17日、コソボ自治州議会は臨時議会を開いてセルビアからの独立を宣言した。セルビアとロシアは「一方的な独立の宣言は国際法違反であり、独立は無効」と猛反発したが、アメリカとEU主要国は独立を承認。セルビア政府は、コソボの国際機関加盟を阻止すると表明するとともに、コソボを国家として承認した国に対しては対抗措置を講じるとして、アメリカなどから大使を召還した。ベオグラードでは、コソボ独立に反対する市民の一部が暴徒化してアメリカ大使館などを襲撃する事件もあいついだ。
一方、EUへの加盟をめぐって、タディッチ大統領とコシュトニツァ首相の溝も深まっていった。3月、EUがコソボ独立承認を撤回しないかぎりEU加盟は放棄するというセルビア急進党にコシュトニツァが同調したことで、閣内で多数を占めるタディッチ派との対立は決定的となり、コシュトニツァは連立不可能として辞意を表明。議会は解散し、5月の前倒し総選挙でEU加盟推進の是非を国民に問うことになった。4月末、EUとセルビアは、安定化・連合協定(SAA)に正式調印した。前倒しの協定締結は、EUによるセルビアの親欧勢力支援の一環であり、発効は条件をみたすまで保留とする条件付きである。
5月11日の総選挙では、タディッチの民主党を中心とする政党連合「欧州のセルビアのために」が102議席をえて大勝し、セルビア急進党は第2党に後退した。「欧州のセルビアのために」単独では過半数にたりないことから、セルビア急進党も、コシュトニツァがひきいる第3党のセルビア民主党と協力して民族主義政権の樹立をめざしたが、両陣営から注目されていたセルビア社会党が6月下旬に「欧州のセルビアのために」との連立に合意。7月上旬に、民主党のツベトコビッチを首相とする親EU派政権が発足した。タディッチの側近で経済専門家であるツベトコビッチは、EU加盟にむけてセルビアの経済改革をすすめることを目標にかかげている。