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ナチズム
I. プロローグ

ファシズムの一種で、ドイツの政治運動の中で、1920年にヒトラーが、みずからの党を国民社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei(NSDAP):ナチ党またはナチス)と名づけたことに由来する。33~45年に、ヒトラーが樹立した全体主義国家「第三帝国」において、ナチズムの運動は頂点に達した。

II. ナチズムの起源と勃興

ナチズムは、多くの点でイタリア・ファシズムと似ているが、次のようなドイツ的特殊性をもっている。1つはプロイセンの伝統である軍部の権威主義と対外膨張主義、2つにはドイツ・ロマン主義の伝統である反合理主義・反自由主義・反民主主義、3つ目は北方民族(いわゆる純粋アーリヤ民族)は肉体的・道徳的・文化的に優秀であるとする人種論、そしてもうひとつは国家を理想化し、すぐれた個人を賛美し、因習的束縛から解放するドイツ哲学の伝統である。

こうしたドイツ的思潮の上に、次のような理論が積み重ねられた。地政学者ハウスホーファーは、ドイツ外交に大きな影響をあたえた民族の生存圏という考えをうちだした。ナチ党の理論家ローゼンベルクは、ドイツに帰化したイギリス人チェンバレンの理論を利用して、ナチスの人種理論をつくりあげた。

III. 第1次世界大戦後のドイツ

ナチズムの直接の起源は、第1次世界大戦でドイツが敗北したことにあった。ベルサイユ条約はドイツのみに戦争責任をおわせ、ドイツは植民地をとりあげられ、巨額の賠償金を課された。そのためドイツ国民は深刻な政治的・経済的破局になげこまれ、1923年に頂点に達した1兆倍という史上最悪のインフレは、中間層の人々を完全にうちのめした。貧困にあえぎ絶望的となった中間層の多くは、戦後の数年間に誕生した急進的政治集団の宣伝にとりこまれていった。

さらに、経済的安定の方策がとられてから数年しかたたない1929年には、世界的規模の経済恐慌がはじまり、ドイツをすくいようのない不景気にしずみこませた。この間、民主制ワイマール共和国は、左翼からも右翼からもはげしく攻撃された。この絶望的状態からぬけだすには、共和国はあまりに無力であることが、だれの目にも明らかになっていった。そして33年には、選挙人の大多数が、力のある2つの政党、共産党とナチ党のどちらかを支持した。

IV. ナチ党の結成

ナチ党は、1919年にドレクスラーによってミュンヘンで結成されたドイツ労働者党を起源としている。ヒトラーが入党した9月には、この党は正式党員およそ25人、そのうちわずか6人が、討論集会や講演会で積極的に活動していたにすぎなかった。ヒトラーは、入党してまもなく、党のリーダーとなった。

1920年2月24日にはじめての大衆集会がミュンヘンでひらかれ、ヒトラーは自分も作成に参加した党綱領をよみあげた。25カ条からなる綱領は、大げさな民族主義的要求、ゆがめられた社会主義的思想、反ユダヤ主義のごちゃ混ぜだった。たとえば綱領第25条の内容は、「大ドイツ国家を目標として結集する。ベルサイユ体制の廃棄。ドイツ民族の食糧確保のために領土を要求する。ドイツ人の血統をもつ者にかぎり、民族同胞たることができる」というものだった。

V. 党の指導権をにぎったヒトラー

1920年2月の集会後しばらくして、党は、国民社会主義ドイツ労働者党と改名した。新しくなった党は、バイエルン州を中心に、しだいに成長していった。目的遂行のための暴力の必要性と有効性が認識され、まもなく、突撃隊(SA)という名の武装した私兵が組織された。突撃隊の役割は、集会を防衛し、民主主義者・社会主義者・共産主義者・労働組合員らの集会を破壊し、ユダヤ人とりわけユダヤ商人を虐待することだった。突撃隊の中心となったのは、軍の不平将校たちで、エルンスト・レームが隊長となった。

1921年、ヒトラーは、ナチ党の「第1議長」にえらばれ、独裁的指導権を手中におさめた。同年ナチ党は、正規の党章として、赤地の旗の中央に大きな白い円を配し、円内に黒のカギ十字(ハーケンクロイツ)をかきこんだ旗を採用した。ついでヒトラーは、23年にナチ党の日刊機関紙「フェルキッシャー・ベオバハター(民族の監視者)」の刊行を開始した。19年創設のドイツ共産党がしだいに勢力をのばしていくにつれ、ナチ党は、攻撃の重点をボリシェビズム・共産主義に集中し、共産主義はユダヤ金融家の国際的陰謀であると宣伝した。また、議会制民主主義に対する軽蔑(けいべつ)と、独裁の樹立を盛んにうったえた。

