| 検索ビュー | フィレンツェ | 項目ビュー |
| I. | プロローグ |
イタリア中部、トスカーナ州フィレンツェ県の州都、県都。英語ではフローレンスFlorence。アペニノ山脈の麓(ふもと)、アルノ川の両岸に広がる都市で、最初に定住したのはエトルリア人(→ エトルリア文明)とされる。ゴシック様式、ルネサンス様式の建物、美術館、博物館、庭園は世界的に有名である。フィレンツェには、北イタリアとローマをむすぶ鉄道や主要な幹線道路が通じ、商業、交通、工業の中心地となっている。ワイン、オリーブ油、野菜、果実、生花が取り引きされる。オートバイ、自動車部品、農業機械、精密機器の製造や食品加工業が盛んである。また、銀細工、金やカメオなどの宝石類、わら細工、革製品、ガラス、陶器、木彫、家具などの手工業は、伝統的なフィレンツェの産業として有名である。人口は36万5966人(2007年推計)。
| II. | 芸術と文化 |
| 1. | 建築の宝庫 |
フィレンツェの町には、パラッツォ(邸館)や教会の塔がたくさんたちならぶが、なかでもアルノ川右岸にあるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂が目をひく。巨大な丸屋根がそびえるゴシック様式の大聖堂で、外壁は赤、緑、白の大理石で華麗に装飾されている。この聖堂は、1296年フィレンツェの建築家アルノルフォ・ディ・カンビオによって着工され、その後多少の設計変更をへて、1420~61年ブルネレスキが技術的に困難だった巨大なドームを完成させた。ファサードは19世紀後半のものではあるが、聖堂の調和をそこなうことなくこの大建造物の全体の様式にしたがって忠実につくられた。大聖堂のわきにたつ14世紀の鐘塔はジョットによって着工され、ピサーノにひきつがれた。みごとな浮彫がほどこされ、イタリアでもっともうつくしい塔とされている。
大聖堂の正面にある八角形をしたサン・ジョバンニ洗礼堂は、大部分が11~15世紀に建設されたロマネスク建築だが、5世紀ごろに建設された部分もある。この洗礼堂は、金箔(きんぱく)をぬった青銅の扉で名高い。とくに有名なものが東扉で「天国の門」とよばれ、金細工師ギベルティが旧約聖書中の場面を浮彫で表現している。
| 2. | 中世・ルネサンスのパラッツォと彫刻 |
大聖堂の近くには、パラッツォ・バルジェロあるいはパラッツォ・デル・ポデスタとよばれる要塞(ようさい)のような建物(13~14世紀)があり、現在は国立のバルジェロ美術館となっている。この美術館にはロッビア父子制作の釉薬をかけてやきあげたテラコッタの作品や、ドナテロ作の彫刻がおさめられている。
シニョリーア広場には1576年に完成したネプトゥヌスの噴水があり、堂々としたパラッツォ・ベッキオ(パラッツォ・デラ・シニョリーア)が広場をみおろすようにそびえている。パラッツォ・ベッキオは素朴で頑丈な、調和のとれた建物で、屋上には狭間(はざま)のある94mの鐘塔がたっている。1299~1314年に建設され、1550年に市庁舎(シニョリーア)となり、1865~71年イタリアの首都がおかれたときには下院の議事堂となった。大広間と君主たちの部屋は、後期ルネサンス様式で華麗に装飾されている。とくにマニエリスムの絵画でかざられたメディチ家のフランチェスコ1世の書斎は注目にあたいする。
パラッツォ・ベッキオの向かい側には、ロッジア・デイ・ランツィ(14世紀後半、別名ロッジア・デロルカーニャ)がある。この側面が開放された屋根付きの柱廊には、チェリーニ作のブロンズ製の「ペルセウス像」(1554)やジョバンニ・ダ・ボローニャ作の「サビニ女の略奪」(1579~83)といった像がたくさんならんでいる。
| 3. | 美術館・橋・教会 |
パラッツォ・ベッキオとアルノ川の間には、パラッツォ・ウフィツィ(16世紀後半)がある。かつて政府の役所や裁判所がおかれていたが、今ではヨーロッパ最高の美術館のひとつウフィツィ美術館となっている。ボッティチェリ、レオナルド・ダ・ビンチ、ティツィアーノ、カラバッジョらイタリアの偉大な画家たちの作品のコレクションでは群をぬいており、フランドルやフランスの名匠たちの傑作も多い。その近くにあるポンテ・ベッキオは1350年ごろに建設された橋である。第2次世界大戦中の爆撃をまぬがれたフィレンツェでただ1つの橋で、金細工や宝飾品の店がたちならぶ。橋は、アルノ川をこえてパラッツォ・ピッティのある南岸につながっている。
