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カナダ
I. プロローグ

北アメリカ大陸の北部を占める立憲君主制の連邦国家。正式国名はカナダで、イギリス連邦に加盟する。北は北極海、北東はバフィン湾とデービス海峡、東は大西洋、西は太平洋に面し、南と北西はアメリカ合衆国と境を接する。森林、石油、天然ガス、鉱物、魚類などの天然資源にめぐまれており、世界有数の工業国でもある。国名は先住民イロコイの言葉に由来し、「村」あるいは「集落」を意味するとされる。面積はロシア連邦についで世界第2位で、998万4670km²。人口は3367万9263人(2008年推計)。首都はオタワ。

カナダはアルバータ州、ブリティッシュコロンビア州、マニトバ州、ニューブランズウィック州、ニューファンドランド・ラブラドル州(旧、ニューファンドランド州)、ノバスコシア州、オンタリオ州、プリンスエドワードアイランド州、ケベック州、サスカチュワン州の10州と、ノースウェスト準州、ユーコン準州および1999年4月に発足したヌナバット準州からなる。領域には、北極海諸島をはじめとする多くの島々もふくまれる。住民の大部分は国土の南部に集中しており、北部の広大な領域にはほとんど人がすんでいない。

II. 国土と資源

国土の最北端は北緯83度6分のエルズミア島のコロンビア岬、最南端は北緯41度41分のエリー湖中のミドル島である。最東端は西経52度37分のニューファンドランド島のスピア岬であり、最西端は西経141度でアメリカ合衆国のアラスカ州とユーコン準州との国境線にあたる。海岸線の総延長は20万2080kmで、湾と半島が複雑にいりくんでいる。

北極海諸島のほかにも沿岸には多くの島々があり、島嶼部(とうしょぶ)の海岸線の総延長は18万5290kmに達する。大きな島としては、東海岸のニューファンドランド島、ケープブルトン島、プリンスエドワード島、アンティコスティ島、西海岸のバンクーバー島、クイーンシャーロット諸島などがある。ハドソン湾にはサウサンプトン島と多くの小島がある。

1. 地形

北極海諸島をのぞいて、国土はカナダ楯状地、アパラチア地域、五大湖-セントローレンス低地、内陸平原、コルディエラ地域の5つに区分できる。

カナダ楯状地はローレンシア台地ともよばれており、国土の半分以上を占める地域である。ハドソン湾を中心として北から東にかけて広がり、ラブラドル半島全域、ケベック州の大部分、オンタリオ州北部、マニトバ州、そしてヌナバット準州の大部分がふくまれる。基盤岩は先カンブリア時代の古い花崗岩などでできており、氷河作用を強くうけた地形である。

楯状地の南東側にはアパラチア地域と五大湖-セントローレンス低地がある。アパラチア地域はアメリカのアパラチア山脈と大西洋海岸平野の北への延長部にあたり、ニューファンドランド島とノバスコシア州、ニューブランズウィック州、プリンスエドワードアイランド州、ケベック州のガスペ半島にまたがる。五大湖-セントローレンス低地はケベック州南部とオンタリオ州南部の地域で、おおむね平野となる。ここには広大な農地が広がり、またカナダの大部分の工業が集中している。

カナダ楯状地の西には、アメリカのグレートプレーンズの延長である内陸平原が開けている。平原の幅は、アメリカとの国境付近では約1300kmだが、北のグレートベア湖近辺では約4分の1に狭まり、さらに北の北極海沿岸のマッケンジー川河口ではふたたび約500kmに広がる。ブリティッシュコロンビア州の北東部からアルバータ州、サスカチュワン州、マニトバ州西部にかけて広がっており、国内でもっとも肥沃(ひよく)な土地の大部分がある。

内陸平原の西はコルディエラ山系の高地である。コルディエラ山系は、南アメリカ大陸南端から北アメリカ大陸北西端のアラスカまでのびる雄大な山脈の連なりで、カナダでの幅は約800km。東部には、主脈のロッキー山脈をはじめ、マッケンジー山脈、フランクリン山脈、リチャードソン山脈がある。カナディアンロッキーの最高峰はロブソン山(3954m)で、そのほか標高3500mをこえる峰が10ある。

カナディアンロッキーの西側は、カリブー山地やセルカーク山脈などの孤立した山脈および広大な高原となる。西端には、合衆国のカスケード山脈からつづく海岸山脈が太平洋岸と並行してはしり、そのほか、いくつかの山脈が海岸沿いにある。この地域では、ユーコン準州南西端にあるセントエライアス山脈の標高がもっとも高く、カナダ最高峰のローガン山(5959m)、セントエライアス山(5489m)などがつらなる。

2. 湖と河川

大陸部には湖沼や河川が多く、内陸水域は75万5180km²におよぶ。アメリカとの国境にある五大湖以外に、面積1300km²以上の湖や貯水池が31ある。

大きな湖としては、ノースウェスト準州のグレートベア湖、グレートスレーブ湖、ヌナバット準州のベーカー湖、同準州バフィン島のネティリング湖とアマジュアク湖、アルバータ州とサスカチュワン州にまたがるアサバスカ湖、サスカチュワン州のウォラストン湖、サスカチュワン州とマニトバ州にまたがるレーンディア湖、マニトバ州のウィニペグ湖、マニトバ湖、ウィニペゴシス湖、サザンインディアン湖、オンタリオ州のニピゴン湖とウッズ湖、ケベック州のミスタシーニ湖、ニューファンドランド・ラブラドル州のスモールウッド湖とメルビル湖がある。

おもな河川には、五大湖から流出しセントローレンス湾にそそぐセントローレンス川があり、オタワ川などの支流をもつ。セントジョン川はニューブランズウィック州とノバスコシア州にかこまれたファンディ湾にそそぐ。サスカチュワン川はウィニペグ湖に流入し、ネルソン川はウィニペグ湖から流出してハドソン湾にながれこむ。アサバスカ川、ピース川、レーブ川、マッケンジー川からなる水系は、北極海にそそいでいる。ユーコン川はアラスカをへてベーリング海に、フレーザー川とコロンビア川は太平洋にながれている。

3. 気候

大陸部の一部と大部分の北極海諸島は寒帯に、それ以外の地域はおおむね亜寒帯に属する。極寒の北極圏から南部の温帯地域まで、気候は地域差が大きい。大西洋沿岸諸州(ニューブランズウィック州、ノバスコシア州、プリンスエドワードアイランド州)では、海洋の影響で冬の寒さと夏の暑さがやわらげられるとともに、霧と降水が多い。西海岸沿いでは、暖流としめった海風の影響により、1年を通じて温暖湿潤で、降水量が多い。

コルディエラ地域では、ロッキー山脈やセルカーク山脈など標高の高い山地の西斜面は雨と雪が多いが、東斜面と中央高原は極端に乾燥している。コルディエラ地域特有の気象現象は、チヌークとよばれる暖かい乾燥した西風で、ロッキー山脈の麓(ふもと)と周辺平原部のきびしい冬をやわらげ、しばしば気温の日較差が大きくなる。

4. 植生

北部はツンドラ地帯が広がり、樹木はみられない。大西洋沿岸諸州は、かなりの部分が針葉樹と広葉樹の混合林におおわれている。大平原諸州(アルバータ州、サスカチュワン州、マニトバ州)では、アメリカとの国境から北にむかいサスカチュワン川流域にいたるまで、ほとんど樹木はみられず草原地域となる。サスカチュワン川の北側には、ハドソン湾からグレートスレーブ湖やロッキー山脈にかけて、トウヒ、カラマツ、ポプラなどがまばらに生えているが、大きい樹木はそだたない。

ロッキー山脈の乾燥した東斜面や谷ではマツ類が多く、西にむかい降水量がふえるにつれて森林の密度は高くなり、樹木も大きくなる。とくに太平洋沿岸に近い海岸山脈の西斜面は常緑樹のうっそうとした森林でおおわれており、おもな樹種はトウヒ、アメリカツガ、ダグラスファー、バルサムモミ、バンクスマツ、スギなどである。

5. 動物

カナダの動物相は北ヨーロッパやアジアと類似している。哺乳類は193種(2000年)が現存する。肉食動物としてはオコジョ、クロテン、クズリ、ミンクなどのイタチ類のほか、アメリカグマ、グリズリー(ヒグマ)、オオヤマネコ、オオカミ、コヨーテ、キツネ、スカンクなどがいる。ホッキョクグマ(シロクマ)は北極圏全域に生息しており、ピューマ(アメリカライオン)はブリティッシュコロンビア州でみられる。そのほか、ビーバーをはじめ、カナダヤマアラシ、マスクラット、ノウサギなど、小型のげっ歯類が多い。