VI. ミュンヘン一揆(ビアホール一揆)

1923年11月8日、武装した600名の突撃隊員とともに、ヒトラーはミュンヘンのビアホールにのりこんだ。そこではバイエルン州総監グスタフ・フォン・カールが、閣僚たちと公開の演説をしていた。ヒトラーは、カールとその側近をとらえ、ルーデンドルフ将軍をともなって、カールの名で国民革命を宣言し、ドイツの新政府樹立を宣言した。そのあとルーデンドルフ将軍はカールを解放したが、カールは、すぐさまヒトラーとルーデンドルフ追撃の措置をとった。翌11月9日、行進する突撃隊は、州警察隊に銃撃され、小競り合いののち、十数名の死者をのこして、ヒトラーと側近たちは逃走した。

こうして、いわゆる「ビアホール一揆(いっき)」は失敗におわった。ヒトラーとルーデンドルフは逮捕され、ルーデンドルフは放免されたが、ヒトラーは裁判にかけられ、5年の禁錮刑を宣告された。ナチ党と突撃隊には、禁止命令がくだされた。この獄中でヒトラーがヘスに口述筆記させたのが、「わが闘争」である。これは、ナチズムの教義、宣伝方法、ドイツ全土とヨーロッパの征服計画について、率直に表明したもので、のちにナチズムの聖典となった。

1926年、ヒトラーは、党の「フューラー」(指導者、のちには総統の意)となり、親衛隊(SS)とよばれる、黒シャツの武装組織を編成した。以後親衛隊は、党とその準軍事組織である突撃隊とを監視・支配するための、エリート部隊として知られるようになる。

1929年、世界恐慌(恐慌)の勃発(ぼっぱつ)によって、外国資本の流入がとだえた。対外貿易は衰退し、ドイツ産業の回転は速度をゆるめ、失業が極度に増大、農産物価格は下落した。不況が深刻化するにつれて、革命成熟の状況があらわれはじめた。ティッセン合同製鋼社会長フリッツ・ティッセンをはじめとする資本家たちは、ナチ党への財政援助をおこないはじめたが、ドイツ資本家の多くは、それまでどおり、ナチ党に反対していた。

VII. ナチ党と国会選挙

ナチ党の運動は急速に発展し、党は多数の人々を吸収してふくれあがった。その中には解雇された家事使用人たち、破産にひんした商店主や小企業家たち、極貧にあえぐ農民たち、社会民主党や共産党に幻滅した労働者たち、そして混乱の戦後期にそだち、生活に必要な収入を得ることができないために生活に絶望した、さまざまな階層の若者の大群がいた。

1930年9月の国会選挙で、ナチ党はおよそ650万票を獲得し、18%以上の得票率をあげた。28年の国会選挙での獲得投票数80万票そこそこ、得票率約2.5%、議席数12と比較すれば、大躍進だった。107議席を得、143議席の社会民主党につぐ第2党となった。460万票を獲得した共産党も、同じく躍進し、77議席を得た。

1932年7月の国会選挙では、ナチ党は1370万票を獲得、得票率37.4%、総議席数670のうちの230議席を占めた。絶対過半数に達しなかったが、いまや第1党となったナチ党に対して、ヒンデンブルク大統領は、ヒトラーのために連立内閣中の副首相の座を提案した。ヒトラーは拒絶し、首相以下ナチ党員による政府を要求した。こうした状態の中で、首相を辞任していたパーペンが画策し、33年1月30日、大統領ヒンデンブルクは、ヒトラーを首相に任命した。このときから党は、ナチ国家の建設に着手した。

新たな国会のための総選挙を数日後にひかえていた1933年2月27日の夜、国会議事堂が何者かの放火によって(おそらくはナチ党によって)炎上した。ナチ党は、事件は共産党のしわざであるとして、翌日大統領緊急令をださせて、共産党を狂暴に弾圧した。まもなく社会民主党も暴力的に弾圧されたが、どちらの党も、組織的抵抗を展開することができなかった。ひきつづきその他の全政党が非合法化され、新党結成の試みは犯罪とされた。こうしてナチ党は、唯一の合法政党となった。

ついで、1933年3月24日の全権委任法によって、国会は立法権を放棄し、その権限を政府に委譲したが、この全権委任法は、共和制の終焉(しゅうえん)をしめすものだった。ヒトラー政府は、どんな内容のものでも、すぐさま法律として発布することができることになり、独裁体制がかためられていった。そして、12月1日の法令によって、ナチ党と国家は一心同体とされた。