パラッツォ・ピッティは、1458年に建設され、その後大幅に拡張され、1550~1859年、トスカーナ大公の邸館だった。ここにはピッティ美術館があり、とくにラファエロの数々の代表作と、アンドレア・デル・サルト、ティツィアーノ、ルーベンスの作品をたくさんおさめている。パラッツォ・ピッティの裏に広がる広大なボボリ庭園は、毎年5月に開催される音楽祭の期間中、野外コンサート会場となる。
アルノ川の北岸には、大聖堂とパラッツォ・ベッキオをかこんだ半円形の地域に、教会と邸館が集中している。注目すべきものは、13世紀ゴシック様式のサンタ・トリニタ教会で、内部は繊細で明るい。ファサードは16世紀バロック様式のもの。また、マサッチョのフレスコ画のあるサンタ・マリア・ノベラ教会(13~15世紀)は、白と緑の大理石のファサードをもち、豪華に装飾された回廊がある。
東方には、ブルネレスキ設計のサン・ロレンツォ教会とその回廊(15世紀)がある。教会に付属したメディチ家礼拝堂は、有名なメディチ家歴代君主の礼拝堂と墓所である。礼拝堂の地下聖堂の上には、ミケランジェロが建築と彫刻の両方を担当した新聖具室(1520~34)がある。ここには、「朝」と「黄昏」の像にかこまれたウルビーノ公ロレンツォ2世の墓と、「昼」と「夜」の像にかこまれたネムール公ジュリアーノの墓がある。
大きな広場をはさんでサン・ロレンツォ教会の向かいにあるパラッツォ・メディチ・リカルディは、15世紀半ばにコジモ・デ・メディチの依頼で、ミケロッツォがたてた。この建物は、15世紀の有力な一族の邸宅の代表的なものである。1階の外壁は石材面の凸凹をきわだたせたルスティカ様式で、優雅な中庭をとりかこんでおり、うつくしい部屋の数々がならぶ上層階はメディチ家美術館になっている。
北東にむかって通りをいくつかすぎると、ミケロッツォが改築したかつてのドミニコ会修道院、サン・マルコ修道院があり、現在は美術館で、フラ・アンジェリコの最大のコレクションがある。またここには、改革者サボナローラがくらした僧房がある。修道院の近くにはオスペダーレ・デリ・インノチェンティ(捨子養育院)がある。この建物の優美な柱廊はブルネレスキの設計で、アンドレア・デラ・ロッビアの青と白のテラコッタ製のメダルで装飾されている。アカデミア美術館には、「ダビデ」像をふくむミケランジェロの作品が多数おさめられている。考古学博物館は、エトルリアのコレクションで名高い。
南にむかうと、アルノ川の近くにはフランシスコ会のサンタ・クローチェ教会がある。この教会は、近代につくられたファサードをのぞいて、13~14世紀に建設された。内部はフランシスコ会特有の簡素な造りで、ジョットなどのフレスコ画でかざられている。この教会には、ミケランジェロのほか政治家マキアベリ、詩人アルフィエーリ、作曲家ロッシーニらの墓や、著名なイタリア人の記念墓碑が多く、「フィレンツェのパンテオン」とよばれている。
| 4. | 文化施設 |
フィレンツェにはイタリア最高の図書館のひとつ、国立中央図書館がある。この図書館はおよそ400万冊の本や論文と、何千部もの写本、地図、書簡を所蔵している。そのほかミケランジェロの設計になるラウレンツィアーナ図書館には、メディチ家のコジモ、ピエロ、ロレンツォが収集した本や写本のひじょうに貴重なコレクションがある。マルチェリアーナ図書館とリカルディアーナ図書館には、古い書簡や写本、版画が豊富におさめられ、モレニアーナ図書館は地方史の分野でとくに重要である。国立文書館には、フィレンツェとトスカーナの歴史に関する膨大な書類が保管されている。1923年に創立されたフィレンツェ大学は、1321年に認可された教育機関を継承している。また、有名な音楽院と、精巧な地図製作で世界的に知られる軍事地理院もある。
| III. | 歴史 |
