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ゴシック美術
I. プロローグ

1140年ごろ、ロマネスク美術につづいてフランスではじまり、13世紀にヨーロッパ各国に広がった美術をいう。ゴシック時代は、イタリアでは15世紀初めのルネサンスの出現とともにおわったが、ほかのヨーロッパ諸国では15世紀全般にわたってつづき、北欧の一部では16世紀までのこった。ゴシックという言葉は、イタリア・ルネサンスの作家が中世美術をおとしめるために、古代ローマ美術をほろぼしたゴート族につらなるものとして、「野蛮な」という意味でつかわれた。現在ではゴシックは、ヨーロッパ美術の多産な時代としてみとめられている。

II. 建築

ゴシック時代の中心的な芸術分野は建築だった。12世紀の前半、ロマネスク建築から発展したゴシック建築は、ほかの芸術分野がルネサンス様式をうけいれたあとも、北方ヨーロッパでは16世紀までずっと生きつづけた。たくさんの世俗建築もゴシック様式でたてられたが、建築が革新され高みに達したのは教会建築だった。

ゴシック建築の美学的特質は、リブ・ボールト(アーチとボールト)にある。中世の教会は、堅固な石造ボールトで天井や屋根をささえていた。この構造は重量があるので、壁を外におしたおして建物をこわしかねなかった。そのために壁は、石造ボールトの重みをささえる必要性からぶあつく重くなる。12世紀初め、石工たちは、さまざまな方向にはしる細い石のアーチによってリブ・ボールトを進化させた。

12世紀後半にはじまった北フランスにおける一連の巨大な大聖堂は、新しいゴシック・ボールトの特徴をじゅうぶんに活用している。ボールトの外にはじける力が、リブの小さな区域に集中し、とがったアーチによって下方にながれていけば、石の圧力はフライング・バットレスとよばれる建物の外からの支えでおしかえすことができる。この点に気づいたゴシック大聖堂の建築家は、ロマネスク建築のぶあつい壁の代わりにガラス窓のあるうすい壁にかえ、その結果、内部空間はかつてないほどの高さに達した。

ゴシック・ボールトとともに、建築のプラン(平面図)もさまざまな形をとるようになる。しかし身廊が袖廊(そでろう)と交差し、そこから内陣となる大聖堂の十字形プランは、ロマネスクの教会とあまりちがわない(教会建築)。ゴシック大聖堂は、フランス・ロマネスク建築が生んだ構造部分のシュベをうけつぎ、発展させた。シュベとは、教会の東端にある建築の突出部で、半円形の周歩廊、放射状に広がる礼拝堂、聖域の突端をとりかこむ多角形のアプス(後陣)からなる。また1階のアーケードの細い角柱、細くとがったボールトの軸、建物全体につけられたとがったアーチは、仰高性を強め、ゴシック建築のもっとも力感ある構造をつくりだした。

西正面をのぞけば、ゴシック大聖堂の外側はそびえる支壁と翼のような一連のバットレスをもち、ボールト群をささえる骨組みになっている。西正面だけは独立して構成されている。ゴシック教会の正面は2つの塔をそなえ、3区分された内部の廊下を反映して3区分され、中央入り口の上に大きなばら窓がある。

1. 初期ゴシック時代

12世紀前半のフランスの教会で、ゴシックのリブ・ボールトの構造が散発的にあらわれた。1140年代初めになると、パリ郊外のサン・ドニ修道院付属教会のシュベの構造において、北方の大聖堂の出現をみちびくゴシック建築の特徴的な形態がつくりだされた。サン・ドニの周歩廊では、細長い円柱がボールトをささえ、放射状の礼拝堂をわける壁をなくして、広々とした内部に発展する充実した空間を生みだしている。

サン・ドニの様式は1160年代に、大聖堂の始まりとなるパリのノートル・ダム大聖堂(1163年着工)にひきつがれる。壁を少なくし、内部の支えを小さくする実験の時代が到来した。内部の立面図の伝統的な3層構造に新たな層をくわえることで、高さはいちじるしくました。トリフォリウムとよばれる新たな層には、高窓の外壁もしくは側廊上部の大きな回廊の上壁にせまい通路がもうけられている。