VIII. ナチズムの宣伝と普及

ナチ党は1930年初めには多くの日刊紙・週刊紙を発行してナチズムの大衆化につとめ、演説者はマイク、スピーカー、レコードなど当時の最新の技術を導入して自説をうったえた。また、全国各地区に党組織をもうけ、それを大管区、管区、郡支部、細胞、ブロックにくくりピラミッド状に整備して党指導部の命令系統の一元化をはかった。ゲッベルスが啓発宣伝相になってからは新聞をはじめ文化全体を国家が統制するようになり、芸術家たちをたばねるドイツ国文化院や、ナチ教師同盟、ドイツ文化擁護同盟などを通じてナチズムの宣伝をおこなった。

IX. 1933年以後のナチ党組織

以後、ナチ党組織は、ドイツの国家と社会を全体主義的に支配する主要な道具となり、党の指導層がその支配を行使した。ほとんどの国家・州・市町村の上層官僚は、またたく間に忠実なナチ党員によって占められた。18歳以上の「純粋」ドイツ人からなるナチ党員は、総統に忠誠をちかい、彼らの行動は帝国法によって特別なナチ党裁判所でしかさばかれないことになった。名目上は入党は自由意志によってなされ、数百万人がすすんで入党したが、意に反して入党を強制された多くの人々がいた。とりわけ官吏が、入党を強要された。こうして、最盛期には約700万の党員を擁したといわれる。

ナチ党の第一の補助組織は、突撃隊(SA)である。突撃隊は、「国民社会主義革命の守護者」「国民社会主義の前衛」と称されたが、実質はテロの機関だった。とくにナチが政権を掌握したあとの数カ月間、反対者を虐殺し、弾圧し、その職をうばい、にわか仕立ての強制収容所におくりこんだ。その後、突撃隊は、毎年、貧民のための「冬季救済」募金をおこない、ドイツの労働者・農民から多額の金銭を徴収した。

もうひとつの重要な党機構は、親衛隊(SS)である。親衛隊は、突撃隊とならぶテロの機関だったが、大戦時には、国防軍が劣勢のとき前線に支援部隊を投入した。親衛隊は、党・国家の諜報機関である保安部(SD)とくんで、戦争末期には党そのものを支配した。保安部は強制収容所を運営し、何百万人という犠牲者をだした。

ナチは、党の青少年組織ヒトラー・ユーゲント(HJ)をドイツ唯一の青少年団体とし、10歳から18歳までの少年少女を訓練して、国防軍、突撃隊、親衛隊、党におくりこんだ。

秘密国家警察ゲシュタポは、1933年に、ヒトラー体制の反対者を弾圧するためにもうけられ、36年に正式に国家機関にくみこまれたが、その際、法の統制に服さず、ただゲシュタポ指導者ヒムラーと総統ヒトラーに対してのみ責任を負うと宣言された。

X. ドイツ社会の再編

1933~35年、国内の民主的制度は、完全なまでに中央集権化された国家にとってかわられた。州政府が従来おしすすめてきた広範な自治は廃止され、これらの準国家的機関は、きびしく統制された中央政府の道具に改変された。国会は儀式をとりおこなう機能しかもたず、もはや立法機能をもたなかった。一元化(同質化)とよばれるナチ化政策の進行にともなって、商業・労働・農業・教育・文化の分野で、すべての組織がナチ党の支配と命令に服することになった。プロテスタント教会にも、ナチズムの教義が導入された。ユダヤ人だけは、特別法によって法の保護から排除された。

権力掌握の過程で、ナチ党指導部が直面したもっとも困難な問題は、失業問題だった。この時期ドイツの産業は、全能力の58%しか操業できず、失業者数は600~700万人とみつもられた。ナチ党員の中にも、数万人の失業者がいたが、彼らは、ヒトラーが、国民社会主義の宣伝中にふくまれていた反資本主義的政策を実現し、独占企業と独占カルテルに終止符をうち、小経営の大量創設によって産業を復興するだろうと、期待をかけた。

ナチ党の大衆党員は、「第2革命」を要求した。エルンスト・レームがひきいる突撃隊は、この第2革命のプログラムとして、突撃隊が国防軍にとってかわることを主張していた。ヒトラーは、平民的な国民社会主義体制をえらぶのか、それとも大工業と国防軍参謀本部との同盟をえらぶのかという、二者択一をせまられた。そして彼は、あとの道をえらんだ。

のちに「長いナイフの夜」として知られる1934年6月30日の夕べ、ヒトラーは、国防軍を挑発する恐れのあった手におえない突撃隊の隊員たちの殺害を、親衛隊に命じた。突撃隊隊員と、レームをふくむ党内指導者、そして400人から1000人にのぼるその支持者たちが、多くは反ヒトラー行動とはなんのかかわりもなかったが、殺された。粛清は、シュライヒャー将軍や、ホーエンツォレルン家王朝の復活を主張する王党派のような他の政敵をも、暗殺リストにふくめていた。