バージニアシカには、カナダ南部の固有種が数種ある。オグロジカとエダツノレイヨウが、ブリティッシュコロンビア州や平原地域にすむ。ウッドランド・カリブー(カナダトナカイ)とアメリカヘラジカは数も多く、広く分布しているが、バーレン・グラウンド・カリブー(ホッキョクトナカイ)の生息域は北部にかぎられる(カリブー)。北部にはジャコウウシも生息する。ヘラジカとバイソンは西部でみられる。ブリティッシュコロンビア州の山地にはオオヒツジ、ロッキー山脈にはシロイワヤギが多い。鳥類は豊富で多様であり現存するのは426種。魚類は内陸水域だけでも177種いる。爬虫類と昆虫は、最南部をのぞいてほとんどいない。

III. 住民
1. 人口

1990年の人口は2779万600人、2008年推計の人口は3367万9263人で、人口密度は3.7人/km²である。全人口の81%(2005年推計)が都市居住者で、人口の約4分の3がアメリカとの国境沿いの狭い地域にすんでいる。

人口の約6割がケベック州とオンタリオ州に集中しており、ユーコン準州、ノースウェスト準州、ヌナバット準州の居住者はきわめて少ない。

2. 民族の構成

人種および民族の構成は多様である。人口の約35%がイギリス系で、フランス系は約25%である。フランス系住民はケベック州にもっとも多くすみ、州人口の約4分の3を占める。ほかにオンタリオ州、ニューブランズウィック州にもすむが、その他の州にはわずかしかいない。フランス系住民は言語と文化、伝統を維持し、連邦政府も2言語、2文化政策をとっており、公用語も英語およびフランス語である。

1970年代から80年代にアジア系住民が増加し、とくに90年代に入ると97年の香港返還(香港返還協定)を前にして多数の移民が香港からきた。現在では全人口の約1割に達している。アジアからの移民の3分の2以上がオンタリオ州とブリティッシュコロンビア州にすむ。そのほかにドイツ系、イタリア系、ウクライナ系、オランダ系、スカンディナビア系、ポーランド系、ハンガリー系、ギリシャ系、アメリカ先住民などさまざまな民族起源の人々がいる。黒人は人口の2%以下である。

アメリカ先住民は、混血をふくめて全人口の約3%を占めており、600近くのグループにわけることができる。言語的にみると、アルゴンキン系に属する人々が多い。そのほかイロコイ系、セーリッシュ系、アサバスカン系とイヌイットなどがいる。

3. 主要都市

オンタリオ州では、港湾・工業都市トロント、首都であり商工業都市のオタワ、トロント南部のベッドタウンで急速に工業化がすすむミシソーガ、海運と工業の中心ハミルトン、鉄道と工業の中心ロンドン、工業と商業の盛んなセントキャサリンズ、工業都市キッチナー。ケベック州では、港湾・商業都市モントリオール、海運と工業と観光のケベック。

ブリティッシュコロンビア州では、鉄道と海運の中心で林産物工業が盛んなバンクーバー、アルバータ州では、農業と石油の中心エドモントン、交通と鉱業、農産物流通の中心カルガリー。あとはマニトバ州の小麦市場と鉄道交通の核ウィニペグ、ノバスコシア州の港湾・工業都市ハリファックスである。

4. 宗教

カトリック教徒がもっとも多く、国民の半数近くを占め、そのまた半数近くがケベック州にすむ。次に多いのがカナダ合同教会(メソディスト、長老派、会衆派の連合)の信徒で、英国国教会、バプティスト、ルター派教会がそれにつづく。少数派として、東方正教会や、イスラム教、ユダヤ教の信徒がいる。近年は移民の流入とともに仏教、ヒンドゥー教、シク教などの信徒がふえており、国民の1割以上が特定の宗教を信仰していない。

IV. 教育と文化
1. 教育

教育行政は州政府の管轄下にあり、連邦政府の関与は先住民の教育などに限定されている。歴史的にはイギリス・アメリカ系とフランス系の流れがあり、英語とフランス語の2言語教育がおこなわれている。とくにケベック州はフランス語系の教育が主となっている。公立学校で宗派別の宗教教育をおこなう分離学校をもうけている州もある。

最初の学校は、17世紀初めにフランスのカトリック教会によって設立された。高等教育はケベックでイエズス会のカレッジが設立された1635年にはじまる。公立学校と分離学校、私立学校からなる教育制度ができるのは、フランス領からイギリス領にかわった1763年以降である。19世紀前半には1821年のマッギル大学にはじまり、27年のトロント大学、48年のオタワ大学と、大規模な大学の創立がつづいた。1945年の第2次世界大戦終了後には高等教育の拡充がすすめられ、新しい教育機関が設立される一方、古い大学の拡大、充実がはかられた。

大学には連邦政府と州政府による財政補助があり、学生の負担は小さい。高等教育機関としては、大学以外にコミュニティ・カレッジが近年急速に増加している。義務教育期間は州によってことなるが、6~16歳(2002-2003年)までで、中等教育まで教育費は無償である。

カナダには約90の総合大学と単科大学がある。おもな大学には、アルバータ州のアルバータ大学(1906年創立)とカルガリー大学(1945年)、ブリティッシュコロンビア州のブリティッシュコロンビア大学(1908年)とサイモン・フレーザー大学(1963年)、マニトバ州のマニトバ大学(1877年)、ニューブランズウィック州のモンクトン大学(1864年)とニューブランズウィック大学(1785年)がある。

さらに、オンタリオ州のヨーク大学(1959年)、ケベック州のモンレアル大学(モントリオール大学。1878年)、ケベック大学(1968年)などもよく知られている。

2. 文化

カナダには2100以上の博物館、美術館、公文書館、史跡などがある。首都圏には重要なものが多く、ケベック州のカディノー(旧ハル)にはカナダの多様な文化と歴史遺産を展示するカナダ文明博物館、オタワには国立自然博物館(旧、国立自然科学博物館)、国立科学技術博物館、カナダ国立美術館がある。トロントのロイヤル・オンタリオ博物館には芸術、生物・地球科学、カナダ研究に関する展示がみられる。

オンタリオ州モリスバーグには18~19世紀の開拓時代の村を復元したアッパー・カナダ・ビレッジがあり、村の中には農業博物館やセントローレンス川博物館もある。専門的な博物館としてはサスカチュワン州リジャイナのカナダ騎馬警察博物館があげられる。ビクトリアのロイヤル・ブリティッシュコロンビア博物館は、先住民の日用品やビクトリアの開拓史などの展示で知られる。オタワの国立図書館は、カナダ全体の文献目録を作成し、国内300以上の図書館の蔵書目録を管理する。同じくオタワにあるカナダ科学技術情報協会は、科学技術データに関する中心的機能をはたしている。

芸術活動は政府や民間の財政的援助をうけている。1969年に設立されたオタワの国立芸術センターには、交響楽団、フランス語と英語で演じる劇団がある。主要都市には劇場があり、芸術団体の活動の場となっている。オペラ劇団は、トロントのカナダ・オペラをはじめモントリオール、バンクーバー、ビクトリア、カルガリー、エドモントン、ウィニペグ、サスカトゥーンの各都市にある。舞踊団では、カナダ国立バレエ、ロイヤル・ウィニペグ・バレエ、カナダ・グランド・バレエなどが知られる。オーケストラでは、モントリオール、トロント、バンクーバーの各交響楽団が有名である。

各地の伝統行事も保存されており、有名なものとしては、ケープブルトン島のハイランド・ゲーム、フランス系カナダ人の文化をいわうカントンのシュアーブルック・フェスティバル、マニトバ州ドーフィンのウクライナ・フェスティバル、ユーコン準州ドーソンのディスカバリー・デー(1896年の金の発見を記念する)などがおこなわれている。

V. 経済

20世紀初めまでカナダ経済の主体は農業であったが、現在では世界有数の先進工業国になっている。工業は、自動車産業や機械産業が成長し、近年はIT(情報技術)産業が発展してきている。農業、鉱業、林業、漁業などの1次産品の加工業も柱のひとつで、観光産業も盛んである。2006年のGDP(国内総生産)の成長率は2.8%で、GDPは1兆2716億米ドル(2006年)。

1. 農業

カナダは世界屈指の食料輸出国である。2006年の農場数は約23万、平均規模は295ha(2006年)。農業生産高に占める農作物と畜産物の割合はほぼひとしい。アルバータ、マニトバ、サスカチュワンの平原州は世界有数のコムギ生産地帯となっており、生産量は2728万t(2006年)。平原州はコムギ以外の穀物類や油料種子類の国内生産高でもそのほとんどを占めている。コムギ以外の主要作物はオオムギ、ナタネ、野菜、トウモロコシ、ジャガイモ、果実、ダイズ、エンバク、干し草などがある。

