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エストニア
I. プロローグ

ヨーロッパ北東部にある共和国。正式国名はエストニア共和国。かつてはエストニア・ソビエト社会主義共和国として、旧ソビエト連邦の構成共和国だったが、1991年の9月に独立。北はフィンランド湾、西はバルト海とリガ湾にのぞみ、東はロシア、南はラトビアと国境を接する。沿岸にはサーレマー島とヒーウマー島をはじめとして、1520の島がある。ラトビア、リトアニアとともにバルト三国とよばれる。面積は4万5227km²。人口は131万5912人(2007年推計)で、旧ソ連の国々の中でもっとも少ない。首都は同国最大の都市でバルト海屈指の港であるタリン。

II. 国土と資源

国土は平坦(へいたん)で、平均標高は50m、最高点でも318mにすぎない。湿地が国土の20%以上を占める。湖も多く、人工湖とあわせて国土の5%を占め、東側の国境をなすチュド(ペイプス)湖と中南部のブルツ湖で全湖水面積の5分の4にあたる。気候は海洋の影響で穏やかだが、内陸部では大陸性気候の特徴がみられる。年降水量は500~700mmであまり多くない。北から南へと楕円形(だえんけい)に広がる丘陵地はかつての氷河作用の名残であり、南部と南東部では氷河によってはこばれた巨礫(きょれき)がみられる。

国土の53.9%(2005年推計)は森林で、マツ、カバノキ、ハコヤナギ、モミが多い。おもな野生動物はヘラジカ、シカ、イノシシなどであり、ビーバー、アカシカ、ヌマライチョウ(カラフトライチョウ)などは個体数が少ないため法律で保護されている。

III. 住民

住民の約68%はエストニア人であり、ついでロシア人(26%)が多く、ウクライナ人、ベラルーシ人、フィンランド人、ユダヤ人、ラトビア人などもいる。1940年にソビエト連邦の構成共和国となるまでは、ロシア人は全人口の8.5%にすぎなかったが、第2次世界大戦後に大規模な工業化がすすみ、ロシア人が流入した。エストニアではロシア人の大部分は工業に従事している。公用語は、インド・ヨーロッパ語族に属さないフィン・ウゴル語派系のエストニア語で、ロシア語も通用する。宗教は、ルター派教会のプロテスタントが中心で、東方正教会などもある。

1992年、エストニアの市民権を大幅に制限する法律案が可決された。この法律は39年制定の法律にもとづいており、ソ連に併合された40年6月の時点でエストニア国民だった人々およびその子孫には、民族にかかわらず無条件でエストニア国籍があたえられるが、それ以外の住民は、2年間エストニアに居住していることとエストニア語の能力試験に合格することが条件になる。ただし、高齢者と障害者はエストニア語の試験を免除される場合もある。この言語能力を規定する法律が制定されると、ロシア政府はエストニア在住のロシア語系住民の人権侵害につながりかねないとして抗議したが、93年、全欧安保協力会議(現、ヨーロッパ安全保障協力機構)が後援する使節団がエストニアを訪問し、ロシアの主張をしりぞけた。95年には、2年の居住条件が5年に延長された。その後98年12月になって、15歳以下の無国籍児童への国籍付与の条件は緩和された。

エストニアは都市化がすすんでおり、全人口の70%(2005年推計)が都市部に居住する。首都タリンの人口は39万7150人(2003年推計)で、これは全人口のほぼ3分の1にあたる。ほかに主要都市として、タルトゥ(10万1190人(2003年推計))、ピャルヌ(4万4781人(2003年推計))などがあり、ロシア人は東部の都市に多く、北東端にあるナルバ(6万7752人(2003年推計))の住民はほとんどがロシア人である。

IV. 経済

工業がエストニア経済の中心で、GDP(国内総生産)の29.4%(2005年)を占め、全就業人口の34%(2005年)が工業に従事する。電気機械と金属加工が代表的で、火力発電と石油精製にもちいられるオイルシェール(石油をふくんだ頁岩)の採掘も盛んである。ほかに、セメント、繊維(綿、リネン、羊毛)、自動車部品、皮革製品などがあり、製紙、木材加工、合板、家具製造もおこなわれる。フィンランドやスウェーデンの企業の直接投資による携帯電話やコンピューターなどの電子部品の製造も重要な産業となっている。

農業と林漁業はあわせてGDPの4%にあたり、全就業人口の5%が農林漁業に従事する。農業は畜産と酪農を中心とし、カラスムギ、ジャガイモ、亜麻なども栽培される。

エストニアの電力は、ほとんどが火力発電で、天然ガスはロシアからの供給によっている。独立してまもない1990年代初頭、ロシアが化石燃料の輸出に国際価格を適用するとしたため、エストニア経済は大きな打撃をうけた。近年は、北欧や他のバルト諸国との協力関係を強めて、エネルギーの脱ロシア依存をめざしている。

エストニアは、旧ソ連の共和国で最初に独自通貨を発行した国であり、1992年からクローンが流通している。クローンは金を外貨準備としており、エストニアがソ連の一部だったころから50年以上にわたってイギリス、スウェーデン、フランスにあずけてある金準備もふくまれる。