XI. 戦争経済としての「新秩序」計画

反対政党への弾圧と血の粛清も、失業問題を解決しなかった。失業をなくすために、ヒトラーは、ドイツ産業を復興しなければならなかった。彼が採用した解決策は、「新秩序」とよばれるもので、基本とする前提は、次のとおりだった。ドイツ産業の能力をフルに発揮させ高収益をもたらすには、国際貿易・工業・金融におけるドイツの指導力を回復するしかなく、原料の供給源については、かつて他国にうばわれたものはとりかえし、その他のものについては、支配の確立が必要である。そのためにじゅうぶんな量の商業用船舶、近代的な鉄道・航空・自動車運送システムの建設が必要であり、最大限の効率を達成するため、産業の再編成が必要である、というものだった。

これらの前提から、2つの結論が必然的にみちびきだされた。第一の結論は、計画の完全遂行のためには、ベルサイユ条約によっておしつけられた経済上・政治上の制限をとりのぞくことが必要であり、それは最終的には、戦争をひきおこさずにはおかないということである。したがって、経済は、戦争経済として再編されねばならず、戦略物資の原料の自給自足と、国内生産だけでは不足しかつ外国からの輸入も安定しない原料については、合成代用品の生産を発展させなければならない。また、じゅうぶんな量の食糧供給を確保するには、農業発展を管理統制しなければならない、ということだった。

第二の結論は、労働組合とその関連組織の再編、そして企業の再編が必要であるということである。まず労働組合と協同組合の廃止、組合財産の没収、労働者と雇用主との集団交渉の排除、ストライキとロックアウトの禁止、国家が管理するドイツ労働戦線(DAF)への労働者全員の強制加盟がきめられた。そして賃金は、経済省によって決定され、経済相が任命する労働管理官とよばれる政府の官吏が、賃金・労働時間・労働条件についての全問題をあつかった。

また、経済省は、既存のカルテルを大きく拡大し、全産業をカルテル化した。同様に銀行も一元化され統合された。私有財産権は維持され、すでに国有化された企業は、「再私有化」、すなわち私的所有にもどされたが、すべての経営者が、国家のきびしい統制に服した。

結局のところ、「新秩序」とは、4つの銀行と少数の巨大合同企業によって、経済的に支配される体制であった。そこには、軍事鉄鋼企業の大帝国をなしたクルップ一族と、染料・合成ゴム・合成石油その他の製品を生産し、400もの企業群を子会社として支配下においた悪名高きファルベン化学工業がふくまれていた。これらの企業のいくつかは、何百万人もの強制収容者と占領地住民を奴隷労働として利用した。さらに、これらの企業カルテルは、ヒトラー政府が、何百万人ものユダヤ人、ポーランド人、ロシア人その他の人々を、組織的・科学的に絶滅するのに使用する用具をも供給した。ジェノサイド:ホロコースト

XII. ナチズムがもたらしたもの

「新秩序」体制の創建によって、ナチスは、失業を一掃することができた。ドイツ人労働者と農民に、ある程度満足できる生活水準をあたえ、国家・産業・金融の支配的エリート層を裕福にし、こうして途方もない戦争機械をつくりあげた。国内での「新秩序」建設に並行して、ナチスは、政治上も外交上も、より強大なドイツの樹立をおしすすめた。

「ナチズムはドイツ社会の諸問題を解決した。それは1000年にわたって存続するだろう」とヒトラーは自画自賛した。ナチ党は、ワイマール共和国が非力のために対処できなかった問題を解決した。ナチ党は、弱体の共和国を、工業的にも政治的にも強力な国家に改造した。これらは、紛れもない事実である。しかし、この国家改造が、第2次世界大戦の恐怖と、人間の歴史におけるもっとも血生ぐさいもっとも破滅的な闘争という犠牲をはらったことも、同じく事実である。ドイツ国民は、ヒトラー政権下とその後の時期に、苦しみをたえしのばなければならなかった。ナチズムのもっとも悲惨な面は、約600万人のヨーロッパ・ユダヤ人の組織的殺害であった。

戦後の西ドイツでは、小さなネオ・ナチ運動がつづいた。ネオナチズムは、1990年の東西ドイツ統一後も、いくらかの人気を博している。この運動は、主として不満をもった若者たちによってになわれ、彼らは、ユダヤ人、黒人、同性愛者、その他社会内少数派を暴力的攻撃の対象としている。