牧場は西部に多いが、肉牛の肥育はアルバータ州とサスカチュワン州に集中している。オンタリオ州とケベック州は酪農が盛んで、鶏肉や鶏卵の生産も多い。ケベック州ではメープルシロップの大半を生産している。リンゴなどの果実栽培はオンタリオ州、ブリティッシュコロンビア州、ケベック州が盛ん。野菜生産はオンタリオ州が中心で、ついでケベック州とブリティッシュコロンビア州が多い。

2. 林業と漁業

林業は重要な収入源であり、建築資材、紙・パルプなどの林産物が輸出総額の9%ほどを占める。森林面積は310万km²で、国土の31.1%(2005年推計)にあたる。樹種は約150種におよび、その約80%がトウヒ、ダグラスファー、アメリカツガ、ヒマラヤスギ、マツ、バルサムモミなどの針葉樹である。製材業はブリティッシュコロンビア州に集中しており、パルプ、製紙工業の中心はケベック州とオンタリオ州である。新聞用紙の大部分はアメリカに輸出される。

カナダは、大西洋岸北西域と太平洋岸北東域、さらに世界最大の内陸水域と、豊かな漁場にめぐまれている。漁獲量は126万t(2005年推計)。年間漁獲量の大半が輸出されている。その半分以上がアメリカに、ついで日本とEU(ヨーロッパ連合)に輸出されている。おもに、ニシン、タラ、ホタテガイ、サケ、カレイ、ロブスター、カニが水揚げされる。

3. 毛皮産業

毛皮獣の捕獲は、開拓初期のカナダ経済に重要な役割をはたしたが、現在でもつづけられている。狩猟および飼育による毛皮の生産額は、1960~61年の2650万米ドルから86~87年には1億1080万米ドルに増加した。しかし、80年代後半からは激減している。2000年に生産された毛皮は197万枚で、毛皮農場ではおもにミンクが飼育されている。農場はオンタリオ州、ノバスコシア州、ケベック州、ブリティッシュコロンビア州に多く、狩猟は北部でおこなわれている。毛皮産業

4. 鉱業

鉱業は重要な産業で、第2次世界大戦以降、鉱物資源の開発は急速にすすめられ、国内各所で多様な鉱物が開発、採掘されている。現在では世界有数の鉱産物輸出国として、おもにアメリカ、EU(ヨーロッパ連合)、日本を中心に輸出している。

おもな鉱産物は、石油、天然ガス、銅、ウラン、金、亜鉛、ニッケル、石炭、鉄鉱石であり、これらの合計は鉱産物生産額の5分の4にあたる。州別の生産額ではアルバータ州が最大で、オンタリオ州、ブリティッシュコロンビア州、サスカチュワン州、ケベック州、マニトバ州がそれにつづく。カリ、コバルト、ダイヤモンド、プラチナ、銀、アスベスト、石膏(せっこう)、鉛、モリブデン、硫黄(いおう)、チタンなどの産出量でも世界上位にある。

5. 工業

工業はカナダ経済の中心である。労働人口の22%(2005年)が従事し、GDP(国内総生産)の31.4%(2002年)を占める。1945年から急成長をとげ、現在ではおもに、自動車や輸送機械、食品加工、紙および紙製品、化学、金属、石炭や石油精製、電気電子機器、金属加工、木材加工、印刷などがおこなわれている。工業はオンタリオ州とケベック州に集中しており、オンタリオ州は工業総生産の半分以上を、ケベック州はほぼ4分の1を占めている。おもな工業都市は、トロント、モントリオール、ハミルトン、バンクーバー、ウィンザー、ミシソーガ、ウィニペグ、キッチナーである。

6. エネルギー

急流河川が多く、水力発電量は世界でも有数である。水力発電量の約85%が、ケベック州、オンタリオ州、ニューファンドランド・ラブラドル州、ブリティッシュコロンビア州で供給されている。なかでもケベック州のジェームズ湾にそそぐラグランドリビエール川に1985年に完成したロベール・ブラッサなど3つの発電所と、ニューファンドランド・ラブラドル州のチャーチル・フォールズの発電所は大規模をほこる。

1950年代以降は豊富なウラン資源の活用が計画され、62年にオンタリオ州のロルフトンに最初の原子力発電所がつくられた。その後、70年代初めにはオンタリオ州のピカリングに、90年代にはオンタリオ州ブルース半島に巨大な原子力発電施設が建設された。オンタリオ州エリー湖畔のナンティコークには世界有数の規模をほこる火力発電所がある。2003年の発電量は5663億kWhであり、その58.7%は水力、27.3%が火力、12.5%が原子力による。電力はアメリカにも輸出している。

7. 観光

カナディアン・ロッキー(ロッキー山脈)やナイアガラ滝など、季節ごとに変化するうつくしい自然と雄大な景観にひかれて、多くの観光客がカナダをおとずれる。春には全国で花祭りが開かれ、なかでもノバスコシア州アナポリスバレーやブリティッシュコロンビア州オカナガンバレーの花祭りが知られている。また、5月のオタワの春祭り(チューリップ・フェスティバル)や、7月のアルバータ州のカルガリー・エキシビションとスタンピード(カウボーイの祭典)は世界的に有名である。秋にはナイアガラのブドウとワイン祭りがあり、冬はスキー客でにぎわう。

観光業はカナダの主要産業であり、年間の観光客は1827万人にのぼり、その多くはアメリカ人である。観光収入は年間206億米ドル(2006年)に達している。

8. 通貨と貿易

通貨単位はカナダ・ドル(1ドル=100セント)。カナダ銀行が中央銀行で唯一の発券銀行。商業銀行はカナダ・ロイヤル銀行、トロント・ドミニオン銀行、カナダ・コマース銀行(CIBC)、モントリオール銀行、ノバスコシア銀行の五大銀行がある。国内の主要な銀行のほとんどがトロントに本店をおいている。

カナダの主要輸出品は、16~18世紀には魚類と毛皮だったが、19世紀には、ローレンシア台地で伐採されるストローブマツなどの木材にかわった。1885年のカナダ太平洋鉄道(CPR)の完成後、20世紀に入ると鉄道網の整備がすすみ、西部平原諸州が開かれてコムギが輸出の中心となる。この時期には鉱物資源の開発もすすみ、その一方で、オンタリオ州やケベック州の北部からトウヒ材が産出され、原材料の輸出が拡大した。また、農業、林業、鉱業による1次産品の加工業から工業が発達し、製品の輸出がはじまった。

2004年の輸出総額は3165億米ドル、輸入総額は2734億米ドルで、1人当たり貿易額は世界でも上位にある。最大の貿易相手国はアメリカで、輸出の5分の4以上、輸入のほぼ3分の2を占める。鉱物、木材、穀物は現在も重要な輸出品だが、近年は工業製品が中心となっている。アメリカへの輸出品でもっとも多いのは、自動車と関連部品である。1989年にアメリカとの2国間自由貿易協定(FTA)が発効し、94年にはメキシコもくわわり、NAFTA(北米自由貿易協定)がむすばれた。

貿易の最大相手国はアメリカで、アメリカ以外の主要輸出相手国はイギリス、日本、中国、メキシコ、ドイツ、韓国、主要輸入相手国は中国、メキシコ、日本、ドイツ、イギリスである。おもな輸出品は、自動車と自動車部品、原油、天然ガス、金属および金属製品、木材、新聞用紙、パルプ、コムギ、産業用機械、通信機器、化学製品など、輸入品は自動車部品、自動車、機械、化学製品、コンピューター、原油、通信機器などである。

9. 交通とコミュニケーション

カナダの広大な国土には河川や湖、海峡、山地など地形上の障害が多く、また人口が分散しているために、効率的で経済的な交通機関の整備が不可欠だった。開拓初期から水上交通の重要性は高く、1959年にセントローレンス水路が開通すると、産業は飛躍的な発展をとげた。現在、セントローレンス-五大湖水上交通システムは、セントローレンス湾から内陸に約3800kmものびている。主要港は、バンクーバー、セティル、モントリオール、ポールカルティエ、ケベック、ハリファックス、セントジョン、サンダーベイ、プリンスルパート、ハミルトンである。

カナダの鉄道は大陸横断鉄道と、東部の都市間をはしる路線が中心で、その運行はカナダVIA鉄道がおこなっている。カナダ国内の鉄道は、かつてはおもに国営のカナダ・ナショナル鉄道(CN)と民営のカナダ太平洋鉄道(CPR)がになっていたが、1977年にCNとCPRの旅客部門を統合して設立された、国出資のVIA鉄道がカナダ全域の旅客輸送をあつかうことになった。しかし、その後も鉄道による旅客輸送は飛行機と自動車におされて衰退し、政府は89年に50%以上の旅客路線縮小を決定。93年にはさらに縮小策がとられ、95年に政府はCNを民営化している。現在、VIA鉄道はアメリカの鉄道と提携したり、水上輸送やトラック輸送との連携によって輸送力の向上をはかっている。なお、鉄道による貨物輸送は、民間の鉄道会社がおこなっている。鉄道総延長は5万7671km(2005年)。

