| 検索ビュー | パリ | 項目ビュー |
| I. | プロローグ |
フランス北部、セーヌ川とマルヌ川の合流点付近に位置する同国の首都。フランス最大の都市で、セーヌ川がながれるパリ盆地にあり、一帯は古くからイルドフランス(「フランスの島」の意)とよばれた。パリにはいくつかの丘があり、もっとも高い地点は標高129mのモンマルトルの丘である。
パリ市の人口は215万3600人(2005年推計)。イルドフランス全域が人口約1000万人の大都市圏を形成し、この都市圏には、フランス全土の20%に近い人々がすんでいる。海洋性の温帯気候のため、1月の平均気温が2.8°C、7月の平均気温が18.9°Cで、1年を通じて雨は少ない。
| II. | 経済 |
パリはフランス商工業の中心地で、フランスの製造業のおよそ4分の1がパリ大都市圏に集中している。機械、自動車、車両、化学薬品、電気製品、ハイテク産業などである。マスコミ、出版、広告、ファッション関連産業の中心でもある。
フランス金融業の中心で、EU(欧州連合)発足後のヨーロッパ金融の一大中心地になろうとしている。ビジネス情報に関しては、現在でもヨーロッパ随一といってよい。また、ヨーロッパでもっとも豊かな農業・漁業地域を周辺にひかえ、食糧の確保が容易で、食文化の世界的中心ともなっている。
セーヌ川を利用した水運によって、昔からパリは流通の中心だったが、それは今日でもかわらない。ヨーロッパ鉄道網の中心でもあり、TGV(超高速列車)によって南フランスのリヨンまで500kmを2時間でむすんでいる。高速道路をふくむ道路網も発達し、国内各地やヨーロッパの国々に連絡する。ド・ゴール国際空港は、ヨーロッパ航空路の中心となっている。
| III. | 都市の景観 |
パリの形はほぼ円に近く、セーヌ川によって2つにわけられる。セーヌ川はパリの南東から北西にむかい、ついで南西にながれる。川の中にはシテ島とサンルイ島がある。パリは、シテ島を中心に同心円状に発展し、古い城壁の外側に一回り大きな城壁をきずくとそれまでの城壁をとりこわして大通りとした。そのため現在では、放射状に広がる道路と3重の環状大通りがパリの主要な交通路となっている。
パリ旧市街は西のブーローニュの森と東のバンセンヌの森によって画される。どちらももとは王家の狩猟場だった。ブーローニュの森には、湖、競馬場がある。バンセンヌの森には、動物園、花の公園、博物館がある。市内には、もとは宮殿の庭園だったリュクサンブール公園とモンソー公園、採石場だったビュット・ショーモン公園がある。そのほか植物園、チュイルリー公園、シャン・ド・マルス公園など、多くの緑地が点在する。錯綜した通りをむすぶ広場もパリを特徴づける。広場は、馬車が主要な交通機関だった時代に駐車場としての機能をはたしたが、広げられ、整備されたのは19世紀後半である。コンコルド広場はルイ15世の時代につくられ、フランス革命のときにはここで多くの人がギロチンの犠牲になった。現在シャルル・ド・ゴール広場とよばれるエトワール広場には、ナポレオン1世の命によって建築がはじまり、その死後十余年をへて完成した凱旋(がいせん)門がたっている。よく知られた通りとして、リボリ通り、ラ・ペ通り、フォーブール・サントノレ通り、オペラ座通り、イタリア通り、モンパルナス通り、シャンゼリゼ通りがある。
パリのシンボルともいえるエッフェル塔は、1889年のパリ万国博覧会(→ 博覧会と展示会)のために建設された比較的新しい建造物だが、重要な建物では、シテ島にあるノートル・ダム大聖堂がもっとも古く、1163年に建築がはじまった。同じシテ島のサント・シャペル礼拝堂はステンド・グラスのうつくしい13世紀のゴシック建築である。ルーブル美術館はかつて宮殿であった。ルイ14世によって、兵士の療養所として建設されたアンバリッド(廃兵院)には、ナポレオンの墓がある。ほかに重要な建物として、シャイヨー宮殿、パレ・ロワイヤル、現在は大統領府であるエリゼ宮殿、国民議会のあるブルボン宮殿、パレ・ド・ジュスティス(裁判所)、フランスの偉人の霊廟(れいびょう)であるパンテオンなどがある。
