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第2次世界大戦
I. プロローグ

1939~45年に、ドイツ、イタリア、日本の三国同盟(日独伊三国同盟)を中心とする枢軸国陣営と、イギリス、フランス、アメリカ、ソ連、中国などの連合国陣営との間でたたかわれた、地球的規模の戦争。1939年9月1日のドイツ軍によるポーランド侵攻とともにヨーロッパ戦争としてはじまったが、41年6月のドイツによるソ連攻撃と12月の日本の真珠湾攻撃によって、戦火は文字どおり全世界に拡大した。

戦争は完全な総力戦となり、主要参戦国では戦争遂行のため人的・物的資源の全面的動員、投入がおこなわれた。世界の61カ国が参戦し、総計で約1億1000万人が軍隊に動員され、主要参戦国の戦費はアメリカの3410億ドルを筆頭に、ドイツ2720億ドル、ソ連1920億ドル、イギリス1200億ドル、イタリア940億ドル、日本560億ドルなど、総額1兆ドルをこえる膨大な額に達した。

航空機や戦車など旧来型兵器のいちじるしい発達にくわえて長距離ロケットや原子爆弾(核兵器)という大量殺戮(さつりく)兵器が登場し、戦場と銃後の区別がとりはらわれた。史上最初の原子爆弾の投下をふくむ都市への無差別爆撃、ドイツ占領下の各地で実施された強制労働や略奪および約600万人ものユダヤ人の組織的絶滅政策(ホロコースト)の遂行などにより、婦女子をふくむ約3000万人の一般市民が命をおとした。これは大戦での死者総数約5500万人の半分をこえている。

II. ファシズムの台頭

第2次世界大戦の遠因は、第1次世界大戦後の世界秩序をきめたベルサイユ条約などにもとづく、いわゆるベルサイユ体制にもとめられる。帝政にかわって共和国となったドイツ(ワイマール共和国)は領土の喪失、徴兵制禁止などの一方的軍縮にくわえて巨額の賠償支払いを課せられ、空前のインフレの進行により国民生活は窮乏の一途をたどった。屈辱的なベルサイユ条約をむすんだ共和国政府への反感とともにベルサイユ体制打破が国民の合い言葉となった。

戦勝国のイタリアも戦後の領土配分にいきどおり、同じく戦勝国の日本も中国進出の野望がさまたげられたことに不満をいだいた。イタリアではムッソリーニが不満分子をひきいて1922年にローマに進軍し、政権を奪取して反共産主義、反議会主義、軍国主義的独裁にもとづく全体主義体制(ファシズム)を樹立した。ファシズムの動きはやがてドイツと日本にも波及した。

戦勝国のイギリス、フランスは1920年に国際連盟を創設し、現状維持をかかげて自らつくりだした戦後の国際秩序をたもとうとしたが、国力の衰えからそれを実現する条件を欠いており、国際連盟の平和維持能力には初めから大きな限界があった。戦後秩序維持に最大の期待をかけられたアメリカは、内政上の理由から伝統的な孤立主義にまいもどり、国際政治の舞台からしりぞいた。

1924年のマルクの安定やドーズ案に代表される新たな賠償支払い計画の導入とともに、ドイツ経済は平静をとりもどし、ワイマール共和国は相対的安定期にはいった。25年にはロカルノ条約がむすばれて、ドイツ、フランス間の国境不可侵と、ドイツ、ポーランド間の紛争の調停が約束され、ドイツは翌年に国際連盟への加盟をみとめられた。日本も22年にワシントン海軍軍備制限条約(ワシントン会議)に調印し、大正デモクラシーの興隆の中で幣原外相の推進する国際協調主義が主流となった。さらに、28年にはパリで不戦条約がむすばれ、ソ連をのぞく63カ国が戦争放棄と紛争の平和的解決を誓約した。こうして、平和維持の試みは達成されるかに思われた。

しかし、1929年におきた世界大恐慌(恐慌)は事態を一変させた。恐慌は、とりわけ資源や資本あるいは植民地をもたないドイツ、イタリア、日本を直撃し、3国における現状打破の動きを促進させた。

ドイツでは失業者が激増する中で、ヒトラーひきいる国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党またはナチス:ナチズム)がベルサイユ体制打破、反共産主義、社会主義的綱領をかかげて小市民層や没落中産階級の高い支持を獲得し、1933年1月に政権獲得に成功した。さらに、翌年8月の共和国大統領ヒンデンブルクの死によってヒトラーは首相兼総統に就任し、独裁体制を確立した。国内体制をかためるいっぽうでヒトラーは、33年10月に国際連盟を脱退し、35~36年に徴兵制復活、ラインラント進駐などを強行し、強大な軍備をととのえながらベルサイユ体制の打破をおしすすめた。