エストニアは1995年にEU(ヨーロッパ連合)とヨーロッパ協定(準加盟協定)に調印、97年にEU加盟交渉対象国に指定された。そして、2002年のEUでの加盟決定、03年の国民投票での加盟承認をへて、04年5月に正式加盟した。経済は00年以降、高い成長率を維持している。

V. 環境問題

産業公害がエストニアの環境問題の中心となっている。電力の99.59%(2003年)が化石燃料をつかった火力発電である。オイルシェールを燃料とする発電所は二酸化硫黄を排出し、北東部地域に深刻な大気汚染をもたらした。これらの発電所にくわえ、化学工場や製紙工場をはじめとする産業施設が高濃度の二酸化硫黄や二酸化炭素などを排出し、これが子供の健康状態の悪化やバルト海の富栄養化の原因となっている。また、北部の針葉樹林は酸性雨の被害をうけている。全国各地の土壌や地下水が石油生成物で汚染されており、有機的な廃棄物で汚染された湖も多い。産業廃棄物によるリガ湾の汚染は深刻である。

だが、エストニアでは環境に対する意識は高い。政府は環境に関するいくつかの法案を成立させ、リン鉱石の採掘を制限した。森林は年0.37%(1990-2005年)の割合でふえており、総陸地面積の7.6%(2004年)が保護地域に指定されている。

VI. 政治

現在のエストニアは、1918~40年のエストニア民主共和国を継承するものである。92年の国民投票によって承認された新憲法にもとづき、一院制の議会が設置されている。定員101名の議員は、比例代表による直接選挙によってえらばれ、任期は4年である。ただし、議員の属する政党が全体の5%以上の票を獲得することが条件になる。国家元首である大統領は国会議員や知事らによる間接選挙で選出され、行政権の一部が付与される。任期は5年。他のバルト諸国と同じく、エストニアは独立国家共同体(CIS)には加盟していない。

VII. 歴史
1. スウェーデンやロシアなどによる支配

1世紀のローマの歴史家タキトゥスによると、エストニア人はゆるい同盟関係でむすばれた小国家を形成していたという。1219年、デンマーク王バルデマール2世がエストニア北部に侵入してタリン・レベリ城をきずき、レベリ司教区を設立した。1343~45年に蜂起(ほうき)がおこると、バルデマール4世はエストニア北部の領土を、すでにエストニア南部(リボニア)を支配していたドイツ騎士修道会に売却した。ドイツ騎士修道会とハンザ同盟の商人は沿岸に交易所をもうけ、ドイツ騎士修道会が解体する1561年までエストニアを支配した。タリンとエストニア北部の貴族はスウェーデンの保護をもとめてその支配下に入り、タルトゥなど南部地域の一部はポーランドに領有された。1645年までにエストニア全土がスウェーデンの支配下に入った。70年代から80年代にスウェーデンは改革を断行して住民の窮状を改善したが、貴族の反感を買った。

スウェーデンは1721年までエストニアを統治した。21年、ニスタット和約によってエストニアはロシア帝国に割譲され、ロシア皇帝ピョートル1世(在位1682~1725)は貴族の特権を復活させた。1816~19年に、ロシア皇帝アレクサンドル1世はエストニアの農奴制を廃止した。19世紀半ば以降、農民に土地を購入する権利がみとめられ、強制労働制度は抑制された。同時にエストニアの民族意識が高まった。

2. ソ連の構成共和国に

日露戦争(1904~05)中にロシアの首都サンクトペテルブルクで血の日曜日事件がおこると、協同組合運動と教育運動が活発化し、エストニアの民族意識は新聞と近代文学の発達によってさらに高揚した。1917年のロシア革命によってエストニアに自治がもたらされ、ドイツ軍の援助でロシアの革命勢力がしりぞけられて、18年2月24日には独立共和国が宣言された。ドイツ軍が撤退すると、ロシアの革命勢力が侵攻を再開したが、20年2月2日、タルトゥでロシア革命政府とエストニアとの間に和平条約が調印された。ロシアはエストニアに対する主権の主張をとりさげ、エストニアの独立を承認した。その結果、新しい共和国は、イギリス、フランス、イタリア、ドイツ、アメリカなどの国々に正式に承認され、エストニアは国際連盟に加盟した。

1940年6月、ソ連軍がエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国を占領した。7月に共産党のみを公認とした選挙がおこなわれ、8月6日、エストニアはソ連の構成共和国になった。41年にナチス・ドイツ(ナチズム)がソ連を攻撃し、エストニアはナチス・ドイツ軍に占領された。44年9月、ソ連軍の侵攻によりナチス・ドイツ軍は撤退したが、6万人以上のエストニア人がスウェーデンとドイツに逃亡した。