2004年の道路の総延長は140万8900km、そのうち高速道路は2万4239km(1999年)である。62年に完成したカナダ横断ハイウェーは、ニューファンドランド・ラブラドル州のセントジョンズとブリティッシュコロンビア州のバンクーバーをむすんでいる。

空路ではエア・カナダ(AC)が国内、国際両路線を運航しており、そのほか多くの航空会社が国内路線を運航している。510以上の飛行場が認可されており、なかでもトロントのレスター・ピアソン国際空港、バンクーバー国際空港、モントリオールのトルドー国際空港、カルガリー国際空港、オタワ国際空港は利用客が多い。

公営のCBC(カナダ放送協会)はAM、FM、短波放送をふくむ多くのラジオ局やテレビ局を所有し、運営している。放送は英語とフランス語、さまざまな先住民族の言語によっておこなわれ、ほとんどの国民が視聴している。1996年にCBCは、2つのラジオ放送局をつかってインターネットによる放送をはじめた。日刊新聞は、英語のトロント・スター、グローブ・アンド・メール、フランス語のル・ジュールナル・ド・モンレアルなど103紙(2004年)あり、1日の発行部数は472万部である。

VI. 環境問題

カナダは広い国で、国土の面積は世界で2番目に大きい。しかし人が居住してない地域が多く、人口の90%がアメリカ合衆国との国境沿いと南部のいくつかの大都市に集中している。カナダ経済は、おもに森林資源と水産資源、および水力資源によってささえられているが、とくに深刻な環境問題をひきおこしているのもこの3つの分野である。

1. 酸性雨

近年、海洋漁場での漁業権をめぐって、スペインやアメリカとの間で論争がつづいている。またブリティッシュコロンビア州の山岳地帯をはじめ、いろいろな地域で、森林からの木材の切り出しがすすんでいるため皆伐地が広がりつつある。その結果、地すべりなどが発生し、地域によっては土壌の浸食が進行して、サケの生息地に打撃をあたえている。さらに、都市部では自動車による大気汚染が深刻化している。しかし、カナダのもっとも深刻な環境問題は酸性雨である。そのほとんどは、隣国アメリカの工業活動に起因するもので、とくに金属精練や、発電のための石炭燃焼が大きな原因になっている。

酸性雨は、樹木の生命力を弱め枯死させるばかりでなく、河川や湖沼、地下水を汚染し、酸性化する。カナダ全土が酸性雨の重大な影響をうけており、1970年代半ば以降、とくに東部諸州などで深刻な被害が報告された。85年、カナダはヘルシンキ議定書に署名し、大気汚染物質を80年のレベルから30%削減する義務を負うことになった。その後、「酸性雨抑制プログラム」を実施した地域では、原因となる汚染物質の削減がすすんだ。

1981~94年に、オンタリオ、ケベック両州、および大西洋沿岸地域の202の湖沼を対象に実施された調査では、水質の酸性化が現状維持または改善されているという傾向がみられた。ただし、一部の湖沼はいまだに改善されていない。

2. 生態系の損傷

ここ数十年、カナダ全土で動植物の生息地は大きくうしなわれつつある。1980~90年の10年間だけでも、合計23%の湿地帯が消滅したことをふくめ、もともとあった湿地帯の80%がうしなわれてしまった。また、一面に背の高い草におおわれたプレーリーとよばれる大草原、オンタリオ州南部の森林、大西洋沿岸州アカディア地方の森林、西部大西洋岸の多雨林はほぼ壊滅に近い状態にある。現在のカナダには、かつて生育していた森林のわずか10%ほどがのこされているだけである。

連邦政府は、自動車の代替となる交通手段の開発、資源のリサイクル、野生動植物の保護や生息地の復元などを地域レベルですすめるため、地方政府に補助金を出すなどして積極的な活動をつづけている。絶滅危惧種については、カナダ絶滅危惧種保護法や州ごとの同様の法律によって保護政策がとられている。だが、これらの努力にもかかわらず、生物多様性は危機に直面している。たとえばアルバータ州では、野生動植物のうち、危機にさらされていないと推測される種はわずか10%にすぎない。

カナダは、1992年に調印された国際連合の生物多様性条約を先進工業国の中でいちはやく批准し、その後、国内でも生物多様性を維持するための独自案をうちだした。政府は資源節約の重要性を強調するとともに、自然保護をすすめるための優遇措置を導入し、法整備につとめている。さらにチリとの間で環境保護のための国際協定がとりかわすなど、各国との協力もすすめている。

VII. 政治

カナダでは「1982年憲法」にしたがって政治がおこなわれている。この憲法が成立する以前は、1867年にイギリスで制定されたイギリス領北アメリカ法を改称した「1867年憲法」にもとづいており、憲法改正などにはイギリス議会の承認が必要であった。カナダは連邦国家であり、連邦政府と州政府が機能と権限を分担している。「1867年憲法」では、連邦政府が州に対して大きな権限をもっていたが、その後の修正と現実的対応によって、州政府の権限がしだいに拡大してきた。現在でも連邦政府と州政府との間には、権限と機能の分担についての確執がある。

1982年に憲法で明文化された「権利と自由の章典」によって、憲法の修正がすべてカナダでなされることを規定するなど、カナダ国民の基本的人権が保障されるようになった。この章典は、基本的自由(信教、表現など)、民主的権利(選挙および被選挙)、移動の自由、法的権利、平等権、言語に関する権利を保障している。

1. 連邦政府

州政府の権限に規定されていない事項は、すべて連邦政府の権限に属している。連邦政府が管轄する事項は、国債や通貨の管理、一般の課税、国防、財政、銀行、漁業、商業、海運と航空、エネルギー政策、農業、郵便、国勢調査、統計、特許、著作権、帰化、居留外国人、先住民、結婚、離婚などである。州政府の権限に属する機能は、教育、保健、州における財産と公民権、州税の賦課、州内の商業の規制、借款などである。移民などのように連邦政府と州政府の共同管轄事項もある。

カナダはイギリス国王を元首とする立憲君主制の連邦国家で、イギリス国王の代理者である総督が連邦政府の名目上の長である。総督は、カナダ首相の推薦によってイギリス国王から任命される。実際の政府の長である首相は、下院第1党の党首が選任され、首相は内閣を組織する。首相と閣僚は、形式的には総督の任命によって就任する。内閣は30~40名ほどの閣僚から構成されており、そのほとんどが連邦政府の行政機関を統括する大臣となる。

2. 連邦議会

カナダ連邦議会は上院と下院の二院制である。上院議員は首相の助言によって総督が任命し、任期は75歳までである。上院の議席数は105で、ニューファンドランド・ラブラドル州から6名、ノバスコシア州とニューブランズウィック州から各10名、プリンスエドワードアイランド州から4名、ケベック州とオンタリオ州から各24名、マニトバ州、サスカチュワン州、アルバータ州、ブリティッシュコロンビア州から各6名、ノースウェスト準州とユーコン準州、ヌナバット準州から各1名の議席で構成されている。

下院議員は普通選挙によって、308の選挙区から1名ずつ選出される。選挙区の人口が平均で約10万人になるように、各選挙区は人口の変動に応じて定期的に調整される。下院議員の任期は5年だが、ほぼ4年ごとに解散総選挙がおこなわれている。法案は下院での審議ののち上院の承認をうけ、総督が署名してはじめて発効する。

3. 州および準州の政府

10州の政府は、名目的には連邦政府の首相の助言によってカナダ総督が任命する副総督に代表される。しかし、総督と同様に副総督はほとんど権限をもたず、実際には各州の首相が、一院制の州議会に対して行政の責任をおうことになる。

準州は連邦政府から任命されたコミッショナーの管轄下にあるが、ノースウェスト準州では準州議会が、ユーコン準州では選挙でえらばれた協議会と準州議会が行政に関する助言をおこなう。第3の準州であるヌナバットも、他の2準州と類似の政治機構をもつ。

4. 国防

文民の国防大臣のもとに、幕僚がカナダ軍を統括、指揮している。カナダはNATO(北大西洋条約機構)に属し、空軍と陸軍をヨーロッパに派遣している。さらにアメリカと共同でNORAD(北米航空宇宙防衛司令部)を構成する。国際連合の平和維持軍にも派兵している。2004年のカナダの総兵力は6万2000人である。

VIII. 歴史

カナダの歴史は、きびしい自然と豊かな国土と多様な民族(先住民、イギリス系やフランス系など世界じゅうからの移民)によって形成されてきた。1867年の連邦結成以来、アメリカ合衆国の影響をうけながら、カナダはしだいにイギリスとのつながりよりも、北アメリカ国家としての色彩を強めつつある。