日本も軍部と天皇を中心とする全体主義的支配体制を樹立しながら、1931年9月の柳条湖事件を契機に中国東北部を占領し、37年7月には本格的な中国本土への侵略を開始した(日中戦争)。イタリアも35~36年にエチオピア征服を完了した。こうしてドイツ、イタリア、日本のファシズム3国は結束を強化し、37年の三国防共協定の調印によって、いわゆるローマ・ベルリン・東京枢軸を結成して積極的な領土拡大政策にのりだしていった。

III. ヒトラーの野望と世界戦争への道

ドイツ国内の支配体制を確立したヒトラーは、戦争を前提とする領土拡大政策に着手した。ヒトラーは社会ダーウィニズムにもとづく人種思想に強く感化されており、アーリヤ人とよばれる理想化されたドイツ民族を支配人種として賛美し、劣等なスラブ人はドイツ民族に隷従し、ユダヤ人は害虫として抹殺されねばならないと主張した。

共産主義もユダヤ人の考案物とされ、したがって、ユダヤ・共産主義の中心であるソ連を撃破し、ユダヤ人を絶滅するとともに、ソ連領内にドイツ民族のための広大な土地(生存圏)を確保してドイツ民族の永遠の繁栄を実現すること、これがヒトラーの構想の基本となった。この目的を実現するために、最初にヨーロッパを征服し、その後にソ連の打破をめざすことが計画された。

ヒトラーは、1938年3月13日にオーストリアをドイツに併合したあと、戦争の脅しをもってチェコスロバキアにおそいかかった。そして、9月29~30日にミュンヘンで開かれたイギリス、フランス、ドイツ、イタリア4国の首脳会談で、350万人のドイツ人が居住するチェコスロバキア西部国境のズデーテン地方の奪取に成功した(ミュンヘン協定)。

この会談でイギリス首相チェンバレンはドイツに対する「宥和政策」をとなえたが、その意図は、戦争をおそれるイギリス、フランス両国にとって死活の問題ではない東南ヨーロッパを取引材料に、ヒトラー・ドイツを社会主義国ソ連に対する防壁として利用しようとすることにあった。そして、ドイツがチェコスロバキアの残りの領土を併合しないことを条件に、ヒトラーに譲歩したのである。

ヒトラーはイギリス、フランス両国の弱腰に乗じてチェコスロバキアの残りの領土解体に着手した。1939年3月14~15日に、ボヘミアとモラビアはドイツの保護領、スロバキアは名目上の独立国家となり、チェコスロバキアは消滅した。ポーランドを次の侵略目標とさだめたヒトラーは3月21日、第1次世界大戦でうしなったダンチヒ(グダニスク)とポーランド回廊の返還をポーランド政府に強要した。ここにいたってポーランドと相互援助条約をむすんでいたイギリス、フランスはドイツとの戦争を覚悟せざるをえず、ヨーロッパ戦争の危険が現実のものとなった。

ヒトラーの野望を阻止する唯一の手段は、イギリス、フランス、ソ連が同盟をむすび、ドイツに対する包囲網を完成することだった。いっぽうヒトラーも、これら3国との東西二正面戦争を回避する必要にせまられ、ソ連との暫定的な関係修復をいそがねばならなかった。ソ連の支配者スターリンは、イギリス、フランスの「宥和政策」をドイツの矛先をソ連にむけさせるものであると見ぬき、両国の態度に強い不信をいだいていた。この時期、ソ連の戦争準備は軍将校の大量粛清のために完了しておらず、スターリンはポーランドの次に予想されるドイツのソ連侵攻を回避して時をかせぐために、仇敵(きゅうてき)ドイツとの関係改善をはかる決意をかためた。

1939年8月23日、独ソ不可侵条約がむすばれた。この条約には4カ条からなる「付属秘密議定書」が付されていて、両国間でのポーランド分割、フィンランドおよびバルト3国へのソ連の影響力の拡大、ルーマニア領ベッサラビアでのソ連権益の保証などがとりきめられた。こうして、ドイツはソ連から攻撃されることなく、ポーランド侵攻に着手できることになった。

IV. 大戦の開幕

1939年9月1日未明、最新型の戦車2000台と航空機1600機を有する総計150万人のドイツ軍は計画どおりポーランドに侵攻した。9月3日、イギリス、フランスはドイツに対して宣戦布告し、第2次世界大戦がはじまった。

1. ドイツの優勢

ドイツ軍の攻撃にそなえ、ポーランド軍は100万人あまりを動員したが、装甲部隊の数は少なく、航空機の半数は旧式機だった。開戦初頭、ドイツ空軍はポーランド空軍を撃滅して制空権を確保するとともに、戦車を中核とする快速装甲部隊が2方面から急進撃し、1939年9月19日までにポーランド軍を撃滅した。9月17日にはソ連軍も東方から侵攻し、東西から攻撃されたポーランドは10月6日に降伏した。空軍の支援のもとに装甲部隊が急進撃して敵を包囲・撃滅するドイツ軍の戦法は「電撃戦」とよばれ、以後の戦闘の勝敗を左右することになった。

