| フランクリン・ルーズベルト | 項目ビュー | ||||
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| II. | ニューディールの開始 |
大統領就任直後の「百日議会」では、行政府主導の革新的立法を要求、銀行救済、農産物価格安定、失業者救済、テネシー川流域開発公社(TVA)の設立、企業活動や労使関係の国家規制、金本位制停止などを次々と実現した。ニューディールは、大恐慌による経済崩壊と大量の失業者への救済・復興のための緊急措置で、農業調整法(AAA:1933・38)や全国産業復興法(NIRA:1933)、テネシー川流域開発公社にみられるように、経済活動のさまざまな分野に連邦政府が積極的に介入することで、資本主義体制そのものの救済を基本的課題としていた。しかし、景気の復調とともに、企業側が政府の規制に反発を強め、1935年、36年には最高裁判所が全国産業復興法と農業調整法に違憲判決をくだした。
こうした攻勢に対してルーズベルトは、組織労働者や大衆の要求を積極的にとりいれ、ワグナー労働法(1935)や社会保障法(同)のような福祉や社会改革を推進する、ニューディールの「左旋回」といわれる政策を強めた。
| 1. | 再選 |
1936年の大統領選挙では、政治姿勢も多様な組織労働者や農民、黒人をはじめとする大衆を基盤にルーズベルト連合が形成され、再選をはたす。しかし、保守的な最高裁判所の改組をくわだてると、37年に議会がこれをこばみ、議会内外に超党派の反ニューディール保守連合が形成され、改革の推進をはばまれた。37~38年、経済はふたたび後退したが、国際情勢が悪化、軍事力強化のための支出急増が景気回復をもたらした。つまり、ニューディールによるよりも、経済の軍事化によって大恐慌は克服されたといえるが、国民の信頼は大きく、40年、44年に3選、4選をはたした。
| 2. | 外交政策 |
外交関係では、孤立主義を支持する世論を重視して、内政を優先しつつ国際紛争にかかわるのをさけ、中立政策を推進した。ただし、中南米には善隣外交を積極的に展開、西半球の経済的・軍事的連帯強化をはかった。また、1939年に第2次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)すると、連合国側を支援することが参戦回避の道だと主張、武器貸与法(41年3月)などによる積極的軍事援助をおこなう。41年12月、日本の真珠湾奇襲を契機に参戦を決意し、連合国の戦争目的や戦後国際秩序の構想に指導的役割をはたした。
参戦前の1941年1月にルーズベルトは、恐怖からの自由、欠乏からの自由など「4つの自由」演説で全体主義への姿勢を明確化し、同年8月、イギリス首相チャーチルと共同で大西洋憲章を宣言。領土不拡大、各国の自決権の尊重、貿易の自由と拡大、自然資源利用権の平等、平和のための国際協力などを戦後の世界再建の理念として提示した。参戦後は、アメリカ・イギリス・ソ連3大国の大同盟を重視し、カサブランカ・カイロ・テヘラン・ケベック・ヤルタなど、一連の首脳会談を通じて、戦争協力体制・戦後処理、国際通貨基金や国際連合など、戦後国際機構の構想を具体化すべく活躍したが、45年4月、在任中に脳溢血のため死去した。