1. アメリカの先住民

先住民たちは1万7000年前~1万4000年前ころ、アジアからベーリング海峡をわたってやってきたとする説が有力であるが、それ以前、たとえば2万5000年前~2万4000年前あるいは3万年以上前に移住があったと考える専門家もいる。現在のアラスカに移住してきた人々は、徐々に南北アメリカ大陸に広がっていった。ヨーロッパ人が多数移住しはじめる1600年ごろのカナダの地には、彼らの血をひく先住民が25万人以上すんでいたとみられ、狩猟や漁労のほか、温帯地域では農業もいとなまれていた。

最大の言語グループはアルゴンキン系語族で、東の亜北極地帯で狩猟をおこなうクリー族やナスカピ族、東の森林地帯にすむアベナキ族やミクマク族がふくまれる。18世紀までにアルゴンキン系語族は西へと広がり、平原地帯にはオタワ族、オジブワ族、ブラックフット族、プレーンズ・クリー族などがバイソンをおって移住するようになる。イロコイ系語族(ヒューロン族とイロコイ族)は定住して農業をいとなみ、セントローレンス峡谷やオンタリオ湖、エリー湖の周辺で部族組織を高度に発展させた。

ブリティッシュコロンビア内陸部の諸河川では、セーリッシュ系語族、アサバスカ系語族やそのほかの言語グループが漁村を形成していた。太平洋岸ではベラクーラ族などのセーリッシュ系語族やウォキャシュ語を話す諸部族が、ポトラッチ(一種の贈答儀式)やトーテム・ポール(木彫柱)にみられる高度な文化を発展させる。少数で孤立していたイヌイットの諸部族は、北極地域の過酷な環境での生活を可能にした、アザラシやカリブー猟にもとづく独自の文化をそだてた。

2. ヨーロッパ人の侵入

北アメリカに到達した最初のヨーロッパ人は、おそらく1000年ごろにグリーンランドにやってきたアイスランド人で、彼らの一部はニューファンドランド島北端まできて集落を建設した。その跡がランソメドウズ(ランス・オー・メドー)遺跡といわれて世界遺産に登録されている。しかし、ヨーロッパ人の本格的な到来は15世紀末以後である。初期の探検家の多くはヨーロッパからアジアにいたる北西航路をさがしもとめていたため、北アメリカ大陸への関心はうすく、むしろアジアへの航路の障害と考えた。イギリス国王の援助をうけたベネツィア人ジョン・カボットが1497年におこなったケープブルトン島とニューファンドランド島への航海は、のちにイギリスがカナダの領有権を主張する根拠となった。

1530年代には、フランス人探検家ジャック・カルティエらがニューファンドランドが島であることを確認、セントローレンス川をさかのぼり、その一帯をフランス王領と宣言した。カルティエもアジア航路の発見には失敗したが、ニューファンドランド沖のグランドバンクスでのタラ漁は、その後イギリス、フランス、スペイン、ポルトガルにとって重要な資源となった。

16世紀後半になると、北アメリカへのイギリスとフランスの関心が復活する。イギリスのマーティン・フロビッシャーは1570年代に、ヘンリー・ハドソンは1607年からアジア航路をさがしつづけ、10年にはハドソン湾に達したが失敗におわり、イギリスは30年代に、ニューファンドランドへの入植を事実上禁止してしまう。

3. 初期のフランス入植地

豊かなビーバー資源の存在を知り、北アメリカ大陸における帝国建設の幻想にとらわれたフランスは、交易独占権をあたえることで入植を促進しようとした。1603年に独占権をえたスール・ド・モンは、翌04年アカディア地域(現在のカナダ大西洋沿岸南部の諸州とアメリカのメーン州)に毛皮交易所を建設する。

1608年にケベックへの入植を推進したのは、サミュエル・ド・シャンプランだった。彼はルイ13世の宰相リシュリューを説得し、重商主義政策をとるフランスにとって北アメリカが重要なことを確信させる。27年にリシュリューは、北アメリカにフランスの交易と植民の一大中心地を創設しようと、ニューフランス会社(百人会社)とよばれる100人の株主による一種の株式会社を組織し、特許状を出して毛皮取引の独占権などをあたえた。

その後300年間におよぶヨーロッパ人の侵入は、先住民文化をほとんど破壊してしまう。天然痘などの病気がもちこまれ、人口が90~95%も激減するとともに文化も破壊され、酒やキリスト教の布教活動が、先住民の衰退に拍車をかけた。さらに大きな打撃となったのは、ヨーロッパ人による土地の占拠である。生活手段としての土地をうしなうにつれ、先住民は従属的な少数派に転落していった。

4. ニューフランス時代(1627~1763年)
4.A. ニューフランス植民地の建設

リシュリューのニューフランス会社のもとで、セントローレンス川沿いに入植地ニューフランスの建設がはじまった。しかし入植地はあまり発展せず、1663年に会社の特許状は無効となる。同年にルイ14世の財務総監コルベールは、ニューフランスを国王直轄植民地へ再編した。本国と同様に広大な植民地は荘園領主にあたえられ、領主はその領地をアビタンとよばれる小作農にかしあたえた。フランス人の移住が促進され、66年までに人口は約2000人となる。

移住者の多くは利潤の大きな毛皮交易に従事し、モントリオールにも新たな交易居留地が開かれた。クルール・ド・ボワとよばれる野心的な毛皮交易者たちは、規制をのがれてさらに内陸へ進出する。ローマ・カトリック教会も、まずフランシスコ会、のちにはイエズス会、ウルスラ会、シュルピス会を通じて布教につとめた。植民地社会で、教会はますます強大かつ厳格な勢力に成長していく。

しかし、先住民イロコイ同盟との戦争はたえることがなかった。1608年にはシャンプランがヒューロン族と同盟をむすんだことが、彼らと長期間あらそっていたイロコイ同盟の怒りをまねき、イロコイ同盟は48年にヒューロンの居住地を略奪したのち、ニューフランスへの攻撃に転じた。

植民地行政は軍人である総督と、さらに強力な権限をもつ監督官とに分担されていたが、総督は防衛態勢を強化し、イロコイ同盟の脅威は事実上消滅する。1672年に総督になったフロンテナクは、北アメリカの探検をすすめ、フランスの探検隊は73年にミシシッピ川に達し、82年には流域をルイジアナと名づけ領土とした。65年から監督官に就任したジャン・タロンは、南のイギリス植民地と対抗しようと、若い女性をふくむ多数の入植者をまねき、75年までにニューフランスの人口は約8000人にふえた。しかしコルベールの死後、植民地への関心は急速におとろえていく。

4.B. イギリスとフランスの抗争

世界支配をめぐるイギリスとフランスの抗争はニューフランスにも波及した。急成長しつつあった大西洋岸のイギリス植民地は、北はアカディア(イギリスも領有権を主張し、ノバスコシアとよんだ)とニューフランス、西はルイジアナによって領土拡張がはばまれていた。ニューフランスも、カナダ北部を支配していたハドソン湾会社(1670年にイギリスから特許状を取得)と、南のイギリス植民地によって包囲されていた。こうした状況で衝突はさけられないものとなり、1689年にウィリアム王戦争として勃発(ぼっぱつ)する。

ほぼ10年間におよぶ戦争後にむすばれたライスワイク和平条約(1697年)は、戦争前の状態を確認するだけにおわった。短期間の休戦状態ののち、1702年にはアン女王戦争がおこる。この戦争中にアカディアはイギリスに再占領され、13年のユトレヒト条約で永久にイギリス領となった。同条約でフランスは、ニューファンドランドとハドソン湾一帯を割譲し、ケープブルトン島とサンジャン島(プリンスエドワード島)のみを保持した。スペイン継承戦争

失地回復をはかるフランスは、ケープブルトン島のルイブールとオハイオ渓谷に要塞(ようさい)を建設する。1744~48年のジョージ王戦争につづいて54年にはじまったフレンチ・インディアン戦争(ヨーロッパに飛び火して七年戦争がおきる)は、フランスにとって壊滅的だった。イギリス陸海軍にささえられた人口100万人以上のアメリカ13植民地に対抗するのはもはや不可能であり、アカディアなどのイギリス領内にすんでいたフランス系アカディア人も、55年に強制追放される。58年にルイブール要塞は陥落し、翌59年にはジェームズ・ウルフのイギリス軍が、モンカルムひきいるフランス軍をやぶってケベックを攻略した。モントリオールも60年に降伏し、イギリスによるニューフランス奪取が63年のパリ条約で確認されたのである。