この間、西部戦線では、ヒトラーの予想どおりイギリス、フランス軍の戦意はとぼしく、両国によるドイツ攻撃はなされず、主力のフランス軍はドイツ、フランス国境にきずかれた巨大な防衛陣地マジノ線を固守したままだった。イギリス、フランスはポーランドを見殺しにしたのである。アメリカの新聞は西部戦線の状況を「奇妙な戦争」と名づけた。

2. 北欧とベネルクスへの侵攻

いっぽう、ソ連は1939年11月30日にフィンランド攻撃を開始した(ソ・フィン戦争)。マンネルヘイム元帥ひきいる劣勢のフィンランド軍はたくみに抗戦したが、翌年の3月12日にソ連と講和し、カレリヤ地峡その他をソ連に割譲した。

ドイツは中立国スウェーデンからの鉄鉱石輸入を確保するため、デンマークおよびノルウェー占領を決意し、1940年4~6月に北欧侵攻作戦をおこなった。デンマークは即座に降伏したが、イギリス、フランス連合軍に支援された劣勢のノルウェー軍は善戦した。しかし、ドイツ軍のベネルクス三国侵攻に対応するため連合軍が撤退したため、ノルウェー軍は6月10日に降伏、国王政府はイギリスにのがれ、ノルウェー・ナチスの指導者クビスリングを首班とする傀儡(かいらい)政権が樹立された。

ヒトラーは、1940年5月10日に西部戦線で大攻勢を開始した。作戦の主目的はベネルクス三国(オランダ、ベルギー、ルクセンブルク)の占領と、イギリス、フランス連合軍主力の撃滅にあった。ドイツ軍の136個師団、戦車2500台、航空機3200機に対する連合軍の戦力はほぼ互角だったが、連合軍は防衛戦略に固執し、積極的な攻撃作戦を断念していた。

1940年5月14日、ドイツ軍はマンシュタイン将軍立案の作戦にもとづき、戦車通行が不可能と思われたベルギーのアルデンヌの森から装甲部隊の大群を突撃させてフランス北東部の大西洋岸に進出し、ベルギーのイギリス、フランス軍を孤立させ、マジノ線との連絡を遮断した。同時にドイツ軍空挺部隊がオランダ、ベルギー領内に降下し、重要拠点を奪取するとともにベルギーの大要塞エバン・エマールを攻略した。

オランダはドイツ空軍によるロッテルダム爆撃で3万人もの市民の死傷者をだしたあとの1940年5月15日に降伏し、ベルギーも勇敢な抵抗をつづけたあと、5月28日に降伏した。いっぽう、フランス北東部の大西洋岸のダンケルク周辺におしこめられたイギリス、フランス連合軍は必死の脱出作戦をこころみ、6月4日までに約34万の兵(3分の2はイギリス兵)がイギリスにのがれた。

3. フランスの敗北

フランスへの進撃は1940年6月5日に開始され、快速装甲部隊を先鋒とするドイツ軍はパリにむかって猛進した。指揮系統を寸断され、士気のおとろえたフランス軍は退却し、ドイツ軍は6月14日にパリに入城した。この間の6月10日、フランスの敗北を確信したイタリアがイギリスとフランスに宣戦布告、アルプスでフランス軍と交戦した。フランスでは6月16日、レノー首相が退陣し、後任に第1次世界大戦の英雄ペタン元帥が就任した。いっぽう、ド・ゴールにひきいられた抗戦派はイギリスにのがれて「自由フランス」を結成し、戦いを継続する決意を表明した。

1940年6月17日、ペタンはドイツに休戦を申し込み、6月22日にパリ北方のコンピエーニュの森に設置された列車の中で休戦協定が締結された。この列車は、ドイツが第1次世界大戦の休戦協定に調印したときに使用されたものだった。この結果、ドイツはパリをふくむ北フランスと大西洋岸を支配し、ペタンは南東部のビシーを首都とする政府(ビシー政権)を樹立してドイツに協力することになった。

4. イギリス侵攻の失敗

こうして1940年6月、中立国のスペイン、ポルトガル、スイス、スウェーデンと、敵対するイギリスをのぞくヨーロッパの大半はドイツの支配に服し、ヒトラーは権力の頂点をきわめたかにみえた。ヒトラーはその人種理論からしてもイギリスとの戦いには乗り気でなく、イギリスが講和受諾にかたむくことを期待した。しかし、新首相チャーチルにひきいられたイギリスは徹底抗戦の態度を表明した。

1940年7月16日、ヒトラーはイギリス本土上陸作戦(シー・ライオン作戦)準備を指示し、作戦成功の前提となるイギリス海峡の制空権を確保するため、イギリスに対する大規模な空の戦い(バトル・オブ・ブリテン)を8月半ばから開始した。

以後、ドイツ空軍は9月7日のロンドン初空襲をはじめ、イギリスの諸都市、港湾、空軍基地などを猛攻したが、最新兵器レーダーを配備したイギリス空軍のはげしい迎撃をうけて1700機をこえる損害をだした。またイギリス空軍は、逆にドイツ工業都市への爆撃もおこなって反撃した。