パリは近年まできびしい建築制限がおこなわれ、建物の高さは20m、ほぼ6階に制限されてきた。しかしとりわけ1980年代以後、パリの景観は大きく変化しつつある。ブーローニュの森の北西のラデファンス地区には高層オフィス街が出現した。旧市街でもモンパルナスの駅にたつ超高層ビルやエッフェル塔から下流のセーヌ川沿いの高層の職住地区は、はげしい議論をよんだ。高層建築ではないが中央市場の移転跡地にたてられたショッピング・センターのフォルム・デ・アル、バスティーユ広場に面してたてられた新オペラ座などが、新しいパリを代表する。
| IV. | 教育と文化 |
セーヌ右岸の商業地域と対照的に、左岸には、中世からソルボンヌを中心に学生街が広がっていた。ヨーロッパ各地からあつまった学生たちの共通語はラテン語であったため、この地域はカルティエ・ラタン(「ラテン区」の意)とよばれてきた。ソルボンヌから発展したパリ大学は、フランス最高の権威をほこっていたが、1968年5月の学生反乱をきっかけとする教育改革で、13の大学に分割された。ほかに高等教育機関として、コレージュ・ド・フランス(1530年創立)、エコール・ポリテクニク(1794)、各種の高等専門学校などがある。
世界でも最大級の図書館である国立図書館は、シャルル5世のコレクションからはじまり、900万冊以上の書籍と充実した版画や写本の部門をもつ。おもな劇場としては、オペラ座、コメディ・フランセーズ、オペラ・コミック、オデオン座などがある。
パリには美術館・博物館が100以上ある。1793年に開館されたルーブル美術館は、現在225のギャラリーと40万点余りの所蔵品を有し、世界でもっとも大きな美術館のひとつである。1977年に設立されたポンピドゥー・センターには、20世紀の芸術・文化をあつめた国立近代美術館がある。鉄道駅をそのまま美術館としたオルセー美術館は、おもに印象派の作品を展示している。そのほかパリ市立近代美術館や17世紀の貴族の屋敷「塩の館」にピカソの作品を多数あつめたピカソ美術館、15世紀の城を美術館として中世の芸術作品をおさめる中世美術館、東洋美術のギメ美術館、ロダン美術館など。
| V. | 歴史 |
前3世紀の中ごろ、ケルト人の部族のひとつ、パリシイ族がシテ島を要塞(ようさい)にしてすみついた。パリという名称は彼らにちなむ。前52年に一帯は、カエサル指揮下のローマ軍の手におちた。ローマ人はセーヌ川の左岸に町を拡大し、そこに浴場、劇場を建設した。
後3世紀の中ごろ、キリスト教が聖ドニによってもたらされた。聖女ジュヌビエーブは451年アッティラのひきいるフン族が侵入した際、市民にパリを放棄しないようよびかけて、パリの守護聖人となった。
| 1. | 中世 |
ゲルマン人の侵入により、ローマ人のパリ支配はおわり、508年にフランク族の王クロービスの支配するところとなった。クロービスの継承者たちはパリにはすまなかったが、9世紀のバイキングの侵入以後、カペー朝はパリをフランスの首都とさだめ、都市を再建した。1163年にノートル・ダム大聖堂、1248年にサント・シャペル、1301年に宮殿(今日のコンシェルジュリ)がシテ島に建設され、島はフランスの心臓部となった。
フィリップ2世は1190年に右岸の周囲を城壁でかこみ、1210年には左岸をかこんだ。右岸にはルーブル宮殿が創建された。こうして中世のパリは3つの部分、すなわちシテ島、右岸の市街、左岸の大学からなっていた。国王の任命するパリ奉行がパリを統治したが、商人の代表が市庁舎を活動の舞台にして、同職ギルドをとりしきり、事実上のパリ市長の地位にあった。
12世紀以降、フランス南西部のアキテーヌ地方はイギリス領となっていた。イギリスからパリをまもるために、シャルル5世(在位1364~80)は左岸の城壁を修理し、右岸では、現在は環状道路となっている所に新しい城壁を建設した。この城壁のおかげで、パリはルーブル宮殿をこえて西のほうへ拡大し、パリの東側はバスティーユ要塞でまもられることになった。イギリスとの百年戦争の間に、パリの民衆は何度も国王の権力に反抗し、一時はイギリスがパリを支配下においたこともある(1422~39)。平和と繁栄がもたらされたのは、15世紀後半になってからである。
