| バッハ,J.S. | 項目ビュー | ||||
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| II. | 前期 |
1700年、リューネブルクにある聖ミヒャエル教会の少年聖歌隊に給費生としてむかえられ、自活をはじめる。03年、ワイマール公ヨハン・エルンストの宮廷楽団でバイオリン奏者に採用されるが、3カ月で辞任し、アルンシュタットの新教会のオルガン奏者に転職した。この教会は現在、バッハ教会とよばれている。
1705年、1カ月の休暇をえてハンザ同盟の主要都市リューベックにいき、デンマーク生まれの著名なオルガン奏者で作曲家のディートリヒ・ブクステフーデをたずねる。ブクステフーデとの出会いは実りあるものとなり、バッハは当初の予定を2カ月こえてリューベックに滞在しつづけた。その後に書かれたオルガン音楽には、ブクステフーデの影響が明らかにうかがえる。しかし、アルンシュタットの教会当局からは約束違反を叱責(しっせき)され、また彼が礼拝時のコラールにつけたオルガン伴奏に大胆な装飾音や耳なれない和声があると批判された。
1707年6月、帝国自由都市ミュールハウゼンの聖ブラジウス教会のオルガン奏者に転任。その年の10月、またいとこのマリア・バルバラ・バッハと結婚した。翌08年、ウィルヘルム・エルンスト大公につかえる宮廷のオルガン奏者・バイオリン奏者としてワイマールにもどる。ワイマール宮廷には9年間とどまり、14年には宮廷楽団の楽師長となった。
ワイマール時代には、「狩のカンタータ」をはじめ、約30曲のカンタータやオルガン曲、クラビア曲を書いている。また、このころにはオルガン演奏の巨匠としてバッハの名がドイツ全土にとどろき、各地を旅行してあるいたり、オルガン建造のためのコンサルタントをしていた。1717年にドレスデンで、やはり高名なオルガン奏者だったフランス人のルイ・マルシャンと腕くらべをすることになったが、敗北をおそれたマルシャンは当日に姿をみせなかったという。
1717年、ドレスデンからかえったバッハはワイマール宮廷をやめ、アンハルト・ケーテン侯レオポルトの宮廷にうつり、聖歌隊指揮者と宮廷楽長を6年間つとめる。ケーテン時代は生涯でもっとも安定した幸福な時期で、「ブランデンブルク協奏曲」「無伴奏バイオリンのためのソナタとパルティータ」など、おもに世俗器楽曲を書いた。最初の妻マリア・バルバラは20年に他界し、翌年、宮廷楽師の娘アンナ・マグダレーナ・ウィルケンと再婚する。ソプラノ歌手だった彼女は16歳年長の夫をよくたすけ、楽譜の清書や写譜を手つだった。再婚したころからバッハは妻と子供たちに鍵盤楽器の奏法をおしえ、さらには音楽的情操をはぐくむ目的で音楽帳をつくりはじめる。「フランス組曲」をふくむ「アンナ・マグダレーナ・バッハのためのクラビア小曲集」は妻のために、「平均律クラビア曲集」の一部や2声と3声の「インベンション」をふくむ「ウィルヘルム・フリーデマン・バッハのためのクラビア小曲集」は長男のために書かれた。バッハの子供は約半数が幼時に死亡したが、最初の結婚で7人、再婚後に13人生まれている。