ヒトラーは10月にイギリス上陸作戦延期を指示して事実上断念、イギリス国民の士気は高揚した。以後ドイツは、イギリス諸都市への夜間の無差別爆撃に方針を転換、爆撃は翌1941年7月ごろまで断続的につづいたが、これは、軍事的勝利のためというよりも、心理的圧迫をねらったものにすぎなくなっていった。

5. ソ連攻撃の準備

ヒトラーはイギリスが抗戦可能なおもな理由をソ連の健在にあるとみなし、戦略を転換して宿願であるソ連打倒の決意をかためた。この時期、フィンランドや東南ヨーロッパ(ルーマニア、ブルガリア)での権益をめぐるドイツ、ソ連間の対立が激化しており、独ソ不可侵条約の合意事項は急速にくずれつつあった。最後の調整のために1940年11月12~13日にソ連外相モロトフをまねいてベルリンでおこなわれた首脳会談でも、ドイツとソ連の対立は解消されず、ヒトラーのソ連攻撃の決意は不動のものとなった。

1940年12月18日、ヒトラーは翌年5月までにソ連攻撃作戦の準備をととのえることを命令した。この作戦には中世の十字軍で活躍したドイツ皇帝フリードリヒ1世の愛称「バルバロッサ」という暗号名がつけられた。ヒトラーの計算では、ソ連は一撃で打倒され、広大なソ連領の獲得によってイギリスとの長期戦をたたかいぬく経済的基盤も確保されるはずだった。

6. 日独伊三国同盟

それに先だつ1940年9月27日、ヒトラーはアメリカのヨーロッパ戦争への介入を牽制するため、日本、イタリアと三国同盟を締結するとともに、ソ連攻撃にそなえてルーマニア、ハンガリー、ブルガリアに三国同盟への加盟を強要した。11月にハンガリー、ルーマニアが加盟し、翌年3月にはブルガリアがこれにつづいた。ところが、40年10月にムッソリーニがバルカンでの勢力拡大をめざしてアルバニア、ギリシャを攻撃したため、ヒトラーの予定表に大幅な狂いが生ずることになった。

侵攻したイタリア軍はイギリス軍に支援されたギリシャ軍に撃退され、ヒトラーはイタリア救援のためにバルカン平定作戦を実行しなければならなかった。1941年5月までつづいたバルカン作戦でドイツ軍はギリシャ全土とクレタ島を制圧し、イギリス軍を撤退させた。この戦闘でドイツ軍の領内通過をこばんだユーゴスラビアも即座にドイツ軍に占領されたが、以後チトーひきいるパルチザンが頑強な抵抗を終戦まで続行することになった。バルカンでの戦闘はドイツの勝利におわったが、ソ連攻撃は1カ月ほど延期され、この遅れはのちに重大な意味をもつことになる。

V. 戦争の拡大

1941年にはいると、アメリカはまだ中立をまもっていたものの、3月に武器貸与法を成立させて、イギリスを中心とする連合国に積極的な経済支援を開始し、7月にはアイスランドに海兵隊を進駐させて大西洋を横断する連合国商船の護衛をひきうけ、ドイツに敵対する姿勢を強めながら、日本に対しても強硬な態度を表明した。日米関係は日中戦争やフランス崩壊に乗じて前年の9月に日本が強行したフランス領北インドシナへの進出および三国同盟の締結により、悪化の一途をたどっていたが、日本はヨーロッパでのドイツの勝利にまどわされ、東南アジアにおけるフランス、オランダなどの植民地奪取をめざした(太平洋戦争)。

1. 日本のアジア侵攻

1941年4月13日、日本はソ連との間に日ソ中立条約をむすんで背後の安全を確保し、石油、スズ、ゴムなどの天然資源の宝庫であるフランス領南インドシナ、イギリス領マレー、オランダ領東インド諸島への積極的な侵出を計画し、7月28日に南インドシナを占領した。アメリカは対日石油輸出全面禁止という強硬措置で応じた。石油の80%をアメリカからの輸入に依存する日本は、戦争か支配地域からの全面的撤退かの選択をせまられ、10月に成立した東条英機内閣は、外交的解決ができなければアメリカと開戦する決意を最終的に確認した。

2. バルバロッサ作戦

ソ連国境では300万をこえるドイツ軍がソ連攻撃の作戦配置についていた。1941年6月22日未明、北方・中央・南方の3個軍集団からなるドイツ軍は、バルト海から黒海までの1600kmの戦線でいっせいにソ連領にむかって進撃を開始した。バルバロッサ作戦の戦略目標は北海のアルハンゲリスクからカスピ海のアストラハニまでの地域(AAライン)の占領におかれ、北方軍集団はレニングラード(現、サンクトペテルブルク)を、中央軍集団はモスクワを、南方軍集団はキエフを攻略目標として進撃をつづけた。