5. イギリス領北アメリカ植民地時代(1763~1867年)
5.A. イギリスの植民地支配

1763年当時、イギリス領北アメリカは4つの地域から構成されていた。漁業基地だったニューファンドランド、ハドソン湾会社が支配するハドソン湾一帯(ルパーツランドと隣接するノースウェストテリトリーズ)、ノバスコシアと改称されたアカディア、それに旧ニューフランスのケベック植民地である。プリンスエドワード島はノバスコシアに併合されたが、69年には別の植民地として分離された。

ケベック植民地の獲得は、異民族フランス人を支配するという困難な課題をイギリスにあたえた。初期のイギリス総督は、フランス系領主の協力なしに効果的な統治はありえないと考え、彼らの言語、民法、カトリック信仰を保障するよう本国を説得した。1774年のケベック法で実現されたこの保障が、フランス系領主や聖職者の協力を確実とし、アメリカ独立革命期に、領主や聖職者はアメリカではなくイギリス側についたのである。アメリカ大陸軍は75年にモントリオールを占領したが、ケベック攻略には失敗し、退却している。

イギリスは、アメリカにつづいて植民地で第2の革命がおこるのをふせごうと決意し、革命をのがれたおよそ5万人の亡命者を、ノバスコシア植民地とセントローレンス川上流地域にうけいれた。ロイヤリスト(王党派)とよばれた彼らが政治的権利や財産権をもとめはじめると、イギリスはこれにこたえるため、1784年にノバスコシアから分離して新たにニューブランズウィック植民地を創設する。また91年の条例によって、ケベック植民地をロワーカナダ(住民の大部分はフランス系、現ケベック州)とアッパーカナダ(大部分がロイヤリスト、現オンタリオ州)とに分離した。

フランス系住民はケベック法でみとめられた諸権利を保持し、ロワー、アッパー両カナダではしだいにイギリス系とフランス系の裕福な商人、上級官僚、土地所有者からなる植民地貴族層が形成され、立法議会を支配するようになる。革命の脅威は消失したかにみえ、1812~15年の米英戦争でもほとんどのカナダ人がアメリカ人を侵略者と信じ、イギリス支持で結集した。

5.B. 改革の要求

植民地貴族層による支配は、1820年代から攻撃にさらされはじめた。実業家、弁護士などの専門職、富裕な農民などの中産階級が出現し、彼らが英国国教会や支配階層に抵抗したのである。アメリカからの移住者やアッパーカナダの非国教徒、ロワーカナダのフランス系住民などを中心とする改革グループが、保守的なトーリー党に対抗した。

ニューブランズウィック、ノバスコシア、プリンスエドワードアイランドなどの沿海植民地では改革派も穏健だったが、ロワーカナダでは、ルイ・パピノーがフランス系の民族自治をもとめ、アッパーカナダではウィリアム・マッケンジーが共和制の採用をもとめる運動を指導していた。彼らは1837年11月にロワーカナダで、同年12月にはアッパーカナダで反乱にたちあがったが、イギリス軍と現地の市民軍によってすぐに鎮圧され、とくにフランス系のロワーカナダでは過酷に弾圧された。

反乱を憂慮したイギリス政府は、ダラムをイギリス領北アメリカ全体の初代総督に任命し、植民地問題の解決を命じた。彼は1839年のダラム報告書で、アッパーカナダとロワーカナダの再統一と、責任政府の樹立を勧告する。翌40年、イギリス議会はカナダ連合法を可決し、41年に両カナダを連合カナダ植民地として統合。しかし、責任政府をみとめたのは49年のことである。

5.C. 植民地の発展と連邦結成

1840年代から、植民地社会は全面的な自由化の道をたどる。地方自治体や、公立の無宗派学校が創設され、英国国教会の特権と領主的土地所有は廃止された。エリート層にかわって政党政治家が、政治の主役となる。とりわけ経済界は活動が活発になり、移民の導入、鉄道建設などを主張、アメリカとの互恵通商条約(1854年)がむすばれた。他方、民族間の緊張が再燃し、都市在住型のイギリス系と農村在住型のフランス系との相互不信が広がった。諸政党による連立政府もこうした分裂を克服できず、60年代半ばまでに連合カナダ植民地はほとんど統治不可能な状態となる。

アメリカの南北戦争(1861~65年)がはじまると、北軍がイギリス領北アメリカ植民地に侵入してくるという脅威が広がり、植民地全体の統合をもとめる運動が生まれた。トーリー党の後身である保守党のジョルジュ・カルティエとジョン・マクドナルド、改革派の後身である自由党のジョージ・ブラウンは、1864年に大連立内閣を形成した。彼らの主導による諸植民地代表の会議は、同年9月にプリンスエドワードアイランドのシャーロットタウン、10月にはケベックで開催され、連邦結成が討議された。

連邦結成の基本をさだめたケベック決議はイギリス政府の支持をえて、イギリス議会でイギリス領北アメリカ法として可決される。同法は1867年7月1日に発効し、連邦国家の自治領カナダ(ドミニオン・オブ・カナダ)が誕生した。

自治領カナダは当初、ノバスコシア、ニューブランズウィック、旧連合カナダ植民地のケベック(ロワーカナダ)、オンタリオ(アッパーカナダ)4州で発足し、プリンスエドワードアイランドとニューファンドランドは参加を拒否した。オタワに連邦政府が創設され、その監督下におかれた各州政府には、州内の資源開発や独自の社会制度をもうけることなど、比較的限定された権限だけがみとめられた。こうした連邦政府に大きな権限をあたえた連邦制度をとることで、アメリカが南北に分裂したような地域間紛争を回避できると期待されたのである。

6. 連邦国家の建設(1867~1929年)
6.A. マクドナルド初代首相の政治

連邦結成は、広大な国土とわずかな人口(1871年で約370万人)をもつ国家をつくりだした。総人口のうち、約100万人がフランス系、85万人がアイルランド系、100万人強がイングランド系とスコットランド系だった。

1867年に初代首相に就任したマクドナルドは、アメリカの領土拡張を阻止するため、ハドソン湾会社からルパーツランドとノースウェストテリトリーズの購入をきめる。既得権を無視された先住民やメティス(先住民とフランス系の混血)は、69年にルイ・リエルにひきいられて蜂起(ほうき:北西部反乱)、臨時政府をつくり連邦政府と交渉し、70年に彼らのすむ地域がマニトバ州となった。71年にブリティッシュコロンビア、73年にはプリンスエドワードアイランドも連邦に加入する。

大陸横断国家となったカナダの諸地域をむすびつけるため、政府は大平原地帯やロッキー山脈をこえて太平洋にいたる大陸横断鉄道の建設計画をすすめた。しかし、建設をめぐる不正献金が発覚して大スキャンダル事件になり、1874年の総選挙では自由党が政権を奪取する。

自由党の勝利は短命におわり、経済不況によってすぐにマクドナルドが復権した。1878年、カナダを経済的に自立させる「ナショナル・ポリシー」を公約にかかげて再選されたマクドナルドは、経済界と政府とが連携しながら、東部の経済先進地域と大平原(プレーリー)の農業開拓地域をむすぶ東西市場の建設を推進する。

開発がすすむ中で、西部の先住民はインディアン条約によって保留地においこまれ、メティスたちは現在のサスカチュワン州でふたたびリエルをたてて蜂起したが、すぐに鎮圧される。1885年のリエルの処刑はイギリス系の陪審によってきまり、フランス系カナダ人の反発をまねいてイギリス系との緊張と州権強化への声を高め、政府の弱体化をもたらした。

6.B. ローリエ首相時代の発展

1891年にマクドナルドが死去すると保守党は有能な指導者をうしない、96年の総選挙ではフランス系のウィルフリッド・ローリエひきいる自由党が勝利する。ローリエの首相就任と同時に世界経済は好況に転じ、カナダは急速に産業を発展させ、多くの移民が流入した。大平原地帯が本格的に開拓されはじめ、アルバータとサスカチュワンは1905年に州となる。2つの新たな大陸横断鉄道が政府援助で建設され、鉄道網は全国に広がった。

ローリエは、南アフリカでボーア戦争(1899~1902年)がおきたころ強まったイギリスの帝国主義政策に抗してカナダの自治をまもり、またアメリカとのアラスカ国境問題(1903年)でも国益をまもった。

ローリエ時代にもっとも大きな利益をえたのは経済界である。1911年までに鉄道網が発展、工業が成長し、トラストによって巨大企業が生みだされた。人口過密な都市ではスラム街ができ疾病が広がった。伝統的な生活様式が、60万人近いヨーロッパ中部および東部からの「新移民」によっておびやかされるという不安も拡大した。

アメリカの大規模な工業投資、アメリカ労働総同盟(AFL:アメリカ労働総同盟産別会議)の進出、アメリカ文化の流入などで、着実なアメリカ化がすすんだのもこの時期である。古くからの民族対立もいっそう深刻化し、フランス系カナダ人は、ふたたび民族自治への運動を開始した。政府がアメリカと互恵協定をむすぶと、フランス系カナダ人と経済界はともに反発し、1911年の総選挙でローリエを敗北させた。