2. 盛期ゴシック時代

初期ゴシック時代のさまざまな実験は、シャルトル大聖堂(1194年着工)で最終的に解決された。ロマネスク教会以来の第2層の回廊をトリフォリウムにかえることで、簡潔な3層構成が確立された。高窓は、地上階のアーケードとほぼ同じ高さに達した。小さなばら窓をいただくとがった2連窓により、高窓自体の明るさはました。こうして、以後のゴシック教会の基準となる内部の主要区分が決定された。

シャルトル大聖堂にはじまる盛期ゴシック時代は、ランス大聖堂(1210年着工)で全盛期にはいる。ランス大聖堂は調和のとれた重厚な外観によって、ゴシック大聖堂の中でも古典的な静澄さの点で群をぬいた存在である。後期ゴシック建築の特徴は棒状のはざま飾りで、ランスの建築家によってつくりだされた。窓は、マリオンとよばれる細長い仕切りでわけられた。

ブールジュ大聖堂(1195年着工)の内部は5廊式の広大な空間によって構成された。ブールジュの建築家は、高窓を大きくする代わりに地上階のアーケードを高く大きくし、高窓の位置をさげてトリフォリウムの高さと同じにした。盛期ゴシックは短期間で終わりをつげ、1220年代に登場したアミアン大聖堂の身廊では、支柱を細くして垂直性を強調した。アミアン大聖堂は、フランス・ゴシック大聖堂の最高峰ボーベ大聖堂(サン・ピエール大聖堂)への橋渡しになった。ボーベの建築家は、巨大な地上階のアーケードの上に、それとほぼ同じ高さの高窓をのせて、前例のない48mの高さを実現した。

3. レイヨナン様式のゴシック時代

ボーベ大聖堂は、ルイ9世がフランスの王位につく直前の1225年に着工された。ゴシック建築はルイ9世の26~70年の長い治世の間、レイヨナン様式とよばれる新しい時代にはいる。レイヨナンという言葉は「放射状の」という意味で、この様式の特徴となる車輪の軸のような巨大なばら窓の形に由来する。建物の高さは第一の目標ではなくなり、建築家は教会の石の枠を少なくし、窓の区域をふやし、トリフォリウムの外壁をはざま飾りのガラスにおきかえた。レイヨナン様式の教会の内部と外部は、盛期ゴシック大聖堂の量感効果の代わりに、すきとおった殻のようになった。

レイヨナン様式の特徴はサン・ドニの王立修道院付属教会でとりいれられ、新しい方式の最初の大きな企画となった。周歩廊と西正面だけはもとの構造のまま保持された。レイヨナン様式の代表は、パリのシテ島にあるサント・シャペルである。この広々とした宮廷礼拝堂は、1242~48年にルイ9世によりたてられた。巨大な窓は、地上近くから天井までつらなり、礼拝堂全体を、ステンド・グラスでおおいつくされた石の骨組みにかえている。

ゴシック建築の発展における窓の拡大は、内部に明かりをたくさんとりこむためではなく、増加するステンド・グラスの場所を確保するためだった。サント・シャペルやシャルトル、ブールジュの大聖堂でみられるように、ステンド・グラスでみたされたゴシック教会の内部は、ロマネスク教会と同じくらいうす暗い。しかしそれは、窓の輝きにうちふるえる明るんだ暗さである。主要な色は、暗くこい青、かがやくルビーのような赤である。

礼拝堂や側廊の窓の小さなステンド・グラスの円形枠には、聖書や聖人伝からの物語がえがかれた。見る者の間近にあるので、これらの絵は細部まで容易にみてとれる。高窓のステンド・グラスには、大きな単身像がえがかれ、下からはっきりみきわめることができる。1270年代にはじまった神秘的な暗さは、グリザイユ・ガラスが彩色パネルと併用されるようになるにつれてとりのぞかれ、色調もしだいに明るくなった。

4. ゴシック建築の普及

フランス・ゴシック建築は、ほかのヨーロッパの国々に深い影響をあたえた。大きなアーケードと小さな高窓をもつブールジュ大聖堂の方式は、フランスでは広まらなかったが、スペインでは盛んにとりあげられた。それは、1221年のトレド大聖堂にはじまり、14世紀初めのパルマデマリョルカ、バルセロナ、ジローナの大聖堂にもひきつづいて採用された。