初戦の電撃戦で、ドイツ軍はソ連軍を急襲し、多数の捕虜をえて広大な地域を占領した。1941年6月27日、ソ連が連合国に加入し、7~8月に、イギリスはソ連と援助協定をむすび、アメリカは武器貸与による支援をおこなったが、ソ連の敗色は濃厚だった。9月半ばまでに、ドイツ軍はレニングラードを包囲し、キエフを奪取してクリミア方面に進撃しつつあった。首都モスクワの陥落もさけられないかにみえた。

しかし、初戦の勝利に慢心したヒトラーは軍首脳の反対をしりぞけ、天然資源の豊富なウクライナとカフカス地方占領を優先したため、モスクワ攻撃は後回しにされた。1941年10月2日、中央軍集団はモスクワ攻撃を再開、せまりくるきびしい寒さにくるしみながら12月上旬モスクワ近郊に到達した。ドイツ軍の1部隊はモスクワから32kmにまで肉薄したが、冬の寒さがそれ以上の進撃をはばんだ。短期決戦による勝利を確信していたドイツ軍には冬季戦の準備がなかったのである。

ドイツ軍の進撃が停滞すると、スターリンは1941年12月5日に総反撃を命令した。軍司令官ジューコフ将軍は、シベリアからの精鋭部隊と多数の予備軍を指揮して戦力の低下したドイツ軍を猛攻し、全戦線で攻勢に転じた。いっぽう、ヒトラーは動揺するドイツ軍に死守命令を発してソ連軍の攻勢を阻止し、レニングラード包囲とウクライナ、クリミアでの作戦を続行したが、短期決戦にかけたヒトラーの期待は無に帰し、東部戦線は泥沼の持久戦となった。

3. 太平洋戦争の勃発

この間、日本は春以来のアメリカとの外交交渉を断念し、開戦を決意した。日本の作戦計画の目標は中部太平洋のアメリカ海軍戦力とシンガポールを基地とするイギリス極東戦力を撃滅し、フィリピンとオランダ領東インド諸島を占領して一大勢力圏を構築することにあった。1941年12月8日、日本は空母6隻を中心とする海軍機動部隊を出撃させ、ハワイのオアフ島の真珠湾を奇襲してアメリカ太平洋艦隊に大損害をあたえ、太平洋戦争に突入した。同日、アメリカ、イギリスなどの連合国が日本に宣戦布告すると、12月11日にはドイツ、イタリアがアメリカに宣戦布告し、戦争はヨーロッパをこえて世界大戦に発展した。

東アジアと太平洋方面の戦域で日本軍は連戦連勝の勢いをしめし、1941年末までにイギリス領の香港、アメリカ領のグアム島、ウェーク島、ギルバート諸島(現キリバス共和国)を占領し、イギリス領のマレー、ビルマ(現ミャンマー)、ボルネオ、アメリカ領のフィリピン、オランダ領の東インド諸島に侵攻した。翌年2月にはアジアにおけるイギリスの重要拠点シンガポール要塞が陥落し、3月には東インド諸島の全オランダ軍が降伏し、5月7日にはフィリピン防衛のアメリカ軍も降伏し、フィリピン防衛軍マッカーサー将軍はオーストラリアへのがれた。

さらに、日本は勢力拡大をはかり、北方ではアリューシャン列島、中部太平洋ではミッドウェー島、南方ではオーストラリアと連合国との連絡をたつため、ニューギニア南東端のポートモレスビー攻略に着手した。

アメリカは日本の進出を阻止するため、1942年5月7~8日に南西太平洋の珊瑚(さんご)海で史上初の空母決戦をいどんだ。アメリカは空母1隻をうしなったが、日本海軍機動部隊に損害をあたえ、ポートモレスビー攻略を断念させることに成功した(珊瑚海海戦)。ついで6月5日のミッドウェー海戦で日本海軍は大敗し、主力空母4隻をうしなった。アリューシャン方面では、6月8日までに日本軍はアッツ、キスカ両島の占領に成功したが、ミッドウェーでうけた打撃を回復することはできなかった。

ミッドウェー海戦は空母を中心とする戦力が海戦の勝敗を決することを証明した。経済力と工業力におとる日本にとって、空母4隻の喪失は回復不可能な損害となり、以後の戦闘の主導権はアメリカにうつることになった。

VI. 戦局の転換

1942年の夏以降、戦局はしだいに連合国の優位にかたむきはじめた。6月28日、ソ連戦線ではドイツ軍がふたたび攻勢に転じ、石炭や石油の豊富なドネツ盆地とカフカス占領のために進撃を開始した。ドイツ軍の作戦計画はパウルス将軍ひきいる第6軍にボルガ河畔のスターリングラード(現ボルゴグラード)を占領してソ連軍を牽制する一方で、リスト将軍ひきいるA軍集団に黒海とカスピ海にはさまれたカフカス地方の奪取を命じていた。第6軍は進撃をつづけ、11月までにスターリングラード市街の拠点を占領した。A軍集団はカフカスの山岳地形に難渋し、進撃ははかどらなかった。この2つの戦線の距離は1100kmにもおよび、側面防衛には弱体のイタリア、ルーマニア、ハンガリー軍が配置された。