6.C. 第1次世界大戦と1920年代

新しい保守党首相ロバート・ボーデンの政府は、第1次世界大戦(1914~18年)にまきこまれた。総人口800万人のカナダは、大戦中に17億米ドル近い戦費を支出し、1917年までに42万人以上を派兵し、約6万人が戦死する。この貢献によってカナダの外交面での地位が高まり、パリ講和会議に独自の代表を派遣した。

しかし、国内ではフランス系カナダ人が徴兵制にはげしく反対、保守党は自由党との戦時連立政府でのりきったが、国家統一はさらにあやうくなった。戦時インフレーションにつづく戦後不況が階級間の緊張を高め、ウィニペグは1919年のゼネラル・ストライキ(ストライキ)で麻痺(まひ)状態におちいる。コムギ価格の下落に直面した西部農民は、既成政党に対抗して新たに全国進歩党を結成。同党は21年の総選挙では平原地帯の農業州を席巻(せっけん)し、自由党を限定付きながら支持して少数派自由党政府の成立をたすけた。

1920年代には都市部を中心に繁栄がもどり、農村をはなれた野心的な若者をひきつけた。経済的活況を反映して労働運動や農民運動は衰退する。人々は自動車やラジオなどの個人消費にはしり、酒やタバコの売り上げをのばし、スポーツやアメリカ映画、ラジオ番組に熱中した。

新たに自由党から首相に就任したマッケンジー・キングは、イギリスと同等の外交権をもつことを主張し、この権利は1926年の帝国会議で承認され、31年にイギリス議会を通過したウェストミンスター憲章によって結実することになる。キングによる自治権強化や関税引き下げ、老齢年金法などの実施は、フランス系カナダ人や西部カナダ人からも歓迎された。保守党は少数政党となり、進歩党は衰退していった。

7. 高福祉の追求(1929~57年)
7.A. 大恐慌下のカナダ

1929年にはじまった世界恐慌はカナダの国家基盤を大きくゆるがし、30年の総選挙でキングにかわって保守党のリチャード・ベネットが首相になった。GNP(国民総生産)は29年の61億米ドルから33年には35億米ドルにまでおちこみ、輸出総額も約6億米ドル減少、外国市場に依存するカナダにとっては大打撃だった。工業製品の価値は半減し、33年には労働者の約20%が失業している。穀物価格の急落にくわえて干ばつにおそわれた西部の農業州の打撃はとくに深刻で、政府は国家建設よりも社会福祉政策を優先するようせまられた。

ベネットは失業者と農民救済のため、諸州への支出をふやし、関税を大幅にひきあげ、1932年にオタワで開催されたイギリス帝国経済会議ではイギリスやイギリス連邦諸国と特恵貿易協定をむすんだ。さらに中央集権的なカナダ銀行(1934年)や小麦管理局(1935年)を創設し、政府の経済統制力を強化する。35年には失業保険や労働時間削減などの雇用創出計画、最低賃金制度、労働立法など、アメリカのニューディール政策にならった抜本的な改革策を提起した。しかし景気は回復せず、同年の総選挙で有権者の多くは再建党、協同連邦党、社会信用党といった新しい小政党へながれ、自由党のキングが政権に復帰した。

7.B. 第2次世界大戦への貢献

キングは、ベネットのカナダ版ニューディール政策を放棄し、アメリカと新たな互恵通商条約(1936年)をむすぶ一方、CBC(カナダ放送協会)を設立し、カナダ銀行を完全に国有化する。ほどなく勃発した第2次世界大戦(1939~45年)は、キング政権とカナダ経済の救済者となった。カナダは1939年にイギリスが参戦すると、反枢軸国同盟に参加、当初は食料、原料、物資協力に主力をそそぎ、フランス系カナダ人が嫌悪する徴兵を回避しようとした。しかし、40年のドイツのフランス侵入によって総力戦へとすすんでいった。

戦時下で経済統制権をにぎっていた政府は、資源と産業、賃金と物価、配給制度管轄の諸部局を設置。1944年には労働者の団体交渉権をみとめ、ついには徴兵による大規模な軍隊創設をも承認した。カナダの貢献はめざましく、戦費支出は50年までに210億米ドルに達した。人口1200万のうち約150万人の男女が兵役につき、そのうち4万人以上がヨーロッパの戦場で命をおとしたのである。

政府は大戦中から、大衆の福利を確保する社会計画を遂行した。基本的な生活水準を確立する最低社会保障策として失業保険(1940年)、家族手当(1944年)、退役軍人手当の増額、老齢年金の改善、健康保険計画などが実施される。もうひとつの重要策は、インフレ率を最低に維持しての完全雇用計画だった。戦後、政府は産業規制を解除し、貿易を促進してインフレの流れを食いとめた。

7.C. 戦後の繁栄と外交

キングはあわせて22年間首相をつとめ、1948年に引退する。後継者にはルイ・サン・ローランが就任し、49年の総選挙で圧勝、国民が自由党路線を支持していることをしめした。同年にはニューファンドランドが州となり、連邦結成はこれで完成され、自由党の長期政権は大戦後の好景気によって揺るぎないものとなる。

1940年代後半にはアルバータ州で石油、ケベック州やラブラドル半島で鉄鉱資源が新たに発見され、その後もオンタリオ州でのウラン開発や、全国で水力発電所建設がつづいた。連邦と州の共同プロジェクトであるカナダ横断ハイウェーも49年に着工され、56年にはカナダ横断パイプラインによる、アルバータから国内市場とアメリカ市場までの石油と天然ガス輸送が承認された。

景気は約150万人の移民の到来でさらに高まり、安価な労働力と、新たな消費者層が形成される。GNP(国民総生産)は1946年の120億米ドルから57年には300億米ドルにまで増大し、労働組合の活発化により所得水準があがった。56年に二大労働組合が合併してカナダ労働会議を結成し、政治および経済面での重要勢力となる。しかし、この経済繁栄の背景には、アメリカによるカナダの天然資源への投資と製造業支配があった。イギリスとのつながりが弱まる一方で、カナダ経済は徐々にアメリカ経済の勢力下にくみこまれていった。

1940年にキングとアメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトは、アメリカとカナダの共同防衛をさだめたオグデンズバーグ協定に調印していた。戦後の外交政策は、アメリカの反共戦略と密接にむすびつけられ、49年にはNATO(北大西洋条約機構)の創設にくわわり、朝鮮戦争(1950~53年)にも国連軍として参加する。

イギリス、フランス、イスラエルがスエズ運河を占領した1956年の第2次中東戦争には、アメリカの承認をえて停戦確保の国連緊急派遣軍を提唱し、イギリス離れをさらにすすめる。58年に北アメリカ大陸の共同防衛組織であるNORAD(北米航空宇宙防衛司令部)の設置協定がむすばれ、アメリカとの関係は、かつてのイギリスとのように重要かつ密接なものとなった。

8. 紛糾の時代(1957年~)

1950年代後半から、カナダの生存そのものをおびやかすような一連の問題が生じはじめた。社会民主主義の実現をめざす新民主党が生まれ、反米主義が高まったこと、そしてさらに深刻な問題といえる、フランス系ナショナリズムの復活である。60年以降、ケベック州で社会制度の近代化をもとめる「静かな革命」が進行し、政治および経済面でのフランス系の地位向上がさけばれた。

1963年の総選挙で成立したレスター・ピアソンの自由党政府は、イギリス系とフランス系の紛争融和政策をすすめ、ケベックや他州政府に国家問題で、より大きな発言力をみとめようとした。しかし、フランス系ナショナリストはルネ・レベックを中心に68年、ケベック党(パルティ・ケベコワ:PQ)を結成し、連邦離脱論を強めた。

8.A. トルドーの政策とケベック問題

1968年の総選挙で自由党を勝利にみちびいたピエール・トルドーは、以後約15年間、新たな構想にもとづいてカナダの統一と地位を高めようとした。外交政策では、アメリカに抵抗して自国の経済を強化し、国内でも多様な民族の独自性の保持を促進する多文化主義をうちだした。トルドーは国家的統一をまもるため、フランス語も公用語とみとめる公用語法(1969年)を可決したが、翌70年10月に完全分離独立を主張するケベック解放戦線が州政府閣僚とイギリス商務官を誘拐すると、ケベックの戒厳令布告においこまれた。76年、ケベック州議会選挙でケベック党が勝利し、フランス語を優先する州法を実施したことは、連邦政府にとって手いたい打撃となった。