| 2. | 近代的なパリの出現 |
フランソワ1世(在位1515~47)はルーブル宮殿を改築し、新しい市庁舎を建築するとき、イタリア・ルネサンス文化を導入した。しかし、カトリックとユグノー派プロテスタント間の宗教戦争がおこり、パリは混乱におちいった。フランソワ1世の息子の妃となったカトリーヌ・ド・メディシスは、1572年にサン・バルテルミの虐殺をひきおこして宗教戦争を激化させた。ようやくパリに平和がもどったのは、ブルボン王朝の始祖アンリ4世がパリに入城した94年になってからである。ブルボン王朝はパリに古典様式の建築と絶対主義をもたらした。今日のボージュ広場、シテ島のポン・ヌフ(新橋)、リュクサンブール宮殿などは、ブルボン王朝がパリを新しいローマたらんとした意図をしめしている。ルイ14世は夜間照明をふやし、給水施設を整備し、傷病兵の病院アンバリッドを建設して、都市機能を改善した。ルイ15世は荘厳なコンコルド広場をつくらせた。
パリの民衆は国王に対してたびたび反乱をおこしていた。このためルイ14世はベルサイユに居をうつしている。1789年にはじまるフランス革命では、パリの民衆は先頭にたってバスティーユ要塞を攻撃し、王権を転覆し、第1共和政を樹立した。フランス革命とそれにつづくナポレオンによる帝政のもとで、パリを頂点とする近代中央集権国家が確立する。
19世紀の間、パリはいくたびとなく革命の中心となった。現在パリ市の周縁をなす環状大通りとなっている新しい城壁が1844年に建設された。ナポレオン3世の命をうけたセーヌ県知事オスマンは、52年パリの改造に着手した。ブーローニュの森やバンセンヌの森を公園として整備し、まがりくねった街路をとりこわして幅の広い大通りにつくりかえ、広場によってそれらを連結し、ほぼ今日のパリの街路をつくりあげた。セーヌ川の左右に大下水道を建設し、パリの汚水はセーヌ川の下流で放水されるようになった。オペラ座がこの時期の建築様式をしめしている。
1870~71年のプロイセン・フランス戦争とパリ・コミューンによって、パリの改造は中断された。パリ・コミューンの最後の戦闘はペール・ラシェーズ墓地を戦場にしておこなわれ、2万人のパリ市民が犠牲となった。この内戦で、フランソワ1世時代の市庁舎やカトリーヌ・ド・メディシスによってたてられたチュイルリー宮殿が焼失した(市庁舎はほどなく再建された)。
戦争と内戦にあれた国民の心をしずめるために、サクレ・クール教会がモンマルトルの丘に建設された。1871年から第1次世界大戦勃発(ぼっぱつ)までの間、パリはかつてない繁栄をむかえ、ベル・エポック(よき時代)とよばれる。74年、パリで第1回展を開いた印象派(→ 印象主義)の画家たちは近代都市化するパリの街角などをこのんで題材にえらんだ。万国博覧会が活気をもたらし、新しい芸術として台頭したポスターが世紀末のパリの華やかな風俗をうつした。この時代の建築物は、アール・ヌーボー調の内装で知られるリヨン駅、アレクサンドル3世橋、地下鉄(メトロ)の駅入り口、エッフェル塔など、鉄と鉄道の時代を象徴している。そして第1次世界大戦後の1920年代のパリには一群の外国人美術家たちがすみついた。彼らはエコール・ド・パリと総称された。
| 3. | 現代のパリ |
ブーローニュの森とバンセンヌの森は、長い間パリの膨張をくいとめてきた。しかしとくに第2次世界大戦後は、旧市街の人口はむしろ減少傾向をみせている反面、2つの森をこえて巨大な大都市圏が2重3重に形成された。
パリは中世の昔から学問と芸術の都としてヨーロッパ各地から人々をひきつける国際都市だった。また、20世紀のおもな前衛芸術運動や思想の展開される舞台だった。しかし一方で、近年は中東、アフリカ、東ヨーロッパ、アジアからの移民を多くかかえ、社会的緊張も高まっている。EU統合をひかえ、パリは今変化のただなかにある。