3. 独立へ

1980年代末にエストニアは、ラトビア、リトアニアとともに独立にむかってうごきはじめた。91年にソ連で共産主義政権が崩壊し、9月6日にソ連政府は正式にバルト三国の独立を承認、同月、バルト三国は国際連合に加盟した。92年6月の国民投票で新憲法が承認され、9月の議会選挙では、民族派の「祖国」が第1党となった。10月には、議会が選出したレンナルト・メリが、大統領に就任した。メリ大統領は2001年まで2期つとめた。

独立後も、エストニアにはロシアとの国境問題がのこっていた。エストニアは、現在の共和国は1918~40年に存在した共和国の再生であると考え、45年にロシア・ソビエト社会主義共和国に割譲されたエストニア領土の返還をもとめている。一方、ロシアの主張は、かつてのエストニア共和国はソビエト連邦の一員となった時点で消滅しており、ソ連時代の境界を国境とする、というものである。92年にはじまった両国の協議は遅々としてすすまず、エストニア政府は問題地域の一部に居住するエストニア語住民に対してパスポートを発行した。これに対し、ロシアは、ロシア領土を併合しようとする行為だとして非難した。94年夏、ロシアはソ連時代の国境沿いに標柱を建設し、国境論争をさらに激化させた。

4. NATO、EUへの加盟

エストニアは、バルト諸国をはじめとしてヨーロッパ諸国など他国との関係を強化しようとつとめている。1993年9月、ラトビア、リトアニアと自由貿易協定を締結し、輸入関税を撤廃してビザと税関法を統一した。94年2月には、NATO(北大西洋条約機構)と「平和のためのパートナーシップ」協定の枠組み文書に調印した。

1994年8月、ロシア軍がエストニアから撤退し、エストニアは、同国内の旧ソ連軍関係者の居住申請をみとめることに同意。95年9月には、北西部にのこっていたロシアのパルディスキ海軍基地もエストニアに返還された。94年9月、タリンからスウェーデンのストックホルムにむかうフェリー「エストニア号」がバルト海で沈没し、900人以上が死亡した。この事故の原因は、船首ドアの故障とされ、第2次世界大戦後のヨーロッパで最悪の交通機関の事故となっている。

1994年9月、議会は、マルト・ラール内閣の不信任案を可決した。ラール首相は民族派「祖国」のメンバーである。10月、同じく「祖国」のメンバーで、前環境相のタランドが暫定首相に指名され、95年3月までつとめた。3月に実施された議会選挙では独立後の改革を推進していた民族派が大敗し、かわって左派の連立政権が成立した。首相には連合党代表のビャヒが指名された。ビャヒ首相は不動産購入をめぐるスキャンダルで97年2月に辞任し、3月、同じ連合党のマルト・シーマンが首相に就任し、新内閣が発足した。連合党政権のもとで西側との関係強化はすすみ、97年7月には、EUのヨーロッパ委員会が、エストニアをEU加盟交渉対象国に指定した。

1997年3月、メリ大統領が訪日、99年11月には日本との間でビザの相互免除をとりきめた。99年3月におこなわれた総選挙で中道党が第1党となったが、メリ大統領はラール元首相を首相に指名し、「祖国」、穏健党、改革党による中道右派連立政権が発足した。同年11月にWTO(世界貿易機関)へ加盟。2001年9月の大統領選挙では、旧共産党幹部のアルノルド・リューテルが当選。同年末に辞意表明したラール首相の後任として、02年1月に改革党のシイム・カラスが指名・承認され、中道党との連立内閣が発足した。

2003年3月の総選挙では、中道党と右派の共和党が同議席で第1党となったが、連立工作の結果、共和党、改革党、国民同盟の連立政権が発足、ヨハン・パルツ共和党党首が首相に就任した。

この間、NATOが、2002年11月にバルト三国など中・東欧7カ国の新規加盟を決定、EUも、同年12月にバルト三国など10カ国の加盟を決定した。EU加盟の是非を問う国民投票は03年9月に実施され、約67%の賛成で承認された。そして、04年3月にNATO、5月にEUへの正式加盟が実現した。同年6月にはヨーロッパ通貨制度の為替相場メカニズム(ERM 2)に参加し、07年1月のユーロ参加をめざしたが、インフレ基準が達成できず、06年にユーロ導入の延期を表明した。

5. 近年の動向

EU加盟後、税率の引き上げによる物価の高騰などで、与党共和党の支持率が急落した。2005年に入ると、外務省の機密文書紛失問題や法相不信任で政局は混迷し、3月、パルツ首相が辞任表明した。リューテル大統領は首相候補に改革党党首アンドルス・アンシプを指名、議会での信任をへて、4月、改革党、国民同盟、中道党によるアンシプ連立政権が発足した。

2005年5月、エストニアは、独立以来の課題となっていたロシアとの国境条約に調印した。NATOとEUに加盟するため領土問題の解決をいそいだエストニアは、ソ連時代の境界を国境線とする大枠に合意し、1999年に仮調印していた。2005年6月、エストニア議会は条約の批准を承認したが、その際、批准文書の前文にソ連の併合にふれた一文をつけくわえたことからロシアが反発、条約への署名を撤回する大統領令が出された。06年9月の大統領選挙では、現職リューテルを小差でくだして、西欧志向のトーマス・イルベスが選出された。