ドイツではフランス・ゴシック建築の影響は決定的であった。ケルン大聖堂の内部は、アミアン大聖堂のレイヨナン様式をもとにしてつくられ、建物はボーベ大聖堂の高さをこえるほどになった。

イタリアとイギリスでは、フランス・ゴシックの影響は少なかった。フィレンツェにはイタリア風のゴシック教会があったり、シエナやオルビエートの大聖堂の正面にはフランス・ゴシックの面影がのこったりするが、それらはイタリア・ロマネスクからブルネレスキと初期ルネサンスにいたる過渡的な姿にすぎない。

イギリスでは、フランス・ゴシック建築の波及は2度だけだった。最初は1170年代のカンタベリー大聖堂の東側に影響があり、次はヘンリー3世のウェストミンスター寺院の場合である。そのほかでは、イギリスの建築家は独自の高度なゴシック様式を発展させた。イギリスの教会は、フランスの大聖堂の高くそびえる垂直性と機能的論理をしりぞけて、長大さと水平性を強調した。こうした極端な長大化は、しばしば2つのはなれた袖廊をもたらした。装飾的役割ももつリブの増加も、イギリス・ゴシックの特徴である。

イギリスの初期ゴシック建築のようすは、ソールズベリー大聖堂(1220年着工)にじゅうぶんしめされる。ウェストミンスター寺院での棒状はざま飾りの導入は、その後のはざま飾り模様の多様な展開をもたらした。13世紀後半~14世紀の装飾様式の時代には、リンカン大聖堂のうつくしいエンジェルの内陣(1256年着工)のような詩的な空間が生まれた。

III. 彫刻

ロマネスクの先例にならって、教会の教義や信仰をつたえる多くの人物像が、フランス・ゴシック大聖堂のくぼみのある門をかざった。12世紀~13世紀初めには、ゴシック彫刻はまだ建築の支配下にある。もっとも大きく重要な人物像は、大聖堂入り口の両側にあるたばね柱の等身大をこえる彫像である。それらは、支持体となっている小円柱についているので、円柱人像とよばれる。

現存する最初期の円柱人像は、ゴシック大聖堂より前の時代に属する、1155年ごろのシャルトル大聖堂の西扉口の彫刻である。この背の高い円柱状の人物像は、小円柱の形をそのまま反復し、ロマネスク様式でつくられているが、気高い精神性が感じられる。つづく数十年間、シャルトル大聖堂の西扉口の彫刻の影響は、他のフランスの大聖堂の扉口だけでなく、スペインのサンティアゴデコンポステラ大聖堂の彫刻群にもおよんだ。

しかし、これらのゴシック以前の彫刻は、まだロマネスク的であった。1180年代から、ロマネスク様式は過渡期にはいり、彫像には優美なくねりやのびやかな動きがみられるようになる。このいわゆる擬古典様式は、13世紀の初めシャルトル大聖堂の南北の袖廊におかれた彫刻連作で高まった。古典的とはいっても、ゴシックの人物像と本当の古典彫刻の間には根本的な違いがある。古典彫刻では、彫像でも浮彫でも、人体ははっきりと形づくられ、着衣とは明瞭にわけられている。ゴシックの人物像では、人体と着衣のこうした違いは存在せず、両者は一体となっている。ドイツのバンベルク大聖堂にあるアダムとイブの彫像(1237年以前)にみられるように、裸体が表現されるときでも、人体は簡略な抽象化された形にとどめられている。

1. 自然主義の発生

古典的な波うつ衣文の表現法は、パリのノートル・ダム大聖堂の「聖母戴冠(たいかん)」の扉口で1210年ごろはじまり、アミアン大聖堂の西扉口で25年以降ひきつがれたが、しだいに堅固な量感をもつようになる。40年代、ランス大聖堂の西正面とサント・シャペルの使徒像で、衣文はのちのゴシック彫刻を特徴づける角ばった形と深くほりこんだ管状のひだをみせるようになる。同時に、彫像は建築に拘束されなくなった。

ランス大聖堂とサント・シャペルの彫像では、誇張されたほほえみ、アーモンド形の目、小さな頭部の束髪、類型的な姿勢などがあらわれる。こうした彫刻の外観は、自然主義的な形態、宮廷風の気取り、繊細な精神性を総合したところから生まれた。これらの類型的な傾向と自然主義の進行にともなって、マリア崇拝による聖母像が生まれる。下半身を外側にむけて幼児キリストとつりあわせた聖母像は、サント・シャペルの低い門にはじめてあらわれ、のちに全ヨーロッパに広がった。