1. スターリングラード攻防戦

スターリンは威信のためにも、自らの名前を冠したスターリングラード防衛のために全力をかたむけ、大軍を集結するとともに、1942年11月19日に反撃を開始し、側面防衛の枢軸国軍をけちらし、ドイツ第6軍を包囲した。ヒトラーの無謀な死守命令のために脱出のおくれた第6軍は43年1月31日に降伏し、パウルスをふくむ約9万1000人のドイツ兵が捕虜となった。スターリングラードの敗北で、カフカス進出のA軍集団もソ連軍による包囲をさけるため、撤退においこまれた。

ヒトラーは戦局挽回(ばんかい)のために再度の攻勢を決意し、1943年3月からドネツ川とドニエプル川の中間でソ連軍を攻撃して重要拠点のハリキフを占領した。ソ連軍は後退し、ハリキフ北方のクルスク周辺に堅固な防衛陣地をかまえた。7月5日、ドイツ軍装甲部隊の攻撃とともに、ドイツ、ソ連両軍は大規模な戦車戦を展開したが、ソ連軍はドイツ軍の進撃を阻止した。8月以降もソ連軍の攻勢はつづき、キエフを奪還、12月までにドイツ軍をドニエプル川以西においはらってウクライナの大半を確保するとともに、白ロシア(ベラルーシ)攻撃の準備に着手した。東部戦線の主導権はソ連軍の手にうつったのである。

2. 北アフリカ戦線

北アフリカ戦線でも、1940年9月のイタリア軍のリビアからエジプトへの侵攻以後、戦闘がつづいていた。装備、戦意におとるイタリア軍は敗走し、41年1月にイギリス軍がリビアのトブルクを占領した。ヒトラーは即座に対応し、2月にロンメル将軍ひきいるドイツ軍をリビアに派遣してイギリス軍を撃退した。翌42年6月、トブルクを包囲したドイツ軍は攻勢に転じてエジプト国境のエル・アラメインにせまり、モンゴメリー将軍ひきいるイギリス軍と激戦を展開した。戦闘は一進一退をつづけたが、戦車、弾薬の欠乏したドイツ軍は同年11月初めに撤退し、リビアでの戦闘は連合国の勝利におわった。

さらに、1942年11月8日にアイゼンハワー中将ひきいるアメリカ、イギリス軍がモロッコとアルジェリアに上陸し、北アフリカでのドイツ、イタリア軍の最後の拠点チュニジア進攻を開始した。43年5月13日、27万5000人あまりのドイツ、イタリア軍が降伏し、連合国の優位は不動のものとなった。

3. 日本軍の敗退

南西太平洋では、1942年8月7日にアメリカ軍がソロモン諸島中央のガダルカナル島に上陸し、攻勢を開始した。翌年2月7日に日本軍が同島を撤退するまでに、日本軍とアメリカ軍はソロモン諸島の海と空で激戦を展開したが、物量にまさるアメリカ軍はしだいに日本軍を駆逐し、43年末までにニューギニア島をほぼ制圧してフィリピン進攻の体制をととのえはじめた。

4. 連合国首脳会談

戦局が連合国の決定的優位にかたむく間、主要連合国は数回の首脳会談を開催し、今後の政略・戦略問題の調整をおこなった。1943年1月14~24日のカサブランカ会談では、アメリカ大統領ルーズベルトとイギリス首相チャーチルがシチリア島とイタリア本土上陸作戦を協議し、枢軸国に対して無条件降伏をもとめることを宣言した。11月22~26日にはルーズベルト、チャーチル、中華民国総統の蒋介石がカイロ会談をおこない、日本が獲得した全領土の奪還を中心とする対日戦争目的が決定された。さらに、11月28日~12月1日のテヘラン会談で、ルーズベルト、チャーチル、スターリンは44年5月に北フランス上陸(オーバーロード作戦)を決行し、ヨーロッパでの第2戦線を開く決定をくだすとともに、ソ連の対日参戦が密約された。

VII. 海と空の戦い

ヨーロッパでの海戦は、ドイツの潜水艦(Uボート)による連合国に対する通商破壊戦とともに開始された。1943年夏までドイツの潜水艦は大きな戦果をあげたが、それ以後は護衛艦と航空機に援護された護送船団が出現し、逆にUボートの被害が激増した。終戦までに作戦に投入された830隻のUボートのうち、784隻がうしなわれた。制海権が連合国にうつる一方で、連合国はアメリカの巨大な造船力にささえられて、Uボートによって撃沈される以上の大量の船舶を建造した。大戦中にUボートは2000万トンをこえる連合国商船を撃沈したが、連合国は4500万トンもの船舶を建造した。