フィレンツェは古くはフロレンティアとよばれ、古代に建設されたが、11世紀まではあまり重要な都市ではなかった。11世紀後半には、貴族と学者で構成され、人民の名のもとに運営される議会が統治する共和制の都市となった。
| 1. | 抗争と繁栄 |
12世紀にフィレンツェは近郊のフィエゾレを獲得し、アルノ川がうるおす広大で肥沃(ひよく)な平野全域の支配計画に着手した。共和国の内部は、支配権をめぐる有力な一族の抗争で分裂状態にあった。1300年、教皇派(ゲルフ:→ 教皇派と皇帝派)内部がネーリ(黒党)とビアンキ(白党)の2つにわかれ、内乱がはじまった。ダンテは敗北したビアンキの一員だったため、02年フィレンツェから追放された。このような内部抗争にもかかわらず、都市は繁栄していた。
遠隔地との交易にくわえて、製造業、なかでも毛織物業と金融業で、フィレンツェ市民は莫大な富を蓄積した。そのうえ、商人と職人が強力な同業者組合を組織したことで、フィレンツェは予想外に安定していた。もっとも裕福だった毛織物組合は、14世紀の初めに約3万人の労働者をかかえ、200店舗を所有していた。こうして商人と銀行家は市政の指導的な立場にたち、フィレンツェをうつくしい都市にする事業にとりかかった。14~15世紀にはミラノとの戦争をくりかえしたが、1406年にアルノ川下流にあるピサを獲得し、待望の海への出口を手にいれた。
| 2. | 商業の繁栄と芸術の開花 |
労働者と富裕階級の衝突は、かなり大きくなり、抗争が頂点に達した1433年、銀行家で富裕商人党派のリーダーだったコジモ・デ・メディチは、貴族党派によってフィレンツェから追放された。34年に復帰したコジモは敵対者を追放して下層階級と手をむすび、名目上は一市民でありながら、共和国の真の支配者となった。メディチ家は、つづく3世紀のフィレンツェを支配した。コジモの死後は、その子ピエロと孫のロレンツォがその権力を継承した。
ロレンツォ・イル・マニフィコ(偉大なるロレンツォ)とよばれたロレンツォは、学問と芸術の大保護者で画家のボッティチェリや人文主義者をその周囲にあつめた。ロレンツォは共和国政府を骨抜きにし、その野心的な外交政策で、フィレンツェが一時的にイタリア諸国家間の勢力の均衡をたもたせることになった。フィレンツェのフロリン金貨が、全ヨーロッパの貿易の基準通貨となり、フィレンツェの商業は世界を支配した。建築、絵画、彫刻におけるルネサンス芸術は、15世紀をとおして大きく開花した。
ロレンツォの跡をついだ子のピエロ2世は、1494年にイタリアを侵略したフランスのシャルル8世に屈辱的な譲歩をした。これに憤慨した民衆は、同年、ピエロとその一族をフィレンツェから追放し、共和制をしいた。ピエロ失脚後にフィレンツェの指導者として登場したのは、ドミニコ会サン・マルコ修道院の院長サボナローラだった。しかしロレンツォの宮廷のぜいたくを痛烈に非難していたサボナローラは、教皇をも批判するようになり、少しずつ民衆の支持をうしなっていった。98年、サボナローラは民衆にとらえられ、裁判にかけられたのち処刑された。1512年スペイン軍によって権力の座に復帰したメディチ家は、27年ふたたび追放されたが、31年には復帰し、69年、教皇の手でトスカーナ大公の称号がメディチ家に授与された。
| 3. | メディチ時代以降のフィレンツェ |
1737年に継承者がとだえ、メディチ家のトスカーナ支配はおわった。トスカーナ大公国はオーストリアのハプスブルク家に継承された。大公フェルディナンド3世は、99年フランスによって退位させられたが、1814年復帰した。49年に追放されたレオポルド2世はオーストリア軍とともに復帰したが、イタリアの独立をもとめる戦いがつづき、59年、退位した。フィレンツェは65年から、ビットリオ・エマヌエレ2世のおさめるイタリア王国の首都となったが、71年首都はローマにうつった。
フィレンツェの記念建築物の大部分は、第2次世界大戦中の被害をまぬがれたが、ポンテ・ベッキオをのぞく橋のすべてが1944年に破壊された。また66年の大洪水でたくさんの芸術財産が被害をうけたが、その多くは精巧な修復技術で数年をかけて復元された。