2. ゴシック彫刻の波及

北フランスはゴシック建築とゴシック彫刻の発祥地であったが、ドイツにも重要な記念彫刻がのこされている。フランス・ゴシック彫刻から発展したドイツ・ゴシック彫刻は、ときにカリカチュアに近い誇張した表現から、詩的な美しさや高貴さにいたるまで幅広い。13世紀ドイツ彫刻の最大の作例は、ランス大聖堂の影響のもとに生まれたバンベルク大聖堂の「バンベルクの騎士像」である。これは、6世紀以来の西洋美術で最初の騎馬像であり、これがつくられた1240年ごろにドイツ・ゴシック彫刻の絶頂期をむかえた。

ドイツにくらべると、イタリアでのフランス・ゴシック彫刻の影響は、建築と同じく微弱であり、イタリアの早期ルネサンスの中のゴシック的傾向とみなされることが多い。早期ルネサンスは、1260年にニコラ・ピサーノがピサの洗礼堂に大理石説教壇を制作したときにはじまる。ニコラの息子、ジョバンニ・ピサーノは、はじめてフランス・ゴシックの手法をとりいれた。シエナ大聖堂のために、90年ごろつくりだした預言者やギリシャの哲学者の彫像は、イタリアにおけるこの時代の傑作でもある(ピサーノ父子)。

14世紀の終わりごろ、フランス・ゴシック様式をとるイタリアの彫刻家はふえつづけたが、その作品は、古典様式を特徴づける人体と衣文の区別を重んじた。こういった傾向は、フィレンツェ・ルネサンスの開幕をつげるギベルティの登場によって1400年ごろ終わりをつげた。

IV. 装飾美術

フランスでは、13世紀を通じて装飾美術はおおむね教会美術の支配下にあった。1225~50年ごろの「ビーブル・モラリゼ(道徳の聖書)」の挿絵の円形画は、ステンド・グラスの図柄をまねている。ルイ9世の「詩篇」(1255年以後)の枠取りにつかわれたばら窓のついた切妻屋根の図柄は、サント・シャペルの装飾的な屋根にもとづいている。

1250年ごろからはじまった宮廷様式は、彫像にもおよんだ。象牙(ぞうげ)でできたサント・シャペルの優美な聖母子像(1265?)は、この礼拝堂の低い門にある大きな彫像をもとにしている。ランス大聖堂の西正面の聖母戴冠の巨大な群像は、親密感のある優美さをそなえている。60年代から、大きな金属製の聖遺物箱は、レイヨナン様式の教会をかたどるようになった。

1300年ごろになると、装飾美術は独立した役割をもつようになる。ドイツのラインラント地方では、はげしく感情が表出された表現主義の作品があらわれる。これらの表現は、キリストの肩にわかい聖ヨハネがやさしく頭をかたむけた座像のような、コンスタンツ湖の流派の彫像から、ライン川中部の十字架にかけられた悲痛なキリスト像にいたるまで幅が広い。14世紀後半のドイツの彫刻家は、悲しみの聖母マリアがキリストの遺体をだきかかえる新しい群像、いゆわる「ピエタ」を生みだした。14世紀半ば近くになると、ピュセルの登場によって、パリの彩飾写本は新しい傾向をみせる。彼の「ベルビルの聖務日課書」(1325?)では、文字装飾、挿絵、葉形の枠取りなどのすべてが、本のページを華麗に装飾し、のちの写本画家にとっての定型となった。この写本の中の室内場面にもたらされた部分的な線遠近法による新しい空間表現は、のちの発展に大きな意味をもった。

V. 後期ゴシック時代

1230年代から、パリは北方ヨーロッパ美術の有力な中心地であった。しかし、1350年代における、疫病の猛威と百年戦争の勃発(ぼっぱつ)以後、パリはたんなる美術都市のひとつにすぎなくなった。