太平洋方面では、真珠湾の奇襲以後しばらくは日本海軍の優位がつづいたが、1942年6月のミッドウェー海戦で日本海軍は主力空母4隻をうしなって、戦局はアメリカの優位にかたむいた。42年8月~43年2月のガダルカナル島攻防をめぐる数回のソロモン海戦で、日本は多くの軍艦と航空機をうしない、太平洋の制海権と制空権をうばわれた。44年6月のマリアナ沖海戦と10月のレイテ湾海戦で日本海軍は空母と航空機の大半をうしない、アメリカ軍の進攻を阻止する組織的な戦闘力をうしなった。

ヨーロッパでの空の戦いは、1943年以降、アメリカ第8空軍がイギリスの各基地に集結し、イギリス空軍との協力体制を確立して攻勢に転じた。アメリカ空軍はB-17重爆撃機をもちいてドイツ各地の軍需工場、空軍基地に対する昼間爆撃を、イギリス空軍はランカスター重爆撃機で夜間の地域爆撃を遂行した。イギリス空軍による地域爆撃は都市への無差別爆撃となり、43年7月のハンブルク空襲では、同市の70%が破壊されて3万人以上の市民が死んだ。同じく45年2月のドレスデン空襲でも多数の市民が犠牲となった。

アメリカ空軍の昼間爆撃は、ドイツ空軍のジェット戦闘機の迎撃や対空砲火にあって大きな損害をだしたが、1944年以後は、航続距離の長いP-51戦闘機などの護衛で制空権を確保し、ドイツ各地の軍事や産業の施設を爆撃、軍需生産に壊滅的打撃をあたえた。ドイツはジェット推進のV1号飛行爆弾や超音速のV2号ロケット爆弾によるイギリス空襲で応じたが、発射数は少なく、イギリスに決定的な打撃をあたえられず、空の戦いでも連合国に敗北した。

太平洋でも、1943年以降、アメリカ軍が制空権を確保し、翌年6~8月のマリアナ諸島の占領とともに、B-29重爆撃機による日本本土空襲を開始し、主要軍需工場、都市の大半に大打撃をあたえた。45年3月10日の東京大空襲では都市部の約40%が破壊され、多数の市民が死傷した。さらに、アメリカは「マンハッタン計画」という暗号名をつけた原爆開発計画を42年から本格的に推進し、45年7月16日にニューメキシコ州アラモゴードで最初の原爆実験に成功した。対人殺傷兵器として史上初の原爆が広島(1945年8月6日)、長崎(同年8月9日)に投下され、両市で30万人をこえる市民が犠牲となり、戦争の様相を一変させた(核兵器)。

VIII. 連合国の勝利と戦争の終結

カサブランカ会談の決定にもとづいて、連合軍は1943年7月10日にシチリア島に上陸し、8月17日にシチリアでのドイツ、イタリア軍を制圧した。

1. イタリアの降伏

この間の1943年7月25日、ムッソリーニが議会と国王によるクーデタで失脚し、9月8日にイタリア臨時政府は連合国と休戦協定をむすんだ。枢軸同盟の一角がくずれたのである。9月3日、連合軍はイタリア本土に進攻し、イタリア防衛のドイツ軍と激戦を展開した。1944年5月18日、連合軍はローマへの進撃をはばむ難攻不落の要塞モンテ・カッシーノを奪取し、6月4日にローマに入城、さらに8月には、イタリア北部にきずかれたドイツ軍最後の防衛線であるゴシック線に到達した。

2. ソ連軍の大攻勢

東部戦線では1944年6月22日の白ロシア奪還作戦とともに、全戦線にわたってソ連軍の大攻勢が開始された。7月3日、ソ連軍はドイツ中央軍集団を蹂躙(じゅうりん)しながら白ロシア(ベラルーシ)の首都ミンスクを解放し、さらに前進してリトアニアの首都カウナスを奪取し、8月29日に東プロイセン国境にせまり、ポーランドへの進撃体制をととのえた。東欧でもソ連軍は進撃をつづけ、8~9月にルーマニアとブルガリアを、10月にはチトーのひきいるパルチザン部隊とともにユーゴスラビアをドイツの支配から解放して戦後の東欧進出の足場をきずいた。

3. 連合軍の大進撃

この間、西部戦線ではアイゼンハワーを最高司令官とする連合軍のノルマンディ上陸作戦が開始されていた。1944年6月6日に上陸した連合軍はドイツ軍をうちやぶって海岸橋頭堡(きょうとうほ)をかため、6月末までに兵員85万人、車両15万台を陸上げしてパリへの進撃を開始した。7月20日、ドイツ国内では国防軍将校グループによるヒトラー暗殺の試みがおきたが、ヒトラーは奇跡的に難をのがれ、徹底抗戦の決意をしめした。

連合軍は進撃しつづけ、1944年8月25日にパリを解放してドイツ国境への前進を開始した。ドイツ軍は後退したが、ヒトラーは連合軍の戦線の拡大と補給事情の悪化を見ぬき、12月16日にベルギーのアルデンヌ山地から装甲部隊による最後の攻撃(バルジの戦)を決行した。最初、ドイツ軍の攻撃は成功したが、圧倒的な戦力の連合軍は反撃し、12月末にドイツ軍は退却、西部戦線最後の攻勢は失敗に帰した。