1979年5月の総選挙で自由党は進歩保守党に敗北したが、トルドーは80年2月に政権に復帰する。同年5月に実施されたケベックの主権をめぐる州民投票では、有権者の86%が投票し、独立拒否票がうわまわり連邦政府の勝利となった。82年トルドーはついに自主的な新憲法(「1982年憲法」)の公布に成功したが、ケベックはこの憲法を承認しなかった。諸州政府も連邦の中央集権的姿勢やフランス系の勢力増大、さらに財政赤字急増を批判しはじめた。ケベック問題

8.B. 進歩保守党の反攻

1984年6月のトルドー引退後まもなく、ブライアン・マルルーニーひきいる進歩保守党が政権をにぎって政策の転換にのりだした。政府は、財政赤字の削減、社会・文化政策支出の削減、経済界との提携再建、政府事業の民営化を断行。もっとも劇的な転換は、88年にマルルーニーとアメリカ合衆国大統領レーガンが調印した自由貿易協定だった。92年12月にはアメリカ、メキシコとの間で自由貿易圏を創出するNAFTA(北米自由貿易協定)に調印し、94年から発効させた。しかし、進歩保守党政府のもとでも国家的統一はさらに危機的な状況となった。

8.C. もえあがるケベック分離主義

1987年のケベック州ミーチ・レークの会談で、連邦と州の首相たちは、ケベックが連邦内で「独自な社会」であることをみとめる憲法修正に同意した。しかし、協定はマニトバとニューファンドランド州議会の反対で成立せず、ケベックでの分離主義はいっそうもえあがった。91年と92年には、プリンスエドワードアイランドのシャーロットタウンでふたたび首相会談が開かれ、先住民の自治、より公正な代表制度達成の議会改革、「独自な社会」としてのケベックの承認をふくむ、広範な憲法修正のためのシャーロットタウン協定がむすばれた。しかし、政界、マスコミ界、経済界のほとんどの指導者から支持されたにもかかわらず、同協定は92年10月の国民投票で否決された。

1992年11月の州民投票で、ノースウェスト準州にすむイヌイットが同準州の中部と東部を分離して巨大な自治圏を設立することが承認され、この自治圏は、99年4月にヌナバット準州として発足した。

カナダが不況と分裂の泥沼にあった1993年2月に、マルルーニーは首相と進歩保守党党首の辞任を表明、6月にキム・キャンベルが後継党首となり、初の女性首相に就任した。しかし、進歩保守党は10月の総選挙で、前回の169議席から2議席に後退するという、政権政党としてカナダ史上最悪の敗北を喫して政権をうしない、自由党のジャン・クレティエンが首相となった。

1994年にはケベックの州議会選挙で、強硬な分離主義者ジャック・パリゾーのケベック党が、オタワのケベック連合の指導者ルシアン・ブシャールの支持をえて勝利した。主権について再度の州民投票を公約していたケベック党は、分離独立にむけての運動を強めた。95年10月におこなわれた州民投票では、有権者のほぼ9割が投票し、独立反対票50.6%というわずかな差で分離独立は否決された。

1992年以降、カナダ経済が回復にむかう中、クレティエン自由党政権のもとで行財政改革が推進された。鉄道会社などの民営化、公務員の削減、企業向け補助金の削減などを断行し、財政赤字の大幅削減に成功したが、一方で、失業の増大や福祉の切り下げは国民の不満を生み、97年6月の総選挙では、自由党はかろうじて過半数は獲得したものの、前回より大幅に議席をへらした。第2党には西部を地盤とする右派の地域政党、改革党が躍進、同党は州権限の拡大を主張する一方で、ケベック州を「独自な社会」とする扱いには反対の立場をとった。

8.D. 3期目のクレティエン政権

2000年11月の総選挙では、政権与党の自由党は先進国中でもアメリカにつぐ経済成長の高さを現政権の成果と強調、単独過半数を大きくうわまわった。地域政党が多いカナダの政党の中で全国規模の自由党による安定した政権運営も支持された。

第2党のカナダ同盟(旧、改革党)は議席をふやし、ケベック連合は議席をへらした。ケベック州の政権党ケベック党党首ブシャールは、党内強硬派から強い突き上げをうけて2001年1月に政界から引退した。

総選挙で勝利した与党自由党のクレティエン政権は3期目に入った。戦後、3期連続の政権ははじめてのこと。クレティエン政権はアメリカとの政治・経済面での強い絆(きずな)をたもちつつ、アメリカと一定の距離をおいた外交をおこなった。クリントン前大統領が国家ミサイル防衛(NMD)計画を出したときも、ブッシュ大統領が新ミサイル防衛構想(MD構想)を提唱したときも批判的で、戦略的安定のためにはABM制限条約堅持の姿勢をみせた。また地球温暖化防止にむけた京都議定書について、ブッシュ大統領は不支持を表明したが、カナダは議論のすえ支持した。対キューバ・北朝鮮外交でもアメリカとは一線を画し、北朝鮮と2001年2月に国交を樹立した。

2002年6月にはアルバータ州カナナスキスで主要国首脳会議(サミット)が開催され、テロとの闘いや世界経済の成長と持続可能な開発の強化、アフリカ支援などが議題になった。また、翌03年春のイラク戦争では、国連重視の立場からアメリカ・イギリス軍による軍事行動にくわわらなかった。ほぼ同じころ、トロントなどではアジア地域以外で唯一、重症急性呼吸器症候群(SARS)による死者が出て、7月初めまで観光など経済への影響をうけた。

2003年11月、自由党大会でポール・マーティン前財務相が新党首に選出され、クレティエン首相は翌12月に任期半ばで退任した。クレティエン首相は、最大の貿易相手国である隣国アメリカとの関係を01年9月のアメリカ同時多発テロ以降にしだいに悪化させ、マーティン前財務相との党内抗争によって国民の支持をうしなった。マーティン新首相は、クレティエン政権で財務相となり、大胆な歳出カットで財政再建を成功させた人物で、マーティン新政権があげた重点施策は対米関係の修復や社会基盤整備だった。

マーティン政権は当初、高い支持率をほこっていたが、翌2004年2月にクレティエン政権時代の政府補助金の不正使用疑惑が表面化したため、大きな痛手をこうむった。ケベック州の独立運動対策費としてはらった政府補助金のかなりの額が、自由党系の会社を経由して自由党の裏金につかわれたのではないか、との疑惑が指摘されたのである。

支持率が急落したマーティン首相は5月に下院を解散、6月の総選挙で国民に信を問うことになった。選挙戦では自由党が「質の高い医療のために国民健康保険制度を堅持する」とし、最大野党の保守党は「大規模な減税をし、国民健康保険制度の改善」をうったえた。保守党は、保守二大政党の進歩保守党とカナダ同盟が政権奪回をめざして合同した政党で、外交では親米路線をかかげた。疑惑をかかえる自由党の選挙は苦戦となり、10年以上つづく与党の座をあけわたすとの観測も広まった。しかし、議席は過半数にはとどかなかったものの、かろうじて第1党にふみとどまった。カナダでの少数政権誕生は1979年以来のことだった。

8.E. 12年3カ月ぶりに保守政権誕生

2005年に入っても自由党の支持率はあがらず、補助金不正使用疑惑による政府への不信はさらにまして、11月には保守党が提出した内閣不信任案が可決された。06年1月に実施された総選挙では、経済の好調など政権の実績を強調する自由党に対し、保守党は腐敗した長期政権の打破をうったえ、汚職防止をはじめ、減税、治安強化、医療制度改革、育児支援を重点公約にかかげた。保守党は過半数にはとどかなかったが第1党の座を占め、翌2月にスティーブン・ハーパー党首が首相に就任。1993年11月に進歩保守党政権が自由党政権にかわって以来、12年3カ月ぶりの保守政権の誕生となった。

ハーパー新政権は閣僚を大幅にへらして「小さな政府」をつくるなど、前政権との違いを強調した。またケベック州との関係重視や、対米関係の修復にも積極姿勢をしめした。ハーパー首相は環境保護の面でも前政権の方針を変更し、2007年4月には京都議定書でさだめられた削減目標の期限内達成を断念すると発表。公約である減税では、同年11月に08年から連邦法人税や物品サービス税など大幅な減税を実施すると発表した。

しかし少数与党だったため、公約実現をめざす政治運営はむずかしく、2008年9月にハーパー首相は単独過半数をねらって下院を解散した。翌10月の総選挙で保守党は議席をのばしたものの、ふたたび過半数にはいたらなかった。第2次ハーパー内閣は発足したが、選挙中にはじまったアメリカの金融危機の影響をうけて国内経済は急速に失速。与党が景気対策を出せない中、12月に入ると野党の自由党、新民主党などが連立政権をつくる構想が表面化した。ハーパー首相は野党の内閣不信任案提出前に連邦議会を休会し、09年1月末の議会再開まで決着はもちこされた。