1. 後期ゴシックの絵画

芸術潮流の広がりの結果として、国際ゴシック様式とよばれる新しい絵画の総合化がおこった。ゴシックのいろいろな要素がイタリア画家の空間描写とむすびつく。この様式は、1370年代にパリではじまり、ベリー公ジャンの宮廷で1400年ごろまでつづいた。国際ゴシック様式の写本画家たちは、挿絵の空間性を発展させ、画面は現実世界に開かれた真実の窓になった。この動きは中世の観念的な視点からはなれ、ファン・エイクと北方ルネサンスの写実的絵画を生みだした。

2. 後期ゴシックの彫刻

ゴシック彫刻は、イタリアの早期ルネサンスに影響されなかった。1400年ごろ、スリューテルはブルゴーニュのフィリップ大胆公のために、ディジョンで後期ゴシック時代を代表する彫刻を制作した。スリューテルは、14世紀のほっそりした人物像や貴族的な好みをさけて、量感のあるたっぷりとした着衣で人物像をつつみこんだ。フィリップ大胆公の墓(1385年着工)の哀悼する群像では、衣文の表現だけで、悲しみを雄弁につたえている。「モーセの井戸」(1395~1404)をかこむ彫像では、旧約聖書の主人公たちをフランドルの長老の姿にかえている。

1406年にスリューテルが没したあと、その影響はブルゴーニュから南仏、スペイン、ドイツにまで広がった。1500年ごろ、フランスのコロンブ、ドイツのリーメンシュナイダーやシュトースなどにより、ゴシック彫刻の時代は幕を閉じた。

3. 後期ゴシックの建築

フランスの後期ゴシック建築は、いりくんだ曲線を多用したはざま飾りが炎のようにみえることからフランボワイヤン(火炎)様式とよばれる。おもに教会の外観にこの様式の派手な装飾がつかわれた。柱頭装飾をやめて、簡単な石の支柱にすることで、教会内部は思い切った簡素化がおこなわれた。

3.A. フランボワイヤン様式

フランボワイヤン様式の建築は、1380年代からフランス宮廷建築家ギー・ド・ダンマルタンによってはじめられた。建築活動の大きなうねりは、1453年の百年戦争終結とともにおこり、フランス全体の教会が新様式でたてなおされた。フランボワイヤン建築の最後の盛りは、1400年代末~1530年代にシャンビージュ父子の作品にあらわれた。この様式はヨーロッパ全域に広がり、スペインではとくに複雑な建築を生んだ。ポルトガルでは、1495~1521年のマヌエル1世の治世においてマヌエル様式とよばれるこの国独特の異国風の様式にかわった。

3.B. 垂直様式

イギリスでは、フランボワイヤン様式をしりぞけて、垂直様式という独自の後期ゴシック建築が生みだされた。壁や窓に、垂直のはざま飾りをもった長方形のモティーフを反復してつかって、教会内部に際だった統一感をもたらした。代表作はケンブリッジのキングズ・カレッジ・チャペル(1443年着工)で、扇状のファン・ボールトの使用などによってすばらしい一体感を獲得している。

3.C. 世俗建築

後期ゴシックの重要な世俗建築はたくさんある。ベルギーでは、一連の鍾楼(しょうろう)付きの大きな市民ホールが、イーペルの大市場建築(1380年完成。1915年破壊)をもってはじまり、ルーバンの市庁舎(1448~63)などにうけつがれた。12~13世紀の英仏の城館は、教会建築から影響されることはほとんどなかった。しかし、14世紀の終わりになると、要塞はしだいに優美な城館や宮殿にとってかわられた。

1400年代末~1520年代のフランスでは、ロワール川のアンボワーズ(1483~1501)やブロワ(1498~1515)からブルターニュのジョスラン(16世紀初め)にいたるまで、フランボワイヤン様式の城館が各地にたてられた。建築外観の際だつ特徴は、大きくなった屋根窓である。1508年にルーアンの裁判所の正面扉口につけくわえられた屋根窓のように、両側に小さな飛控えをそなえている。地方独特の世俗建築の様式も盛んに生まれた。イタリアには総督宮殿(1345年?着工)やカ・ドーロ(1430?)などのベネツィア・ゴシック様式があり、イギリスにはハンプトン・コート(1515~36)などのチューダー・ゴシック様式がある。このころのヨーロッパ大陸では、知的に計算されたルネサンスの建築原理が後期ゴシックの華麗な成長にだいぶ前からとってかわっていた。

建築:彫刻:ルネサンス美術