4. ナチス・ドイツの崩壊

1945年にはいると、西側連合軍とソ連軍は東西からドイツ国内にせまり、3月にはアメリカ、イギリス軍がライン川をわたり、さらに進撃して4月中旬にエルベ川に到達、4月25日にトルガウでソ連軍と合流した。この間、ソ連軍は4月16日にオーデル川をこえてベルリン攻撃を開始し、4月24日にはベルリンを包囲した。ヒトラーは最後までベルリンにふみとどまり、4月12日のルーズベルトの死による西側連合国とソ連との不和を期待したが、ついに4月30日に総統官邸の地下壕で自殺し、ナチス・ドイツは崩壊した。

イタリアでも1945年4月28日にムッソリーニがイタリア人パルチザンに銃殺され、5月2日にイタリアに配置されたドイツ軍も降伏した。5月7日、ヒトラーの遺言で後任に指名されたデーニッツ提督はランスのアイゼンハワーの司令部で無条件降伏に応じ、ヨーロッパでの戦争は終結した。ドイツはアメリカ、イギリス、フランス、ソ連4カ国に分割統治され、戦後の冷戦の進行とともに東西に分裂する運命をたどることになる。

5. 日本軍の撤退

アジア・太平洋戦域では1944年にはいると、日本軍の占領地域からの撤退がはじまった。10月以降、日本軍はビルマから撤退をはじめ、連合軍は翌年5月に全ビルマを奪還した。アメリカ軍は44年6月にマリアナ諸島に上陸し、8月初めまでにサイパン、グアム、テニアン島を占領した。さらに10月以降、レイテ島上陸に成功してフィリピンに進攻した。この間、日本海軍は6月と10月にマリアナ沖とレイテ湾でアメリカ海軍に決戦をいどんだが、大敗し、日本海軍の組織的抵抗はおわった。

1945年3月、アメリカ軍はフィリピンをほぼ制圧し、2~3月にかけて硫黄島を奪取、4月1日には沖縄に上陸した。日本軍はフィリピン戦ではじめてもちいた神風攻撃や沖縄島民を総動員してのはげしい抵抗をつづけたが、6月23日に沖縄全島で日本軍の組織的抵抗は終結した。マリアナ諸島と硫黄島の陥落は、アメリカ空軍による日本本土への本格的空襲をまねいた。グアム、サイパンを基地とするアメリカ軍のB-29重爆撃機は、硫黄島基地の戦闘機に護衛されて日本の諸都市、軍需工場などを破壊し、南方資源地帯との連絡をたたれた日本の敗北は時間の問題となった。

6. ヤルタ会談とポツダム会談

この間の1945年2月4~11日、クリミア半島のヤルタで、アメリカ大統領ルーズベルト、イギリス首相チャーチル、ソ連首相スターリンの首脳会談(ヤルタ会談)が開かれ、ドイツの戦後処理とともにソ連の対日参戦がはなしあわれた。スターリンはサハリン(樺太)南部、千島列島などの獲得と交換に、ドイツ降伏後90日以内に日本と開戦することを約束した。6月26日にはサンフランシスコで開かれていた国際連合創設会議で国際連合憲章が調印され、アメリカ、ソ連を中心とする戦後世界の国際秩序の輪郭がしめされた。さらに、7月26日に連合国はポツダム宣言を発し、日本に無条件降伏をせまった(ポツダム会談)。

7. 日本の降伏

日本はポツダム宣言を黙殺したが、1945年8月6日、9日の広島および長崎への原爆投下と8月8日のソ連の対日参戦によって命運はつきた。8月14日、日本は正式に降伏を決定(翌15日発表)し、9月2日に東京湾に停泊するアメリカ戦艦ミズーリ号艦上において連合国代表マッカーサーとの間で降伏文書に調印した。ここにアジア・太平洋での戦争も終結した。

IX. 大戦による被害

第2次世界大戦は人類史上空前の大戦争だった。戦場は全世界に拡大し、参戦諸国は戦勝国も敗戦国も膨大な人的・物的損害をこうむった。主要参戦国の死亡者数を軍人・市民にわけて概観すれば、ソ連(1300万・700万)、中国(350万・1000万)、ドイツ(350万・380万)、ポーランド(12万・530万)、フランス(25万・36万)、イギリスおよびイギリス連邦(45万・6万)、イタリア(33万・8万)、日本(170万・38万)、アメリカ(軍人40万)など、膨大な数に達する。

大戦の結果、イギリス、フランスに代表されるヨーロッパの伝統的大国は衰退し、アメリカ、ソ連の2大国による世界のバランス・オブ・パワー(勢力均衡)の新たな枠組みが形成され、アジア、アフリカでは民族主義が高揚して反植民地闘争が激化し、多くの独立国家の誕生をもたらした。大戦の終結は、ファシズム打倒という共通の目的を達成したアメリカ、ソ連の結束を解消し、冷戦を加速させることになった。